人や物を乗せて水上を渡る乗物。これが一般的な定義であるが、現在では水面下を行動する潜水船や、空気圧によって水面上を浮上して走行するエアクッション船もあり、これらも広く船に含めている。慣例では、大型のものには〈船〉、ごく小さいものには〈舟〉を用いるのがふつうである。なお、法規上は〈船舶〉という語が使われる。 船の歴史 ごく初期の舟には、大別して三つの構造様式がある。それは(1)丸木舟、(2)いかだ、(3)動物の革(皮)の舟である。丸木舟は大きい丸太をくり抜き、両端をとがらせて作るため〈くり舟 dugout〉とも呼ばれる。いかだは細い丸太、ときには竹や水草の茎などを束ねて舟の形にする。革舟は動物の革を縫い合わせて舟の形にし、内側から木の枝や動物の骨などの枠組みで形を支える。古い時代の人々は、まず材料入手の問題、そして舟を使う環境などに応じてこれらを適当に使い分けたようである。そして文化が進むにつれてもっと大きい舟が必要になり、それぞれの構造様式が発達し、変形し、入り交じって、現在われわれの知っている船の構造ができ上がってきた。例えば有名なバイキングの船は、薄い木板を鉄釘で縫い合わせて船の形を作り、後から木材の肋骨を入れて補強しているが、このバイキング船の構造には、革舟の影響が色濃く残っている。 地中海における発達 現在記録に残っている最古の船はエジプトのナイル川の舟とされている。古代エジプト人はパピルスを束ねていかだにし、両端をとがらせながら水面上にもち上げて流麗な曲線の船型を作った。大型化に伴って材料は木材になったが、船型の基本は変わらなかった。エジプトは大きい木の育たない土地だったから、多数の小さい木材を接ぎ合わせて船を作った。前3000年ころからエジプト人は東地中海を航海するようになり、フェニキア(現在のレバノン地方)から杉材を輸入して大型船を作ったが、構造様式はあまり変わらず、他の地方の船とは異なっている。推進方法は初めは櫂(パドル)でこぎ手は前を向いているが、新王朝の大型船では橈(オール)になる。前4000年ころの絵ですでに帆らしいものが認められるが、後世のものはりっぱな横帆をもっている。舵の進化もよくわかる。エジプトに続いて古代世界に登場する船はクレタ人の船である。前3000年ころ、クレタ島をはじめ、エーゲ海の島々に文明が栄えたが、彼らの船はギリシア本土と往来していたし、またエジプトの船との接触も始まっていた。残念なことにクレタにはエジプトのような詳しい船の絵が残っていないが、後世に大きい影響を与える船の二つの類型、〈長い船〉と〈丸い船〉はクレタに始まったと考えられている。 長い船は細長くて高速に適し、オールでこぐ。積載能力は低く、船首に衝角(ラム)をもつことが多い。おもに戦争に使う。丸い船は幅が広く帆走に適し、速くはないが長い距離を小人数で航海できる。積載能力も高く、貿易に使う。 エジプト、クレタに続いて東地中海の主役となったフェニキア人もこの二つのタイプの船で活躍した。彼らは史上有数の航海民族で地中海全域はもとより、ジブラルタルを通って北海方面、またアフリカ西岸を遠く南下し、一方では紅海からアフリカ東岸にも航跡を残している。後にカルタゴを中心とする北アフリカ地方を本拠にローマと覇権を争って敗れ去るまで2000年に及ぶ海上活動の歴史をもつ。フェニキアの船についても資料は乏しく、構造、艤装(ぎそう)の詳細については想像の域をでない。しかし前600年ころからフェニキアの後を追って海に乗り出したギリシア、それを引き継いだローマの船については絵画その他の資料がある。これらの資料からフェニキアの船も含めて、紀元前の数世紀の間、古代の地中海で活動していた貿易船や軍船の姿を知ることができる。海戦用の〈長い船〉は大型になり、必要な推進力を得るためオールを上下何段にも並べる二段橈船bireme、三段橈船 trireme などのいわゆるガレー船が発達した。これらの軍船は1本マストと横帆をもち、順風には帆走したが、戦闘中はもっぱらオールを使った。敵に体当りして沈めるための水中衝角を例外なくもっているが、おもな戦闘方法は弓矢と接舷斬込みで陸戦を水上に移した形であった。 商業貿易用の〈丸い船〉も大型になり、船体構造も基本的には現在の木造船に近い強固なものになった。1本マストに横帆の帆装が一般的であったが、船首に補助帆を展ずるくふうもすでに見られる。オールをもたずもっぱら帆走に頼ったのは商船として当然である。おおぜいのこぎ手とその食料を積めば貨物は積めず経済的に成り立たない。こうしてクレタ人に始まるとされる長い船と丸い船の設計思想は古代地中海で確立された。 