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 感動写真集

2007年11月15日改訂

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♪メドレー/クワイ河マーチ・ボギー大佐マーチ

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2007年10月10日作成

クウェー川鉄橋駅で乗降する人たち

クウェー川鉄橋駅で乗降する人たち(タイ・カンチャナブリー)

戦場に架ける橋

泰緬鉄道

戦争博物館  War Museum

 慰霊祭の後、慰霊塔の近くにある戦争博物館に行った。ここは当時の捕虜収容所を再現すべく竹で作られており、屋外には当時の泰緬鉄道(たいめんてつどう)で使われた機関車が錆びたまま展示されていた。内部には、捕虜の服、身の回り用品、建設に使われた工具類のほか、写真や捕虜によるスケッチなどが展示され、当時の悲惨な様子が生々しく再現されていた。

戦争博物館

戦争博物館

泰緬たいめん 鉄道

 泰緬連接鉄道(通称「泰緬鉄道」)の建設は、20世紀初頭の英領ミャンマー時代にイギリスが検討したが、地形が複雑なために建設を断念していた。戦時中、旧日本軍は海上輸送の危険を避けるべく、1942年、ミャンマー戦線の物資輸送のためのルートを確保するため、建設を開始した。(イギリスが検討した複数案の1つを採用した。)

当時の泰緬鉄道で使われた機関車

当時の泰緬鉄道で使われた機関車

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 建設は、タイ側はノーンプラードックから、ミャンマー側はタンビュザヤから開始された。建設作業には、日本軍1万2000人、連合国捕虜 6万2000人(1万2619人死亡)、募集で集まったタイ人数万(不明)・ミャンマー人18万人(4万人死亡)・マレーシア人(華人・印僑含む)8万人(4万2000人死亡)、インドネシア人(華僑含む)4万5000人の労働者が使われた。

泰緬鉄道の建設に使われた道具

泰緬鉄道の建設に使われた道具

拡大写真(1400x890)336B 資料

 建設現場は劣悪で、特に工事の後半は雨季にも拘らず突貫工事が続けられ、食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアにかかって死亡した犠牲者は莫大な数にのぼった。その数は、日本側とタイ・ミャンマー側の調査で食い違いがあるが、約半数といわれており、戦後、重大な問題となった。

 特にヘルファイアー・パスと呼ばれる断崖絶壁の未開地では、工作機械不足と突貫工事による人海戦術のため死者が多かったという。

カンチャナブリー側から見たクウェー川鉄橋

カンチャナブリー側から見たクウェー川鉄橋

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カンチャナブリー市によるクウェー川橋の碑

 クウェー川鉄橋のそばに「クウェー川橋 THE BRIDGE OVER THE RIVER KWAE 」と題するカンチャナブリー市が制作した碑があり、先の大戦中に行われた悲惨なクウェー川橋の建設工事について説明されていた。

カンチャナブリー市による英語版クウェー川橋の碑

カンチャナブリー市による英語版クウェー川橋の碑

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碑 文

 クウェー川架橋は、日本がアメリカとイギリスに宣戦布告をし、のちに第二次世界大戦の一部となった太平洋戦争中に建設された。この橋は、B.E.2485(西暦1942)年10月に建設が始まり、B.E.2486(西暦1943)年9月16日に完成した。

鉄橋からクワウェー川鉄橋駅を見る

鉄橋からクワウェー川鉄橋駅を見る

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 B.E.2485(西暦1942)年、日本陸軍は、タイからビルマ(現ミャンマー)に至る戦略的鉄道の建設についてタイ政府との契約に署名した。この鉄道は、Banpong 鉄道駅から約5kmのNongpladuk 駅からスタートし、Danchanaburi(カンチャナブリー)県 Muang 郡 Ban ThamakhamにあるKwae Yai 川を横断した。(当時その地は馬の横断を意味する「Ban Tha Maa Kham」と呼ばれていた。)

