1/4 2/4 3/4 4/4 インド通信目次  

インド通信笑うカワセミ編 4/4

 

今 日

 

昨 日

♪rise"Naked" by Sitar/anoushka shankar  
インド通信笑うカワセミ少年H編@(バラナシ)

KF読者各位
 
 
インド勤務第6回目の休暇も、カルカッタ発のシンガポール航空のスチュワーデスさんの制服に、インドに無いものはこれや!との感動で急に元気になり、日本に辿り着きましたが、休暇の10日間は瞬く間に終了し、ルアーフィッシングの疑似餌の如く、しゅるしゅるしゅると、気がついたら、またインドの元の席に戻って来ていました。
 
ベンガルもすっかり秋になっていて、夜明けは10度ぐらいまで、気温が下がるようになっています。休暇を抜ければ、そこは竣工だったと、川端康成の世界だと本当に嬉しいのですが、とんでもなくて、休暇を終えても、そこはまだまだ修羅場のインドでした。テンコ盛りの現場課題を前にして、それらに押しつぶされないように、また、印度で権太(ごんた)の日々が始まっています。
 
 
さて、このカワ通も、第4編に入りましたので、今編は、インド勤務者のバイブル、我らが妹尾河童さんの『河童が覗いたインド』をお借りして、インド紹介で、回を進めていきたいと思います。この文庫を出されている新潮文庫さん、講談社文庫さんには、この場をお借りして、只での借用をお詫び申し上げます(このカワ通Wで、何冊か余計に売れて、河童さんに印税が入るかも?無理か・・)。
 
 
少年Hこと、舞台美術家の妹尾河童さんが、初めてインドを訪れたのが、1978年、次が1983年。この2回の来印を、読み易い手書き文字と、軽快な文章と、そして、素晴らしい河童さんの絵でまとめているのが、この文庫で、インド勤務者の誰もが、この本を一度は読んでいるのではないでしょうか。肇から、河童へと、名前を変えられたのが、40歳の時の昭和45年ですから、この本は、48歳&53歳の時の紀行本になります。
 
名著『河童が覗いたシリーズ』では、インドは、ヨーロッパ、ニッポンに続く3本目の作品となっています。インドの25〜20年前の世界が、実に見事に表現されており、今読んでも、全然、古くなっていません。あるいは、逆説的には、インドが、今でも、当時のままなのかもしれません。
 
 
先のカワ通Vは、バラナシから、ベンガル湾へ流されるところで、終えましたので、休暇リールの如く、またバラナシへ舞い戻り、カワ通Wは、この聖地バラナシから、インド紹介を、始めて見たいと思います。
 
 
バラナシ=ディープインド=印度の臍(へそ)。やはり、インドはここを訪れなければ、人に、印度は語れません。
 
 
うちの現場では、バラナシに行く=何のため?=ガンジス河で沐浴(もくよく)をするため・・・が合言葉でして、すでに、両手に近い数の所員が、このガンジス河で、身を清めて、現場作業に邁進しています。私も、焼き場の横のガート(沐浴用の石段)で、44年の煩悩を洗い流し、今を生きれているのが、バラナシでの沐浴のお陰です(沐浴以来、身体にカビも生えていません)。
 
 
このガンガー(ガンジス河)では、人から、牛から、ヤギから、もう何から何まで流れており、うちのインド人スタッフも、死んだら、ここで、焼いて貰って、ガンガーに流して貰うのが生きがいだなんてのも居ります。この前のアシュライちゃんなんかも、死んだら、ここに流して貰うのが、夢なんだそうです。
 
 
添付の写真は、今年の5月に撮影したものです。
 
沐浴も、ご覧の通りで、インド人たち、実に、自然に、ガンガーの水を被って、身を清めています。
 
また、バラナシの街も、途中、イスラムの侵略を受けながらも、連綿と生き続け、3000年の歴史があるだけに、ヒンドゥー教の聖地として、今もこの風格です。どうです、妖気が漂って来ませんか?
 
バラナシのガンガーで汲んだ水は、100年は、腐らないそうで、私も、瓶に入れた水で、今、実験中です。
 
はい、では、長文は、身体に毒。皆さんの仕事の邪魔になってもいけませんので、Wは、短文系でまとめて、ぼちぼち行って見たいと思っています。ヒンドゥーの世界に、懲りずに、おつきあい願えたらと思います。
 
 
2003年11月25日(火)
 


インド通信笑うカワセミ少年H編A(続バラナシ)


KF読者各位
 
 
ベンガルも夜明けの6時には、11度を記録するようになりました。昼間は、27〜8度ですので、ぽかぽかですが、夜は、毛布が2枚は必要です。
 
これだけ気温が下がってくると、インド人はマフラーで顔を覆い、腹はベストやセーターでとなっているのですが、日本人は、半袖の人も居れば、作業ジャケットを羽織る人も居て、各自の毛穴の開き具合によって、混沌としています。
 
私の部屋の前では、気温が10度近くまで下がった今朝も、朝顔(日本からの種です)が5つ、青い花を咲かせています。もう一ヶ月もすれば、種が取れるようになるでしょう。とにかく、紅葉なんてのはありませんが、秋本番のベンガルです。寒いです。
 
 
この季節ならではなんですが、カルカッタの市場から、白菜が届きます。それで、鍋を始めています。食堂に、電気鍋6つを並べて、鍋材は、各自一皿づつ準備して、白菜は食べ放題と、うちのプルリア鍋はなかなかの迫力で、今年の冬も、もう初鍋をスタートしてしまいました。昨年は、電気鍋の消費電力に耐え切れず、ブレーカーが頻繁に飛んで慌てましたので、その学習効果で、今年はもう立ち上がりからばっちしです。うちの鍋は、自慢ではないですが、何でも入っていて、美味いです。
 
 
 
さて、バラナシの続編ということで、今回は、牛で。
 
インドは、牛は、もう至る所に居て、バラナシも、ご多分に漏れず、どこここと牛が居ます。東京の方は、その人並みに、さらに、牛を配置していただければ、イメージが掴めると思います。駅の改札で、スイカをピッと鳴らしたら、その改札機の向こうで、横たわった牛がモ〜!というイメージです。
 
バラナシは、迷路のような街なんですが、このような狭い路地でも、ほれ、牛がこのように、のしのしです。牛が人なのか、人が牛なのか。住居の中の中2階の踊り場のような場所でも、牛を飼っていたりします。ごめんくださいと、玄関から上がると、牛が、モ〜!ようこそ!という感じです。
 
牛の表現がヘタなので、もう止めます。
 
 
ヒンドゥー教では、牛は、神様の乗り物ですので、うちのドライバーたちも、前を牛がのしのし歩いていると、極端にスピードを落とし、牛が避(よ)けて呉れるのをじっと待ちます。犬やヤギや羊、鶏は、うちのドライバーは平気で撥ねて来ますが、牛は、この2年半で、まだ一度も撥ねたとの報告が来ていません。どうも、牛の上に神様が乗って、のしのし歩いていると彼らには見えているようです(うちのドライバーたちはそう言います)。
 
ただ、同じ牛でも、水牛とかになると、クラクションを鳴らされて、避けさせられますので、こぶ牛や、普通の牛とは違った、牛の階級(カースト)が、そこには、あるのかもしれません。
 
 
Aの最後は、バラナシの画像で、好きなのを一枚、添付します。
 
北のヒマラヤから蛇行しながら流れてきたガンジス河(ガンガー)は、バラナシで、流れを変えます。南から北へ、バラナシの街にぶつかり、そこで反転、南のベンガル湾の方へゆっくりと向きを変え、流れていきます。画像では、向こうが上流、手前が下流です。ゆるやかな曲線で、河添いにバラナシの街が広がっていますが、ガンガーがここで南へ反転して下って行っています。カーブは緩やかですが、物凄い水量のガンガーに削られて、沐浴するガートから1mも飛び込めば、そこは、もう足が付かないくらい深く削られています。
 
私は安宿系なので、この5月に宿泊したプジャゲストハウスは、一泊200ルピー(約500円)でした。そこの5階建ての屋上から、撮りましたが、なかなか雄大なガンガーでした。河童さんの鳥瞰図では、右上の、文字で言えば、『ぼくはなんでもすぐ驚くが・・』の辺りの河縁にプジャゲストハウスはあり、日本と欧米のバックパッカーで溢れていて、ガンジャ(大麻)?ような、すえた匂いのする、なんか怪しい宿でした。
 
 
現場勤務なんで、インドもまだそんなに回れていないのですが、はてさて、この少年H編は、ネタが続くんかいな?と思いながら、ごきげんよう。もう12月です。皆さんも、今週も、頑張って下さい。
 
 
2003年11月30日(日)
★明日は、海外作業所事務研修のインド3期生が2名、カルカッタに降り立ちます。海外勤務初めての奴らがあのオンボロなカルカッタ空港でどぎまぎすると思うと、なぜか嬉しいです。ふふふっ!若者の元気さに、こちらも精気を貰ってしまう、すっかりおじんの歳になった私を感じます。頑張れ、若者!!でも、若いって、良いですよね、何でも挑戦出来て、ほんと羨ましいわ!



インド通信笑うカワセミ少年H編B(続々バラナシ)

KF読者各位
 
 
うちのキャンプの裏川のカワセミ(King Fisher)も、今朝も、10度ちょい越えの冷気の中を、キャアキャアと鳴きながら、元気に羽ばたいて、コバルトブルーの森の宝石の如く、飛び回っています。元気な小鳥です。
 
 
うちのアンダーグラウンド(UG)セクションも(日本語でなら暗黒地下特殊部隊と訳されそうな、うちのトンネル&パワーハウス担当部隊ですが)、朝の6時から深夜に及ぶ連日の過酷な現場作業を、お互いがよく語るチームワークで、斜坑、パワーハウスなどの難関難所を突破中です。
 
そのUGセクションから、カレーを毎晩喰いたい!との要望が出て参りまして、あれ、インド、嫌いじゃなかったの?と一瞬思いましたが、夕食が、毎回ライスカレーでは、他のセクション(ダム、明かり、QC、機電、工務、事務)から、苦情も出て来るだろうと、今回は、夕食の副食の、さらに副食として、カレーを復活させました。希望者だけ、小カレー鍋からカレーを掬い、ご飯に掛けるお茶碗カレーという奴で、これが、今、ヒットしています。隠れたニーズに出会うと、こちらもニヤリとしてしまいます。
 
 
さて、ディープなインド、バラナシ編の最後も、牛で。
 
牛は、インドの民に色々な恵みをもたらします。牛肉はもちろんご法度ですが、田んぼも耕してくれるし、運搬の荷車は引いてくれるし、で、さらに牝牛は、ミルク、そこから、ヨーグルトとか、バター、チーズとかも出来るし、牝牛は、牛の中でもやはり別格です。牛の糞も、インドでは貴重な燃料になっています。
 
牛糞燃料作りは、女性の仕事で、道に落ちているのを、器用に拾い上げ、籠に入れて集め、それを、丸めて、平たく伸ばして、壁に張り付け、乾燥させて、燃料にします。手際良いその手技は、見事の一語です。
 
河童さんの絵では、左上の画です。
 
画像のほうは、バラナシではなく、ここバグムンディ村での撮影ですが、インドの至る所で、この牛糞の張り付いた壁を見ることが出来ます。この牛糞燃料で、暖を取ったり、煮炊きをしたりするようです。
 
うちの現場の焼肉大会でも、今度は、いつもの炭の代わりに、この牛糞燃料で、バーべQしてみたいと思います。うちの所員なら、牛糞と言わなければ、美味い、美味いと食べると思います。ばれるか・・・
 
 
人工の7割が農村に住むと言われる農業大国のインドでは、労働力としての女性の役割は、非常に大きな部分を占め、田植えから稲刈りまでほとんど女性、こうした牛糞燃料作りなどの家事も、すべて女性の仕事です。カースト制での女性の位置づけも、関係しているようです。日本の女性の皆さん、日本で生まれて良かったですね!
 
