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2010年8月25日改訂

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♪アイネ・クライネ・ナハトムジーク K.525 第1楽章/モーツアルト

 

撮影:松井公代

民族衣装の女性たち

拡大写真(1800x1200)439KB 民族衣装の女性たち/ザルツブルク(オーストリア)


ウォルフガング アマデウス モーツァルト 1756‐1791

18世紀古典派を代表するオーストリアの作曲家

生 涯

   当時は独立したカトリック大司教領だったザルツブルクに生まれた。父親は大司教ジークムント・フォン・シュラッテンバハに仕える音楽家レオポルト・モーツァルトであった。レオポルトは南ドイツの町アウクスブルクに生まれ、その家系からは建築師、彫像師、造本装丁師など親方が輩出していた。レオポルトと妻マリア・アンナとの間に生まれた7人の子どものうち、末子のウォルフガング・アマデウスと三女のマリア・アンナ(通称ナンネルル)だけが夭折を免れた。

神 童

 姉ナンネルルも楽才を発揮したが、弟ウォルフガングは3歳からその天賦の才を父親に認められ、レオポルトは息子が4歳のときから音楽のレッスンを開始している。姉の楽譜帳を使ってのこのレッスンは父親の手で記録されているが、5歳の初めころから早くも作曲も試みられ、この楽譜帳の余白に、同じくレオポルトの手で記される(20世紀半ばに再発見されたクラビーアのための4曲の小曲 K.61a〜1d)。

   

 こうした息子の神童ぶりをザルツブルク以外の土地でも披露しようと、1762年初めのミュンヘン旅行、つづいて同年秋から翌年初めまでのウィーン旅行が企てられる。ウィーンではシェーンブルン宮殿での女帝マリア・テレジアの前での御前演奏など数々のエピソードを生んだ。一家の旅行は、さらに続き、63年6月から始まる西方への大旅行は、ミュンヘンのバイエルン選帝侯宮廷再訪をはじめ、ドイツ各地の歴訪、ベルギーを経てパリ訪問、翌64年のロンドン訪問、さらに翌年のオランダ滞在、そして66年のパリ再訪からスイスを経て同年11月末のザルツブルク帰郷と足かけ4年にわたる長大なものであった。この間、ベルサイユ訪問とルイ15世の御前演奏、パリ在住ドイツ人作曲家(クラビーアとバイオリンのためのソナタの先駆者ショーベルト Johann Schobert、ピアノ・ソナタの最初期の作曲家エッカルト Johann GottfriedEckard ら)との出会いと最初のソナタの連作(クラビーアとバイオリンのため。K.6〜K.9)の出版、ロンドンでのクリスティアン・バッハの薫陶、最初の交響曲(K.16、K.19、K.619a など)の作曲、オランダでの大病といった数多くの経験をもっている。

 帰郷後、作曲の勉強が続けられ、劇音楽のような大規模の作品が生み出されるが、翌67年秋から翌々69年初めにかけて行われた2度目のウィーン旅行で、モーツァルト姉弟はともに天然痘に倒れた。ウィーンでオペラ・ブッファ《にせのばか娘》(K.51―K.646a)やドイツ語オペラ《バスティアンとバスティエンヌ》(K.50―K.646b)、あるいは《孤児院ミサ曲》(K.139―K.647a)などの大作や交響曲が生み出され、少年モーツァルトはすでに確実な作曲技術をおのれのものとした。

 レオポルトはさらに息子にオペラ作曲の経験を積ませるべく、69年末に、今度は二人だけで、イタリア旅行を企て、翌々71年3月まで、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、さらにベネチアなど主要都市をめぐった。とりわけローマ教皇からの黄金拍車勲章の授与、ボローニャでの大音楽理論家 G. B. マルティーニの薫陶と好楽協会会員への推挙、ミラノでのオペラ・セーリア《ポントの王ミトリダーテ》(K.87―K.674a)上演などがこの旅行の大きな収穫であった。オペラの本場イタリアでの成功は、なお、ミラノ再訪と再々訪を可能にし、71年10月上演の祝典劇《アルバのアスカーニョ》(K.111)と72年12月のオペラ・セーリア《ルーチョ・シッラ》(K.135)を生み出した。前者はマリア・テレジアの皇子フェルディナント大公の婚儀のためのものであった。

宮廷音楽家

 2度目と3度目のイタリア旅行の合間に、新大司教ヒエロニムス・コロレードの就任がさしはさまれる。前任者によって無給のコンツェルトマイスターに任じられていたモーツァルトは新大司教のもとで有給の処遇を受けることになる。イタリア旅行のあと、1773年には第3回ウィーン旅行、74年から翌年にかけてミュンヘン旅行がさしはさまれるが、モーツァルトはしばらくの間、新大司教のもとで、宮廷音楽家の職務を果たしていく。セレナードや協奏曲、さらに教会作品などが数多く生み出される。管弦楽の《ハフナー・セレナード》(K.250―K.6248b)、《変ホ長調ピアノ協奏曲》(K.271)などがめぼしい作品である。