鉄橋をバックに立つ筆者

鉄橋をバックに立つ筆者

 この鉄道は、北方に向けて敷設され、Kwae Yai 川沿いに約4kmに渡ってカンチャナブリーを通過し、橋の部分で Kwae Noi 川に沿った急激なカーブを通り、Three Pagodas Passでタイ - ビルマ国境を通過し、Thanbyuzuyat駅でビルマ鉄道と接続する。鉄道の全長は415kmで、タイ側は303.95km、ビルマ側は111.05kmであった。

列車が来たときの退避場所

列車が来たときの退避場所

 マレーシア、シンガポール、インドネシアその他の太平洋地域の国々から連行された捕虜は、鉄道建設を強いられた。彼らは南方で汽車に乗せられ、Banpong 駅で降ろされ、51km先のカンチャナブリーまで歩かされた。

鉄橋の途中から対岸を望む

鉄橋の途中から対岸を望む

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 捕虜はイギリス、オーストラリア、オランダの兵隊やマレーシア、中国、ベトナム、インド、ビルマも含まれ、日本人労働者をあわせると20万人近くにのぼった。

鉄橋のそばの観光レストラン

鉄橋のそばの観光レストラン

人がいる鉄橋に列車が来た!

人がいる鉄橋に列車が来た!

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 鉄道建設は密林や高山を通過しなければならなかったために骨の折れる困難なもので、危険な動物が至る所にいた。最も困難だったのは、クウェー Kwae 川に橋を架けなければならなかったことで、この困難な任務は飢えとマラリアのような危険な疾病に晒されながら日夜続けられた。戦争の残虐行為により、10万人を超える捕虜や労働者の命が失われた。そのため、この鉄道は死の鉄道 The Death Railway と呼ばれた。

クウェー川鉄橋を渡る観光列車

クウェー川鉄橋を渡る観光列車

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 日本陸軍は、土質が硬く適しているThamakhamに橋を建設することを選んだ。建設を早めるため、建設資材を運ぶための木造の仮設橋を現地点の100m先に3ヵ月かけて建設した。

至近ですれ違う列車!

至近ですれ違う列車!

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 鉄道橋のスパンはビルマから運ばれてきた。全長300mの橋は11の鉄製スパンで構成され、その他の部分は木造だった。全長415kmの鉄道が完工するまで、わずか6ヵ月しかかからなかった。鉄道の公式開通日は B.E.2486(西暦1943)年11月28日だった。

クウェー川鉄橋駅

クウェー川鉄橋駅

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 後に木製の橋は水路を塞いだため取り除かれた。戦時中、クウェー川架橋は、連合軍の航空機により激しい爆撃を受け、4〜6のスパンは被害を受けて使えなくなり、B.E.2438(1945)年8月15日、遂に日本軍は鉄道を明け渡した。イギリス政府は、鉄道と付随施設を5千万バーツでタイ政府に売却した。後にタイ鉄道省は橋を修復し、2スパンの鉄橋に改装するとともに、6箇所の木製部分を鉄製に換装し、現在も使用している。(和田訳)

列車を待つ人たち

列車を待つ人たち

戦場にかける橋 The Bridge on The River Kwai
 「戦場にかける橋」は、1957年公開のイギリス映画。製作会社はコロムビア映画で、監督はデヴィッド・リーン。ピエール・ブールの小説「クワイ河の橋」をリーンらが脚色したもので、第30回アカデミー賞の作品賞を受賞。主題曲の「クワイ河マーチ」もオスカーを受賞した。

戦争当時の木造橋を渡る列車

戦争当時の木造橋を渡る列車

資料

 題名の「戦場にかける橋(クワイ河橋)」は、原題からもわかるように、タイのクウェー川に架かるクウェー川鉄橋を指す。
 第二次世界大戦真っ只中の1943年、タイとビルマの国境付近の捕虜収容所を舞台に、捕虜となったイギリス軍兵士らと、彼らを強制的に鉄道建設に動員しようとする日本人大佐との対立と交流を通じ、極限状態における人間の尊厳と戦争の惨(みじめ)さを描いた。劇中に登場する英国兵への数々の懲罰は原作者のブールが実際に体験したものという。
 ブールは有色人種の捕虜となったことや、懲罰を通して受けた屈辱を生涯忘れなかったといわれ、映画化作品において、日本人との間に信頼関係が築かれるという脚色に不満を抱き、後年発表したSF小説「猿の惑星」で日本人を猿として描くことで鬱憤を晴らしたというエピソードがある。
 逆に、建設工事に関係した旧日本軍の元兵士の話では、イギリス人の技術協力を受けて完成できたとする内容はフィクションに過ぎず、日本の高度な土木技術により、完成することができたという。
 舞台となったクウェー川鉄橋は本作品の公開を通じて広く世間に認知され、公開後半世紀経過した現在でもタイの観光名所となっている。