この時代、地中海の船は他の世界と比べて決定的に進んでいた。北ヨーロッパやイギリスの島では革舟か丸木舟で湖や川、湾を渡ったり漁をしたりする程度であったし、中国ではおそらくいかだから発達したと思われる箱形の舟、サンパンが川や沿岸で使われていたが、後世のジャンクのように本格的な船ではなかった。日本ではまだ原始的な単材丸木舟の時代であったし、世界の他の地方でも要するに小舟の域をでていなかったといってよい。その後も1000年あまりの間、各地の船はほぼ独立に、徐々に発達を続けることになる。技術の交流が起こり、構造や艤装の混血が目だってくるには14〜15世紀まで待たねばならない。 北欧における発達 このような流れの中で重要な役割を演ずるのは北欧の船である。北方ゲルマン人やアングロ・サクソン人は丸木舟と革舟を使ったが、とくに彼らの革舟は相当大型で帆装をもつところまで発達したようである。西暦紀元前後からスカンジナビア地方に現れる独特の構造の木造船はこの革舟の子孫ではないかと考えられている。古代地中海の船の外板は縁と縁を突き合わせて張るが、これら北欧の船の外板は縁と縁を少しずつ重ねて釘で縫いつけてある。肋骨は船の形ができた後で入れている。この構造はまったく独特なもので、その基本が革舟に類似していることは確かである。この構造の自然の結果として北欧の船は船首と船尾が同じ形にとがったダブルエンダー double‐ender 型になる。このことはすでにローマ人の記録に見えるから、北欧人たちはこの構造の木造船を前200‐前100年ころにはもうもっていたのであろう。1000年の後、全欧州の海辺をふるえ上がらせたバイキングの異様に美しい船、いわゆるバイキング船はこの直系である。片玄十数本のオールを備え、また1本マストに横帆を展ずる。右玄船尾にある刀のような形の舵で操縦した。この船の航海能力はたいしたもので、長さ24m、幅5.1mのゴクスタッド船を復元建造した船はベルゲンからニューファンドランドまで大西洋を28日間で走破した(1893)。バイキングの時代(9〜10世紀)から400年ほどの間、イギリスを含む北ヨーロッパの船はまだしばらく独自の発達を続ける。船型の大型化とともにオールは姿を消しもっぱら帆走に頼ることになり、船の深さも大きくなる。軍船では船首と船尾にやぐらがつく。外板は重ね張りが続く。13世紀のハンザ同盟諸都市で貿易に使ったハンザ・コグ(コッゲ)もこの系統に属するが、この船は人類が作り出した最初の本格的な航洋貿易船の一つに数えられる。1962年、ブレーメンのウェーゼル川に沈んでいたコグの実物が発見された。莫大な労力を費やして復元・保存され、その船型、構造などが明らかになった。このコグは1380年ころの建造で長さ23.5m、幅7.6m、深さ4.1m、現在の総トン数にして約130トンくらいになる。がんじょうな船梁と固定甲板は重要な進歩である。1本マストに1枚の横帆は変わらないが、帆面積はバイキング船より大きい。長さはバイキング船と変わらないが、幅と深さが著しく増えて帆走商船、すなわち丸い船に変貌したことがわかる。注目すべき変化は船尾中心線に金具で取りつけた舵で、それまでは地中海の船も北欧の船も船尾玄側に流す形式の舵を使っていた。北欧は右玄1本で地中海は両玄各1本の差はあるが、どちらも櫂で操縦したなごりであって、船尾中央に固定する舵を思いつくのに人類は何千年も費やしたわけである。このほうが扱いやすく、また強いから明らかに優れている。舵の導入に伴って北欧船の一つの特長だった前後対称の船型が変わり、船首船尾の区別がはっきりしてきている。 アラブ、中国、日本 ところでバイキングが活躍した9〜10世紀のころには西方世界のほかに、中国を中心とする東アジアやアラブ文化圏でも西方に匹敵するくらい、あるいはそれに勝るほど発達した船がすでに存在していたことに注目したい。アラブの船はその地理的・文化的背景から考えて、エジプト、クレタにはじまる古代地中海の進歩した船の影響を受けたことは疑う余地がない。しかし歴史の〈失われた鎖の輪〉――未知の部分――をいくつか経て現れてくるアラブの船は船型、帆装ともに古代地中海の船とは一変したものになっている。いずれにしてもアラブの商船隊はハンザ同盟に先立つこと数百年の時代、すでに東アフリカからインドにかけて活発な貿易を行っており、6世紀の終りころには東南アジアから南中国に達している。当時の彼らの船についてはよくわかっていないが、その貿易が広州や福建地方に居留地を作るくらい本格的なものであったこと、また当時としては画期的な長い航路であったことを考えると、少なくともハンザ・コグに匹敵する程度の船はもっていたであろう。