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ベルサイユ宮殿の光と影
1662年、パリのルーブル宮殿を嫌ったルイ14世は、パリ郊外べルサイユの地で新宮殿の建設に着手。贅の限りを尽くした宮殿は50年後に完成。宮殿内では連日豪華な舞踏会が催され、ロココ様式の宮廷文化が花開いた。
やがてブルボン王朝の財政が悪化し、民衆は疲弊していく。そしてルイ16世の代となった1789年、フランス革命が勃発し、ベルサイユ宮殿はその終焉を迎える。
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1999年11月6日、ベルサイユ宮殿に行った。毎年400万人以上が訪れるこの宮殿は、パリの西南西20qのベルサイユにある。パリからバスで約40分。宮殿は、1979年、ユネスコの世界文化遺産リストに Palace and Park of Versailles として登録された。
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ベルサイユ宮殿の面積
革命前 7,800ヘクタール
(現在のパリ市の面積に相当)
現 在 800ヘクタール
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正面ゲート (パノラマ写真) |
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宮殿の見学
宮殿内部の見学は1120から1時間という予約になっているので、それまで庭園を自由見学することになった。時折冷たい風が吹き、歩いていても寒い。しかし、邸内の壮大さは、言葉に表せない。宮殿の庭を一周するだけでも1時間はかかりそうだ。そしてまわりは果てしない森林が続く。宮殿内の見学は、ガイドの後を歩いて廻る。城内の豪華さにはただただ圧倒されるばかりで、言葉を失うばかりだ。
正面ゲート
バスを降りると、一面石畳の広場があり、正面ゲートに至る。植民地時代の名残で、黒人青年が絵葉書などを売り込みに来る。(写真の3人組) 贅を尽くした宮殿と貧しい青年達。スタートからフランスの現実を見る。
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正面ゲートの紋章
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王冠をあしらったブルボン家の大きな金ピカの紋章 |
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ベルサイユ宮殿
パリ南西郊外のベルサイユにある、ルイ14世の造営になる宮殿。東端に位置する宮殿 ch「teau、その背後に広がる庭園、離宮グラン・トリアノン、プチ・トリアノンなどからなる。
そもそもベルサイユは狩りの獲物の豊富な村だった。そこへアンリ4世とその息子ルイ13世とが注目をする。その後1624年にルイ13世は狩りのための館を手に入れ、1631年に城館を建てた。それがこのベルサイユ宮殿の初めだった。
ルイ14世の代になると、騒擾事件が頻発し衛生状態のよくないパリの町を嫌った彼は、郊外の森に囲まれた田園地帯に、ルイ13世時代の狩りの館を大々的に作りかえる形で、まったく新しいタイプの宮殿とそれに付属する都市を構想し、その意匠を王宮建築家たちにゆだねた。
田園地帯に幾何学的な形態をまとった宮殿と都市とが新たに計画された例としては、それよりも半世紀ほど早く枢機縁リシュリュー
Richelieu
の主導によって進められたリシュリューの町と城館の建設がもっとも先駆的な事例として知られているが、ベルサイユの場合は、それを国家的規模で行い、しかも国王の居館のみならずパリにあった政府機関をすべてここに移し直したという点で稀有のものであった。
実際、宮廷関係の人間は約2万人にも及び、そのうち貴族、執政者が1000人、その家臣4000人、計5000人前後が宮殿内に起居し、さらに1万4000人にものぼる従者や兵士たちが付属の建物や町の中に住んでいたという。
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ベルサイユ宮殿内部の石畳 |
正面ゲートをくぐると、矢張り石畳が一面に敷き詰められていて、ルイ14世の騎馬像、そして宮殿玄関に至る。 |
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建設は1661年に開始され、1682年には政府機関がパリからこの地に移される。宰相コルベールの下で当初宮殿の設計にあたったのは王室首席建築家のル・ボーであったが、彼の死にともなってJ. H.