しかし、日本も長引く景気の低迷で、失われた10年とやらが、20年に近づく勢いですが、人材の活用という点では、女性の社会進出が、日本は、欧米に比べて、まだまだ遅れていますから、この辺りに、将来、またまた世界に伍していく日本復活の鍵が隠されているというと、大袈裟でしょうか。九州の方には、「きさん(貴様)、おなごに頼るのか!」と怒られますかね。
 
 
はい、では、バラナシ画像の最後は、またも路上の牛にて。牛の見当たらない路地が無いくらい、バラナシ、各所に牛が居りました。もう、右も左も、牛だらけ、糞だらけでした。
 
カワ通少年H編、次回は、北へ、はたまた、南へ・・・??
 
2003年12月7日(日)


インド通信笑うカワセミ少年H編C(コモリン岬)

KF読者各位
 
ここは、プルリアと言って、西ベンガル州の西部に位置します。州都は、カルカッタで、お茶で有名なダージリンは、同じ州の北にあります。また、これも、お茶で有名なアッサム州は、ダージリンと州境を接しています。ちなみに、隣の東ベンガル州は、独立して、東パキスタンに、そして、今は、バングラデシュと呼ばれています。
 
プルリアは、今、日の出が、6時、日の入りが17時ですから、カルカッタより、西にある分若干遅いと思います。東京も、今、こんなものではないでしょうか?
 
12月で、気温は、朝で10度、昼で27〜8度ぐらいになりますので、朝は、流石に、フリースを羽織っていますが、昼間は、ぽかぽかです。乾季で埃っぽいことを除けば、快適な日々が続いています。仕事は、この乾季が勝負なんで、次の雨季が始まる来年の6月まで、突貫状態が続きます。ヒンドゥー教は、1月1日は旗日(祝日)ですらありませんので、Works to be continued 状態が、続いていきます。ああ、いんど!(しんど!)・・・すいません、駄洒落になってませんね!
 
 
 
さて、カワ通、今回は、バラナシから、一挙に、南に飛んでみました。
 
世界地図をお持ちの方は、たまには開いてみて、今回の画像をお楽しみ下さい。
 
これが、インド亜大陸(サブコンティネント)と言われているインドのトン先です。
 
コモリン岬と呼ばれています。
 
今年の10月に所員で旅行した方が居られたので、画像を頂けました。
 
このトン先に立ち、南に向って、右からくる〜っと、顔を回すと、東のアラビア海、南のインド洋、西のベンガル湾と、3海が、一望で見渡せる凄い岬です。
 
画像の海は、ど南ではなく、若干、ベンガル湾寄りのインド洋ですが、どうです、なかなか切なくなるような空間の広がりだと思いませんか?Boys, be Ambitious !
 
よ〜く、眼を凝らして下さい、インドマグロが跳ねてるのが見えますよ!
 
★インド人、嘘、つかない!
 
2003年12月13日(土)



インド通信笑うカワセミ少年H編D(ヒマラヤ)


KF読者各位
 
 
今年も残すところ、あと10日となりました。私も一年の区切りということで、不要なものをどんどん処分して行っています。パソコンも、要らんファイルを捨て、デフラグかけて、頭脳整理をしてやっています。ただ、英語なんかは、またも、ど頭に溜まらず、すかすかで、この一年も100語ぐらいを駆使して必死で仕事をしてたような感じです。もうこの歳になると、必要なものは頭にはなかなか溜まらないようです。嗚呼、馬上、少年過ぐ ・・・・
 
 
さて、カワ通、南のコモリン岬から、一挙に、北へ飛んでみました。
 
インド亜大陸の北は、ご存知、ヒマラヤ山脈が、横たわっています。ヒマラヤからの雪融け水が、東のガンジス河に、そして、西のインダス河にと、分かれて流れ、旧インド帝国を、東西に万遍なく潤おしています。
 
河童さんの描かれているスリナガルは、ヒマラヤの西部、印パキの領土紛争の火種になっているカシミール地方の州都です。『河童が覗いたインド』では、雪が舞っている絵は、ここだけでしたので、使わせて頂きました。
 
添付の画像は、世界最高峰 8848mのエベレストで、ヒマラヤの東部に位置します。エベレストは、インドではなく、ネパール領です。これも、インドでお世話になっている方から頂いた画像です。ブータンにご出張で行かれた際に撮影されたんだそうです。
 
ちなみに、登山家の憧れのK2(8611m)は、スリナガルの北300kmに位置しています。世界の登山家を魅了して止まない山嶺が、インドの北には続いています。
 
寒い日本の方には、凍える画像で、すいません。
 
しかし、このキャンプが標高220m辺り、目下建設中の下ダムで標高250m、上ダムで500m地点ですから、ヒマラヤ山脈のエベレストやK2の8000m級の山の高さは、私には想像もつきません
 
 
では、年末に向け、お忙しい日々の続く日本の皆様、そして、海外の方々も、それぞれに、お忙しい年の瀬で、ごきげんよう!
 
 
カワ通は、26日(金)が今年の最終。あの子が登場します、乞うご期待!
 
 
★C(コモリン岬)、トン先に立って、西のアラビア海、東のベンガル湾に修正です。最近(以前からか)富みにボケの激しいインドで、カレーの(加齢脳)ミスです!
 
2003年12月20日(土)

インド通信笑うカワセミ少年H編E(年末ご挨拶)

KF読者各位
 
 
はい、今日25日は、クリスマス、うちの現場は、餅搗きなんで、かまど係の私は、朝から段取り多く、早朝のうちに、今年最後のカワ通を。
 
 
番外の少年H編となりますが、来年の干支も、申(サル)ですし、ここは、もんたに登場して貰い、すこし早いですが、博多手一本で、締めて貰いましょう。
 
Yoh! Panpan     Monkey Hitoru  Pan Pan     Yo-ho ! Pa Pan ga Pam !!
 
今年もお世話様になりました。2004年も宜しくお願いします ・・・ もんた拝
 
 
えっ、挨拶芸!? 僕、チャリンコのハンドルの上で、うつらうつら、居眠りをしているだけなんすけど・・・
 
 
インドも、3回目の正月です。○の南米、□の北米、■の欧州、悟りのインド。70年代のバックパッカーに流行った文句らしいです・・・○□■は、ご想像下さい!
 
では、皆さん、良い年末年始をお過ごし下さい。来年が、皆さんにとって、更に良いお年となりますように、インドから祈念しております!
 
 
 
★今年の紅白の総合司会の武内陶子さんは、私の6つ下ですから、28歳。東高の後輩です。しかし、私と違って、きれいな標準語をしゃべりますので、応援して上げて下さいね!
 
2003年12月25日(木)



インド通信笑うカワセミ少年H編F(デリー)



KF読者各位
 
 
新年、明けましておめでとうございます。皆さん、良いお正月を過ごされたことと思います。
 
うちの現場も、今年は、現在4割の出来高を、7割近くまで上げる非常に大事な年です。ここ一番の大勝負の年とも言えます。31日の安全感謝祭、そして、1日の安全祈願祭と、頼めるのなら、日本の神様もインドの神様も、細かいことは言わずに、もう総神頼みで(さらに仏陀も混ぜて)、今年も2日から、走り始めています。
 
泣いても笑ってもあと3年、あと3年・・というと、所員が暗くなりますので、忙しいのはあと2年・・、それでも、まだ所員はうつむきますので、今年さえ越えば・・、あとは、ばら色、もう転がり落ちて、目の前がゴールやで!と励まして、まずは、今年1年を乗り切る所存です。
 
うちは、まあ懲りない面々が揃って居るというか、31日は、午後9時までコンクリ打ち、2日も朝の6時から出動ですから、仕事命の大成火の玉軍団です。これなら、うちの株価も上がろうというものです。今年は、仕事も(山ほど)、遊びも(行くところもないが)、所員一丸で頑張って、一年突っ走り、カワ通共々、最後は、前のめりに顔面から倒れて、大怪我しないように、カッコ良い着地を目指したいと思います(でも、無理だろうなあ〜)。
 
 
さて、さて、こちらも懲りない一角、年末に、デリーに飛ぶ機会があり、オールドデリーの街で、牛を掻き分け、何カットか撮影して来ましたので、年初めは、この国のへそとも言える、首都デリーから、インド通信を再開させて頂きたいと思います。
 
 
デリーは、人口1000万人のインド第3番目の都市です。北がオールドデリー、南がニューデリーで、別に東西ベルリンのように塀で隔てられている訳ではありません。私の小学校時代には、インドの首都はニューデリーと教えられたような気がしますが、大統領官邸は確かに、ニューデリー地区にありますが、そんなにNewとOldとで、デリーの区別も厳格でもないように思います。
 
 
河童さんは、デリー駅の構内の待ち人の姿を絵に残していますが、こうした風景は、インドのどこの駅でも普通に見られます。日本も、最近は、若い人が駅で座り込んでいますので、日本もインド化して行って、これも輪廻転生なんでしょう。
 
鉄道警察の目を盗んで、一枚、構内写真をパチリ。デリー駅ですから、まあ東京駅みたいなものですが、物資が、人と一緒に、インド全土を鉄道で運ばれている様が、想像して頂けると思います。
 
 
あと、オールドデリーの@揚げパン屋(風船揚げパンを、Puri(プリ)と言います。右の茶色い山は煮豆です。模様がおしゃれな曼荼羅!)、Aラムネ屋(インド人は発泡系のドリンクが好きなんです)、B果物屋(ザクロは、年中あります。あと、黒ぶどう、青ぶどう、りんご、みかんで、茶色は?。柘榴は、英語で、pomegranate(パメグラニット)なんですが、いつまで経っても覚えられません)
 
 
オールドデリーを歩くと、人に表情があって、時間が経つのも忘れてしまうぐらい面白いです。16〜17世紀のままのような、濃厚な時間が流れているような感じがします。
 
 
カワ通も、これで一周年。インドネタが続く限り、出したいとは思ってます。軽いKBを心がけておりますが、ご迷惑メールになってる方は、返信で短く、イランとかテヘランとか頂ければ、配信グループから即削除しますので、これまでのご迷惑お赦し下さい。返信の仕方を知らない方は・・・・、さて、困った!
 