そしてアラブ商船との交易が中国の海運活動を引き起こしたことはよく知られており、唐代後期の9世紀のころには東南アジアから朝鮮半島、日本などで唐の商船は活発な貿易を行うようになった。すでに遣唐使の記録から推察されるように、7世紀には中国や朝鮮半島には当時の日本よりはるかに優れた大型船建造の技術があった。しかしそれはおそらくサンパンを基本とする北方系の箱形構造船であり、前述のアラブ船の影響を受けて、より航洋性の高い南方中国系の帆船ができ上がるのは8〜9世紀のことではないだろうか。次の宋代になると書かれた記録があり、また1973年に福建省で12世紀と推定される実物が発見されたので船型、構造がかなりよくわかってきた。この例では長さ約35m、幅10m、喫水3mで総トン数は約300トン、同時代のハンザ・コグの2倍程度になる。船底は V 型で波切りや帆走性能がよい。構造が中国独特のもので多数の横隔壁と厚い外板を基本とする。一方、当時の記録によると舵は船尾に取りつけられ、帆はすでに現代のジャンクのような縦帆を使っていたようである。なお、船尾中央に取りつける舵はすでに1世紀ころの広州の墳墓から発見されたサンパン型の船の模型に見られる。西方世界の舵の使用に先立つこと1000年以上も前のことになる。 日本の船はよく知られているように丸木舟で始まった。出土品は縄文時代前期までさかのぼることができるから相当古い歴史をもっている。紀元前後の弥生時代には丸木舟を縦に二つ接いで大型にするくふうが見られるようになり、鉄器の使用で工作の程度がよくなる。4〜6世紀の古墳時代には朝鮮半島との往来が盛んになり、船も玄側に板を接ぎ足した準構造船――丸木船からふつうの木構造船への移行過程――になってより大型になる。 8〜9世紀、遣唐使の後期に入って大陸型の大型船の建造技術が一時導入されたが定着せず、奈良、平安、鎌倉時代を通じて15世紀初頭まで日本の船は一部に丸木船の構造を残した準構造船であったと考えられている。推進方法はまだ櫓(ろ)に依存する程度が大きく、本格的な航海の可能な帆装をもつのはもっと後世のことになる。公正にみても、同時期の西方世界や中国、アラブ両文化圏の船と比べるとかなりおくれている。 一方、西欧、アラブ、東アジア三つの文化圏の船はすでに見てきたように12〜13世紀のころにはおおよそ同程度の発達段階にあったといってよいであろう。大きい相違は西方世界の船はその後大きい発展を遂げたが、他の二つの文化圏ではそれほど進歩しなかったことである。そして西方の船の歴史は多くの研究によってかなりその全容を明らかにできるが、他の二者については失われた鎖の輪があまりに多い。 混合と転換の時代 14世紀から15世紀にかけて西方世界の船は大きい転換期を迎える。それまで独自の発達を続けてきた地中海の船と北欧の船の間に技術交流と混血が起こり、新しい型の航洋帆船が生まれ、ヨーロッパ人が世界の海を制する基礎ができてくる。12〜13世紀、1本マストの横帆船に乗って地中海に入ってきた北欧人たちは、そこの船がみなまったく見慣れない帆を張っているのを見てそれをラテン帆(ラテンセール)と呼んだ。それは大きな三角帆で、その斜辺はマストにつるした長い棒(ヤード)で支える。2本マストが基本で、前のマストは著しく前に傾いている。この帆は中国のジャンク帆と並んで、人類が作り出した最初の縦帆であった。縦帆は横風や前よりの風を受ける帆走に適するので、横帆よりもずっと広い範囲の風向に適応できる。この帆は古代地中海ではまったく見られず、ローマ帝国衰退後の数世紀にわたる間に地中海に普及していたものである。その分布は地中海、紅海、アフリカ東岸、ペルシア湾からインド、インドネシア方面に及んでおり、それが7〜8世紀のイスラム勢力圏と一致するので、この帆はアラブ人の発明であろうといわれている。9世紀に興り、10世紀から14世紀にかけて商業的にも軍事的にも地中海を制することになるイタリアの海洋都市国家、ベネチアやジェノバなどの船ももっぱらラテン帆を使った。船体のほうは古代地中海の伝統に従って軍事目的の長い船(ガレー船)と貿易用の丸い船があったが、火器の発達に伴って積載量の大きい丸い船を海上要塞のように使ったり、一方、積載量は少し減らしても機動力の高い貿易船としてオールを多数備えた商業ガレー船も多用された。これらの船はそれを所有する都市国家の勢力拡大とともに大型化し、設計・建造の技術もおおいに発達した。フランスのマルセイユ、スペインのバルセロナもイタリアの都市国家群に伍するようになり、地中海におけるヨーロッパ人の勢力が復活した。