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Wa☆Daフォトギャラリー

 特集!旅紀行

2004年4月23日改訂

今 日

昨 日

ガンジス川の朝 Music Palette

2004年3月12日制作

第 1 集

緒言

▲△ 緒 言 △▲

丹下誠司たんげせいじ

さんのこと
丹下誠司さん
2003年の春、大成建設(たいせいけんせつ)に再就職して間もなく、私がWa☆Daフォトギャラリーというホームページに世界の名所旧跡や風景などの写真を掲載していることが会社で話題になった。そのとき、丹下さんという方がインドからinternetで写真付きのお便りを日本に送ってこられるという話を聞き、早速メールを出した。
そのとき以来、私にもインドからお便りが届くようになり、現在、600人の読者が毎週配信される丹下さんのインド通信を楽しみにしている。
丹下さんは、弊社の国際支店管理事務センターの事務センター長という要職にあり、家族を東京に残し、インドの西ベンガル州にあるブルリアに単身赴任されて、水力発電所建設工事の兵站部門 ( logistics ) の責任者として活躍されておられる。
このプロジェクトは、日本のODA(Official Development Assistance−政府開発援助)*により、大成建設**が受注して建設しているもので、5年の歳月をかけて90万Kwの揚水発電所をインドに作る計画で、完成は3年後である。
和田義男
* ODAは正確には円借款による援助で、総額約500億円(大成/土木工事190億・三菱重工/導水管40億・東芝/発電機4基180億・変圧器送電設備ほか)。
** 大成関係者は約1300名(日本人スタッフ36名・インド人ネパール人インドネシア人等スタッフ220名・インド人重機オペレータ150名・インド人レイバー900名)。

仕事の余暇を利用してinternet回線から送られてくる丹下さんの「インド通信笑うカワセミ(カワ通)」と題するインド通信は、独特のユーモア溢れるタッチで、インドの最新の話題をはじめ、異国情緒溢れる名所旧跡やインド文化などが易しく紹介されており、インドにはまったく縁のなかった私も、インド通になれるのではないかと思うほどになった。
この大変な作業は、丹下さん個人の善意によるもので、新しくインドに赴任してこられる方がカルチャーショックを受けて戸惑わないようにとの思いやりから始められたとお聞きしたとき、私は感激した。
このインド通信を私のホームページに掲載して、より多くの方に読んでもらったらどうだろうかと思い、丹下さんにご相談したところ、快諾していただいた。こうして、丹下さんの素晴らしいエッセイを当サイトで連載することになった。
丹下さんは、今後もインドにおられる限り、毎週、配信を続けられるいう。私は、今回を機に更に使命感と創作意欲に燃えておられる丹下さんを頼もしく思った。次に帰国されたときには、新しいデジカメを購入し、より鮮明な画像をお送り願えるという。今から楽しみである。
Wa☆Daフォトギャラリーも20ヵ国目となるインドが加わり、ますます賑やかになってきた。私の監修もできるだけ原文のイメージを損なわないようにして、多くの方に楽しんで頂けるようにしたいと思う。
2004年3月13日 和田義男