では、お互い、今年も、頑張って行きましょい!
 
 
2004年1月4日(日)


インド通信笑うカワセミ少年H編G(カワセミって?)


KF読者各位
 
 
カワセミ? King Fisher ?
 
日本にももちろん生息しているのですが、清流が減って、魚も減り、なかなか目にすることもなくなって来ているようですので、インドのカワセミを、今回は、ご紹介したいと思います。
 
これは、5日前のキャンプの裏川です。枝に止まって魚を狙っているのがわかりますか?画面の中央、若干右の川の上の枝に止まっています。デジカメの解像度が悪く、この画像で、KFを見つけれたら、視力は2.0は大丈夫でしょう。生目では、コバルトブルーの点なので、鳴いてなくても、すぐ分かるんですが。
 
で、拡大してみましょう。ソニーのマビカの10倍画です。野鳥ですから用心深く、近づける所まで忍び足で接近し、10倍で撮っても、まだこれです。これ以上、近づくと、嫌がって、鳴きながら飛び立って逃げていってしまいます。でも、なんとなく、カワセミの形、分かりますよね。
 
で、次は、昨年末にデリーに行きました際に、柄にもなく、日航デリーに泊まり(別に、JALのスチュワーデスさんたちを見たかった訳ではありませんが)、ホテルのプール横を歩いていたら、プールの昇降バーに鳥の木彫りのようなものが置いてあり、よう作っとるやないの!と、眺めてましたら、急にふわ〜っと飛んで水浴びを始めまして、なんと、カワセミでした。水浴び→昇降バーに戻る→水浴びを、4〜5回繰り返して呉れました。これは、魚の捕獲行為ではなく(もちろん、日航デリーのプールには、インドと言えども魚が泳いでいる訳もありません)、カワセミの行水行為でした。なかなか贅沢なバードウオッチングタイムでした。
 
 
手元にコリンズ社製のインド鳥類図鑑があるので、そこから、英文を簡単に訳してみます。
 
まず、うちの裏川のKFは、Common Kingfisher (庶民カワセミ) 18cm  住処は水辺付近に巣を作り、小魚を捕獲している・・とあります。(Commonは、並みと訳すべきかも。カワセミ、並、一丁!)
 
次に、デリーの日航ホテルのKFは、White Breasted Kingfisher(白胸カワセミ) 27cm 住処は、森、沼地、開墾地、庭などで、乾いた土手の穴に住み、カエルやトカゲや昆虫、小動物を捕獲している・・とあります。
 
あと、この図鑑には、もう一羽のKF。 Pied Kingfisher (白まだらカワセミ) 30cm 湖沼に生息、魚獲りの名手、木杭の上に止まり、尾を上下に振りながら、魚を狙う・・とあります(私は、まだ、白まだらKFは見たことはありません)。
 
 
カワセミの鳴き声は、コリンズには、Cackling screamと表現されていますが、実音としては、キャキャキャキャ・・・という感じで、高音で鳴きながら、飛び去って行きます。笑いカワセミといわれる由縁です。
 
 
インドの国鳥は、クジャクです。このコリンズの鳥類図鑑をパラパラめくりますと、さすが、インド亜大陸、フラミンゴ居り、ハゲタカ居り、サイチョウ(Hornbill)居り、ハチドリ居りと、実に豊かです。バードウオッチャーにはたまらん国です。
 
 
さて、カワセミにひっかけて、為替見ですが、昨今の急速な円高で、とうとう対ドル106円台も記録し始めました。手帳をめくりますと、9年前の1995年の4月に79円とあり、凄い円高の時代もあったもんだと思いますが、この長引く不況下での今の円高も、日本の輸出メーカーには溜まらんでしょう。
 
円高となると、当然、我々海外工事の請負金も、外貨分が円換算で減少してしまい、他人事ではないのですが、国家と国家の今ある関係が、為替に、もろ影響して来ますので、この辺りは、まさに大河ドラマを見る思いで、海外工事を担当する中で、為替は、面白くまた興味深い分野の一つだと思います。
 
国内営業をやっておられる方も、お客様(施主)がメーカーで、輸出主体の会社を担当されている方は、訪問時に、為替の話題は欠かせないですよね。
 
 
はい、では、次号は、インドで一番有名な建物へ。ごきげんよう。
 
 
2004年1月11日(日)


インド通信笑うカワセミ少年H編H(アグラ)


KF読者各位
 
 
今週は、社員組合が、初めてインドのうちの現場にやって来るので、晩飯を喰いながら、うちの若手たちと事前ミニ部会を開催しました。深夜の食堂に5名でした。
 
なんで、うちら、こんなに休めないんでしょうか?
休めばええやんけ!
キーデートが目の前にぶらさがっていると、どうしても働いてしまいますよね。
工事を間に合わせる自信がないと、休もうという気になかなかなれませんよね、あとで、さらにきつくなりますもんね。
休むと、その分仕事が溜まるので、つい頑張ってしまうすよね。
4ヶ月毎の休暇がいかんのと違いますか?僕ら、勢いで、ノンストップで、仕事してしまうっしょう、悲しいけど。
じゃあ、どうするの?
例えば、休暇を2年に1回、15日だけとかにすれば、とても身体持たんから、皆も、日曜とか、無理しても休むようになるのではないでしょうか?
2年に1回の休暇かあ〜、でも、皆んな、日本に家族居るからねえ。
でも、4ヶ月は、中途半端に頑張れますからね、休みなしでやれてしまう。
今は、もう平成16年ぜ。戦後の復興期とは違うで。
 
23日の組合インド部会で、もし2年に一度15日休暇制発言が出たら、この子は、ビール瓶で頭ぶっ叩かれ、それでも落ちない時は、湿ったハンカチで口を塞ぎ、その場で眠って貰うことを、残りの4人は目で確認し合いました。ミニ部会は静かに終了しました。
 
歓迎の料理食材も揃ったし(下ダムで獲れたスッポン)、あとは、組合幹部が山奥へ来るのを待つだけだわ。
 
 
 
さて、前回、インドで一番有名な建物と振った手前、このお墓に登場して貰うことにしました。デリーから南へ200キロのアグラという都市の、ヤムナ河の河畔に建てられています。
 
皆さんもご存知の、これが、タージマハールです。1983年に世界遺産に指定されています。イスラム建築様式で、ムガール建築美術の最高峰と言われている建物です。
 
イスラム教のムガール帝国第5代皇帝のシャー・ジャハーンが、最愛の御妃のムムターズ・マハールのお墓として、22年かけて1653年に完成させたんだそうです。総て白大理石での建築です。建設時の出面(でずら)も、一日2万人だったそうです!(うちの現場が一日1千人の5年コースですから、人20倍X時間4倍強=約80倍の規模です、さすがに、インドはスケールが違います)
 
河童さんの本には、同時代の建物として、ベルサイユ宮殿とか、ローマのサンピエトロ寺院、日本では、京都の桂離宮や日光東照宮が紹介されています。
 
添付の画像で、高さ67mのドームがイメージしていただけるでしょうか?タージマハールは、バランスが取れすぎていて、全体がこじんまりして見えますが、実はでかいんです。「地球の真珠」と、インドでは呼ばれているようです。たしかに、地面から、白真珠がぷっくん出て来ましたよ!という感じです(実に下手糞な表現だわ)。
 
画像を解説しますと、まず、入場門を潜ると、このタージマハールが、どんと異様を表します@。そのタージマハールまで歩き、その上がり口の階段から、入場門方向を眺めてA、入場門の拡大Bが、この3枚です。
 
河童さんは、ヤムナ河を隔てて建てられる予定だった黒大理石による黒タージマハールまで描いていますが、白タージに続き、黒タージでは金が掛かり過ぎ、このままではムガール帝国が傾いてしまうと危惧した王子に、シャー・ジャハーン皇帝は幽閉されてしまい、対岸の黒タージは実現しなかったのだそうです。
 
14人の子供を生んで、最愛の御妃ムムターズは亡くなり、それを、悲しんだシャージャハーンがこの墓廟を建設したそうですが、シャーは22年間、毎日泣き悲しんでいたわけではなく、すぐ次の御妃様を貰い、ムガール帝国の発展を日々心がけたようで、やはり、権力者は、このぐらいの元気が必要なのかもしれません。でも、最後には、自分も御妃ムムターズの横に葬って貰ったそうで、タージマハールは、皇帝夫婦のお墓になっています。
 
ムガール帝国は、第17代皇帝まで続きますが、これもご存知、セポイの反乱(1857年)で、最後の皇帝が担ぎ出されて、イギリスに滅ぼされてしまいます。
 
 
このタージも、最近では、酸性雨の影響で、白大理石の表面が傷む(溶ける?)ようで、アグラのこの一帯は排ガス規制されており、かなり離れた駐車場から、らくだ車や、電気バスで、この墓廟に参拝することになります。
 
 
タージマハールを見ないで帰任すると、また、インドに再赴任してしまうという駐在員伝説があるそうで、縁起でもありませんので、私も昨年5月に、この御妃の墓参りを済ませています。画像はその時のものです。くわばら、くらばら!
 