これに関して十字軍の遠征が大きい役割を果たしたことはよく知られている。なお、この時代になると羅針盤(コンパス)の使用が一般化してきたようである。中国船は12世紀ころからコンパスを使っていたから、これがおそらくアラブの商船の手を経て地中海にもたらされたのであろう。 今やハンザ・コグに代表される北方系の航洋商船と、これら地中海のラテン帆を展ずる敏しょうな船との間に技術交流が起こる機は熟した。地中海の船は船尾舵と横帆を北方から学んだ。もっとも横帆は古代地中海の帆でもあったわけだが、安定した順風の続く長い航海と、それに加えて荒天を追手帆走で逃げ切る場合の長所が再認識されたのであろう。一方北の船はラテン帆と、平張りの外板を南からとり入れた。船が大型化しがんじょうな構造になった今、もはや重ね張りは適さない。またラテン帆と横帆の組合せは両方の長所を生かすことができる。 キャラック(カラック)と呼ばれた船はこうして生まれた新しい船の典型である。平張り外板の丸い船体に船尾舵を備え、船の中央の大きいマストに横帆を張り、船尾近くのもう1本のマストにラテン帆を張る。まもなく3本目のマストを船首寄りに設け、これに横帆を張るようになる。15世紀後半の帆装の変化は非常に早く、1492年にスペインを出帆したコロンブスのサンタ・マリア号は100トン足らずの小型キャラックと推定されているが、それでも上記の3枚のほかに船首から斜め前方に突出したバウスプリットの下に小型の横帆(スプリットセール)を張り、またメーンマストの上にも小型の横帆(トップスル)を張っている。 こうして15世紀末には3本マストとバウスプリットを備える全装帆船 full‐rigged ship の基本ができたわけで、今後これが西方世界の帆船の主流を占めることになる。 この生まれたての3本マストの航洋帆船が、その後わずか20年ほどの間に成し遂げた偉業はほとんど信じがたいくらいである。1492年のコロンブスの新大陸発見に続いて、98年にはバスコ・ダ・ガマがアフリカ南端(喜望峰)をまわってインドに達し、1515年にはそれに続くポルトガルの船隊が東南アジアに着く。そして1519‐22年にはついにマゼランの船隊が地球を西回りに一周してスペインに帰ってきている。全装帆船とはいってもわずか100〜200トン、帆装も後世のクリッパーや現在の練習帆船とは比べものにならない粗末なもので、よくこれだけのことができたものと感嘆させられる。しかしそれだけに犠牲も大きく、例えば5隻の船に280人が乗って出発したマゼランの船隊が副将エルカノに率いられて帰国したときには船はただ1隻になり、生き残った隊員はわずかに18人であった。 量的拡大と改良の時代 16世紀と17世紀は、15世紀後半の大転換期に続く量的拡大と改良の時代であった。船型の大型化とともに帆の数が増し、トップスルは大きくなって推進の主役になり、次々と新しい帆がくふうされた。今や海外に大きな市場を手に入れ、そこへの航路を開拓したヨーロッパ諸国は競って貿易の利をもとめ、なわばり争いも熾烈(しれつ)であった。積載量の大きい航洋商船と強力な軍艦が求められ、その必要にこたえてヨーロッパの船は発達を続けた。この時代の代表的帆船はガレオンと呼ばれ、キャラックの延長上にあるがキャラックより細長く、また船尾のラテン帆のマストが2本のものが多い。 大砲が海戦の主要武器になったので軍艦も積載能力が重要になった。多くの大砲と弾薬を積んで行動するには帆船が適している。地中海やバルト海東部では極限まで発達した大型の手こぎ軍艦が大砲を積んで17世紀まで残ったが、大勢は明らかに〈長い船〉の時代の終りを示していた。帆走軍艦に比べて砲力が問題にならないからである。 日本における発達と停滞 同じ16〜17世紀のころ、短い期間ではあったが日本人が南中国から東南アジアに進出した時期があり、日本の船の歴史のうえで特異な光を放つ船が現れる。朱印船は政府の発行する貿易公認状(朱印状)をもつ船のことで、この制度の始まる17世紀初頭のころは中国の船を買ったり、そっくりまねて作る例が多かったと考えられている。当時の日本の船はようやく準構造船の域を脱して幅の広い厚板を組み立てる箱形構造船になり、帆装も2本マストに小型の横帆を張る遣明船や、秀吉の朝鮮出兵に動員された船の程度にはなっていたが、まだフィリピンや東南アジアへの渡海をするには不十分だった。しかし1630年代になると技術は相当に発達したらしく、現存する数枚の絵馬から判断して当時としては画期的な船を作るようになっていた可能性が高い。