捕虜収容所長・斎藤大佐

 

イギリス兵捕虜・ニコルソン中佐

捕虜収容所長・斎藤大佐 イギリス兵捕虜・ニコルソン中佐

建設中のクワイ河橋

 

完成した鉄道橋

建設中のクワイ河橋 完成した鉄道橋
クワイ河マーチ The River Kwai March
 蝉や鳥の鳴き声とともに徐々に大きくなって接近してくる「クワイ河マーチ」をBGMに、ニコルソン中佐率いるイギリス軍捕虜たちが収容所に到着するシーンから悲劇の物語が始まる。この「クワイ河マーチ」は、世界各国で幅広く演奏される映画音楽の中で最も親しまれている作品のひとつである。

やってきた旧日本軍の列車

 

クワイ河橋を渡り始めた列車

やってきた旧日本軍の列車 クワイ河橋を渡り始めた列車

爆破されたクワイ河橋

 

クワイ河に落下する列車

爆破されたクワイ河橋 クワイ河に落下する列車
 元は、プリマスで英国海軍の軍楽隊長を務めていた「イギリスのマーチ王」リケッツ大尉(F. J. Ricketts /1881-1945)が1914年に作曲した「ボギー大佐マーチ Colonel Bogey March 」で、後にイギリスの作曲家マーカム・アーノルド(Malcolm Arnold /1921-2006)が編曲し、「戦場にかける橋」の主題曲として用いられた。

クウェー川鉄橋を渡る列車

クウェー川鉄橋を渡る列車

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 「ボギー大佐マーチ」と「クワイ河マーチ」の最大の違いは、後者の主旋律が口笛であること。この頁のBGMは、「サントラ版クワイ河マーチ」「クワイ河マーチ」「ボギー大佐マーチ」の順に並べている。その違いを十分に味わっていただきたい。

クウェー川鉄橋

クウェー川鉄橋

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アメリカの記念碑

 駅のそばに、アメリカ合衆国タイ5区、太平洋省、対外戦退役軍人会の人々が建てた小さな記念碑があった。

アメリカの記念碑

アメリカの記念碑

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 この碑には、「アメリカ合衆国のおよそ700名の兵士たちは、第二次世界大戦の捕虜としてタイとビルマ(現ミャンマー)に移送されて捕虜収容所に抑留され、タイ〜ビルマ鉄道建設事業に強制労働させられた。疾病、栄養不良、過労、虐待により356人が死亡した。」と書かれている。

クウェー川鉄橋駅に進入する列車

クウェー川鉄橋駅に進入する列車

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 カンチャナブリー市の碑にはアメリカ兵のことは記載されていないが、映画では捕虜収容所から脱出したアメリカ兵が援軍を引き連れ、クワイ河橋を爆破することで終わる。この碑により、アメリカ兵の犠牲者が少なからず存在したことが分かる。

 戦争犠牲者の御冥福を祈りながら、大勢の観光客が押し寄せる平和なカンチャナブリーを後にした。〈 合掌 〉

クウェー川鉄橋駅で乗降する人たち

クウェー川鉄橋駅で乗降する人たち

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撮影 ・ 原作 : 
 

宮嶋 茂みやじましげる

 

