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 感動写真集

2011年6月10日改訂

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♪ロシア民謡 赤いサラファン〜赤いサラファン(ハーモニカ)〜ともしび

 

夏空に尖塔聳ゆヤーチャイカ   北舟

 

 

A steeple rising into the summer sky, I am a sea gull.

2011年6月10日制作

ネヴァ川から望むペトロパヴロフスク要塞

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ネヴァ川から望むペトロパヴロフスク要塞/サンクトペテルブルク(ロシア)

世界文化遺産

ロシア国旗

ロシア初夏の旅

ペトロ

 

プーシキン Александр Сергеевич Пушкин

 
  ▼ アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(1799-1837)は、ロシアの詩人・作家。ロシア近代文学の嚆矢(こうし)とされ、現在もロシア国民の人気が高い。代表作は、「青銅の騎士」をはじめ、「ルスランとリュドミラ」「エフゲニー・オネーギン」「スペードの女王」「ボリス・ゴドノフ」「石の客」「モーツァルトとサリエリ」など多数。
アレクサンドル・プーシキン
 
 父親は由緒ある家柄のロシアの地主貴族。母親の祖父アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバルは、ピョートル I 世に寵愛された黒人奴隷上がりのエリート軍人であった。
  プーシキンは、はじめて作品のなかに積極的に口語を取り入れ、独自の語りの文体を作り上げて近代文章語を確立し、後代のロシア文学に影響を与えた。ヴィッサリオン・ベリンスキーは、最初の国民詩人としてプーシキンを評価している。
 1831年、ナターリア・ゴンチャロワと結婚。その後、低位の階級を与えられて帝室への出入りを許されるが、プーシキンは、この申し出を名うての美人で密かに慕う者が多かったといわれる妻ナターリアを帝室に出入りさせるためのものとして、屈辱と受け取った。
 プーシキンの進歩思想を嫌った宮廷貴族らはフランス人のジョルジュ・
ダンテスをたきつけ、ナターリアに言い寄らせる。1837年1月27日、プーシキンは妻に執拗に言い寄るダンテスに決闘を挑み、決闘で受けた傷がもとで、その2日後に息を引き取った。
   政治的な騒動を恐れた政府は、親しい者だけを集めて密かに葬儀を執り行った。遺体はミハイロフスコエ付近のウスペンスキー大聖堂の墓地に埋葬された。プーシキンの死を知った詩人ミハイル・レールモントフは、「詩人の死 Смерть поэта 」というタイトルの詩を書き、殺害者と上流社会を告発した。  

ロシアの代表的な詩人プーシキンの像

ロシアの代表的な詩人プーシキンの像

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ドストエフスキー Фёдор Миха́йлович Достое́вский

 
▼ フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821-1881)は、ロシアの小説家・思想家である。代表作は「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」など。レフ・トルストイイワン・ツルゲーネフと並び19世紀後半のロシア文学を代表する文豪である。
 ドストエフスキーは、16歳でサンクトペテルブルクに出てきて以来、10年間の流刑と一時期を除けば、終始この町に住んだ。彼の約30編の小説のうち、20編は、サンクトペテルブルクの下町を背景に描いたものである。  
 ロシア文学最高傑作の一つである「罪と罰」も同様で、物語は、主人公ラスコーリニコフが間もなく殺すつもりでいる金貸し老婆アリョーナの様子をさぐるために、サンクトペテルブルクのセンナーヤ広場近くの屋根裏部屋から出るところから始まる。  
 サンクトペテルブルクには彼が住んでいたところに設けられたドストエフスキー博物館があるので時間があれば立ち寄ってみたい。宮殿や聖堂ばかり巡っていては分からない庶民の暮らしが見えてくる。  

フョードル・ドストエフスキー / ペロフ(1834-1882)画 トレチャコフ美術館(モスクワ)蔵

フョードル・ドストエフスキー / ペロフ(1834-1882)画 トレチャコフ美術館(モスクワ)蔵

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イサク聖堂 Исаакиевский собор

 
イサク聖堂 / 聖イサアク大聖堂(イサアーキィフスキー・サボール)は、サンクトペテルブルクの中心地にあるロシア正教会の大聖堂で、ドームは全高101.5mの偉容を誇る。イサク聖堂の名称は、ピョートル大帝の守護聖人、ダルマチアの聖イサアクに由来する。