いずれにしてもこの絵のような中国、西洋、日本の船の混血した航洋帆船が日本船主の資本で運航されたことは確かである。 3本マストにバウスプリット、スプリットセールと船尾のラテン帆は、キャラックに始まる全装帆船そのものであり、前のマストと中央のマストの頂部に張るトップスルもそうである。大きい相違はこの2本のマストに張る大帆で、これがおもな帆と考えられるが、これが中国ジャンク型の縦帆になっている。帆装としては原型のキャラックより使いやすいであろう。船体は全体としては中国式に見えるが船尾はキャラックに近く、また船首水面近くに設けた張出し船楼はキャラックにも中国船にもないもので同時代の日本の軍船の船首の矢倉によく似ている。ある推定によると総トン数は数百トンと見積もられており、同時期の南蛮諸国の船に匹敵する。しかし35年および36年の鎖国令はすべてをかき消してしまった。続く江戸時代に沿岸海運の担い手となる弁財(べざい)型帆船(いわゆる千石船)はそれまでの日本の船の延長上にあり、船体、帆装ともこの進歩した朱印船の痕跡はまったく認められない。 全装帆船の完成期 千石船がその日本的な姿を津々浦々に浮かべ、日本で初めて広く普及した帆走商船として江戸時代の経済の動脈となっていたころ、西方世界の船は質、量ともに驚くべき発展を遂げていた。わずか300年ほどの間に西欧の船は決定的に世界をリードするに至り、同時に彼らが経済的、政治的に世界を制することになった。 15世紀に現れた3本マストの全装帆船は、16、17世紀と順調に拡大と改良を続け、18世紀にほぼ完成の域に達する。船の装飾のうえでは史上もっとも華麗な時代でみごとな船尾装飾や船首像が妍(けん)を競った。主力艦は10kgくらいの砲弾を発射する大砲を75〜100門備え、総トン数は1500〜2000トン、艦隊を組んで行動したので戦列艦とも呼ばれる。ネルソン提督のビクトリー号はその代表で現在も保存されている。帆装も進歩し、船首には能率のよい三角帆(ジブ)を数枚展じ、船尾のラテン帆はガフセールに変わり、その上に横帆を張る。マストの間の三角帆(ステースル)も広く使われ、また軽風時にトップスルを横に延長する形のスタッディングセールもくふうされた。 戦列艦より砲力は劣るけれども高速で航海能力の高いフリゲート艦は重要な補助艦で、通商破壊やその防御、警戒などに活躍した。トン数は戦列艦の半分程度、帆装形式はほとんど変わらない。 18世紀の代表的な航洋商船は東インド貿易船と西インド貿易船であろう。イギリス、オランダをはじめ各国ともこれらの船で貿易の利を求め、植民地を経営した。船型、帆装とも基本的には軍艦と同じで、事実かなりの大砲も積んでいた。東インド方面には600〜1000トン程度、西インドには300〜400トン級がよく使われている。フリゲート艦の大砲を減らし、積荷を多くしたものと考えてよい。 一方、この時代になると沿岸海運や漁業などに使う比較的小型の帆船もおおいに発達した。風上へもよく切り上がり、小回りの効く縦帆がこれらの船には適しているので、この系統の帆装もよく使われた。北米植民地東海岸で生まれたといわれるスクーナーはその代表で、19世紀半ばには沿岸海運や漁業用などに世界的に普及している。明治初年に日本に導入された西洋型帆船も主としてスクーナーで、弁財型やその他の日本土着の船と混血しながら昭和10年代まで広く使われていた。いわゆる機帆船はその子孫である。 帆船時代の終焉 19世紀は帆船最後の栄光の時代であった。産業革命による経済構造の変化は19世紀中葉に至って爆発的な商工業の膨張と原料や製品の大量輸送をもたらした。汽船はすでに19世紀初頭から川や運河などでは使われ始めていたが、まだ広い海を渡るのは無理であった。そこでこの世界規模の大量輸送にこたえるべく帆船の大型化と技術革新が始まり、クリッパーに代表されるような史上例を見ない高性能の大型商業帆船が続々と建造された。鉄の肋骨を使って船体は軽くなり、船型も従来の全装帆船に比べてずっと細長くなった。大型化に伴って帆の数が増え、現在の練習帆船に見るような近代的帆装ができ上がってくる。 一方、汽船の発達も急速であった。1843年には総トン数3400トンのグレート・ブリテン号がスクリュープロペラで大西洋を渡った。70年代にはボイラーの蒸気圧を上げるとともに、2本、後には3本のシリンダーで次々に蒸気を膨張させて動力を得る多段膨張機関が現れて汽船の能率が向上した。旅客や郵便、高価な製品などは順次に汽船で運ばれるようになっていく。ちょうど20世紀後半の航空機の役割に似ている。そして帆船の急速な近代化はこの汽船の追上げによるところも大きかったといわれる。