 
2004年1月18日(日)


インド通信笑うカワセミ少年H編I(続デリー)


KF読者各位
 
 
うちの現場が位置する西ベンガル州プルリアも、今月5日の6℃で、底を打ち、今朝なんかは、夜明け前で15℃もあります。今年の冬は、あっという間に終わってしまったようです。
 
昼間は、28℃ぐらいになり、インディアンサマーでポカポカです。真冬のど真ん中の日本の皆さんには申し訳ないような、快適な気候が続いています。あと2ヶ月もすると、またあの50℃の暑季がやって来るのかと思うと、ぞっとしますが、この気温変化のサイクルに不思議と身体は慣れるもので、あの暑さが実は待ち遠しかったりします。暑季の次は、雨季で、これも、湿気で堪らんですが、越えないと次の季節が来ないし、慣れって、怖いですよね。
 
 
 
インドは、雑踏歩きが実に楽しいです。河童さんも、この『河童が覗いたインド』の取材で、デリーには2回降り立っており、オールドデリーの街を歩いて、当時の街の光景を残しています。インドは、人の放つエネルギーに、じわっと圧倒されます。河童さんの画は、20年以上も昔の絵ですが、当時とほとんど変わらない、同じような光景が、デリーの街のあちらこちらで今も見られます。
 
添付の画像は、昨年暮、冬のデリーの4葉です。5℃まで気温が下がったオールドデリーの、朝の街の人々の顔です。インド人たちも、毛糸帽にマフラー巻いて、寒そうでしょ。
 
 
1)路上のチャイ屋(ミルクティ。販売副食は、乾パンにじゃが芋カレー)
2)パパイヤ屋台のオヤジ(パパイヤは、整腸で人気あり。南インド産?)
3)路上のミシン屋(なんでも、縫いまっせ!)
4)ベビークリシュナ神のジュース屋(この時期、ザクロとニンジン中心)
 
 
日本も、Slow foodでしたっけ、Fast foodに対抗したスローなものが最近受けているようですが、インドの街で拾えるこうしたインド人たちの顔は、なんかほのぼのとした昔の雰囲気がするというか、日本に比べたら、インド、皆、格段に貧乏なんだけど、人生をゆったり生きていて、日本人よりはるかに豊かな精神世界を持っていたりするかもしれませんね。
 
 
うちの所員には、インドは、インド人さえ居なければ、最高の国になるんだけどな〜と冗談を飛ばす奴が居ますが、私なんかは、そこまでの境地に達せてなくて、インド?そうやな、こうした仕事上の任務さえなければ、最高に面白い国なんだけどなあ〜・・ぐらいの賛辞を、我がインドと、インド人たちに送りたいです。
 
 
2004年1月24日(土)
 

インド通信笑うカワセミ少年H編J(マドラス)


KF読者各位
 
 
寒の戻りという奴でしょうか、朝も10℃ぐらいで、寒さで、眼が覚めます。毛布がインドベッドの下に落ちています。
 
高校の時の担任の先生に、1月=行く、2月=逃げる、3月=去る、だから、年始のこの3ヶ月間はしっかり勉強するんですよ!と言われて育ちましたので、毎年、この時期になると、先生の言葉を思い出すのですが、Januaryも、あっという間に終わってしまいました。
 
 
帯同を希望する土木の若手社員が居られて、エセ建築士の小生が、自宅パルウッドに続き、2軒目のパルレンガを、設計施工で、建築中です。一応、宅建は持っているのですが、こんな山奥で、容積率や建ぺい率だと申しても仕方がありませんので、キャンプ内で建てれる敷地の形状を生かし、L字型で建てています。
 
2階建て、2LDKの60平米ぐらいのミニハウスです。屋上は、洗濯干し場用のテラス付。まあ、ちょろいもんです。現在、基礎掘削中です。
 
でも、あれっ、今日は、土工さんが来ないなと思ったら、うちの山の現場にスカウトされていました。敵は身内からです、インドは全く油断がなりません。工期も2ヶ月半、果たして、奥さん、子供さん(1.5歳)が、インドにいらっしゃるまでに、屋根は上がっているでしょうか?
 
ど僻地も 家族で住めば 夢の国
パルコンに 負けず劣らず パルレンガ
パルレンガ 間に合わなきゃあ パルテント (ダメだ、今日も冴えねえ・・)
 
 
さて、真冬の日本の皆さんを励ますべく、後半初回の少年H編は、マドラスからです。河童さんの地図に、赤でマーカーを入れてみました。マドラスは、北緯13°地点ですから、マニラとかバンコクとかの並びになります。
 
 
マドラスは、今は、チェンナイと呼ばれています。インドの都市は、イギリス統治前の旧名に戻る傾向が盛んで、例えば、カルカッタもコルカタ(凝肩)、ボンベイもムンバイ(煩林)、で、このマドラスがチェンナイ(鎖内)です。(筆者注:カッコ内は当て字です。信用しないように)
 
マドラスで、日本人にピンと来る有名なのは、インドマグロの水揚げ港であるのと、あとは、なんでしょう・・・?高岡早紀さん宣伝のマドラスシューズでしたっけ?あの商品名も、インドのマドラスから取っているのでしょうか?
 
 
河童さんの文章をお借りすると、次のような4大都市表現になっています。
 
『マドラス』は、南インド最大の都市で、政治経済の中心である。だから、大都市らしい特有の活気が町にただよっているのだが、他の大都市とは、かなり違っていた。同じ活気でも、高層ビルが林立していた『ボンベイ』とも違うし、かといって、人間のあらゆる営みをぶちこんだ『カルカッタ』のような、混沌とした都市の持つ雰囲気も、ここにはない。もちろん、『ニューデリー』のように、取りすました西洋風の気位の高さもない。『マドラス』は、‘都会のくせに、お人好しの気質がある‘というのが、いかにも南らしく、なんとなくホッとする町なのである。(132頁)
 
さすが、河童さん、プロの表現です。私もマドラスは2年半前に一度訪問しておりますが、この画像は、今年1月に、マドラス駐在の商社マンの方にお願いして、街でパチリと撮って来て頂きました。
 
南インドの、明るい街の雰囲気がこの果物屋のオヤジから、日本の皆さんにも、伝わって行くでしょうか?南インドは、人種もドラビィダ系で、北部のアーリア系人種に比べて、肌の色も、随分、濃いいですし、また、印象的にも、おだやかな、丸っこい印象を与えますよね。彼らの使うタミール文字も、丸々っとした、曲面の連続文字で、とても、キュートです。
 
果物を、こうしてお供え物のように高く積むのは、インドならではでしょうか?日本なら、傷むから、割と平面的に並べてますよね。意地の悪い私なら、底の真ん中のあのみかんを1個頂戴!とかで、果物山の崩壊を狙ったりして。(いけない、崩れるとか、壊れるとかの言葉は、うちの現場ではタブーでした!)
 
 
はい、では、皆さん、この2月もご安全に!
 
2004年2月1日(日)


インド通信笑うカワセミ少年H編K(ハイダラバード)


KF読者各位
 
 
来週は16日に、日本から社長をお迎えしてのダム定礎式です。式典で、景気良く花火を鳴らそうと、近くの村の業者さんに、音花火を段取りして貰いました。はい、丹下さん、これですよと、12個届けて貰えましたので、手の平に乗るような軽い可愛いサイズで、私の机の周りに転がしていたのですが、先日、試しに、やってみるかと、1発、導火線に火を入れてみましたら、置いてた木箱が、轟音と共に、砕け散りました。花火というよりも、もう爆弾!・・・カシミールでどんぱちを続けている国の花火はやっぱ違うなあと感心しつつも、式当日に、若干不安ありです・・・大爆発!?
 
ダム定礎と言えば、私の初めての現場勤務が、インドネシアのチラタダム1期でしたので、あの現場の定礎式には、当時、権力絶頂でしたスハルト大統領が、軍用ヘリで、パラパラと堤体に降り立たれたのでした。残念ながら、私は、すでに、ボルネオ島に渡っており、この定礎式には、参加出来ませんでしたが、今回も、定礎式の段取りを掛けながら、経験行(?)学というか、社員間の口伝でも、代々伝えていかないと、式作法は消えてしまうので、気をつけなければと思わされました。
 
 
パルレンガも、鉄筋入りの柱が上がり始めました。工期の遅れは一切認めんぜと、業者さんに気合を入れましたら、その晩、夜間照明の下、基礎穴で、鉄筋を組んでいるのは、うちのドービー(洗濯マン)たちでした。
 
いや〜あ、もう毎日、『インドな日々』です(流水りんこさんの本の題名のパクリ)。
 
 
 
さて、前回のマドラスから、内陸に約500キロ北上しますと、このハイダラバードがあります。標高550mの高原都市です。うちの上ダムの辺りと同じ標高ですね。
 
ハイダラバードは、バンガロールと並んで、現在は、インドのIT(インフォーメーションテクノロジー)の旗手と呼ばれている都市です。河童さんが訪れた当時は、南インドでは珍しい、イスラム色の強い都市という印象程度ではなかったでしょうか。
 
インドには、ぱっと地図をみただけでも、なんたらバードというのは、10近くあり、アラハバード、アメダバード、ファリダバード、ニザリバードなどなど、お隣のパキスタンの首都も、イスラマバードで、バードですね。
 
バードが付く都市は、これは、もとイスラム教徒の藩主(マハラジャ)が治めていた地区を表しているのだそうです。インドでは、バラモン教→仏教→ヒンドゥー教→イスラム教の順で、宗教が広まって混在していったと捉えるのが良いでしょう。インドは、ヒンドゥー教徒が9割の国ですが、イスラム教徒は、カースト制に入れなかった階層の人々が、イスラムに続々と、改宗していったとの解説も、インドでは、なされているようです。
 
中近東への出稼ぎも、あちらはイスラム圏なので、ヒンドゥー教のインド人が、イスラム名でパスポートを申請して、出稼ぎに行くという噂も聞いたことがあります。うちのスタッフたちですと、そのぐらいのことは、当たり前でやりそうです。
 
 
河童さんは、チャール・ミナール(ヒンディー語で、4つ=チャール、尖塔=ミナール)を訪れ、この塔の上から、街を見下ろした絵を残しています。尖塔の高さは56m、4つの塔には、おのおのバルコニーが配置され、中段階はモスクとして利用されているとのことです。チャール・ミナールは、当時のイスラム教藩主が、流行った疫病の終焉を祝って建設したんだそうです。
 
今回の画像は、うちの現場の発電機4機(225MWX4基)は、東芝さん製なんですが、東芝さんのインド提携先が、このハイダラバードにあり、そこのインド人マネージャーに、チャール・ミナールを一枚撮って送って頂戴!とお願いしましたら、こんな画像を電送して頂けました。便利な時代です。
 
 
アジアでもバード大流行、バードフルー(Bird Flu)危機で、日本の皆さんも、十分に、お気を付け下さい。
 
21世紀は、Plague(伝染病)の世紀?
あっちゃ〜!(ヒンディー語で、そうだね!)
 