イサク聖堂

イサク聖堂

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  ▲▼ ピョートル大帝の時代にワシリエフスキー島に初代の「聖イサク教会」が建設されたのが起源とされる。その後、1717年に元老院広場(現在のデカブリスト広場)に移ったが、軟弱な地盤に加え、落雷によって焼失した。  

イサク聖堂の巨大なクーポル(丸屋根)

イサク聖堂の巨大なクーポル(丸屋根)

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  ▼ 現在の聖イサク聖堂は、アレクサンドル I 世の時代に建造されたもので、帝政ロシアのシンボルとして、フランス人宮廷建築家オーギュスト・ド・モンフェラン Auguste de Montferrand の設計によるもの。モンフェランの監督下、1818年から1858年まで、40年の長きにわたって工事が行われた。  

聖イサク寺院を設計したフランス人「モンフェラン」の胸像

聖イサク寺院を設計したフランス人「モンフェラン」の胸像

  ▼ 現在の建物は4代目に当たり、高さ101.5m、幅97.6m、奥行き111.3m、収容人員は1万4000人を誇る。エルミタージュ美術館や血の上の救世主教会とともにサンクトペテルブルク最大の観光スポットとなっている。  

イサク聖堂の巨大な大理石円柱

イサク聖堂の巨大な大理石円柱

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  ▲▼ 聖堂の入口には、四方合わせて48本の巨大な大理石の円柱が立つ。1本の円柱は、高さ17m、直径1.8m、重さ114tonもある。柱を全部立て終わるだけで、2年の歳月を要したという。聖堂は煉瓦造りで、外壁には花崗岩が、内壁には大理石が使われている。頭上には、黄金に輝く直径25.8mのドームがかぶせられている。  

クーポルから光が降り注ぐイサク聖堂の内部

クーポルから光が降り注ぐイサク聖堂の内部

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  ▲▼ 聖堂の内部は、モザイクによって壁画が描かれ、装飾には大理石や緑色の孔雀石がふんだんに使われていて、豪華さを演出している。 フレスコ画に覆われた普通のロシア正教会の聖堂とは異なるため、西洋の教会のような印象を受けるがロシア正教会であることは、十字架やベンチやパイプオルガンがなく中央にイコスタスが据えられていることからも明らかである。  

正面のイコスタスと美しい緑色の孔雀石の柱

正面のイコスタスと美しい緑色の孔雀石の柱

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   イサク聖堂は、ロシア革命後はソビエト政権の下で博物館となった。他のサンクトペテルブルクの建造物同様第二次世界大戦に危機に見舞われた。独ソ戦におけるレニングラード包囲戦では、イサク聖堂の黄金のドームはドイツ軍にとって絶好の標的と成り得たため、ソ連側はドームを灰色に塗装して 死守したという。ソ連崩壊後、大聖堂としての活動を再開し、祭日における奉神礼*(そうしんれい)などが厳かに行われている。  
  *奉神礼:正教会における奉事・祈りの総称。  