住居: タイ・ノンタブリー県

趣味: 音楽鑑賞、寺めぐり
スポーツ: スイミング、サイクリング

 私は1946年生まれの60歳です。出身は愛知県で、現在タイ滞在は5年目です。健康を害していますので、こちらでのんびりやっています。しかし、悠々自適には程遠く、清貧を旨として何とかやっております。
 2007年3月25日にタイ国日本人会主催のカンチャナブリー慰霊塔法要へ出席して参りました。ここには第二次世界大戦の時に、日本軍が建設した泰緬鉄道工事に従事し、亡くなられた連合軍の捕虜や労務者の御霊を奉った慰霊塔が日本軍により建設されており、戦後タイ国日本人会がここの維持にあたり、毎年会員有志による慰霊祭を執り行っているものです。 法要は慰霊塔の前にテントを張って行われましたが、バンコクより随分暑く、当時は人力と象の力を使って工事が行われたそうで、往時が偲ばれます。僧侶も汗だくでお経を上げてくれました。
 
 慰霊碑が建立された当初は、そこからクウェー川鉄橋がよく見えたそうですが、次第に建物が建ち、現在は見通すことができなくなりました。戦後生まれた我々がリタイアするほど、戦争は遠い昔のこととなりましたが、今でも戦争犠牲者の御霊を弔う人々がいることに胸を打たれました。 2007年10月10日 〈 完 〉

★☆★彡

感動写真集/ 第86集 「戦場に架ける橋」

撮影・原作:宮嶋茂    監修: 和田義男

 平成19年(2007)10月10日 作品:第34作 画像:(大27+小8) 頁数:2 ファイル数:87 ファイル容量:23MB
 平成12年(2000)〜平成19年(2007) 作品数:325 頁数:1,156 ファイル数:30,547 ファイル容量:4,311MB

【編集子が選ぶ名作】

クウェー川鉄橋

クウェー川鉄橋

拡大写真(2000x1180)333KB

感動のクワイ河マーチ
 宮嶋さんのタイ滞在最後の作品になった「戦場に架ける橋」は、特に「クワイ河マーチ」が有名だったので、この作品が送られてきたとき、心臓の鼓動が高鳴った。
 たまたま、テレビで「戦場にかける橋」が放映されたので、再度、じっくりと鑑賞することができた。最初に蝉や小鳥の声と共に伸びのある口笛が特徴の「クワイ河マーチ」が聞こえてくると、ニコルソン中佐率いるイギリス軍捕虜たちが隊列を組んで行進し、捕虜収容所に到着する。
 初めてこのキャンプに着くのに、日本軍の護衛もなく、まるでかつて訪れたことのある任地に赴任するように堂々と行進してくる。こんなことはあり得ないし、収容所長の斎藤大佐と対等の立場のように振る舞うニコルソン中佐の行動も理解しがたい。
和田義男
 種々の確執が繰り広げられるが、やがて斉藤とニコルソンとの間に友情らしきものが芽生え、日本軍が難渋していた橋の建設がイギリス兵の主導により完成されてゆく。これもあり得ない虚構であり、原作者も不満を持つ。
 最後は脱走したアメリカ兵が援軍と共に完成した橋を爆破し、それを止めようとするニコルソンや佐藤も落命する。爆破された橋と共に列車もクワイ河に落下し、全てが失われる悲劇的な結末により、戦争の無情や悲惨さが描かれる。
 無理なプロットが散見されるが、オスカーを受賞したことはそれだけの魅力を持つ映画だということなのだろう。とりわけ、私が一番心に残るのは、クワイ河マーチである。厳しい環境の中にあっても、何か勇気が湧いてくるこの爽やかなマーチは、何度聞いても飽きることはない。
 この作品のための資料収集の過程で、クワイ河マーチは、実は「ボギー大佐マーチ」の編曲であることを知った。この行進曲は良く耳にしていたが、今回、伸びのある口笛が主旋律を奏でるのが「クワイ河マーチ」であることを知り、その曲名と共に「ボギー大佐マーチ」に優ることを確信した。

★☆★彡

お断り
 本作品の解説は、宮嶋さんの説明を受けて監修した和田が創作したものであり、感想や意見にわたる部分は、一部、宮嶋さんの心情と異なる部分があります。従来から感動写真集の監修は、一貫してこのようなスタイルになっています。解説の責任は全て和田に帰属しますので、ご意見などがありましたら、和田の方にお送り下さい。どうかご理解を賜りますよう、宜しくお願いします。有り難うございました。
監修 和田義男
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