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 感動写真集

2009年10月27日改訂

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♪ Suita din Tara motilor - Zvoanele

ドラキュラの五月雨なりやブラン城   北舟

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Bran Castle, it might be an early summer rain of Dracula.

2009年10月27日制作

雨に濡れるブラン城の中庭

雨に濡れるブラン城の中庭(ルーマニア)

ルーマニア

ルーマニア国旗

世界文化遺産

ブルガリア・ルーマニアの旅

ドラキュラ

  ▼ 「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとして名高いブラン城は、ブラショフから30kmほど離れたところにあり、ツアーバスで向かう途中、にわかに空がかき曇り、不気味な雨に見舞われてしまった。ドラキュラ城の見学にふさわしい天候に期待が膨らんだ。車窓から見えた農家は、この地方の典型的な建築様式だという。

この地方の典型的な農家

この地方の典型的な農家

  ▼ ブラン城はブチェジ山麓に位置するブラン村の山上の岩にそびえ立つ典型的な中世の城砦である。現在、城の4層が博物館となっており、陶器や家具、武器や甲冑のコレクションが展示されている。

ドラキュラ城のモデルとされるブラン城

ドラキュラ城のモデルとされるブラン城

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  ▲▼ ブラン城は、アイルランドの作家ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」に登場するドラキュラ城のモデルといわれ、また、ドラキュラのモデルは、15世紀のルーマニア、トランシルバニア地方出身のワラキア公(ドラキュラ公)ヴラドIII世(ヴラド・ツェペシュ)とされている。

写真下は、2万人のオスマン・トルコの兵士を捕らえ、串刺しの刑を科したとされるヴラド・ツェペシュの肖像画。

ヴラドIII世(ヴラド・ツェペシュ)

ヴラドIII世(ヴラド・ツェペシュ)

▲ しかし、実際のところ使われているのはドラキュラというヴラドのニックネームと、出身地が現在のルーマニアという点だけである。近年の研究では、ヴラド・ツェペシュは、実際にはこの城には全く住んでいなかったと考えられており、居城としていたのは彼の祖父であるヴラド I 世(ミルチャ老公)だという。  

ブラン城の見学にやってきた子供たち

ブラン城の見学にやってきた子供たち

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 ドラキュラ(Dracula)は、イギリス時代のアイルランド人の作家、ブラム・ストーカーの恐怖小説「吸血鬼ドラキュラ」(1897年)に登場する男性吸血鬼(バンパイア)で、現在の日本では、吸血鬼一般を表す言葉として使われることが多い。ドラキュラは、ルーマニア語で「ドラゴンの子供」「悪魔の子」という意味で、小説執筆時は、「不完全な死」という題名だった。  

怖そうに見学する子供たち

怖そうに見学する子供たち

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 1958年、イギリスのハマー・フィルム・プロダクションにより映画化された「吸血鬼ドラキュラ (原題:Dracula アメリカ公開題名: Horror of Dracula)」は、ホラー映画史上屈指の名作として名高い。  

雨に濡れるブラン城の中庭

雨に濡れるブラン城の中庭

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  ドラキュラの五月雨なりやブラン城 北舟 

どらきゅらの さみだれなりや ぶらんじょう

Bran Castle, it might be an early summer rain of Dracula.

下から見たブラン城

下から見たブラン城

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写真:フリー百科事典
 

▼ ブラン城の見学を終えてシナイアに戻る途中、雨上がりの車道を馬車が走って行った。田舎では、現在もこのような長閑な風景を目にすることが出来る。

車道を走る馬車

車道を走る馬車

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 ■ 九日目/6月12日(金): シナイア〜ブカレスト/ルーマニア ブカレスト空港出発

 

★☆★彡

 
 ツアー最後の日はルーマニアの首都ブカレストに行き、市内見学を楽しんだあと、市の北方にあるヘンリー・コアンダ空港からイスタンブール経由で関西国際空港に帰国した。

 ルーマニアの首都ブカレスト(現地の発音はブクレシュティ)は、カルパチア山脈の南に広がるワラキア地方の南東部に位置し、人口235万人を擁する大都市である。
 20世紀初頭には、「バルカンの小パリ」と称されるほど美しい町並みを誇っていたが古い教会や歴史的建造物は、独裁を続けた共産党によってことごとく破壊されてしまった。目に止まるのは故チャウシェスク大統領の野望を有形化した巨大で贅を尽くした建物ばかりである。

パリの凱旋門を真似たブカレストの凱旋門

パリの凱旋門を真似たブカレストの凱旋門

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 1989年のルーマニア革命は、東ヨーロッパ各国の共産党政権が相次いで崩壊した東欧革命において、唯一武力により共産党政権が転覆した例である。  
 そのきっかけは大統領のニコラエ・チャウシェスクが命じた民主化デモの武力鎮圧に反対した国防相のワシーリ・ミリャが突然死亡したことから、国軍がチャウシェスクに反旗を翻して民主化勢力を援護し治安部隊と武力衝突して激しい戦闘が続いたが、革命勢力は1週間で全土を制圧し、チャウシェスクを処刑して非共産党政権が生まれた。