 
2004年2月8日(日)


インド通信笑うカワセミ少年H編L(ボンベイ)


KF読者各位
 
 
明日の晩は、社長が初めてうちの現場に来られるので、社長を囲んだ社員夕食会。明後日は、定礎式です。着工以来、1年11ヶ月。工事一区切りの行事となりますので、正直、嬉しいです。
 
 
式典段取りでは、もう山インドあり、谷インドありで、笑いの連続です。
 
ダム用の定礎石は、通常、日本なら、七五三の寸法(例えば、70cmX50cmX30cm)にカットされた大理石なんですが、インドでは、カルカッタの石屋さんからやっとこさ届きましたら、スライス食パンのように、なんと2cm幅で薄くスライスされてました。これを、接着材で重ねて、今から、七五三サイズにしなければなりません。う〜ん、目が点になります。
 
定礎石を運ぶ紅白綱も、ベンガル特産のジュート製の、ごわごわの綱が、赤黒く染められて届きました。慌てて、紅白布で上から覆いしました。これなら、130kgの定礎石も、本望でしょう。
 
 
式典のシナリオもほぼ出来上がりましたが、今回は、日本語と英語とベンガル語の3言語での司会です。鹿児島の京セラさんのホテルの起工式で、稲盛会長の前で、声が裏返ってから、もう十数回となる式典司会ですが、過去、顔は悪い、声は悪い、四国の場末のプロレス興行のリングアナ程度だと、きつい評点を重ねながらも、いまだにこの歳で、司会屋稼業です。せつな〜
 
 
 
さて、カワ通、ハイダラバードから、今回は一挙に、アラビア海に面したボンベイ(現ムンバイ)に飛びます。
 
デリーが、政治の中心なら、ボンベイは、経済の中心です。人口は1450万人で、インド最大の都市です。高層ビルが立ち並び、とても、同じインドとは思えません。インド独立の英雄、ガンジーの国民会議派(Congress)の活動開始の場所としても、ボンベイは有名です。
 
河童さんは、このボンベイ行の際は、インドで一番有名なホテル、タージマハールホテルに宿泊して、当時の絵を残しています。インドを中心に57ホテルを展開するタージホテルは、タタ財閥経営で、このボンベイのタージマハールホテルが、その発祥です。1903年創業ですから、もう101年。
 
このタージマハールホテルには、面白い逸話があります。タタ財閥の創業者、ジャムシェドジーNタタさんが、イギリス統治下の、ボンベイアポロホテルのレストランで、インド人であることを理由に、入店拒否され、それで、インド人が誰でもが入れるホテルを作ろうと思い立ったのが、このホテルなんだそうです。河童さんは、海の側から、旧館、新館を描いていますが、インド門の並びに、海に向って建設されており、実に壮観です。私は、2年半前に、1階をぶらぶら見学してましたら、豚のように追い払われました・・なして?
 
添付画像は、インド門です。イギリス国王ジョージ5世のインド訪問を記念して、1911年に建立されています。飛行機が発達する前は、イギリスからの国賓はすべてこの門から、上陸していたそうです。昨年の8月には、このインド門で、爆弾テロ、50名が亡くなっています。観光スポットは油断がなりません。テロは、死傷者の桁が一つ違うので、日本の皆さんは、びっくりされるでしょう。
 
 
タタ財閥で特筆されるのは、タタ一族が、インドで経済を握っているパーシー族であるということです。パーシーというのは、遠い昔、ペルシャから渡って来た色の白い民族です。彼らが信仰するのは、ゾロアスター教。日本では、拝火教と訳されているようです。炎を信仰しており、死ぬと鳥葬する民族です。河童さんも、ボンベイの『沈黙の塔』の絵を残しています。亡くなると、この沈黙の塔に安置され、鳥に突付かれて、空に返して貰うんだそうです。なんか、煙も出ないし、究極のエコですよね。私もインドでは、パーシー(ゾロアスター教徒)の知人は、一人しかいません。10億2千万人のインドですが、パーシー族はうん十万人レベルの超少数派なんだそうです。
 
 
おまけの画像は、タージグループからお借りしたのですが、1930年代に、タージマハールホテルの貴賓室で、マハラジャたちを集めて、会食しながら、インド帝国の統治について、相談していたイギリス高官たちの夕食の一枚。当時からもちろん、空調完備。明日の社長を囲んだ我らの社員夕食会も、キャンプのゲストハウスで、こんな感じになるのでしょうか?酔った勢いで、社長に、山抜けの直訴をする社員が出たら、即、ビール瓶で眠って貰いましょう。
 
 
Taj Mahal Tokyo は、ぜひ、当社で、丸の内辺りに、建てさせて頂き、定年後は、そこのナン職人で、TATAグループに雇って頂こうというのが、インドでのあたしの小さな野望です。会社にはまだ内緒です。
 
 
では、16日(月)の、定礎に向け、式典モードに切替えます。今から、司会の原稿を書かなきゃあ!
 
 
2004年2月14日(土)
 


インド通信笑うカワセミ少年H編M(アジャンタ)


KF読者各位
 
 
16日の定礎式も、好天に恵まれ、なんとか無事終了しました。所員も一丸となり準備作業しましたし、日本からはわざわざ社長にもお越し頂き、また、インド人ワーカーたち1200人にも、日本の伝統工事作法を見せれたし、本当に良い区切りの行事になったと思います。
 
ダム定礎は、ダム屋さん以外は、余り経験されていないと思いますので、このメールの最後に2枚、おまけで式典風景を付けておきました。
 
(定礎画像解説)うちは、ロックフィルダムなんで、ダムの中心には、水を通さない粘土のコア材(画面の赤い地面)が積まれ、外周りが岩積みになります。定礎石も、ダム軸(中心を走る深く掘られた溝)の中心に、このように据えられます。定礎石は、通常、原石山から取れた石を磨くようですが、うちの山は花崗岩Graniteで、石が研磨に堪えず、今回は、ラジャスタン州産の大理石で代用しました。石は130キロあり、紅白御輿で運びます。
今回の儀式では、この定礎石は、儀式中に、一度土中に埋納されますが、コア材にとっては、石は異物ですので、儀式後には、また掘り出され、工事竣工後は、管理棟などに、記念碑として飾られることになります。建築での定礎板とは、ちょっと、イメージが違うでしょ。
今回は、うちの法被も、50枚、大成新ロゴで、日本で作って持ち込みました。法被は、足が短く、腹も出た体形が丸い日本体形の方には似合うようで、うちのボスにはぴったりの衣装でしたが、私なんかにはちょっと似合わないなと思いました。
 
さあ、これから、この乾季、次の雨季、そして、次の乾季、雨季を経て、盛土作業が続き、来年7月には、待望の湛水開始です。
 
 
 
さて、前回のボンベイから、東に約400キロ、飛行機で約一時間入った、デカン高原に、インドを代表する遺跡があります。
 
アジャンタ、エローラ石窟寺院と呼ばれています。所員で、昨年5月に旅行した方が居られ、画像をいただけましたので、まず、壁画で有名なアジャンタからご紹介したいと思います。
 
1819年4月28日に、マドラス騎兵隊武官のイギリス人、ジョン・スミスが、大好きな虎狩りの最中に、一匹の虎を丘で見つけ発砲するも、弾は外れ、その虎が逃げた先を、望遠鏡で確認していて、蔦の茂みから、この遺跡を発見。以後、アジャンタの石窟群が世に知られることになったそうです。河童さんも、虎が逃げた跡を、点線で、描いていますが、中央の第10窟(アジャンタ最古で、紀元前2世紀の石窟)に虎は逃げ込んだようです。スミスが虎を撃った位置(今は展望台)から眺めたアジャンタの全景を河童さんも残されていて、それと、同じ画像がありましたので、添付してます。
 
アジャンタには、ワーグラー川河岸500mに亘り、展望台から向って右の1窟から順に、左の28窟まで石窟寺院が並んでいて、2枚目の画像は、第26窟(一番左手辺りの穴)の仏像彫刻です。非常に細かい彫刻で、当時のインドでの仏教の隆盛が忍ばれます。大乗仏教の影響を受けた6世紀の作品だそうです。
 
紀元前2〜1世紀に上座部仏教の影響下で、河岸中央部の石窟が掘られ、しばらく廃れて、5〜6世紀ほどのブランクの後、紀元5〜7世紀に、今度は大乗仏教の影響を受け、左右に石窟寺院が広がっていったようです。当時、デカン高原で勢力を誇ったヴァーカータカ帝国の後援で5世紀頃にアジャンタは隆盛を迎え、この帝国の崩壊とともに、寺院群も放置され、僧も霧散し、そこから、千年以上の長い眠りについて、スミス氏の発見まで忘れ去られていたようです。なかなか痺れるお話です。
 
3枚目は、第1窟(一番右手の穴)の壁画で、蓮華手菩薩。おっ、これは!?どこかで見た!そうです、法隆寺金堂の菩薩壁画のオリジナル絵画と言われていて、日本の小学校の教科書でも、皆さん、ご覧になっているはずです。これも6世紀頃の作品。
 
こうした壁画の色粉は、赤や黄が砂土、緑が植物、黒が炭、青はペルシャから渡って来た染料と言われています。高温多湿のインドで、こうした壁画が現代まで当時のままの色彩で残るのは、極めて稀で、デカン高原の奇跡とも呼ばれているようです。
 
 
インドから日本に来てるものは、カレーや紅茶だけでなく、菩薩さんも、そうなんですね。インドで仏舎利(仏陀の骨が納められている)を意味するストゥーパという言葉も、日本へは、卒塔婆(そとば)として伝わり、今は日本のお墓で活躍しています。
 
私は、四国松山人ですから、真言宗なんですが、毎朝、カトマンズから来た木彫りの仏陀に水を掛けて、その日の安全を祈るようにしています。が、最近は、お陀仏の日も多く、ゲン直しの必要を感じています。休暇が待ち遠しい!
 