1869年のスエズ運河開通は極東航路帆船にとっては致命的な打撃であって、ちょうどこのころ、長年の鎖国から目覚めた日本が航洋商業帆船を作ろうとしなかったのはおそらくこの理由であろう。しかし世界的に見ればまだ貿易の主力はむしろ帆船であって、86年の統計によると帆船総トン数合計約1200万トン、隻数1万余に対して汽船合計約1000万トンであった。 軍艦のほうは新興のアメリカ合衆国が蒸気機関使用に先進的で、浦賀へきたペリーの艦隊も機帆併用であった。当時の日本も咸臨丸や開陽に見られるように機帆併用の新式艦で後を追った。しかし世界的に蒸気軍艦の優位が理解されたのは1853‐56年のクリミア戦争で、その後の発展は急速であった。1870年前後には帆をもたず、回転式の砲塔と装甲を備えた軍艦が現れる。 こうして20世紀は蒸気船、続いて蒸気タービンとディーゼルエンジンの時代となる。 諸民族と船 伝統的な船の諸形態 船以前のもっとも単純な形態といえるのが浮きである。川を渡るときなどに、木切れ、革袋、ひょうたんなどを利用する。たとえば、ニューギニア北部では、未加工の木の幹にまたがって櫂でこぐ方法が用いられている。古代メソポタミアでは、動物の革袋にすがって泳ぐようすが粘土板のレリーフに描かれている。この種の革袋の浮きは今日でも東ヨーロッパ、西アジア、中央アジアで広く見られ、とくに遊牧民は、移動の途中で増水した川を渡る際に、家畜の革袋を盛んに利用する。ひょうたんの浮きは、韓国の済州島の海女たちが使っている。南インドでは、壺を浮きにして、これにまたがって沼地で漁をすることがある。 次に簡単な構造をもった舟として、いかだがあげられる。人や物を乗せて流れを下ったり、人が泳ぎながらおしたりするのがもっとも基本的な形態であるが、さらに目的に応じてさお、櫂、櫓、帆などを併用する。伐採した木材をいかだに組んで運ぶ方法はしばしば見られる。ベトナムや台湾では、前方をそり上がらせた竹筏(テッパイ)が漁船として海上で用いられている。また、いくつかの葦の束を舟形に束ね合わせて作るいかだすなわち葦舟は、古代エジプトで用いられていたが、今日でもアフリカや南北アメリカ大陸で幅広く使用されている。 皮舟もまた、伝統的な形態の舟である。皮舟とは、柳などの枝で骨組みを組んで外側に獣皮をかぶせたものをいう。皮舟の代表的なものの一つが、イギリスやアイルランドの河川で用いられているようなコラクル coracle と呼ばれる舟であるが、似た形の皮舟は古代メソポタミアでもすでに知られていた。このほか、エスキモーのウミヤック、カヤックなども皮舟の一種である。ウミヤックはボート型で、おもに運搬や漁などに用いられ、エスキモーのほかにも、シベリアのチュクチ、コリヤーク、カムチャダール、ヤクートなどの民族が利用している。一方、カヤックは、ウミヤックよりも小型で、甲板はこぎ手のすわる席のところだけ丸く空けてあるほかは、全体が獣皮で覆われている。エスキモーはカヤックに乗って漁労や海獣狩猟を行うが、これは氷の割れ目をぬって音をたてずに獲物に接近したり、すばやく追跡したりするのにカヤックが優れた性能を発揮するからである。このほか、皮舟には、獣皮でなくカバなどの樹皮を用いて作るものもある。 1本の木をくりぬいて作る丸木舟も各地に分布している。丸木舟の造船技術の特色の一つに、東南アジアなどに見られるような、舟の横幅をおし広げる方法がある。原材をくりぬいて舟の形を整えたのち、舟の内側を水でぬらして水分をしみ込ませ、外側を火で暖めながら幅を広げていくのである。ミャンマー南部メルギー諸島のモーケン族は、この方法で丸木舟を作っているが、彼らは舟を家族ごとの住居として、海上を漂泊しながら1年の大半を過ごすという独特な生活形態を守っている。丸木舟を基礎として、それにアウトリッガーをとりつけた舟が、インド洋、東南アジア、太平洋などの各地で数多く見られる。アウトリッガーとは、舟の本体から張り出した腕木のことで、下部には浮き木(フロート)が取りつけられる。地域によって、アウトリッガーを舟の片側につけるところと、両側につけるところがあるが、いずれも舟の安定性を高めるのに役だっている。 文化の伝播と船 水の上の移動を可能にする船の発達は、人々の生活に大きな変化をもたらしてきたが、なかでも、遠距離の航行に耐える遠洋航海用の船の発達は、古代からさまざまな民族や文化の交流に重要な役割を果たしてきた。とくに、多島海の広がる東南アジア、太平洋地域への民族および文化の移動は、船と航海術の発達を抜きにしては語れない。