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和田義男

 旅紀行ジャパン

2006年11月5日改訂
「海ゆかば」メドレー

 

回天に涙す世代秋彼岸   北 舟

2006年11月2日作成

シブヤン海海戦で戦闘状態の大和 / 昭和19年(1944)10月24日

シブヤン海海戦で戦闘状態の大和(大和のふるさと/広島県呉市)

戦艦大和の故郷

最期

 
零式れいしき 艦上戦闘機六二型
   零式艦上戦闘機、いわゆる零戦(ぜろせん)は、日本海軍の主力戦闘機で、海軍の艦上戦闘機(艦戦)としては実質的な最終型式で、日中戦争の半ばから太平洋戦争の終わりまで各地で活躍したことで知られる。

日本海軍の誇る零戦

日本海軍の誇る零戦

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   太平洋戦争初期に連合国の戦闘機を駆逐したことから、主交戦国のアメリカ軍から「ゼロファイター」の名で恐れられた。設計は三菱だが、三菱と中島飛行機で生産され、総生産数の半数以上が中島製であった。

零戦の解説図

零戦の解説図

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人間魚雷 回天かいてん
 
   「回天」は、人間が魚雷を操縦しながら目標とする艦艇に体当たりする特攻兵器で、「人間魚雷」とも呼ばれる。一型・二型・四型・十型などのタイプがあるが、実践投入されたのは九三型酸素魚雷を用いた一型のみで、約420基が製造された。

人間魚雷「回天」前景

人間魚雷「回天」前景

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「回天」による自爆攻撃による戦没者は、搭乗員だけでも100名以上にのぼり、その多くは20歳前後であった。

   ここに展示されている「回天」は十型で、潜水艦用の電気推進魚雷である九二式魚雷を利用し、本土決戦の近距離用として開発されたものであるという。  

意外に小さい人間魚雷「回天」後景

意外に小さい人間魚雷「回天」後景

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 回天に涙す世代秋彼岸  北 舟 
 
特殊潜航艇 海龍かいりゅう
   「海龍」は海軍工作学校教官・浅野卯一郎機関中佐の発案で開発された、世界初の有翼潜水艦(二人乗り)である。水中を飛行機のように自由に潜航・浮上することを目指して開発されたもので、操縦装置も飛行機と同じものが使用された。

特殊潜航艇「海龍」前景

特殊潜航艇「海龍」前景

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   局地防禦用の特殊潜航艇で、その構造は従来の潜水艦などとはかなりの部分で相違がある。後期量産型では頭部に600kgの炸薬を持ち、両脇に抱えた魚雷を発射後、敵艦に突入して自爆するもので、「回天」と同様に死を前提とする特攻兵器だった。
   展示の「海龍」は、昭和20年(1945)、静岡県網代(あじろ)湾で艇尾部に米海軍航空機のロケット弾(不発)の直撃を受けて沈没し、昭和53年(1978)に引き揚げられたものである。  

破口が痛々しい特殊潜航艇「海龍」の後景

破口が痛々しい特殊潜航艇「海龍」の後景

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映画「俺たちの大和」

 
   原作:辺見じゅん、監督:佐藤純彌、主演:反町隆史、中村獅童、仲代達矢による映画「俺たちの大和」が平成17年(2005)12月から全国東映系映画館で一斉に封切られた。私も家内と共に立川の映画館で見たが、とても感動した。この映画の人気が大和ミュージアムの入場者数を後押ししていることは明らかで、呉のホテルはいつも満室で、なかなか予約できない状況が続いている。 「俺たちの大和」公式サイト

映画「俺たちの大和」のポスター

映画「俺たちの大和」のポスター

資料

   映画の撮影のために実物大の大和のセットが製作され、しばらく尾道市に展示されていたが、現在は撤去されている。その一部は大和ミュージアムに搬入され、今後、公開されることになっているという。  
   「世界最強最大を謳われた「不沈戦艦」大和。桜の咲き誇るあの春の日、ただ愛する人を、家族を、友を、祖国を守りたい、その一心で「水上特攻」に向かい、若い命を散らしていった男たち。彼らの壮絶な生き様と深き想いが、遺された者たちの永遠の無念が、今、空前絶後のスケールでスクリーンに甦る。(キャッチコピー)」 感動の物語である。