 大司教コロレードとしっくりいかないモーツァルトは77年9月から翌々79年1月にわたって、就職口を探す旅に出た。いわゆる〈マンハイム・パリ旅行〉である。ミュンヘン、マンハイム、パリと続くこの旅行で、宮廷音楽家のポストは得られなかったモーツァルトではあったが、母親と二人で行った旅で得た音楽的経験は広く深く、また人生体験も豊かであった。いわゆる〈マンハイム楽派〉との触れ合い、マンハイムとパリでの交響曲、協奏交響曲、協奏曲、ソナタなどの作曲、アウクスブルクでのシュタイン Johann Andreas Stein 製作の優れたピアノとの出会い、この父親の故郷での従妹マリア・アンナ・テークラ(モーツァルトは〈ベーズレ(いとこちゃん)〉と呼んでいる)との交際、マンハイムでの歌手アロイジア・ウェーバーとの出会い、パリでの母親の死、帰路ミュンヘンでアロイジアに失恋したことなどである。

 けっきょく帰郷して、復職し、またしばらくの間宮廷音楽家の職務に従事し、《戴冠式ミサ曲》(K.317)、協奏交響曲(K.364―K. 6320d)、交響曲(K.318、K.319、K.338)などを作曲する。80年11月、ミュンヘンに赴き、翌81年1月オペラ《クレタの王イドメネオ》(K.366)を上演するが、大司教にウィーンに呼び出され、同年春、父親の反対を押し切って辞職、そのままウィーンに定住した。フリーな音楽家として、ピアノ教授、作曲、予約演奏会、作品出版などで生計をたてることになる。

ウィーンの作曲家

 1781年末のヨーゼフ2世の御前での M. クレメンティとの競演、82年夏のジングシュピール《後宮からの誘拐》(K.384)の上演などがモーツァルトのウィーン・デビューを飾っている。また82年にはアロイジア・ウェーバーの妹コンスタンツェと結婚した。ファン・スウィーテン男爵との出会いから北ドイツのバロック音楽に触れるなど、音楽活動はきわめて順調であった。83年ザルツブルク帰郷を挟み、84年暮れにはフリーメーソン結社に加わる。このころハイドンにささげられた6曲の《ハイドン四重奏曲》やピアノ協奏曲などの力作、傑作が多数生み出されている。ニ短調の《ピアノ協奏曲》(第20番。K.466)が名高い。85年には父親の来訪があり、このあと取り組んだ大作オペラ・ブッファ《フィガロの結婚》(K.492)は、翌86年5月に初演されたが、イタリア人オペラ作家たちの妨害運動さえ引き起こした。ライバルとしてとりわけ宮廷作曲家サリエリの名が挙げられている。

 このあたりから、モーツァルトの実生活面にかげりがみられるようになる。演奏活動はあまり頻繁でなくなり、借金生活が重なるが、その理由は現在でもつまびらかにされていない。しかし、創作活動はさらに充実し深まっていく。87年4月、ベートーベンの訪問を受け、翌5月末父親を失う。この年には《ト短調弦楽五重奏曲》(K.516)のような短調作品が生み出される一方、《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》(K.525)のような晴れやかな名曲も書かれている。名作《ドン・ジョバンニ》(K.527)はこの年の作品であるが、ドン・フアン伝説によるこのイタリア語オペラは、主人公の死を扱う点や劇的表現の点でいわゆるオペラ・ブッファ(喜歌劇)の域を越え出ている。このオペラは10月末ボヘミアの首都プラハで初演されたが、ウィーンに帰ったモーツァルトはヨーゼフ2世から〈皇王室宮廷作曲家〉に任じられている。おりしも大作曲家グルックが死んだ直後であった。

 翌88年夏にはいわゆる〈三大交響曲〉(第39番K.543、《ト短調交響曲》第40番 K.550、《ジュピター交響曲》第41番 K.551)が書かれたが、当時、モーツァルトはピアノの弟子もなく、演奏会も開かれず、フリーメーソンの盟友プフベルクに借金を重ねたまま 答塞状態にあった。翌89年春、リヒノフスキー侯に誘われて、北ドイツ旅行を試み、プラハを経て、ドレスデン、ライプチヒ、ベルリンを訪れ、ポツダム宮殿でプロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム2世に謁見し、また作品の依頼を受けている。
 この89年に書き始められたオペラ・ブッファ《コシ・ファン・トゥッテ(女はみんなこうしたもの)》(K.588)は翌90年1月にウィーンで初演されている。この年ヨーゼフ2世が没し、弟のレオポルト2世が即位し、その戴冠式がフランクフルト・アム・マインで行われた。モーツァルトは自費でその祝典に参加したが、経済的困窮はいっそう重いものとなった。コンスタンツェのバーデンでの療養生活はこのような家計をさらに圧迫することになる。