たとえば、紀元前にインド亜大陸で開花したインド文明は、しだいに東南アジアにまで波及していったが、これは内陸の山岳地帯を越えて伝播したものではなく、海上を通って運ばれたものであった。前1世紀ころから、南インドの東海岸にすむタミル族の商人たちは、大きな横帆を備えた帆船でベンガル湾を横断して、マレー半島、スマトラ島、インドシナ半島南部の海岸に進出し、いくつもの拠点を設けて商業活動を行うようになった。その結果、先進的なインド文明がさまざまな形で東南アジアにもたらされたのである。その影響はとくに、1〜2世紀ころ東南アジア各地に成立したいくつかの国家における思想、制度、農業技術、土木技術などにきわめて強くあらわれている。 民族移動と船 太平洋の島々への民族移動もまた、船と航海術の発達と深くかかわっている。なかでも前3000年〜前2500年ころに始まったアウストロネシア語系の人々の移動は重要である。彼らはもともと、中国大陸からインドシナ半島にかけての沿岸地方に住んでいた海洋民であると思われるが、しだいに太平洋へ進出しはじめ、フィリピンからミクロネシア、インドネシア、メラネシアへと拡大していった。そして、これらの地域の先住民に根栽農業(イモ作農業)をもたらしつつ、前1500年ころには東部メラネシアにまで達し、さらに前1200年ころにはトンガに達した。そして300年ころからは、トンガを拠点としてポリネシア各地への大規模な民族移動が始まり、1000年ころまでに、北はハワイ諸島、南はニュージーランド、東はイースター島に至る広大な範囲に広がっていったのである。ポリネシアには、大型の竜骨をもつ板あわせカヌーや、このカヌーを2隻横に並べて接ぎあわせた大型のダブルカヌーなどがあり、遠洋航海に適したこれらの船が、ポリネシア人の移住に重要な役割を果たしていたことは想像にかたくない。そして彼らが優れた航海術を背景にして島々に急速に進出していったことにより、ポリネシア全域は、言語、神話、社会制度、物質文化などあらゆる方面にわたって驚くほどの均質性をもつに至ったのである。 船と航海のシンボリズム 船はまず庇護を与える安息所という象徴的意味を有し、世界や大地、国家などがこれに比定されたり、魂を宿す人体や子を宿す女性が船として表されたりする。〈ノアの方舟〉はその代表例の一つである。また、キリスト教ではしばしば教会を船にたとえ、その身廊をネーブ nave と呼ぶのはラテン語の navis(船)に由来する。 一方、船による航海は、意識の変容や人格の発展などにおける別の心理状態への移行、前進、救済などを意味し、死と再生による歓喜や至福、超越などを示す象徴と考えられていることが多い。世界各地で、海の彼方には他界や彼岸があり、神々や死者、または霊魂が住む所と信じられており、舟は他界への導き役や墓地の象徴ともされる。日本で古代から中世に語られたうつぼ舟などもこの例といえる。これに関連して春の農耕祭や新年には、海の彼方からや、川をさかのぼり、船に乗った使者が訪れて、幸運や災難をもたらすという考え方も普遍的に存在する。中国や日本で信じられている海の彼方にあるという‘E‘°の島や補陀落渡海(ふだらくとかい)、長寿や永遠の生命の象徴である高砂の翁と媼(おうな)、新年の初夢とかかわる七福神を乗せた宝船の信仰や、お盆に祖霊を祭った後の灯籠流しなどは、そのような観念を反映した具体例といえよう。船に乗った不思議な使者を祝う祭礼は、ヨーロッパの各地にも見られる。 ギリシア神話のオデュッセウスの旅は典型的な航海神話で、航海による苦難とその超克によってもたらされる至福を意味するが、西欧のルネサンス期には、これと反対に、目的地をもたない航海として、俗世間の快楽の追求の寓意である〈愚者の船〉が裸女や酔いしれる人々の姿を伴って表現された。死と再世を示すものでは、北アメリカ・インディアンの民話に、夕方、太陽が西の海にのまれて、夜の間を魚の腹中で過ごし、朝になると東の海岸に打ちあげられて新たな力を得て再生し、東の空から昇るという太陽を主題としたものがある。古代エジプトでも、太陽神ラーは太陽船に乗って昼は東から西へ、夜はヌート神の体内もしくは冥界を西から東へと航行すると信じられていた。スイスの心理学者の C. G. ユングは、これを〈夜の航海〉の主題とよんで、海に象徴される無意識への退行と意識の再生による心理の変容過程を示すものと考えた。大魚にのまれて三日三晩海を航海した旧約聖書のヨナの話も同様な意味をもつものであろう。エジプトやアッシリアには、死者を乗せて航海する船の描画があるが、これも死と再生または永遠の生命を象徴するものと考えられる。