 
2004年2月22日(日)







インド通信笑うカワセミ少年H編N(エローラ)


KF読者各位
 
  
気温がぐんぐん上がって来始めました。昨日なんか午後3時で35℃です。
 
2月は、スト月間で、3日と24日と2回の全州ストがありました。交通が止まり、現場作業も中止となります。西ベンガルは、インド共産党マルキスト派が政権を握る数少ない州ですので、スト破りは、車に投石されたりしますので、我々も、山奥とは言え、西ベンガル作法に従うようにしています。
 
 
現場での数少ない楽しみに、DVDの回し見があるのですが、『劇的紀行 深夜特急』が手に入りましたので、楽しんでいます。1996〜98年放映のテレビ物ですが、沢木耕太郎の小説とは、脚色が若干違いますが、その素晴らしい映像で、小説と並び、ファンが多いようです。主演大沢たかおで、カルカッタの安宿の2階からドラマは始まっています。ラクソール、デリー、バラナシ、カジュラホ、アムリトサル、ブッダガヤなどのインドの光景は、撮影時からは、もう8〜9年になるのでしょうが、今もほとんど変わらないと思います。恋人役は、松嶋菜々子でしたが、彼女が恋人なら、オレだって、デリーからバスに乗って、陸路で、ロンドンに向うかもしれません。でも、高見盛になら、簡単に感情移入、自己投影できる私も、大沢たかおには、なぜか、で・き・な・い・・・なして?って、今、考えています。
 
 
 
さて、前回のアジャンタに続き、今回は、エローラの石窟寺院です。この二つの遺跡は、約130km離れており、千年余の眠りについていたアジャンタとは違い、エローラは、聖地として、埋もれることもなく、インド人の信仰の対象として、今日に至っています。
 
エローラ石窟寺院は、全部で34窟で構成され、1〜12窟が7〜8世紀頃の仏教寺院、13〜29窟が9世紀頃のヒンドゥー教寺院、30〜34窟が10世紀頃のジャイナ教寺院の組み合わせになっています。仏教寺院には、お釈迦様が、ヒンドゥー教寺院には、シバ神、ヴィシュヌ神、ドゥルガ神とかのヒンドゥー教の神々が、ジャイナ教寺院には、・・・・、あれっ、ジャイナ教って、なんじゃいな?、私には説明できる知識がありません。今、スタッフに聞くと、ぺらぺらぺらで、何やらわかりませんので、辞書引くと、二元論的禁欲主義の宗教、インド起源、紀元前6世紀とあります、なんじゃいな。うちのスタッフにも何人か、ジャイナ教徒が居るらしいので、今度聞いてみよう。
 
 
エローラ石窟寺院で、一番有名なのが、添付の画像です。河童さんは、正面から描いています。第16窟で、カイラーサナータ寺院と呼ばれています。ヒンドゥー教様式の石造寺院です。
 
カイラーサナータ寺院は、奥行81m、幅47m、高さ33mのスケールがあります。岩山を上から彫った寺院です。岩山を、上からノミで、くり貫いて、建造されています。建造という言葉はそぐわないかもしれません。う〜ん、彫刻?
 
河童さんの本には、カイラーサナータ寺院は、奈良の大仏と同じ時代の、757年に掘り始め、975年に完成とありますので、実に218年かかっています。岩山の上から、こつこつと、鑿で、下に向って、こうして、親の代、子の代、孫の代、ひ孫の代、と、掘り進んでいくのです。なんか、インド人って、凄い民族ですよね。
 
 
添付画像は、昨年5月撮影の頂き画像ですが、上から見下ろしたものと、下からのもの。台座の象の彫刻も、タイとかに影響を及ぼしたのではないでしょうか。生眼で見ると、感動するぐらい、凄い!らしいです。
 
 
河童さんの文章にこんなのがありますので、インドでの宗教史を上手く表現していますので、ご紹介してみます(河童さんをエローラに案内したガイドさんの言葉を、河童さんが、書き残しています)。
 
『仏教は、インドでは8世紀を過ぎる頃からダメになっていったのです。仏教の教えは、沢山の人々には難しく、言葉もサンスクリットの言葉で勉強がいります。新しい宗教のヒンドゥー教は、難しくなかった。だから、信者が増えました。それに、ヒンドゥー教は沢山の神さまがいて、自分の好きな神さまを何人拝んでもいい。そんなことも自由でした。仏教のお釈迦さまも、ヒンドゥー教の神さまの一人に入れられていたので、仏教徒がヒンドゥー教徒に変わっても、いままで通り、ブッダを拝むことが出来たし・・・ヒンドゥー教は、色々な人たちの居るインドで、全部OKの便利な新しい宗教として、パワーが強くなっていきました。』
 
多様とカオス(混沌)と、表現されることが多い、我がインドを、これも見事に表現したガイドさんの言葉だと思います。
 
  
おっと、2月もあっという間に逃げちまいました。うちの所員にも、受験期の子供さんを抱える方もおり、桜が散ったり(東京)、青葉が繁ったり(東北)、蛸焼きが焦げたり(大阪)、モツ鍋が煮えたり(九州)、海老フリャ〜が皮だけ(名古屋)、ススキノで待つ(北海道)、割れた八つ橋(京都)と、各地で、泣き笑いの季節が続いているようです。親父は単身赴任だが、受験生のガキども、今を、しっかり頑張れよ〜!
 
インドは、今年も、Flame of the Forest (ハナモツヤクノキ=森の炎)が、開花し始めました。デジカメがボロで上手く写せていませんが、この森の炎のオレンジの花が、村の至るところで見られるのが、3〜4月です。5月には、この花の蜜が、村で出回ります。
 
最後は、建設中のパルレンガの2階部床から撮影した一枚です。森の炎のさらにその向こう右手に見える山の2つの建屋は、三菱重工さんの導水管組立工場。この向こうに、Penstock Tunnelへのアクセストンネルがあり、48°の斜坑に入っていけるようになっています。奈落を連想させる怖い270mの斜坑です。48°の角度で水を270m落とすと、90万KWの発電。うちの所員が身を削りながら年中無休昼夜作業で掘った斜坑です。カイラーサナータ寺院に負けず劣らずの作品ですので、近々、ご紹介しましょう。
 
では、ごきげんよう!
 
 
2004年2月28日(土)




インド通信笑うカワセミ天竺職業編O(森の番人)


KF読者各位
 
 
カワ通シリーズWインド周遊の旅、少年H編も、Sで打ち止め、今月末には、愛する家族の待つ日本での休暇に入りますので、あと5本だけ、お付き合い願います。
 
 
最近、現場で嬉しかったことの一つに、シャツの襟の補修があります。
あたしの体形には、法被も似合わないし、大沢たかおのようにジーパンも似合わない、どちらかといえば、土建業というガチンコ業界で生き抜く高見盛型体形なもんですから、市販されているものでは、サイズがなかなか合わない。
で、たまたま全体最適でサイズがなんとか合って長らく愛用して来た縦縞シャツの襟が、使用と洗濯とアイロンで、完全に擦り切れボロボロになって来たんですが、捨てるに忍びなく、うちの出入りの村の仕立て屋ナエム君に、補修を頼んだら、擦り切れた箇所が縫い合わされて戻ってくるぐらいだろ〜と思っていた襟が、サラピンで戻って来て、もう感激しました。
凄い手技だと、よ〜く観察しますと、一度襟全体を解(ほど)いて、裏表を入れ替えて、縫製し直して呉れてたのでした。
期待以上がやって来ると、何か、得した気持ちで、嬉しくなりますよね。CSの精神です!
 
 
また、さらに、別に嬉しかったと言えば、昨日のお昼は、牛丼でした。
今の時期、日本の皆さんに、インドで牛丼を食べてるなんて申しますと、ほんと顰蹙を買いますの、これは内緒です。
日本の吉野家、松屋ファンの皆さん、インドで贅沢してすいません。
ここインドでは、鶏ウイルス(Bird Flu)もまだ発見されていませんし、やはり、半端な菌は、生きてはいけない国なんだと思います(わしらは、極悪菌保有者!)。
 
 
おまけで、これも、内緒で、カワ通読者だけに、こっそり。
インドと言えば、優秀なインド人の部下が70余名(うち、住宅建設班20名、肩揉み隊2名、コック5名、洗濯班4名、食材調達隊2名、掃除班3名、運転手25名、警備隊12名などなど)、牛丼は食い放題、空気は最高、夜空はロマンス、運転手付き、休暇は飛行機、貢物(村のピーナッツや野生動物・・)随時沢山有り・・・どうですか、この好条件な、お・仕・事!
今、ヤフーのオークションで、出品してますので、公募→大成→インド→事務センター長で、検索して、奮って落札してやって下さい。最低落札価格なんて、ちんけな事は申しません。1円からの応札が可能です。
落札して下さった方、インドから、お迎えにすぐ参上します。
ただし、冷やかし防止のため、落札後のキャンセルには、ヤフーのシステム利用料3,980円をご負担頂きたいと思います。
オークションは終了間際まで、粘って、終了直前に勝てる高い札を入れるのがコツ。このインド事務センター長は、男はマハラジャ、女はマハラニ気分になれるし、超お買い得ですよ!
 
 
 
さてさて、今回は、南インドのバンガロール。マドラスの西300kmの高原都市です。カルナータカ州の州都で、北緯13°、大体、バンコクとかの並びです。
 
バンガロールは、今、IT(インフォメーションテクノロジー)の旗手として、インドの代名詞のようになっていますが、私はまだ行ったことがありません。日系企業では、トヨタさん、日清食品さん、電通さんなどが、バンガロールには進出しておられるようです。
 
トヨタさんは、今のカローラと、クオーリスという昔インドネシアでキジャンという名で売ってた2車種を製造中、日清さんは、もちろん、インド風カップヌードル2種を製造中、そして、電通さんは、これら日系企業の広告を主にご担当されているようです。
 
 
河童さんは、本の中で、宇宙研究所、地域開発研究所などを紹介していますが、河童さんが訪印された当時から、バンガロールは研究都市として有名だったようです。牛糞ガスの発生装置、火を使わないでレンガを焼く方法、足踏み式の脱穀機などの研究が、河童さんの本で紹介されています。当時は、これが、ハイテク?!
 
 
本社から預かり鍛えている事務研修3期生に、インド突撃旅行で、IT企業の雄、バンガロールのSatyam(サティアン社)を訪問させ、その際、街の画像を、撮って来て貰いました。
 
3枚、どうぞ! 
 
河童さんの描かれた絵とはちょっとイメージが違いますが、どうです、南インドって、すっごく、からっと乾いて、明るく、風が抜ける感じでしょ。
 
では、良い週末を! Have a nice weekend !
 