礎石運搬

礎石運搬

拡大写真(615x462)76KB

2004年2月22日(日) ダムの定礎式
2月16日の定礎式は好天に恵まれ、無事終了しました。所員も一丸となり準備作業しましたし、日本からはわざわざ葉山社長にもお越し頂き、また、インド人ワーカーたち1200人に日本の伝統工事作法を見せることができました。
うちはロックフィルダムなんで、ダムの中心には、水を通さない粘土のコア材(写真の赤い地面)が積まれ、外周りが岩積みになります。
定礎石もダム軸(中心を走る深く掘られた溝)の中心に、写真のように据えられます。
定礎石は、通常、原石山から取れた石を磨くようですが、うちの山は花崗岩 Granite なので石が研磨に堪えず、今回は、ラジャスタン州産の大理石で代用しました。石は130kgあり、写真のように紅白御輿で運びます。
今回の儀式では、この定礎石は儀式中に一度土中に埋納されますが、コア材にとっては石は異物ですので、儀式後にはまた掘り出され、工事竣工後は管理棟などに記念碑として飾られることになります。建築での定礎板とは、ちょっとイメージが違うでしょ。
さあ、これから、この乾季、次の雨季、そして次の乾季、雨季を経て盛土作業が続き、来年7月には待望の湛水(たんすい 水を張ること)開始です。
定礎式
定礎式
アジャンタ さて、前回のボンベイから東に約400km、飛行機で約一時間入ったデカン高原に、インドを代表する遺跡があります。アジャンタ、エローラ石窟寺院と呼ばれています。昨年5月に旅行した所員から画像をいただけましたので、まず、壁画で有名なアジャンタからご紹介したいと思います。
1819年4月28日にマドラス騎兵隊武官のイギリス人、ジョン・スミスが大好きな虎狩りの最中に、一匹の虎を丘で見つけて発砲するも弾は外れ、その虎が逃げた先を望遠鏡で確認していて、蔦の茂みからこの遺跡を発見。以後、アジャンタの石窟群が世に知られることになったそうです。
アジャンタ全景
アジャンタ全景
第26窟の仏像彫刻 アジャンタには、ワーグラー川河岸500mに亘り、展望台から向って右の1窟から順に左の28窟まで石窟寺院が並んでいて、画像は、第26窟(一番左手辺りの穴)の仏像彫刻です。非常に細かい彫刻で、当時のインドでの仏教の隆盛が忍ばれます。大乗仏教の影響を受けた6世紀の作品だそうです。
紀元前2〜1世紀に上座部仏教の影響下で、河岸中央部の石窟が掘られ、しばらく廃れて、5〜6世紀ほどのブランクの後、紀元5〜7世紀に、今度は大乗仏教の影響を受け、左右に石窟寺院が広がっていったようです。当時、デカン高原で勢力を誇ったヴァーカータカ帝国の後援で5世紀頃にアジャンタは隆盛を迎え、この帝国の崩壊とともに寺院群も放置され、僧も霧散し、そこから千年以上の長い眠りについて、スミス氏の発見まで忘れ去られていたようです。

第1窟の壁画 第1窟(一番右手の穴)の壁画で、蓮華手菩薩。おっ、これは!?どこかで見た!そうです、法隆寺金堂の菩薩壁画のオリジナル絵画と言われていて、日本の小学校の教科書でも、皆さん、ご覧になっているはずです。これも6世紀頃の作品。
こうした壁画の色粉は、赤や黄が砂土、緑が植物、黒が炭、青はペルシャから渡って来た染料と言われています。高温多湿のインドで、こうした壁画が現代まで当時のままの色彩で残るのは、極めて稀で、デカン高原の奇跡とも呼ばれているようです。
インドから日本に来てるものはカレーや紅茶だけでなく、菩薩さんもそうなんですね。インドで仏舎利(仏陀の骨)を意味するストゥーパという言葉も、日本へは卒塔婆(そとば)として伝わり、今は日本のお墓で活躍しています。
私は四国松山人ですから、真言宗なんですが、毎朝、カトマンズから来た木彫りの仏陀に水を掛けて、その日の安全を祈るようにしています。が、最近は、お陀仏の日も多く、ゲン直しの必要を感じています。

第26窟(一番左手辺りの穴)の仏像彫刻

第1窟(一番右手の穴)の壁画

第26窟(一番左手辺りの穴)の仏像彫刻 第1窟(一番右手の穴)の壁画

拡大写真(640x480)61KB

拡大写真(640x480)50KB

2004年2月14日(土) ボンベイ 今回は一挙に、アラビア海に面したボンベイ(現ムンバイ)に飛びます。デリーが政治の中心なら、ボンベイは経済の中心です。人口は1450万人で、インド最大の都市です。高層ビルが立ち並び、とても同じインドとは思えません。インド独立の英雄、ガンジーの国民会議派(Congress)の活動開始の場所としても、ボンベイは有名です。

タージマハールホテル ボンベイには、インドで一番有名なホテル、タージマハールホテルがあります。インドを中心に57ホテルを展開するタージホテルは、タタ財閥経営で、このボンベイのタージマハールホテルがその発祥です。1903年創業ですから、もう101年です。

このタージマハールホテルには、面白い逸話があります。タタ財閥の創業者、ジャムシェドジーNタタさんが、イギリス統治下のボンベイアポロホテルのレストランで、インド人であることを理由に入店拒否され、それで、インド人が誰でもが入れるホテルを作ろうと思い立ったのが、このホテルなんだそうです。

