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 感動写真集

2008年4月5日改訂

今 日

昨 日

♪rise"Naked" by Sitar/anoushka shankar

夏の空タージ・マハルの白真珠   北舟

拡大写真(1800x1000)300KB

Summer sky, Taj Mahal the white pearl.

2008年3月16日制作

タージ・マハルの美女

タージ・マハルの美女(タージ・マハル/インド・アグラ)

タージ・マハル探訪記

ニューデリー

ニューデリー アグラ インド シリーズ 丹下誠司
まえがき

 インドの誇る世界遺産は数多くあれど、5本の指に間違いなく入るのが、アグラにあるタージ・マハル。1983年に、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている建物です。

 タージ・マハルを見ないで帰任すると、また、インドに再赴任してしまうという駐在員伝説があるそうで、縁起でもありませんので、私は、2003年5月と2005年8月の2回、この御妃の墓参りをしています。今回ご紹介の画像は、2005年8月撮影のものです。帰任後2年以上経って画像と文章をやっとまとめることが出来ました。

 勤務地の西ベンガル州プルリアからお隣のジャルカンド州ランチまで山のでこぼこ道100kmをジープで3時間、ランチから一日一便のインド航空のジェットでデリーへ1000km、デリーからアグラへの200kmは列車を使う計画で、キャノンキスデジタル2004年型をリュックに入れての気ままな一人旅でした。

ボパル・シャタビー号

ボパル・シャタビー号

タージ・マハル日帰り旅行記
 
 ボパル・シャタビー号は、デリーの南東にあるボパル行きの電車ですが、タージ・マハルがある途中のアグラでもストップします。ニューデリー駅から朝06:15発で、片道375ルピー(約940円)、アグラまでの約200kmを、2時間弱ぐらいでノンストップで走ります。夜明けのまだ暗い中、デリーの会社宿舎を出てタクシーで駅に向かいましたが、始発でしたので、インド列車らしくなく、ボパル号はすでにプラットホームに待機していて、今回の日帰り撮影旅行の幸先の良さを感じさせて呉れました。

運転席

タージ・マハルの美女

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 運転席は、左側。窓ガラスの縦の鉄棒は、線路の上で寝ている牛や馬とかを撥ねた際のガラス飛散防止用であるとは、うちのスタッフの弁。インド亜大陸を突っ走りますので、牛馬は大げさにしても、風の強いインドで風に飛ばされた物が運転席に当たる可能性は十分にあると思います。それまで寛(くつろ)いでいた運転士も、撮影の時はぴしっと運転ポーズで!

客車

客車

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 写真下は、ニューデリー駅の光景です。基本的にインドではパブリックの施設は撮影禁止ですが、リュックを背負った外国人旅行者ということで見逃して貰い、急いでパチリ。

ニューデリー駅

ニューデリー駅

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 ボパル・シャタビーの車内です。新幹線並みの車両幅に左右2席ずつゆったりと配置されています。私のようにお腹の大きなインド人が多いので、この規格が標準なのでしょうか?インド規格に慣れてましたので、帰国後すぐは、日本の新幹線(横に3席+2席)が、狭く感じられて仕方ありませんでした。

ボパル・シャタビーの車内

ボパル・シャタビーの車内

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 アグラ駅では、群がるガイド兼運転手から、ターバンを巻いたシーク教徒の運転手が、燃料代込みの400ルピー(約1000円)で、12時間拘束のアグラ案内を引き受けて呉れましたので、黄色い国民車アンバサダーで、一路、タージ・マハルへ。駅からタージ・マハルへは15分ぐらいの距離でしたので車の燃料は大した額ではなく運転手の待ち時間を考慮したフィー(400ルピー)でして、無理やり値切ったわけではありませんが、プルリアのインド人スタッフからは、400ルピーは安い!と褒められました。