2004年3月5日(金)


インド通信笑うカワセミ少年H編P(プルリア)

KF読者各位
 
 
6日は、ホーリー祭、今年も、色とりどりの粉で、インドカラーの洗礼を受けました。これで、私らのツキも好転するでしょうか。
 
 
河童さんが、インド紀行の中で、我がプルリアを訪れているはずもなく、河童さんの絵はないのですが、海外の建設現場って、こんなことをやってますという意味で、今回は、少年H編、脱線しますが、現場写真を使って、うちのプロジェクトの紹介をしたいと思います。たまには、仕事をしてるところもお見せてしておかないと、バカ通になってしまいますし。
 
 
プロジェクトの全体のイメージがわかるのが1枚目のヘタウマ系のこの壁画。施主(西ベンガル州電力公社)の管理棟玄関を飾っています。ここバグムンディ村のペンキ屋さんが描いたそうです。
 
2つの川を堰き止めて、ダムを上下で2つ作り、これらのダムに貯水して、上ダムから、地下発電所に水を落として、90万キロワットの発電をして、西ベンガル州の各都市に、電力を供給します。下ダムの水は、夜間の余剰電力で、また上ダムにポンプアップされ、繰り返し発電で使われます。うちの現場の標高はそうでもなくて、下ダムが標高220m、上ダムが標高550m程度です。プロジェクトの全体設計は、日本の電源開発(Jパワー)さんです。
 
 
2枚目が、上ダムの全景。ダム軸に、赤粘土のコア材が敷き詰められているのが観察出来ます。これから、さらに盛り立てていき、最終的に、高さ70m、堤の長さ1500mの上ダム(ロックフィル型ダム)が出来上がります。写真の左手が、湛水湖側になります。
 
 
3枚目は、下ダムです。撮影している側が、湛水湖側になります。画像中央に、まだ、盛り立て開始前で低いですが、下ダムが白く写っています。高さは95mまで上がります。堤の長さは310m。これも、ロックフィル型ダムです。画像の手前の構造物が、Tailrace TunnelのOutletです。ここから、上ダムからの発電後の水が放出されます。下ダムの底の構造物ですから、もちろん湛水後は水面下に沈みます。朝霧漂うベンガルの大地が、向こうに。空気が澄んで美味そうでしょ。
 
 
4枚目は、我々が斜坑と呼んでいる、導水路トンネルです。270mが2本あり、48°の傾斜は、プルリア発、奈落の底行き、をイメージさせ、思わず腰が引けます。スキーのお好きな方は、48°で、270mの大滑走をイメージして下さい。おお、こわ。径は、約9m。ここに導水管を通したあと、コンクリートで巻きたて、その導水管を使い、ど〜んと水を落として、下で待つ4機の発電機のタービンを回して、90万KWを出力させます。
 
斜坑は、まず、パイロットトンネルを、以前ご紹介したインドネシア人のバタック族チームが、落ちて来る岩にもめげず、下から手掘りでまず貫通させ、このパイロットトンネル貫通後は、今度は、上から機械掘りで、掘り落としていきます。バタック族13名も、事故なしで(落石を物ともせず)、13本の斜坑、立坑のパイロットを見事貫通させ、今月2日に、無事、故郷インドネシア・スマトラ島に帰任しています。
 
この斜坑の先で、パワーハウス(地下発電所)の大空間(長さ157m、高さ48m、幅25m)を掘削中ですが、LOT-6-1の東芝さんの発電機4基が入るのは、まだまだ先の話です。
 
 
5枚目。斜坑の中には、この導水管が、セットされます。Penstock(水圧管)と呼ばれています。LOT-5の三菱重工さんの担当で、上ダムにある組立ヤードで組まれています。重工さんは、神戸造船所チームで、全員虎ファンの、阪神と共に生きる異常な集団です。タイガース、今年も好調のようですので、重工さんも、春から出来高の急激な伸びが期待出来そうです。
 
 
6枚目は、溶接中の導水管。作業しているインド人と比較していただくと管の大きさが良くわかりますが、径は約8mあります。導水管の鉄板は、すべて神戸から輸入されています。
 
 
最後7枚目は、ダム工事の女人夫さんたち。頭の上に荷物を載せて運ぶのがインド式ですので、インド製のヘルメットはこうなります。なかなか、おちゃっぴいなドカヘルでしょう。仕事着は、もちろん、サリー。
 
 
これで、やっと出来高43%。乗り込み以来2年と8ヶ月、着工命令以来2年の汗と涙と笑いの結晶です。で、残工期も、35ヶ月。来年の7月には湛水開始です。今年が大勝負。いやあ〜、インドの工事は、心身共に、痺れます。
 
えっ、LOT-4の大元請のはずの大成のマークが、現場のどこにもないって?
大成の桜は、岩ば割って咲ぐ、大成の辛夷(こぶし)は、北さ向いても咲ぐのす。わすらは、さりげなく、インドのこの辺境の地に、工期内で、ダムと発電所を完成させれば、それで良がんす。
 
いけねえ、最近、壬生義士伝の読み過ぎで、浅田次郎さんの文体を真似てしまった。
 
 
2004年3月7日(日)


インド通信笑うカワセミ少年H編Q(カルカッタ)


KF読者各位
 
 
カワ通Wも終わりが近づいて来ました。撮りたての画像で、あと3本で、締めたいと思います。
 
 
深夜特急のDVDの特典で、3枚目に、沢木耕太郎のインタビューがあり、インタビュアーからの、この旅で面白かった都市を順に上げると?の質問に、沢木さんが、「そうですね、まず、香港、そして、カルカッタ、で、イスタンブールの順ですね」と答えていて、3つの都市で、カルカッタしか行ったことがない私ですが、沢木さんの、「そして」発言に、いつも、猛烈な排気ガスの中、人波を掻き分けて歩いているあの街が、なぜかいとおしく、かつ、なんか得した気分になれました。沢木耕太郎ミーハー病とでも言う奴でしょうか?
 
 
河童さんも、カルカッタから、この河童が覗いたインドの旅を、スタートされておられます。1978年のことで、当時、河童さんも48歳ですが、旅行の期間も1ヶ月半の長旅でしたから、当時のインドで、さぞや大変だったことと思われます。
 
文庫の書き出しも、「カルカッタの空港で、荷物を受けとったら、すでにカメラのストロボと目覚まし時計が盗まれていた・・・」ですから、なんでも起こりそうな、あのカルカッタ空港を知る者にとっては、笑えます。
 
 
さて、先週は4ヶ月ぶりでカルカッタに出て、街の風景を拾って来れましたので、6枚ご紹介したいと思います。
 
河童さんが残されている当時の風景は、カルカッタでは、今も街の至るところで目にすることが出来ます。19世紀にタイムトリップしたような気持ちに簡単になれる、お得なカルカッタの街です。
 
 
1)赤バイに切符を切られている2人
エンフィールドの350cc。キャプトンマフラーからのタンタンタン・・・という排気音に、痺れます。インド交通警察は、赤バイです。多分、単車の二人乗りで、後部座席の人がノーヘルで、切符なんでしょう。単車も、3〜5人乗りはザラなインドですから、不運な二人?
 
 
2)カルカッタ国立博物館前の手相見
インドにもちゃんと手相占いが。生命線(life line)、頭脳線(head line)、感情線(heart line)・・・あ、あ、あれ、おれ、頭脳線が、ないじゃん!
 
 
3)パークストリートでキリスト像を描く路上画家
インドは、ヒンドゥー教の国ですが、宗教的には自由ですので、少数派ながら、クリスチャンも居ます。バクシーシ(喜捨)!と来ましたので、2ルピーで拝観しておきました。
 
 
4)チョーロンギ通りの、路上野菜天ぷら屋
日本のごぼう天を、イメージして下さい。新聞紙で包んで渡して呉れる揚げたては、十分にいけます。路上の埃も、カルカッタでは、スパイスの一種?
 
 
5)銀行街のオート三輪と椰子の実リヤカー
テンポ社製のディーゼル3輪車。パタパタパタ・・・と、黒煙を吐きながら走ります。運転手は昼寝中。椰子の実は、これで、端をカットされて、日常的なドリンクとして供されます。
 
 
6)地下鉄駅の入り口のチャイ屋
インドのチャイ(甘いミルクティー)も、この素焼きのカップで飲むと、土の香りがほんのりして、格段に美味くなります。飲んだ後は、地面に放られて、粉々に。この飲み方、なぜ、日本で流行らないのでしょう。素焼きのカップを割るたびに、人生が自由になるような気がします。
 
 
 
多様と混沌(カオス)。インドの代名詞のように言われてきた旧帝都カルカッタも、近代化の波を受け、この3年で、大分、きれいになって来ました(・・・でもないか)。
 
人には、それぞれ、職業があり、そこに生活があり、家族があり、友人がありと、カルカッタの雑踏を歩く度に、デラシネ(浮き草)のような自分の今の人生をはかなみ(儚み)、日本の家族を想い、鼻の巣を真っ黒にしながら、道の凸凹に躓き、牛の糞を踏みつけて、望郷の念に浸るのでした。
 
 
暑季前で、プルリアもだんだん暑くなって来ました。今日も、35℃は越えるでしょう。
 
2004年3月13日(土)
 

インド通信笑うカワセミ少年H編R(続カルカッタ)


KF読者各位
 
 
だんだん気温が上がって来ました。昨日も午後3時で、38℃。うちの食堂では、もう、冷やし中華を出してしまいました。スイカも先日、市場で見つけてきて出しました(でも、まだ全然、熟れてなかった)。4〜5月の、50℃の暑季に合わせて、体調を今から整えておかねばなりません。
 
 
日本の大学院で、インドにおける日本語教育を研究されている、インド通の先輩(人妻)から、面白いメールを頂きました。一緒に語学研究をされている中国人の友人からのコメントなんだそうです。
 
「フランスの南部に住んで、アメリカの給料をもらって、日本人女性が妻で、毎日中華料理を食べる」生活は、最高。 う〜ん、中国では、日本人妻の評価が、かくも高いのですね、素晴らし〜い!
 
その逆のパータン。
「フランス人の妻をもらって、毎日アメリカの食事で、日本の家に住んで、中国の給料をもらう」生活。え〜っ、中国では、フランス人妻の人気が余り高くないのか?
 
この2つに、くすっと笑いましたので、さて、ここで、私なら。
 
「インド人の妻を貰って、毎日インドの食事で、インドの家に住んで、インドの給料を貰う。」 痺れますねえ。 インド人の女性というのは、美人で、才気煥発で、おちゃっぴだし、いつもしゃべってるし、なかなかお奨めかもしれません。いつもサリー着用なんで、太らせがいもあります。
 
おまけで、自分の過去の生活地を散りばめ、極めつけ!
「松山に住んで、東京の給料を貰って、薩摩女が妻で、毎週末は広島に舟で鯛を釣りに行き、仙台の岩ガキをたまに取り寄せ、博多の辛子明太子で、お茶漬けする。」 どうです、これなら、100歳まで軽く生きられそうでしょ。
 
 
 
さてさて、今回は、カルカッタの続編ということで、Rを。
 
カルカッタを流れる河は、ガンガー(ガンジス河)の支流のフーグリ河です。ガンガーの支流ですので、もちろん、河水は、聖地バラナシを経由した水で、やはり、カルカッタでも沐浴が盛んです。
 
画像の1枚目は、アルメニアンというガート(沐浴場)から撮りました。
 
このフーグリ河を、撮影側のカルカッタ地区と、対岸のハウラー地区を結んでいるのが、ハウラー第1橋。フーグリ河の幅は、7〜800mぐらいです。朝の通勤で、大勢の人が橋を渡って来ているのがかすかに見えると思います。橋の上、もう凄い人波なんです。小型フェリーも写ってますが、船での対岸渡しも盛んです。零れ落ちそうなぐらい船にも乗ってます。この朝の湧いてくるような人、人、人・・・・、カルカッタです。
 