マンサールがその任を継ぎ、宮殿を今日の形になした。マンサールはフランスにおけるもっともバロック的な精神を代表する建築家であり、宮殿の配置や形態、内部の意匠にその具体的な例を認めることができる。
左右対称の宮殿の中心を貫く軸線に沿って、外側から大遠舎、正門、〈大理石の中庭〉、国王の居室〈鏡の間〉が配され、その両側には長大な南北翼を備える。さらに背後にはル・ノートルの手になる壮麗な庭園が控えている。宮殿正面に向けて、放射状に広がる街路が集中するよう計画されるなど、国王の居室が都市と宮殿すべての中心として位置づけられており、都市計画も放射状平面にもとづいている。
その後、マンサールは広大な敷地内に閑静な離宮グラン・トリアノン Grand Trianon を完成させるが、そうした小館の建設はルイ14世の死後も続き、プチ・トリアノン Petit Trianon (1768。ガブリエル設計)、マリー・アントワネットのためのアモー Hameau (田舎家。1783、ミック R. Mique 設計)など、時代の思潮に合わせて珠玉の建築作品が生み出された。
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若きルイ14世 |
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太陽王・ルイ14世騎馬像 |
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同宮殿は、ルイ14世の威光を照らし出すかのように全世界に強い影響を与え、18世紀初頭から半ばにかけてウィーン郊外のシェーンブルン宮殿やペテルブルグ郊外のペテルゴーフ宮殿(現、ペトロドボレツ宮殿)など各地にベルサイユにならった宮殿の建設が相次いだ。日本の赤坂離宮(現、迎賓館)も、ベルサイユ宮殿をモデルとしている。
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ルイ14世 1638‐1715 Louis XIV
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フランス絶対王政最盛期の国王。在位1643‐1715年。〈太陽王〉とも呼ばれる。ルイ13世とスペイン国王フェリペ3世の娘アンヌ・ドートリシュの子。4歳で王位に就いたため母后が摂政となり、マザラン枢機縁が宰相として実権を握った。
リシュリューの後を継いで王権の強化をはかったマザラン時代には、これに反発してフロンドの乱(1648‐53)が起こり、幼い国王も何度かパリを追われた。1660年スペイン国王フェリペ4世の長女マリア・テレサと結婚。マザランが没した翌61年から親政を開始した。
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王衣をまとったルイ15世 Louis
XV 1710‐74 |
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庭園:とんがり帽子の庭木 |
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幾何学模様の庭園 (パノラマ写真) |
宮殿の庭園は、幾何学模様の庭園が広がる。そしてその後方は、広大なベルサイユの森が続く。
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「朕は国家なり」という彼の言葉が示すように、ルイ14世は国務に関するすべての決定を自ら行おうと努め、同時に手足となる官僚機構の整備に力を注いだ。中央では宰相制を廃止、国王自ら臨席する最高国務会議の権限を強化し、地方では、国王の直轄官僚である地方長官の制度を確立した。この結果、貴族の政治権力は大幅に削減された。
また、フロンドの乱の経験からパリを嫌っていた国王は、1682年宮廷を新たに造営したベルサイユ宮殿に移したが、以後政治の中心となったこの宮殿では、ラ・バリエール、モンテスパン、マントノンなどの愛妾ばかりでなく、宮廷貴族と化した大貴族たちも国王の恩寵を競った。
経済政策は、財務総監コルベールによって行われた重商主義によって特徴づけられ、一方でイギリス、オランダからの輸入を高関税により抑制し、他方、国家主導の下に国内産業を育成しようとした。
こうした貿易面での覇権争いは対外戦争を引き起こし、ルイ14世はフランドル戦争、オランダ戦争、ファルツ戦争、スペイン継承戦争といった侵略戦争を強行した。しかし、その結果は、領土こそ若干を加えたものの、工業力に勝るイギリスの優位を認めざるをえなかった。しかも、戦時経済の長期化は租税の増徴を招き、ブルターニュの印紙税一揆(1675)など反王税一揆が各地に頻発、財政状態も1683年のコルベール没後急速に悪化した。
こうして、治世も末年になると、さしもの太陽王の威光にもかげりが見え始めた。彼が1715年に没したときには、王太子も孫のブルゴーニュ公もすでに世を去っていたため、曾孫がルイ15世として王位を継承した。国家経済は、ルイ15世の時代は何とか持ちこたえたものの、ルイ16世の時代になると、遂に疲弊し、破綻してくる。
ルイ15世の娘 |
才色兼備の王女アデライド |
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ベルサイユ宮殿 Ch「teau |
ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、パンも買えないと窮状を訴えたパリ市民に、中央2階のバルコニーで応対した。二人が手を振ると民衆は納得して去っていった。 |
