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 旅紀行ジャパン

2003年8月12日改訂
小天狗道中記
BGM

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2002年11月8日制作

鞍馬天狗(鞍馬駅/叡山電鉄)

鞍馬天狗(鞍馬駅/叡山電鉄)

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奥の院入口

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奥の院入口

 寺務所の前を通り、奥の院入口から登山する。急な坂道が続くが、トレッキング・シューズを履いてきたのが幸いした。

 

 鞍馬山の奥の院は昼でも薄暗く、気味が悪い。下鴨警察署の「危険 女性の一人歩きはやめましょう」の大きな看板が目に入る。

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能 「鞍馬天狗」

資料

あらすじ 西谷東谷の僧の合同の花見の宴に闖入する山伏。皆嫌って去る中に一人残る少年牛若。素性を知って憐れんだ山伏は共に花見をし、やがて鞍馬山の大天狗と名乗り姿を消す。深夜に僧正が谷に赴いた牛若は、本体を現した天狗から兵法を習う。天狗は宿敵平家を討ち滅ぼす牛若の未来を見せて姿を消す。

参考 大佛(おさらぎ)次郎の「鞍馬天狗」はこの謡曲(ようきょく 能の謡うたい)を好んで口ずさむ神出鬼没の勤皇志士(きんのうのしし)が主人公である。

鞍馬天狗を楽しむ 小天狗道中記

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木の根道
 この辺りは昼でも薄暗いところで、僧正が谷(そうじょうがだに)と呼ばれ、正に天狗が出そうなところである。まして夜であれば闇が広がるばかりで、牛若丸は、提灯か松明の灯りを頼りに稽古に励んだのであろうか。

祈りのことば

月のように美しく  太陽のように暖かく

大地のように力強く  尊天よあふるるみ恵みを与えたまえ

《鞍馬寺》

資料

背比べ石

 奥の院に入って400mほど登ると、16歳のとき藤原氏を頼って奥州に下ることになった牛若丸が鞍馬山と名残を惜しんで背比べをしたという背比べ石につく。背比べ石は柵の中にあり、牛若丸はこれと同じ背丈だったというから、意外に低い。

 奥の院はこの地点が最も高く、海抜約500m。

背比べ石

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木の根道

 山側の背比べ石と反対側に木の根道がある。背比べ石に気をとられて見過ごしてしまいそうだ。ここは岩盤が固く、地下に根を張れない杉の根が見事なアラベスク模様を描いている。

 木の根道は牛若丸が夜毎東光坊を抜け出し、鞍馬天狗を相手に兵法の稽古をしていた所と伝えられる。

樹海が続く奥の院

樹海が続く奥の院

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資料

 平安末期〜鎌倉初期の武将。源義朝の末子、頼朝の異母弟。母は九条院の雑仕女(ぞうしめ)常盤(ときわ)。幼名牛若、九郎と称す。平治の乱(1159)で父義朝が敗死したのち母と2人の兄今若(のちの阿野全成(ぜんじよう))、乙若(のちの円成(えんじよう))と共に平氏に捕らえられたが、幼児であったため助けられて鞍馬寺に入れられた。この時期の義経の行動についてはまったく不明で、ほとんどが伝説・創作の域を出ない。
 源九郎義経の行動が史実として確認されるのは、1180年(治承4)兄頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉より駿河国黄瀬川に参陣してから以後のことである。
 頼朝の麾下に加わった義経は吾妻鏡にも九郎主と表現されるように、源家一門の御曹司として処遇され、頼朝の代官として、異母兄の範頼とともに平氏追討の大将軍として活躍した。
 1184年(元暦1)1月まず京都にいた木曾義仲を討ってこれを近江に倒し、都の覇権をにぎった。ついで2月には平氏軍を一ノ谷に破ってその入京の勢いをとめた。この合戦における鵯越(ひよどりごえ)の奇襲は有名である。さらに翌1185年(文治1)2月には讃岐国屋島の平氏軍を襲って大勝し、海上にのがれた平氏軍を追って関門海峡の壇ノ浦に戦い、これを全滅させた。3月24日のことである。
 その機知に富んだ戦術で平氏を討滅した義経は一躍英雄として都の内外の人々にもてはやされた。そして当然その功を賞せられるべきであったが、平氏追討戦の間に梶原景時以下の関東御家人と対立したばかりでなく、後白河上皇の頼朝・義経離間策にのせられて頼朝の認可をまたずに検非違使・左衛門少尉になったため、鎌倉御家人体制の組織を破る独断行為として頼朝の不興を買い、疎外されるに至った。
 義経は腰越状(こしごえじよう)を送って弁解したが、ついに鎌倉に帰ることを許されず、追放の身となった。追いつめられた義経は、叔父行家と結んで反逆を企て、1185年10月18日、後白河上皇に強要して頼朝追討の院宣を得た。
 しかし、義経自身乗り気でなかったことから、結集しえた軍勢は少なく、この計画は失敗した。西海にのがれようとして摂津の大物浦に船出したが難破し、そののちは畿内一帯に潜伏して行方をくらまし、やがて奥州にのがれて藤原秀衡(ひでひら)の庇護を求めた。しかし秀衡の死後、その子泰衡は頼朝の圧迫に抗しえず、1189年閏4月30日、義経を衣川の館に襲撃し、義経は自害した。享年31歳。
 数奇な運命にもてあそばれた悲劇的な義経の生涯は、多くの人々の同情を集め、のちに彼を英雄視する伝説・文学を生む結果となり、世に判官びいきの風潮を作った。

源義経物語

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大杉権現社

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大杉権現社

 木の根道を100mほど入ると、大杉権現社(おおすぎごんげんしゃ)がある。奥の院の杉は千年近い樹齢を保ち、「護法魔王尊影向(ようごう)の杉」として多くの人々の信仰を集める。
木の根道と大杉権現社

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 木の根道を過ぎると下り坂になるが、悪路の参道が続く。足首を痛めないよう、用心しながら下る。
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不動堂

不動堂

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不動堂

 杉の大樹がそびえ立ち、森厳の気が満ちるこのあたり、謡曲の鞍馬天狗が牛若丸と出会ったところである。
 堂内には伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)が刻んだと伝えられる不動明王が安置されている。

義経堂

義経堂

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 牛若丸、のちの源義経(みなもとのよしつね)は奥州衣川(ころもがわ)で若い命を散らせたが、魂は鞍馬に戻り、遮那王尊(しゃなおうそん)として護法魔王尊に使えていると信じられ、義経堂に祀られている。
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奥の院魔王殿

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奥の院魔王殿

鞍馬寺の寺紋は天狗の団扇(うちわ)がモチーフのようで全国に例を見ない。

 650万年前、金星より地球の霊王として降臨し、地上の創造と破壊を司るという護法魔王尊が奥の院魔王殿に奉安されている。

 魔王殿奥の累々と石灰岩が重なる柵内は、日本庭園の源流といわれる磐座いわくら 神の降臨する岩、古代の神域を示す巨石群)である。

西 門

西門

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 遂に西門(にしもん)に抜けた。2,700mの急峻な悪路を踏破したが、かなり足に負担がきている。西門は貴船(きふね)側から鞍馬山への参拝口である。
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