白黒の画像は、タージグループからお借りしたのですが、1930年代に、タージマハールホテルの貴賓室で、マハラジャたちを集めて会食しながら、インド帝国の統治について相談していたイギリス高官たちの夕食の一枚です。。当時からもちろん、空調完備。
Taj Mahal Tokyo は、ぜひ当社で丸の内辺りに建てさせて頂き、定年後は、そこのナン職人で、TATAグループに雇って頂こうというのが、インドでのあたしの小さな野望です。会社にはまだ内緒です。(^^;

ボンベイのインド門 添付画像は、インド門です。イギリス国王ジョージ5世のインド訪問を記念して、1911年に建立されています。飛行機が発達する前は、イギリスからの国賓はすべてこの門から上陸していたそうです。昨年の8月には、このインド門で、爆弾テロ、50名が亡くなっています。観光スポットは油断がなりません。テロは、死傷者の桁が一つ違うので、日本の皆さんは、びっくりされるでしょう。

マハラジャたち

ボンベイのインド門

マハラジャたち ボンベイのインド門
2004年2月8日(日) ハイダラバード いや〜あ、もう毎日、『インドな日々』です。(流水りんこさんの本の題名のパクリ (^^; )さて、前回のマドラスから、内陸に約500km北上しますと、このハイダラバードがあります。標高550mの高原都市です。ハイダラバードは、バンガロールと並んで、現在はインドのIT ( information technology )の旗手と呼ばれている都市です。

インドには、ぱっと地図をみただけでも、なんたらバードというのは10近くあり、アラハバード、アメダバード、ファリダバード、ニザリバードなどなど、お隣のパキスタンの首都もイスラマバードで、バードですね。

バードが付く都市は、これはもとイスラム教徒の藩主(マハラジャ)が治めていた地区を表しているのだそうです。インドでは、バラモン教→仏教→ヒンドゥー教→イスラム教の順で、宗教が広まって混在していったと捉えるのが良いでしょう。インドは、ヒンドゥー教徒が9割の国ですが、イスラム教徒は、カースト制に入れなかった階層の人々が、イスラムに続々と改宗していったとの解説もインドではなされているようです。
チャール・ミナール 今回の画像は、うちの現場の発電機4機(225MWX4基)は、東芝さん製なんですが、東芝さんのインド提携先がこのハイダラバードにあり、そこのインド人マネージャーに、チャール・ミナールを一枚撮って送って頂戴!とお願いしましたら、こんな画像を電送して頂けました。便利な時代です。
チャール・ミナール(ヒンディー語で、4つ=チャール、尖塔=ミナール)の尖塔の高さは56m、4つの塔には、おのおのバルコニーが配置され、中段階はモスクとして利用されているとのことです。チャール・ミナールは、当時のイスラム教藩主が、流行った疫病の終焉を祝って建設したんだそうです。
アジアでもバード大流行、バードフルー(Bird Flu 鳥インフルエンザ)危機で、日本の皆さんも十分にお気を付け下さい。

ハイダラバードのチャール・ミナール
ハイダラバードのチャール・ミナール
2004年2月1日(日) マドラス 真冬の日本の皆さんを励ますべく、今日はマドラスからです。マドラスは北緯13度地点ですから、マニラとかバンコクとかの並びになります。
マドラスは、今は、チェンナイと呼ばれています。インドの都市はイギリス統治前の旧名に戻る傾向が盛んで、例えば、カルカッタもコルカタ(凝肩)、ボンベイもムンバイ(煩林)で、このマドラスがチェンナイ(鎖内)です。
筆者注:カッコ内は当て字です。信用しないように (^^; 