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アンシャン・レジーム Ancien Rレgime
アンシャン・レジームとは、フランス語で〈旧体制〉を意味する表現で、フランス革命が産み落とした新しい社会と対比しつつ、革命によって打倒された旧来の社会体制をこう呼んだものである。最初にこのように名づけたのは、新しいフランスの誕生に歓喜した革命の世代であり、彼らは、先立つ過去のいっさいを〈旧体制〉の名の下に断罪したのであった。
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フランス人権宣言
単に〈人権宣言〉という場合,とくにフランスで1789年8月26日に憲法制定国民議会によって採択された全17ヵ条の宣言をさすことがある。正確には〈人および市民の権利の宣言
Dレclaration
des droits de l’homme etdu citoyen〉という。 |
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アンシャン・レジーム最後のフランス国王。在位1774‐92年。ルイ15世の孫。1770年オーストリアの女帝マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットと結婚する。ブルボン家とハプスブルグ家の結びつきの強化である。しかしフランスは極度の財政悪化に悩み、国民は困窮していく。彼は、アメリカ独立戦争への参加で極度に悪化した財政改革のため、チュルゴーを1774年に、ネッケルを1776年に財務総監に登用した。しかし、善良だが弱い性格であった国王は、王妃マリー・アントワネットに支持された特権身分の反対に遭って、彼らの罷免を余儀なくされる。
フランス革命 Rレvolution franぅaise
1789年7月14日、フランス革命が勃発、パリの民衆の手でバスティーユの要塞が陥落した。
バスティーユを奪った国民議会は8月26日、「人権宣言」を発令する。「人は生まれながらにして自由であり、権利について平等である。」。アメリカの独立宣言の精神を受け継ぎ、人権の尊重と国民の主権を主張した。
パリ市民の乱入 |
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資料 |
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同年10月5日、パリの主婦たちが手に手に棍棒や包丁を持って20kmの道のりをベルサイユ目指して押しかけた。翌朝、ルイ16世に対してパンも買えない窮状を訴えてパリに戻るように懇願した。
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王妃マリー・アントワネット
1755‐93 Marie‐Antoinette
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ギロチン |
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資料 |
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フランス革命後の宮殿
フランス革命後、1793年以降、宮殿の調度品の大半は競売に掛けられ四散してしまう。1883年、フランス最後の国王ルイ・フィリップが「フランスの全ての栄光に捧げる」美術館として整備することを決める。以後、復元と売却された調度品を買い戻すなどの努力が続けられている。
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マリー・アントワネットが飢えたパリ市民に対し、「パンがないなら、お菓子を食べれば」と言ったというのはどうも俗説らしく、王妃を中傷するために別人の言葉を王妃が言ったように報じられたというのが真相のようだ。
1789年10月、国王がパリに移った時、まだ市民の国王への愛着心はあった。民衆の中には「国王万歳」という言葉さえ聞こえたという。しかし、王の威信を決定的に落としたのは、「ヴァレンヌ逃亡事件」だった。1791年6月20日夜、召使いをロシア貴族に変装させ、王と王妃はその従者になりすまし、馬車でパリを抜け出た。逃亡の手引きをしたのは王妃マリー・アントワネットの愛人といわれた、スウェーデンのフェルゼン伯爵だ。しかし、連絡の不手際からヴァレンヌという田舎町で捕まってしまう。なんともお粗末な逃亡劇だった。
1792年8月10日の民衆蜂起によって王権は停止させられた。王妃、2人の子供、妹と共に旧タンプル修道院に幽閉されていた国王は、1793年1月、国民公会で有罪の判決を受け、革命政権の手で革命広場(現在のコンコルド広場)に引き出され、断頭台(ギロチン)で処刑された。また同じ年の10月16日、マリー・アントワネットも同様に処刑された。王族としての扱いを一切受けることなく、粗末な身なりで後ろ手にくくられた彼女を見て、誰も王妃と気づく人はいなかったという。
革命広場(現在のコンコルド広場) |
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資料 |
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ルイ16世一行が脱出を試みなければ、パリ市民は国王を処刑することはなかっただろうと後世の歴史学者は語っている。
苦しまずに死ねるとされるギロチンは、1981年まで使用されていたという。
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