ムガル帝国 Mughal Empire

 ムガル帝国は、始祖バーブル帝(1526〜1530)、2代目フマユーン帝(1530〜1556)、3代目アクバル帝(1556〜1605)、4代目ジャハーンギル帝(1605〜1627)、5代目シャー・ジャハーン帝(1628〜1658)、6代目アウラングゼーブ帝(1658〜1707)と続きますが、3代アクバル帝の時に一挙に隆盛を迎え、5〜6代の皇帝の時代が最も国が富んだ時期となり、6代のアウラングゼーブ帝の時代に最大版図、そして、7代目以降には徐々に国力が弱まり、次第にイギリスの進出(侵略)も進み、帝国も崩壊に向かい、1858年には、英領インドとして英国に併合され、完全に植民地化されてしまいます。

 ムガル(Mughul)は、アラビア文字のペルシャ語が語源で、『モンゴル』の意味です。ムガル帝国の始祖バーブルは、父親はトルコサマルカンド地方で勢力を誇ったチムール帝国の王族の血を引き、また、母親はモンゴル帝国のチンギス・ハーンの血を引いていました。イスラム教徒の帝国です。チムール王は、チンギス・ハーンの後継者を自称し、サマルカンドを中心にして版図を広げていきましたが、チムールの血を引くムガル帝国も、ヒンドゥー教徒のインドに攻め込み、版図を広げていき、略奪を続けていきました。ムガル帝国は、イスラム教徒による征服王朝であったことと、イギリスの征服を受けてしまったことで、インドでの評価は決して高くないと思います。

タージ・マハルの美女

タージ・マハルの美女

拡大写真(1800x1000)300KB

  夏の空タージ・マハルの白真珠  北舟 

なつのそら たーじまはるの しろしんじゅ

Summer sky, Taj Mahal the white pearl.

タージ・マハル Taj Mahal

 タージ・マハルは、ムガル帝国5代目皇帝シャー・ジャハーン(1592〜1666)が、亡くなった最愛の妻のムムターズ・マハル(1595〜1631)のために、ムガール帝国の財力を投入し、22年の歳月(1632〜1653)をかけ建設したお墓です。タージ・マハルの語源は、タージ=王冠(Crown of the King)、マハール=宮殿(Palace)だそうです。
 タージ・マハルが建設されていた頃、日本は、江戸時代で、3代将軍徳川家光の時代です。参勤交代制が敷かれ、江戸幕府による統治が確率され、同時に、スペイン人、英国人の来日が禁止され、鎖国が進んでいく時代でもありました(1639年に鎖国が実現し、オランダ人は長崎の出島に隔離)。中国は、清が、建国された頃です。
 歴史の解説はこのぐらいで、以下、タージ・マハルへの旅の解説へ。
 大気汚染が進むインドでは、酸性雨でタージ・マハルの大理石が痛むことを考慮して、ディーゼルエンジンの車は途中の駐車場でストップのルールとなっているため、らくだ車か、電気自動車か、徒歩で遺跡に向かうことになります。

徒歩でタージ・マハルへ

徒歩でタージ・マハルへ

 今回は、東門から庭園内に入りました。タージ・マハルは、この先の庭園の中にあります。午前中のまだ早い時間帯でしたので行列も短く、ボディチェックは厳重でしたが、短時間で入場することが出来ました。
 東門の中は、下のようになっており、庭はよく手入れされています。右手が正面ゲートになり、ここからタージ・マハルに入って行けます。庭園は、南北560メートル、東西303メートルの長方形(約17ヘクタール)です。東京ドームが約4個入る広さです。  

正面ゲートに向かう

正面ゲートに向かう

拡大写真(1400x775)200KB

 正面ゲートを入り口方向から撮影。撮影している私の側が、南方向。このゲートを越えた先(北)に、タージ・マハルがありますので、初めて見学で訪れた人が一番わくわくするのが、この辺りだと思います。

正面ゲート(南面)

正面ゲート(南面)

拡大写真(1600x1067)323KB

 正面ゲートを潜って、北側からゲートを眺め返しています。ファテープリ・シクリから切り出された赤砂岩が建材で使われています。高さ約30mのこのゲートだけだとそうでもないのですが、上部を飾る白い11のキオスクと左右のチャトリが、いかにもイスラム的に、この正面ゲートを堂々とした威厳のあるものにしています。赤砂岩に埋め込まれた白い大理石には、黒大理石の象嵌細工でコーランの文言がはめ込まれています。