マドラスは、南インド最大の都市で、政治経済の中心です。でも、都会のくせにお人好しの気質があるというのか、いかにも南らしく、なんとなくホッとする町だと思います。私はマドラスは2年半前に一度訪問しておりますが、この画像は、今年1月にマドラス駐在の商社マンの方にお願いして、街でパチリと撮って来て頂きました。
南インドの明るい街の雰囲気がこの果物屋のオヤジから伝わって行くでしょうか?南インドは、人種もドラビィダ系で、北部のアーリア系人種に比べて、肌の色も随分濃いいですし、また、おだやかな丸っこい印象を与えますよね。彼らの使うタミール文字も、丸々っとした曲面の連続文字で、とてもキュートです。
果物を、こうしてお供え物のように高く積むのは、インドならではでしょうか?日本なら、傷まないように平面的に並べてますよね。意地の悪い私なら、底の真ん中のあのみかんを1個頂戴!とかで、果物山の崩壊を狙ったりして。いけない、崩れるとか、壊れるとかの言葉は、うちの現場ではタブーでした! (^^;
マドラスの果物屋
マドラスの果物屋
2004年1月24日(土) うちの現場が位置する西ベンガル州プルリアも今月5日の6℃で底を打ち、今朝なんかは夜明け前で15℃もあります。今年の冬はあっという間に終わってしまったようです。
昼間は28℃ぐらいになり、インディアンサマーでポカポカです。真冬のど真ん中の日本の皆さんには申し訳ないような、快適な気候が続いています。あと2ヶ月もすると、またあの50℃の暑季がやって来るのかと思うとぞっとしますが、この気温変化のサイクルに不思議と身体は慣れるもので、あの暑さが実は待ち遠しかったりします。暑季の次は雨季で、これも湿気で堪らんですが、越えないと次の季節が来ないし、慣れって怖いですよね。

続デリー インドは、雑踏歩きが実に楽しいです。人の放つエネルギーに、じわっと圧倒されます。添付の画像は、昨年暮、冬のデリーの4葉です。5℃まで気温が下がったオールドデリーの朝の街の人々の顔です。インド人たちも毛糸帽にマフラー巻いて、寒そうでしょ。

チャイ屋

パパイヤ屋台のオヤジ

チャイ屋 パパイヤ屋台のオヤジ
路上のチャイ屋 ミルクティ。販売副食は、乾パンにじゃが芋カレー。
パパイヤ屋台のオヤジ パパイヤは、整腸で人気あり。南インド産?

路上のミシン屋 なんでも、縫いまっせ!

ベビークリシュナ神のジュース屋 この時期、ザクロとニンジン中心。
日本も、Slow foodでしたっけ、Fast foodに対抗したスローなものが最近受けているようですが、インドの街で拾えるこうしたインド人たちの顔は、なんかほのぼのとした昔の雰囲気がするというか、日本に比べたら、インド、皆、格段に貧乏なんだけど、人生をゆったり生きていて、日本人よりはるかに豊かな精神世界を持っていたりするかもしれませんね。

路上のミシン屋

ベビークリシュナ神のジュース屋

路上のミシン屋 ベビークリシュナ神のジュース屋

タージマハール

タージマハール
2004年1月18日(日) タージマハール 
さて、今回はこのお墓に登場して貰うことにしました。デリーから南へ200kmのアグラという都市のヤムナ河の河畔に建てられています。
皆さんもご存知の、これがタージマハールです。1983年に世界遺産に指定されています。イスラム建築様式で、ムガール建築美術の最高峰と言われている建物です。
イスラム教のムガール帝国第5代皇帝のシャー・ジャハーンが、最愛の御妃のムムターズ・マハールのお墓として、22年かけて1653年に完成させたんだそうです。総て白大理石での建築です。建設時の出面(でずら)も、1日2万人だったそうです!(うちの現場が1日1千人の5年コースですから、人20倍X時間4倍強=約80倍の規模です。さすがにインドはスケールが違います。)
画像を解説しますと、まず、入場門を潜ると、この1タージマハールがどんと偉容を表します。そのタージマハールまで歩き、その上がり口の階段から入場門方向を眺めたものと、入場門の拡大がこの3枚です。

タージ門内

タージ門

タージ門内 タージ門
添付の画像で、高さ67mのドームがイメージしていただけるでしょうか? タージマハールは、バランスが取れすぎていて、全体がこじんまりして見えますが、実はでかいんです。「地球の真珠」とインドでは呼ばれているようです。たしかに地面から白真珠がぷっくん出て来ましたよ!という感じです。
最愛の御妃ムムターズは14人の子供を生んで亡くなり、それを悲しんだシャージャハーンがこの墓廟を建設したそうですが、シャーは22年間、毎日泣き悲しんでいたわけではなく、すぐ次の御妃様を貰い、ムガール帝国の発展を日々心がけたようで、やはり、権力者はこのぐらいの元気が必要なのかもしれません。でも、最後には自分も御妃ムムターズの横に葬って貰ったそうで、タージマハールは皇帝夫婦のお墓になっています。

