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 特集!旅紀行

2005年7月12日改訂

♪Amazing Grace KaRaNo healing Melody

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2005年7月6日作成

イサカーン廟

イサカーン廟( インド・デリー郊外)

フマユーン廟

後編

ムガール帝国の光と影

 中央アジアを起源とするムガール帝国は、始祖バーブル帝が北インドに進出し、1526年、デリー・スルタン5大王朝の最後のローディー朝を滅ぼし、インドでの帝国の歴史を踏み出した。ムガール帝国は、第5代皇帝シャー・ジャハーンのときに最も繁栄し、有名なタージ・マハール廟もこの皇帝の時代の建設である。

砂岩の石段を上がって廟へ向かう人たち

砂岩の石段を上がって廟へ向かう人たち

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 最盛期にはデカン高原まで版図を広げるが、欧州各国の植民地政策の荒波を受け、次々と蚕食され衰退してゆき、最後はイギリスによる統治を許してしまった不名誉な帝国として、インド史にその名を残すことになる。

フマユーン廟正面アーチ

フマユーン廟正面アーチ

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二重殻の中央ドーム

 高さ 38mの中央ドームは中央アジア的な二重殻ドームで、屋根を構成する外側のドームは白大理石で覆われている。 そのまわりに、柱で支えられた傘のようなチャトリ (小塔) が建ち並んでいて、インド風の印象を与える。
 この白大理石でのドーム技術がタージ・マハール廟の建築に生かされたという。

白大理石の巨大なドーム

白大理石の巨大なドーム

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相思相愛の廟

 タージ・マハールに先駆けること約100年。フマユーン廟は、妃が皇帝を慕って建てたもの。100年後の皇帝が妃を想って建てたお墓がタージ・マハール廟。皇帝と妃の相思相愛のお陰で、ペルシャ様式を取り入れたアーチの連続と幾何学模様が特徴のムガール様式が大きく開花した。

フマユーン帝の墓室への入口

フマユーン帝の墓室への入口

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ムガール帝国の

終焉しゅうえん

 1857年、イギリス植民地軍の傭兵隊シパーヒー (セポイ) の反乱に際して、反乱軍側についたムガール朝最後の皇帝バハードゥル・シャー2世 (在位 1837〜1858) は、 3人の王子と共にこのフマユーン廟に避難した。

帝の墓室入口にあるムガール紋様の丸天井

帝の墓室入口にあるムガール紋様の丸天井

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 ウィリアム・ハドソン将軍によって反乱が鎮圧された後、フマユーン帝の石棺のそばで捕らえられた皇帝は、帝位を剥奪され、終身年金をあてがわれて、ミャンマーへ追放された。
 大英帝国(イギリス)のビクトリア女王 (在位 1837〜1901) は、この20年後の1877年、その絶頂期に「インド皇帝」の称号を宣言した。フマユーン廟は、ムガール帝国の栄光と終焉の地であった。
この石棺の地下7mに正式の墓室があり、フマユーン帝の遺体が安置されているほか、廟には歴代の皇帝をはじめとして一族の棺がいくつも置かれている。

フマユーン帝の石棺

皇帝の石棺

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フマユーン帝の理髪師の墓

 フマユーン帝のお付きの理髪師の墓があった。たいそう立派な墓である。その他のフマユーン帝の関係者も、この大きな廟に一緒に祀られているという。向うに見える青いドームは、ニラグンバードと呼ばれる廟で、フマユーン廟の敷地の外にある。後の時代のもののようである。

理髪師の墓

理髪師の墓

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イサカーン廟

入り口近くにイサカーン廟と呼ばれる廟が建っている。パンフレットによると、Humayun's Tomb and Adjacent Monuments とあり、この後者の遺跡群の一つがこのイサカーン廟ということである。

イサカーン廟と外国人観光客

イサカーン廟と外国人観光客

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イサカーン・モスク

イサカーン廟の敷地にあるモスク。タイルがほとんどはげているが、往時は、見事な色彩だったと思われる。

イサカーン・モスクと見物客

イサカーン・モスクと見物客

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 モスクの上に上げて貰い、撮影することができた。青タイルが一部残っているが、往時は見事だったと思う。

イサカーン・モスクからイサカーン廟を臨む

イサカーン・モスクからイサカーン廟を臨む

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 フマユーン廟の取材を終えて帰る途中、近くの公園で大勢の市民がピクニックを楽しんでいた。サリー姿のお母さんたちや大勢の子供たち。お墓を見ると、人恋しくなる。

ピクニック

ピクニック

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 オールドデリーの街中を歩いていると、オートリキシャに出くわした。子供たちの無垢な眼差しが印象的だった。

オートリキシャ

オートリキシャ

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プロフィール

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撮影 ・原作 : 
 

丹下誠司たんげせいじ

 

職業:大成建設(株)勤務

住居:インド共和国西ベンガル州プルリア地区バグムンディ村
趣味:インドの神像収集
  (前任地のインドネシアの絣(イカット)も100枚ほどのコレクションがあります)

あとがき

 2005年2月、5月と、フマユーン廟は、2回の撮影の機会がありました。2月には、デリーでの任務が昼過ぎからでしたので、午前中の空き時間を使って、世界遺産のフマユーン廟の撮影をと、前の晩、勇んで眠りましたら、翌朝は、霧としとしと雨で、2月の乾季なのにインドの神様に嫉妬されたか・・と思いながらも、午前10時にやっと雨も上がりましたので、撮影を始めました。
 曇り空で、時折、雨が落ち来たり、雲間から日が差したりの環境での建物の撮影は、燦々と照る太陽の下であれば、もっと良い画像になったと思うのですが、こればっかりは、デリー非生活者の運でして、逆に雨で、空気も適度な湿り気を帯びて、白い大理石や、赤い砂岩の色が生きてきたのではと、自分を慰めながら、約3時間、撮影しました。
 二度目も、5月のデリーは、暑季の真っ最中でしたので、青空を期待していましたが、これも、気温は43℃を超え空気もカラカラに乾いていましたが、薄い雲が空を覆っていて、晴天下での撮影とはなりませんでした。この時も約3時間、撮影出来ました。
 その土地に住拠点を持ってないと、好天を選べず、良い天候での撮影は難しいと思わされましたが、それでも、2回の撮影の機会あり、多くを望んでも、所詮、私はデリー非居住、雨天、曇天で、その機会を生かした撮影をするしかないだろうとインド的に開き直って、逆に、2月、5月と、撮影時の環境の雰囲気が、デジ一眼イオスキスの画像に、上手く残せたのではないかと思ったりもしています。

 次は、フマユーン廟と並び称されるムガール建築の最高傑作、アグラのタージ・マハール廟を撮影してみたいと思っています。手に入れることの出来る書物で、ムガール帝国の歴史も少しずつ勉強中です。インドの人口が2050年には15億人を突破し、逆にその時点で日本は1億人を切るだろうとの予測の中、人口問題に絡めて、国家の盛衰が語られることもある今日、滅びていったムガール帝国の歴史は、他人事ならず、関連書物をつい読み入ってしまいます。 (2005年7月6日) 〈 完 〉

インド通信 雨季のヒマラヤ点描

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