映画「俺たちの大和」のロケで使われたセット

映画「俺たちの大和」のロケで使われたセット

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戦艦大和の 最期さいご
   菊水作戦*により沖縄に向け航行中の昭和20年(1945)4月7日12時32分、鹿児島県坊ノ岬沖90海里の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認めた大和は、射撃を開始し、8分後艦爆数機が急降下、1機撃墜するも2発の中型爆弾を被弾。
   後部射撃指揮所、2番副砲、対空レーダーが損壊。以後14時17分まで、米軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)による往復波状攻撃を受けた。  
  *菊水作戦:太平洋戦争末期、連合軍の沖縄への進攻(沖縄戦)を阻止する目的で実施された日本軍の特攻作戦。作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来する。 菊水作戦/フリー百科事典  

宿毛湾沖標柱間にて公試中の大和 / 昭和16年(1941)10月30日

宿毛湾沖標柱間にて公試中の大和 / 昭和16年(1941)10月30日

資料
   14時20分、傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。総員退去を発令。大和は爆弾の直撃を受け、艦内では火災を起こし、艦上では対空兵器が破壊された。米軍の高性能爆薬を搭載した魚雷による効果的な左舷集中攻撃の結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。
   後部注排水制御室の破壊により、注排水が困難となり、操舵室が全滅して操艦不能となり、より容易に米軍は大和に魚雷を命中させ続けた。  

シブヤン海海戦で戦闘状態の大和 / 昭和19年(1944)10月24日

シブヤン海海戦で戦闘状態の大和 / 昭和19年(1944)10月24日

資料
   最後の魚雷が命中した3分後に総員退去が命ぜられたが、その発令3分後には大傾斜を起こし、やがて横転して海中で大爆発し、艦体は折れて海に沈んだ。そのときに発した火柱は、遙か鹿児島でも確認できたという。

知覧飛行場から出撃する特攻機と見送りの女学生たち / 昭和20年4月

知覧飛行場から出撃する特攻機と見送りの女学生たち / 昭和20年4月

資料
   時代は高性能レーダーを装備した空母と航空機による近代的な空爆戦に移っていたが、時代遅れの大艦巨砲にこだわり、史上最大の戦艦として建造されながら、持てる能力を発揮できず、本来の目的に用いられることなく沈んで行った大和の、最期であった。〈 合掌 〉  
   日本の優秀な造船技術が戦争には十分生かされなかったが、その技術は敗戦後の日本の復興に大いに役立ち、世界に冠たる造船大国となったことは周知の事実であり、大和の建造は決して無駄となったのでななかった。  

   米軍航空隊の爆撃で炎上する大和 / 昭和20年(1945)4月7日

米軍資料

大和の最期

大爆発して沈没した大和 / 昭和20年4月7日14時23分 北緯30度22分東経128度4分

 

信時潔(のぶとき・きよし)

信時潔(のぶとき・きよし)

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資料

 

海行かば
 BGMに流れる曲は、作詞:大伴家持、作曲:信時潔による有名な軍歌「海行かば」(海ゆかば)である。日本人の持つ大和心の琴線に触れる素晴らしい鎮魂歌である。
 詞は万葉集巻十八「賀陸奥國出金詔書歌一首并短歌」(新編国歌大観番号4094番。大伴家持作)から採られている。作曲された歌詞の部分は原歌中の引用部分であるが、大伴家持の筆が入ってひとつの作品となっていることを重視し、彼の作と見られている。
海行(ゆ)かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ
(長閑(のど)には死なじ)
 これは当時の日本政府によって国民精神強調週間が制定された際、そのテーマ曲としてNHKが信時に嘱託して作曲されたもので、出征兵士を送る歌として愛好された。

 やがて若い学徒までが出征するに及び、信時は大いに苦しむこととなったという。本来は国民の戦闘意欲を昂揚させるために制定された曲であるが、この曲を大いに印象づけたのは、太平洋戦争末期にラジオ放送の大本営発表の際に、その内容が玉砕である場合、番組導入部のテーマ音楽として用いられたことである。勝ち戦(いくさ)を報道する場合は、軍艦マーチが用いられた。

 

★☆★彡

 賛美歌で育ち、ドイツ古典音楽を深く愛した信時らしい、全体的にゆるやかなテンポの荘厳な曲で、名曲中の名曲である。敗戦までの間、盛んに愛唱され、「第二の国歌」とまで呼ばれたが、戦後は長い間、封印状態が続いた。「大君」を「大和」(日本)をさす意味であれば、鎮魂歌としての普遍性を持つともいわれる。
 
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