イサク聖堂の丸天井

イサク聖堂の丸天井

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ネヴァ川クルーズ

ネヴァ川クルーズ

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オーロラ Аврора

 
  ▲▼ イサク聖堂の見学のあと、遊覧船に乗って、ネヴァ川クルーズを楽しんだ。最初に目にしたのが、日露戦争で日本海海戦に臨んだロシアの軍艦オーロラだった。日本の連合軍旗艦「戦艦三笠」によく似ていた。  
   オーロラ( アヴローラ 常備排水量 6,731ton、全長 126.8m、全幅 16.8m、吃水 7.3m 直立型往復動蒸気機関3基3軸推進 12,300hp 最大速力 19ノット 乗員 578名 )は、ロシア海軍の防護巡洋艦である。現在は、ロシア革命の象徴のひとつとして記念艦となり、サンクトペテルブルクのネヴァ川の河畔に係留・保存されている。  
   1903年に就役したオーロラは、日露戦争においては、バルチック艦隊の主力である第2太平洋艦隊所属となって、ロジェストウェンスキー提督の指揮下、極東へ派遣された。バルチック艦隊に組み込まれた軍艦は、サンクトペテルブルクの海軍基地からも出港し、1905年5月27日から28日にかけて日本海海戦で死闘を演じたが、僚艦が大日本帝国の連合艦隊に撃破される中、オーロラは戦線離脱に成功し、中立国であるアメリカ領フィリピンに到達し、マニラで抑留された。  
   その後もオーロラは数奇な運命を辿りながら生き延び1948年から練習艦としてネヴァ川河畔に係留され記念艦として恒久的に係留されることとなった。1956年、海軍博物館の一部として博物館船となり、公開された。以来現在に至るまで一般公開され、約2800万人がオーロラを見学したという。  

ロシアの防護巡洋艦オーロラ(アヴローラ)

ロシアの防護巡洋艦オーロラ(アヴローラ)

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日本海海戦

日本海海戦(にほんかいかいせん)(1905年5月27日-5月28日)は、日露戦争中に対馬近海で大日本帝国とロシア帝国との間で戦われた海戦である。連合艦隊が大本営に向けて打電した「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」で知られる。
 日本海軍の連合艦隊とロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊(日本では「バルチック艦隊」の呼び名が定着している)との間で戦われた。日本連合艦隊司令長官東郷平八郎大将が採用した丁字戦法などにより、バルチック艦隊は戦力の大半を失い壊滅したが、連合艦隊の損失は軽微で海戦史上まれな一方的勝利となりポーツマス講和会議への道を開いた。
 当時、世界最大の軍事力を有していたロシア帝国の敗北は、世界を驚愕(きょうがく)させ、タイムズ紙など有力紙が確認のため発表を遅滞させるほどであったという。
Z旗が翻る連合艦隊旗艦三笠艦橋で指揮をとる東郷平八郎大将

Z旗が翻る連合艦隊旗艦三笠艦橋で指揮をとる東郷平八郎大将

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戦艦「三笠」

イギリスの造船所で建造された三笠(みかさ)(常備排水量 15,140ton、全長 131.7m、全幅 23.2m、吃水 8.3m 15,000hp 最大速力 18ノット 乗員 860名 就役 1902年)は、大日本帝国海軍の戦艦で、敷島型戦艦の四番艦。奈良の三笠山にちなんで命名された。1904年(明治37年)からの日露戦争では連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官 東郷平八郎大将らが座乗した。現在は、神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として保存されている。
日本海海戦の旗艦「戦艦三笠」 / 三笠公園(神奈川県横須賀市)

日本海海戦の旗艦「戦艦三笠」 / 三笠公園(神奈川県横須賀市)

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ペトロパヴロフスク要塞  Петропа́вловская кре́пость
▼ ペトロパヴロフスク要塞(ピトラパーヴラフスカヤ・クリェーパスチ)は、ロシア、サンクトペテルブルクの兎島(うさぎじま)にある要塞である。名称は、ロシア語で「ペトロとパウロの要塞」という意味で、ペトロ・パウロ要塞又はペトロ・パヴロ要塞とも表記される。正式名称はサンクトペテルブルク要塞(Санкт-Петербургская крепость サンクトピチルブールクスカヤ・クリェーパスチ)。
サンクトペテルブルク発祥の地「ペトロパヴロフスク要塞」 / 兎島

サンクトペテルブルク発祥の地「ペトロパヴロフスク要塞」 / 兎島

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▲▼ 1703年、ピョートル大帝が兎島に要塞を起工し、サンクトペテルブルクの町が生まれた。同年モスクワから遷都し、ロシア革命によりモスクワがソ連邦の首都と定められるまでの200年余の間、ロシア帝国の首都として君臨した。
  夏空に尖塔聳ゆヤーチャイカ 北舟 

なつぞらに せんとうそびゆ やーちゃいか

A steeple rising into the summer sky, I am a sea gull.