一部が国立美術館となっている共和国宮殿

一部が国立美術館となっている共和国宮殿

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▲▼ 革命広場は1989年の民主革命の銃撃戦の舞台となった広場で、石畳の大きな広場を取り囲むように、共和国宮殿旧ルーマニア共産党本部大学図書館アテネ音楽堂などが建っている。激しい銃撃戦が行われた場所だけに、周囲の建物は著しく破壊され、特に治安部隊が立てこもった大学図書館は、貴重な蔵書の大半が焼失したといわれる。

旧ルーマニア共産党本部

旧ルーマニア共産党本部

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▼ 議会宮殿国民の館)は、チャウシェスク大統領が権力を誇示するために巨額の費用と膨大な労働力を投入して、1983年に着工したもので、地域住民の強引な追い出しや古い教会の破壊を行って、当時西側諸国から強い非難を浴びた。

故チャウシェスク大統領が贅を尽くして建てた議会宮殿(国民の館)

故チャウシェスク大統領が贅を尽くして建てた議会宮殿(国民の館)

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写真:フリー百科事典
▲▼ 大理石やマホガニーをふんだんに利用したこの宮殿は当時「共和国の館」と呼ばれ共産政権のあらゆる機関を入居させる予定だった。地上12階、地下4階の建物で地上部分の床面積(33万m2)は米国防省(ペンタゴン) に次いで世界第2位の巨大建造物だという。  

豪華な丸天井の議事堂

豪華な丸天井の議事堂

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▲▼ 1989年の革命により、一時建設が中断されたが、現在は下院議院の他、最大7ヵ国の同時通訳設備を持つ会議場、コンサートホール、展示場、宴会場として利用されており、一部は一般公開されている。  

豪華な装飾が施された会議室

豪華な装飾が施された会議室

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▼ 宮殿正面から東に伸びる大通りは「統一大通り」と呼ばれこの通りの両側のアパート群には共産党員や官僚たちが入居する予定だったという。  

統一大通り/国民の館からの眺望

統一大通り/国民の館からの眺望

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撮影・原作:小池淳二 (こいけ じゅんじ)

住居:兵庫県明石市

昭和11年(1936)生まれ

趣味:音楽鑑賞 旅行 ウォーキングなどの運動

感動写真集第125集/特集!旅紀行第87集 「ブルガリア・ルーマニアの旅」

 平成21年(2009)10月11日 作品:第29作  画像:(大78+小19) 頁数:6  ファイル数:220 ファイル容量:61MB
 平成12年(2000)〜平成21年(2009) 作品数:338 頁数:1,277 ファイル数:53,038 ファイル容量:7,337MB

ブルガリア・ルーマニアを旅して

 クラブ・ツーリズムの「ブルガリア・ルーマニアとバラ祭り10日間」に参加した動機は、このバルカン半島の2国は今まで訪問していないことと、6月7日のバラ祭りが見たかったからです。 しかし、メキシコで発生した豚・新型インフルエンザが4月28日にはフェーズ4となり、国内でも神戸、大阪で発生して国内大流行が危惧されるようになりました。このため、参加申込みのあと、しばらく様子を見て、この病気の悪性がそれほどでないことを確信し、最終決断をいたしました。★☆★彡 私は元来勉強が好きではありませんが、「人文地理」だけは学生時代からあまり勉強をしなくても良い成績でした。もともと海外の国などに興味があったためでしょう。私はリタイアしてから海外旅行に行くようになりましたが、出かける前にその国の歴史、文化、産業などを調べてから出かけます。その勉強が楽しくなったのです。「知るは楽しみなり」です。
 
 でも、今回の旅先の国、バルカン半島の国の歴史はちょっと違いました。ブルガリアは古くはトラキア人がおり、ルーマニアにはダキア人が住んでいたのですが、そのあとの歴史が複雑すぎるのです。両国ともローマの支配、異民族の度重なる侵入、マケドニアやハンガリーの影響、オスマン・トルコの長期支配などなどで私の老化した頭は混乱するばかりでした。それに加えて土地が分割支配されているので益々複雑です。
 近代に入ってからもドイツやロシアの干渉を受け、私はもう勉強は楽しくない心境です。現在、ルーマニアの北東部にはモルドヴァ地方があり、その国境外にはモルドヴァという国がありますが、この国は以前ルーマニア領でルーマニア人が人口の8割近くを占めています。
 
 でも、歴史は判らなくてもブルガリア、ルーマニアの旅行は、とても楽しいものでした。それは両国の住人が皮膚の色の違う我々東洋人をわだかまり無く受け入れてくれたからです。私は日本国内で肌や目の色が違う人を見かけるとちょっと腰が引けます。でもここの人たちはとてもフレンドリーで、それがとても自然でした。
 この度の旅行写真に出てくる現地の人々の表情にそれが表れているといいのですが、いかがでしょうか。
両国の歴史、地理的な条件が、我々東洋人へ友好的なことと関係があるか否かはわかりませんが、楽しい旅でした。 〈 完 〉 2009.10.27 小池淳二
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