船の中央にある帆柱を〈生命の樹〉とし、霊魂の上昇、超越、救済を意味するという説もある。 クリッパー clipper 貨物積載能力よりも速力に重きをおいてつくられた快速帆船。〈クリッパー〉には元来、速く動く人(物)の意味がある。18世紀ころまでの帆船は、特殊な軍艦や海賊船を除いてさほど速力を必要としなかった。アメリカ植民地に対するイギリス本国政府の圧政に対抗して独立の気運が高まるとともに、植民地人による密輸船が急増した。政府監視船に捕まらないような快速船であることが密輸船としての条件だったが、ボルティモアのオランダ系移民がヨットを模してつくった帆船の性能が特に優れていたので、これをボルティモア・クリッパーと呼んだのがクリッパーという名称の起りである。本格的な航洋クリッパーは1833年にボルティモアで建造されたアン・マッキム Ann McKim が最初だという。48年に始まるゴールドラッシュで、東部からの採掘者を南アメリカのホーン岬回りで運んだのがカリフォルニア・クリッパーである。 一方、1830年代に入って急膨張した中国沿岸におけるアヘン(阿片)の密貿易で、イギリス商人が中国官憲の手を逃れるために使った快速帆船がオーピアム・クリッパーである。原型はボルティモア・クリッパーに範を取り、スコットランドのアバディーンでつくられたアバディーン・クリッパーである。従来の垂直に近い絶壁のような船首と異なり、波切りのよいえぐり取ったように鋭い船首の形状がアバディーン・クリッパーの特徴で、クリッパー型船首の典型となった。ただアバディーン・クリッパーは沿岸航海用で、波の荒い外洋ではボルティモア・クリッパーなどのいわゆるヤンキー・クリッパーに及ばなかった。49年にイギリスの航海法が廃止されて中国貿易の門戸が開かれたとき、中国からイギリスへ最初の貨物を運んだのもヤンキー・クリッパーで、オリエンタル号は50年、香港・ロンドン間95日という記録を残した。52年ころに始まった中国茶をイギリスへ運ぶティー・クリッパー・レースでも、最初はヤンキー・クリッパーが優勢だったが、アメリカ南北戦争の勃発でイギリス帆船の独壇場になった。ティー・クリッパーは年を追って改良され、69年に出現したカティーサークで頂点に達した。しかし、同じころ開通したスエズ運河によって汽船での中国茶航路が開かれたため、ティー・クリッパーは急速に衰退した。汽船では燃料補給が困難だったオーストラリア航路に転進した帆船は、羊毛を運んでウール・クリッパーと呼ばれた。オーストラリア航路では荒天が多く、速力より安全性を重んじるようになったが、やがて汽船にその地位を奪われ、19世紀末までに姿を消した。 バーンズ 1759-96 Robert Burns イギリス、スコットランドの国民詩人。アロウェーの粘土小屋で貧農の子として生まれた。借地の農地を移り住みながら、父のきびしい教育をうけ、母からスコットランドの伝説や古謡を習った。読書と農耕生活のなかで詩才をみがき、1780年には〈ターボルトン独身クラブ〉を創設、詩作や社会活動に従事した。86年には《おもにスコットランド方言による詩集》(キルマーノック版)を出して詩人としてデビューした。エジンバラの社交界で一時もてはやされたが、経済事情は好転しなかった。88年に結婚。J. ジョンソンの《スコットランド歌謡集》(1787‐1803)の編集に協力したものの無報酬だった。のち農業と税官吏の仕事を両立させようとして失敗。一生、放浪と窮迫の生活をつづけ、ダムフリースでリウマチ熱のため夭逝した。 詩人としては多彩で、スコットランドの自然を背景に、庶民の哀歓や哀切な恋、燃えるような郷土愛を、素朴で力強い方言でうたった。彼の詩には飾らない人間感情、不正への怒りや弱者への同情、軽妙なユーモアが息づいている。近年彼の風刺詩が評価されるのは、抑圧的なカルビニズムと解放的な異端主義の間にあえぐ社会の実相をよく代弁しているからである。しかしバーンズの詩の特質は、哀愁を帯びた甘美なメロディに小気味よい方言リズム、清純と野卑のふしぎな混交であろう。亡き乙女にささげる哀傷の歌《ハイランド・メアリー》、魔女カティーサークの跳梁(ちようりよう)する《シャンターのタム》、人間も同じ哀れな仲間と自嘲する《ねずみ》、風刺的な《悪魔へのあいさつ》、俗臭のする《陽気な乞食》などが代表作である。日本でも親しまれている歌曲は、《蛍の光》の原曲《オールド・ラング・ザイン》、《ライ麦畑をこえて》《アフトンの流れ》《恋する娘は赤いバラ》など数多い。詩を知識人の独占物としないで、大衆の心に訴えるものとしたところに、ロマン派の先駆詩人としての彼の価値がある。 |