ネヴァ川から望むペトロパヴロフスク要塞

ネヴァ川から望むペトロパヴロフスク要塞

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  ▲▼ ペトロパヴロフスク要塞(ピトラパーヴラフスカヤ・クリェーパスチ)は、18世紀に発生した大北方戦争の過程で、スウェーデンから奪った土地を防衛するために築かれた。実際は、要塞としての機能を果たすことはなく、政治犯収容所として利用された。
   最初に収監されたのは、ピョートル大帝の皇太子アレクセイ(1690-1718)で、謀反の疑いで父から拷問を受け、獄中死した。またエカテリーナII世の時代には自分こそ皇位継承者であると名乗り出た公爵令嬢タラカーノワも投獄され、死亡している。のちに二つの史実は絵に描かれ、トレチャコフ美術館に展示されている。
   そのほか、バクーニンやネチャーエフ、ドストエフスキーレーニンらも収容された。ロシア革命後には、失脚した臨時政府の閣僚らも収容された。一部は脱走に成功したが、残った人々は獄死したり、処刑された。

金色に輝くペテロバウロフスク聖堂の高さ122.5mの尖塔

金色に輝くペテロバウロフスク聖堂の高さ122.5mの尖塔

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ペトロパヴロフスク聖堂  Петропавловский собор
  ▲ 要塞の中央にペトロパヴロフスク聖堂(ピトラパーヴラフスカヤ・サヴォール)があり、ピョートル大帝からロシア最後の皇帝ニコライ II 世までの歴代皇帝とその家族が葬られている。写真上は、金色に輝くペテロバウロフスク寺院の高さ122.5mの尖塔。先端には長さ6m余の十字架と3m余の天使像が取り付けられている。
   ペトロパヴロフスク要塞は、現在は造幣局として利用されているほか一部は観光客にも開放されており、金箔を用いた豪華なバロック様式の内装などを見学できる。  

宮殿橋とエルミタージュ美術館 

宮殿橋とエルミタージュ美術館

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マリインスキー劇場  Мариинский театр
夜19時から開演するマリインスキー劇場で現代バレエ「GOLDEN AGE」を観劇したこの劇場は1783年に創設されたロシアを代表するオペラ・バレエ劇場である。ソ連時代はキーロフ劇場と呼ばれていたが現在は旧名に戻っている。チャイコフスキー作曲による「眠りの森の美女」や「くるみ割り人形」など誰でも知っているロシアのオペラ・バレエの多くの名曲がこの舞台で生まれた。

マリインスキー劇場でバレエ観劇

マリインスキー劇場でバレエ観劇

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  ▲▼ マリインスキー劇場の起源は1783年にエカテリーナ II 世の命により、オペラとバレエの専用劇場としてサンクトペテルブルクに開設された帝室歌劇場である当初は石造りであったことからボリショイ・カーメンヌイ劇場の名で親しまれていた。  

シックな観覧席

シックな観覧席

資料
  ▲▼ 1859年アルベルト・カヴォスの設計によりネオ・ビザンチン様式の現在の劇場が竣工した。翌1860年皇帝アレクサンドル II 世の皇后マリア・アレクサンドロヴナの名に因み、「マリアの」という意味の「マリインスキー帝室劇場」と名付けられた。1886年、併存していたカーメンヌイ劇場の閉鎖により、オペラとバレエは全面的にマリインスキー劇場に移管され、黄金時代を迎えた。  

豪華なバルコニーの貴賓席

豪華なバルコニーの貴賓席

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  ▲▼ 内部は、モスクワのボリショイ劇場とよく似た造りだが、ボリショイが赤・白・金色の華麗な内装であるのに対して、こちらは青緑・白・金色の落ち着いた雰囲気がある。約1,700人を収容する。現在も世界的指揮者ワレリー・ゲルギエフが総裁を務め、芸術の国・ロシアの威信を一身に背負っている。  