 91年には最後の《ピアノ協奏曲》(第27番 K.595)やクラリネット協奏曲(K.622)が書かれたほか、興行師シカネーダーの依頼で、ジングシュピール《魔笛》(K.620)が作曲された。9月末に初演されたこのドイツ語オペラはしだいに成功を収めていくが、それに先立って見知らぬ男から注文を受けたという《レクイエム》(K.626)の作曲やボヘミア王としてのレオポルト2世の戴冠式祝典オペラ《ティート帝の慈悲》(K.621)のプラハ初演などがさしはさまれる。《レクイエム》の作曲は《魔笛》の初演後も続けられるが、健康を害したモーツァルトは11月20日に病床につき、《レクイエム》未完のまま、12月5日世を去った。死因についてはさまざまな論議があり、腎不全などの病死説(直接の死因としては過度な瀉血による致死説も含む)、水銀による毒殺説などがある。葬儀の日も、従来の12月6日説のほか、最近では12月7日説も登場している。ザンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された遺体のありかは確認されていない。ウィーン中央墓地にはベートーベン、シューベルトと並んで記念碑が建てられている。

 未完に終わった《レクイエム》は、のちに弟子のジュースマイヤー Franz Xaver S ‰ssmayr(1766‐1803)の手で完成された。モーツァルトの死後、追悼、追慕の気運はおおいに高まり、モーツァルトの未亡人コンスタンツェと二人の遺児カール・トーマスとフランツ・クサーワーには、友人、知人、愛好家たちの暖かい援助の手が差し伸べられた。伝記が書かれ、遺品類は整理されたが、こうした点でのちにコンスタンツェが再婚したデンマークの外交官ニッセン Georg Nikolaus Nissen(1761‐1826)の功績ははなはだ大きい。

作 品

モーツァルトとハイドン

 モーツァルトは先輩であり、師であり、友人であったヨーゼフ・ハイドンとともに、古典派を代表し象徴する作曲家であるが、両者はまことに対照的な存在である。ハイドンは晩成であり長寿であったが、モーツァルトは神童として注目され、若くして巨匠となり、わずか35歳で夭逝している。ハイドンは長く宮廷音楽家の職に安んじていたが、モーツァルトは束縛を嫌い、後半生はフリーな音楽家として活動し、そして力尽きた。モーツァルトもハイドンも、古典派時代の音楽のほとんどすべてのジャンルを手がけているが、後者を先駆者とすれば、前者はその先業を受け継ぎ、さらにそうしたジャンルのそれぞれを多様化し、また深化したものといえよう。ピアノ・ソナタ、弦楽四重奏曲、交響曲などの分野で、ハイドンが築いたものに、モーツァルトは味わい深い個性的なものを付け加えたというべきだろう。モーツァルトはピアノ協奏曲でこのジャンルの芸術的完成を果たし、さらに教会作品、とりわけオペラで、ハイドンを凌駕している。モーツァルトのウィーン時代のオペラは以後2世紀にわたるオペラ劇場の恒常的なレパートリーとなった。

後世の人気

 モーツァルトの死後、彼の音楽は、しだいに広く強く世人の関心を引きつけ、作品の出版はしだいに数多くなっていった。また19世紀半ばには生地ザルツブルクにモーツァルトの芸術の保護振興を目的とする機関(現在の国際モーツァルテウム財団)が設けられ、モーツァルト音楽祭(現在のザルツブルク音楽祭やモーツァルト週間)が企てられた。さらにモーツァルトの作品の目録(L. von ケッヘルによる《モーツァルト全作品目録》1862。K.(ケッヘル番号)はその番号、K.6は第6版の番号)が作成され、全作品を網羅する《モーツァルト全集》が刊行された。
 
 モーツァルトの父レオポルトは、息子の音楽活動をきめこまかに記録し、またモーツァルト自身もウィーン時代には自分の創作活動を丹念に記録している。またモーツァルト一家が残した手紙類も多く、伝記的な資料にも事欠かない。モーツァルトはただ単に音楽家としてばかりか人間としても魅力ある存在であった。そのような人間モーツァルトも後代のモーツァルト愛好家の関心をそそっている。〈ベーズレ〉にあてたモーツァルトの手紙はそのかろやかで流れるようなスタイルで、カノンのような彼の声楽のジャンルを思わせるし、他方、父親にあてた最後の手紙(1787年4月4日付)にみられる死の想念は、彼の円熟した時期の短調作品をしのばせる。

 このようなモーツァルトの人間と音楽の魅力は、死後およそ2世紀間、音楽家ばかりか、メーリケ、プーシキン、キルケゴールをはじめ文人、画家、哲人、その他あらゆる分野の人たちの発言を誘ってきた。20世紀に入って、モーツァルトの作品の再発見も相次ぎ、また作品と手紙の網羅的な新全集(1955‐)も刊行され、また18世紀の演奏様式の研究によって、あるがままのモーツァルトの形姿が、響きの点でも後世の人たちに十全なかたちでとらえられるようになっている。さらにモーツァルトの人と作品は、芸術家たちにかっこうの創作上の素材をこれまた多様なかたちで提供している。

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