正面ゲート(北面)

正面ゲート(北面)

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 ここで振り向いて、北の方向を見ると、こんな感じで、タージ・マハルが見えます。正面ゲートから廟までは約300mありますが、このくらいの大きさで見えます。タージ・マハルと言うと、どでかい建造物を想像される方が多いと思いますが、ゲートを潜ってすぐ見えるタージ・マハルは非常に小ぶりに見えます。インドでは大地の真珠(パール)と喩えて表現されることもあるようですが、確かに真珠、なるほど!と頷けます。

大地の真珠「タージ・マハル」

大地の真珠「タージ・マハル」

拡大写真(1600x880)210KB

 タージ・マハルは、1632年から22年間かけて建設され1653年に完成しています。ラジャスタン州マカラナから切り出して来た白大理石がふんだんに使われています。建設時の出面(でずら)も、一日2万人との記録があるそうです。この正面通路も、ムガール帝国が衰退し、イギリスが統治していた時代には、樹が生い茂り、荒れ果てて、通るのもやっとだったようです。20世紀始めに赴任したイギリスのカーゾン提督(1898〜1905)が庭園として再整備し、今日見ることの出来るタージ・マハルの形になったようです。
 タージ・マハルと同時代の建物としては、パリのベルサイユ宮殿、ローマのサンピエトロ寺院、日本では、京都の桂離宮や日光東照宮などがあります。

「タージ・マハル」正面の景観

「タージ・マハル」正面の景観

拡大写真(2200x1450)398KB

 近づいて来ると、この廟の素晴らしさがよくわかります。その大きさに段々と圧倒されて来ます。4つの尖塔(ミナール)のバランスも非常に美しい。尖塔は、倒れても、廟を傷めないように、外側に倒れる重心構造で建設されているそうです。これが、タージ・マハルです。イスラム建築様式のムガール建築美術の最高傑作と言われている建物です。
 インド北部アグラの焼け付くような8月の日差し。床も白い大理石ですので、下足は禁じられていて、靴下か裸足で歩くのですが、一箇所にはじっと立っておられないくらい熱かったです。

ムガール建築美術の最高傑作「タージ・マハル」

ムガール建築美術の最高傑作「タージ・マハル」

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 最愛の御妃ムムターズ・マハルは14人目の子供を生んで亡くなっていますが、その死を悲しんだシャージャハーン皇帝がこの墓廟を建設しており、丸みを帯びた女性的な建造物になっています。シャージャハーン帝も亡くなった後は御妃ムムターズの横に葬って貰っており、タージ・マハルは皇帝夫婦のお墓になっています。
 近づいて見上げると、その巨大さに唖然としてしまいます。壁面には、見事な彫刻が施されています。画像で、高さ67mのドームがイメージしていただけるでしょうか? 

ムガール建築美術の最高傑作「タージ・マハル」

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 尖頭のドーム。大理石の組み合わせでこの曲面を構築する技術が、1600年代にはすでにこのレベルに達していたということです。球面の構築技術は、イスラム教圏内のモスク建築で、発達した建築技法です。

「タージ・マハル」の巨大なドーム

「タージ・マハル」の巨大なドーム

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 このような植物の浮かし彫りが壁一面に。インドの・・というより、ムガール帝国の皇帝の先祖たちの出身地である中央アジア(チムール帝国)の植物が素材にされたようです。百合、水仙、菖蒲、チューリップなどが、白大理石に鑿(のみ)で彫り表されています。

植物の浮かし彫り

植物の浮かし彫り

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 タージ・マハルの壁面を彩る象嵌(ぞうがん)細工。インド亜大陸やその周辺各地から集められています。たとえば、翡翠(ひすい)は、トルキスタンから、瑠璃(るり)は、アフガニスタン、サファイアはスリランカ、琥珀(こはく)は、ミャンマー、瑪瑙(めのう)や紫水晶、珊瑚(さんご)、碧玉(へきぎょく)はインド各地から。贅を尽くしてはいますが、それでも、全体にバランスが取れ、抑制が効いているのは、白大理石の力だと思います。

壁面を彩る象嵌細工

壁面を彩る象嵌細工

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