ムガール帝国は、第17代皇帝まで続きますが、これもご存知セポイの反乱(1857年)で、最後の皇帝が担ぎ出されて、イギリスに滅ぼされてしまいます。

このタージも、最近では酸性雨の影響で白大理石の表面が傷む(溶ける?)ようで、アグラのこの一帯は排ガス規制されており、かなり離れた駐車場から、らくだ車や電気バスでこの墓廟に参拝することになります。
タージマハールを見ないで帰任すると、また、インドに再赴任してしまうという駐在員伝説があるそうです。私も昨年5月にこの御妃の墓参りを済ませています。画像はその時のものです。
インドのカレンダー
2004年1月6日(火) インドのカレンダー 

シバ神の奥さんは、パルバティー女神と言い、色々と化身しますが、カレンダーのモデルになっているこのカリ女神もパルバティー女神の一変化で、特にベンガル人に人気があります。

この女神は何と生き血を啜る女神なんです。ヒンドゥー教では、仏陀(釈迦)も、ビシュヌ神の9回目の化身だと言われています。
0640の気温は7℃。今が一番寒い時期です。
2004年1月4日(日) 新年、明けましておめでとうございます。 皆さん、良いお正月を過ごされたことと思います。うちの現場も今年は現在4割の出来高を7割近くまで上げる非常に大事な年です。ここ一番の大勝負の年とも言えます。31日の安全感謝祭、そして、1日の安全祈願祭と、頼めるのなら日本の神様もインドの神様も細かいことは言わずにもう総神頼みで(さらに仏陀も混ぜて)、今年も2日から走り始めています。
さて、さて、年末にデリーに飛ぶ機会があり、オールドデリーの街で牛を掻き分け、何カットか撮影して来ましたので、年初めはこの国のへそとも言える首都デリーからインド通信をお送りさせて頂きたいと思います。

首都デリー デリーは、人口1000万人のインド第三番目の都市です。北がオールドデリー、南がニューデリーで、別に東西ベルリンのように塀で隔てられている訳ではありません。私の小学校時代には、インドの首都はニューデリーと教えられたような気がしますが、大統領官邸は確かにニューデリー地区にありますが、そんなにNewとOldとでデリーの区別も厳格でもないように思います。

デリー駅

揚げパン屋

デリー駅 揚げパン屋
デリー駅構内 デリー駅ですからまあ東京駅みたいなものですが、物資が人と一緒にインド全土を鉄道で運ばれている様が想像して頂けると思います。
オールドデリーの揚げパン屋 風船揚げパンをPuri(プリ)と言います。右の茶色い山は煮豆です。模様がおしゃれな曼荼羅!

ラムネ屋 インド人は発泡系のドリンクが好きなんです。

果物屋 ザクロは年中あります。あと、黒ぶどう、青ぶどう、りんご、みかんで、茶色は? 柘榴は英語で、pomegranate(パメグラニット)なんですが、いつまで経っても覚えられません。
オールドデリーを歩くと、人に表情があって、時間が経つのも忘れてしまうぐらい面白いです。16〜17世紀のままのような、濃厚な時間が流れているような感じがします。

ラムネ屋

果物屋

ラムネ屋 果物屋

横顔

▲△ 横 顔 △▲

プロフィール

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撮影 ・ 原作 : 
 

丹下誠司たんげせいじ

 

職業:大成建設(株)勤務

住居:インド共和国西ベンガル州プルリア地区バグムンディ村
趣味:インドの神像収集
  (前任地のインドネシアの絣(イカット)も100枚ほどのコレクションがあります)

 建設会社の海外僻地専門事務屋として、今、4つ目の海外現場を担当しています。27歳から6年間居たインドネシアでは、ジャワ島で水力発電ダム、ボルネオ島でLPGプラント、バリ島で空港建設を経験しています。
 42歳からのインドでは、揚水式発電ダムを建設中です。すでに3年ほどになりますが、日々、インドの多様と混沌に鍛えられながら、11年目の単身赴任を、家族(妻、娘高 2、息子中1)の協力、理解を得て、目下、任務遂行中です。得意ではありませんが、駅裏留学の英語とインドネシア語を駆使し、なんとか仕事をしています。

(2004年4月23日)

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