ハウラー第1橋は、1943年竣工。日本軍のビルマ侵攻に危機感を持ったイギリス軍にて、建設され、当時は武器輸送用の橋でした。そうです、インパール作戦ですね。
 
ハウラー第1橋は、Cantilever Bridge(片持ち梁橋)としては、長さ705m、高さ97mで、世界最長のCB橋とのことです。
 
フーグリー河には、近くにもう一本、さらに巨大なハウラー第2橋が架かっており、これは、1980年代竣工のCable Sustained Bridge(吊り斜張橋)です。
 
カルカッタは、この2つの橋を一望に見ることが出来ますので、橋フェチの方には、こたえられないと思います。
 
 
 
このハウラー第1橋のカルカッタ側の付け根に、マリガート花市場があります。
240店の店舗(掘っ立て小屋)に、約千人と言われる売り子。お供え用のガーレン(花輪)が、どんどん、売れていきます。カルカッタ観光(えっ、そんなもんあるの〜?)では見逃すことの出来ないポイントです。
 
マリーゴールドを束ねたこのガーレンは、一つ、25ルピー(約60円)。ヒンドゥー教の神様へのお供え物として欠かせません。もちろん、ガーレンは、その日のうちに売り切らないと、日持ちするものではありませんので、午前7〜8時頃の、この市場の活気のあることと言ったら。圧倒されてしまいます。
 
 
1912年まで、英領インドの帝都でしたカルカッタですが、デリーに首都を奪われ、早や90年。凋落の都と言われて久しいですが、今も、インド共産党の基盤都市でもあり、この5月10日のインド国民総選挙でも、経済発展を訴える現バジパイ政権のBJPも、手が出せないエリアとして、今後も、さらに、凋落を続けていくのでしょうか。議論は好きだが、変化には戸惑うベンガル人とカルカッタというところでしょうか。
 
はい、では、よい週末を! 来週で、河童さんの素晴らしい絵をお借りして、回を重ねて来た、カワ通少年H編もお仕舞いです。さあて、Sは、なんでしょうか。
 
 
2004年3月19日(金)


インド通信笑うカワセミ少年H編S(鉄道の旅)


KF読者各位
 
 
明日、3月22日は、国連が定めた『水の日』です。ご存知でしたか?目先の土工事のことばかり考えないで、マクロで物を考えろと、本部の方が、岩波新書の『地球の水が危ない』(高橋裕著)を送って下さいまして、最近、読んでいるのですが、この本には、私たちの勤務地のインドの水不足のこと(人口急増の過剰汲み上げで、地下水の水位がどんどん下がっていってます)、ここ西ベンガル州の砒素混じりの地下水のこと(この州の東部方面の水には、天然の砒素が混じっており、問題視されています。最近のインドが、格段に痺れるのは、このせい?)、あるいは、洪水のこと(バングラデシュや西ベンガル州は、一度の洪水で、数百人単位で亡くなります)などなど、高橋教授、世界各所の水問題の中で、インドの水問題も取り上げて下さっていて、とても嬉しいです。ちなみに、インドは硬水なんで、軟水に慣れた日本の方は、大抵一度はお腹を壊します。
 
 
 
さて、カワ通、第4集は、ここまで、妹尾河童さんの、『河童が覗いたインド』の文庫本を、ばらしながら、進めて来ました。ブックオフ社が上場したりと、著作権問題が賑やかな日本ですが、作家の権利を守ることも当然考えねばならず、こうしたページコピーが著作権法に違反することは承知の上で、文庫を出している新潮文庫、講談社文庫さんへは、カワ通で、興味を持ったKF読者が、何人か新刊で買って呉れたかもしれませんので、お赦し頂こうと思います。ちなみに、私も、ばらした新潮文庫1冊は、新刊で買ってます(1冊じゃあ、ダメ?)。本が売れない時代ですからね、作家も大変です!
 
 
今回、河童さんのこの素晴らしい旅行記から、最後にばらすことになったのは、インドの鉄道の旅の箇所です。河童さんも、こう書き出しています。「南インドに来た目的がまるで『汽車』に乗ることであったかのように、あちこちで、嬉々として乗った」
 
この文庫の中には、『鉄道の旅』と『タージ・エクスプレス』の、鉄道二編が組み込まれています。宮脇俊三著「インド鉄道紀行」と同様、鉄道ファンに、この河童さんの本が今も根強い人気があるのは、その鉄道旅行の、車内、車外の詳細画図と、微に入り細に入った文章表現です。列車の振動も伝わってくるようなリアルな文章は、何度読んでも飽きが来ません。
 
 
河童さんの説明によると、日本で初めて汽車が走ったのが、明治5年(1872年)で、インドは、さらに19年遡って、1853年で、アジアで最初だそうです。当時の英領インドの位置づけがよくわかります。
 
 
私も、先日、カルカッタに出た際に、鉄道写真を撮って来ました。
 
パンジャブ州では、一度だけ、走っている蒸気機関車を眼にしてますが、カルカッタでは、ディーゼル機関車と、電気機関車がメインで、蒸気機関車は、駅や博物館に、任務を終えて飾られているのしか見たことがありません。
 
 
さあて、6枚、ご紹介します。
 
1)ジャムシェドプールのタタナガール駅のスチール号
ジャムシェドプールは、TATA(タタ)製鉄の街ですので、電気機関車の名前も、Steel Express と言います。撮影は、夜明けでしたが、朝の6時10分始発で、カルカッタのハウラー駅に向けて、出発します。タタ駅〜ハウラー駅間の約250キロを、4時間半で走ります。
 
2)スチール号の一等車内
黒服が、車掌さん(Ticket Checker)で、絶対権力者。煙草を吸うと、100Rsの罰金(Fine)です。飲酒もご法度。赤服は、給仕(Steward)で、ちょうど、プラスチックカップのチャイを販売しています。一等は、ぎんぎんに冷房が効いていて、ビニールシート席で、ハウラー駅まで、260ルピー(650円)。席は、一応、コンピューターで管理されていて、事前予約制です。チャイは、8ルピー(20円)。
 
3)スチール号の二等車内
スチール号の2等は、ベンチシートですから、おケツが、なかなか痛いです。ぎゅうぎゅうに座ります。隙間に、皆がお尻を詰め込んで来る感じです。ハウラー駅まで、70ルピー(180円)。こちらの車両では、同じチャイが5ルピー(13円)です。
 
4)スチール号の厨房車(Pantry Coach)
インドの列車脱線事故で、一発で大勢の人が死ぬのは、こうして、揺れる列車の厨房で、ガス火で、油を使って、カツレツを揚げているから。簡単に火災になります。手前から順に、オムレツ(焼き)、カツレツ(揚げ)、トースト(炙り)の調理作業中。
 
5)ハウラー駅のムンバイ行きのギタンジャリ号
Gitanjali Expressは、寝台列車です。27両連結ですので、550mぐらいの長さがあります。ハウラー駅を午後1時半に出て、4時間で、タタ駅(ここから、ジープ2時間半で私たちの現場です)。タタ駅からさらに、西に28時間走ると、アラビア海に面したムンバイ(ボンベイ)です。うちの作業所でも、そこまで、寝過ごした猛者は、まだ居ません。
 
6)ギタンジャリ号からの線路とベンガルの大地
インドは、ブロードゲージと呼ばれている広軌ですから、1676mm(日本の新幹線は、1435mm)。河童さんによると、1000mmのメーターゲージに、さらにあと2種類の狭軌(600mm程度)が、インド鉄道にはあるそうです。インドの列車は、乗り降りドアは、走っていても、自由に開けられますので(違反だけど、簡単に開きます)、途中で飛び降りれば、キセルが可能です(痛いけど、着地の時に)。
 
 
以下、インド鉄道ネタを。
 
@海外現場では、空港から車で、サイトまで直接、人を入れる現場がほとんどだと思います。そのほうが、赴任者が逃亡しないし、事務としては、管理が楽だからです。ところが、うちは、カルカッタ空港で車→ハウラー駅で列車→タタ駅から車で、現場乗り込み時は、この乗り継ぎに、所員が慣れず、大変でした。列車の券も、駅の券売所でインド人たちの行列の中で、買える猛者はまだ何名かで、事前に、乗車券を準備するようにしています(社員に過保護かな?)。
 
Aうちの現場には、二人のお嬢さんを、ひかりちゃん、のぞみちゃんと名づけている土木社員が居ます。でも、別に、鉄道フェチでも、国鉄関係のお家でもないそうです。
 
Bハウラー駅〜タタ駅間で、ギタンジャリ号が、途中一回だけ止まる駅が、カラプール駅です。ギネスに世界一プラットホームが長い駅として載っているそうです(と、駅の壁に書かれています)。インドでは、石炭や鉄鉱石の大量輸送で、40両ぐらいの連結はザラですから、このギネス記録というのも、あながち大法螺でもないような気がします。
 
Cタタ駅から、うちの現場に辿り着くまでに、6つの踏み切りがあり、これに、何回止められるかで、運勢占いするのが、うちの現場の所員のささやかな楽しみです。6回すべて止められると、ケンシロウから、お前はもう死んでいる・・と言われるのです。あたたっ・・・・
 
Dインドでは、車内で煮炊きをするのは、禁止です。インド人は、携帯コンロで、チャイとか、カレーとか、車内で作りたがりますが、脱線の時に、車両火災に繋がりますので、見つかると罰金です。
 
私は、別に鉄道ファンではないのですが、インドで仕事をするうちに、鉄道ネタが少し増えました。
 
 
 
うちの会社の海外で働く仲間たちのネットワーク網を作ってみようの意図で配信を始めたカワ通も、海外勤務者には反応は少なく(もう当り前過ぎて?)、むしろ、国内勤務者のほうの受けがよく(明日はわが身?)、しこしこ配信を続けるうちに、脱線に脱線を重ねて、こんなインド通信になって、これで、86本目になりました。
 
第1集は、笑うインド編、第2集は、ちょっとまじめに、現場運営編、第3集は、天竺職業編、で、この第4集が、河童さんの絵と文章をお借りしての、少年H編でした。
 
インドで遊んでいると思われるのが、日頃の不徳のなせるわざで、悲しいのですが、第5集も、休暇明けから、再登場させますので(おい、おい、おい、おい、本気かよ〜!)、宜しくお願いします。文章は読まず、インド画像だけを楽しむのが、この駄文通信と、つきあうコツ(Knack)です。
 
以上で、少年H編、完です。
4ヶ月に渡り、笑門来福に、ご協力頂き、ありがとうございました。
皆さんからの返信が、嬉しかったわ。
 
 
2004年3月21日(日)

 

インド通信笑うカワセミ編 4/4 (完)

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