現代バレエ「GOLDEN AGE」

現代バレエ「GOLDEN AGE」

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赤いサラファン  Красный сарафан

 BGMに流れるロシアの歌曲「赤いサラファン」(クラースヌィ サラファーン)」は、アレクサンドル・エゴロヴィチ・ヴァルラーモフにより1834年に作曲された。ニコライ・グリゴリエヴィチ・ツィガーノフ(1797-1831)が1831年に作った詩につけられたと伝えられている。
 
  結婚に乗り気でない娘とそれを諭す母親との会話により成り立っている。原詩は10番まであり、1番から5番までは娘のせりふで、6番から10番は、母親のせりふである。サラファンとはロシアの民族衣装のことで、ロシア語の「赤い」(красный クラースヌィ)には「美しい」という意味もある。ロシアでは現在に至るまで歌い継がれている。 

Красный сарафан

 赤いサラファン (訳詩)

Не шей ты мне, матушка,
Красный сарафан,
Не входи, родимая,
Попусту в изъян.

Рано мою косыньку
На две расплетать.
Прикажи мне русую
В ленту убирать!
私に縫ったりしないで、母さん、
赤いサラファンなんか
母さん、意味もなく
無駄なことはしないでね


私の二本に結ったお下げ髪を
編み直してしまうには早いわ
私の亜麻色の髪を
リボンで飾らせてちょうだい!
Пускай непокрытая
Шелковой фатой,
Очи молодецкие
Веселят собой!

То ли житьё девичье,
Чтоб его менять,
Торопиться замужем
Охать да вздыхать!
絹でできた花嫁のベールなんて
かぶらないでいたいのよ
若い男たちの眼が
楽しむんだから!


嫁入り前の暮らしが、
急いで結婚して
「ああ!」とため息をつくようなことと
取り替えられたらいいのに
Золотая волюшка
Мне милей всего!
Не хочу я с волюшкой
В свете ничего!
輝かしい気ままな暮らしが
ただ懐かしいの!
何も無い世界に
自ら進んで行くなんてことしたくないのよ!
 
 日本では津川主一の訳詩で親しまれ、いわゆるロシア民謡のレパートリーの一つとして人気がある。
赤いサラファン 縫(ぬ)うてみても
楽しいあの日は 帰りゃせぬ
たとえ若い娘じゃとて
何でその日が 長かろう
たとえ若い娘じゃとて
何でその日が 長かろう
燃えるような その頬(ほほ)も
今にごらん 色あせる
その時 きっと思い当たる
笑ろたりしないで 母さんの
言っとく言葉を よくお聞き
とは言え サラファン縫うていると
お前といっしょに 若返る 若返る
 
ともしび Огонёк
 
 
   「ともしび」(アガニューク)は、イサコフスキーの詩にロシアの古い民謡の旋律をのせて歌われた哀愁を帯びた美しい歌曲である。  
   我々団塊の世代は、1950年代に流行した歌声喫茶が思い浮かぶ。歌声喫茶の人気は、労働運動や学生運動の高まりとともに急上昇し、店内は毎日のように人であふれ、最盛期には全国で100軒を超える店があったという。しかし、昭和40年(1965)頃をピークに歌声喫茶のブームは急速に衰退し、その後ほとんどの店が閉店した。  
   歌詞には、前線へ送られる兵士と残された少女の愛が描かれている。日本では、音楽舞踊団カチューシャの訳詞が有名で、知る人ぞ知る名曲である。  
1. 夜霧のかなたへ 別れを告げ
雄々しきますらお 出(いで)て行く 
窓辺にまたたく ともしびに
つきせぬ乙女の 愛のかげ
2. 戦いに結ぶ 誓いの友
されど忘れえぬ 心のまち
思い出の姿 今も胸に
いとしの乙女よ 祖国の灯(ひ)よ
3. やさしき乙女の 清き思い
海山はるかに へだつとも
二つの心に 赤くもゆる
こがねのともしび 永久(とわ)に消えず
4. 変らぬ誓いを 胸にひめて
祖国の灯のため 闘わん
若きますらおの 赤くもゆる
こがねのともしび 永久に消えず
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