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2001年6月14日改訂

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01 ニース

ニース
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ニース Nice 世界のおのぼりさんが押し寄せるのがパリなら、世界中の金持ちが集まるのがニースだ…ということになっているらしい。昔、ピーター・メールが書いた「プロバンスの12カ月」がヒットし、これで南仏が有名になったとか。プロバンス Provence 地方の東がコート・ダジュール Côte d'Azur (紺碧海岸)になる。ニースはフランス南部、アルプ・マリティム県の県都。コート・ダジュールの国際的観光都市。人口34万6000(1990)。北にアルプスの山々を控え、地形上、南仏特有の強風(ミストラル)から守られ気候は温暖である。

 ギリシア人の植民都市ニカイアに由来する。長くサボア領で、1860年最終的にフランス領となった。18世紀末に外国人(特にイギリス人)の避寒地として発達、19世紀には多くの王侯貴族、文人が訪れた。第2次大戦後はバカンス客でにぎわう。

 ニースはカンヌとともにイギリス人が作った町である。ニースはナイスと書き、Nice is nice. という言葉もあるように、ニースはフランス5番目の都市だが観光はパリに次いでフランス2だ。人口は45万人。元々ニースは冬のリゾート地として発展。サンクト・ペテルブルグのロシア皇帝もニースに来て病気を治したことから有名になり、王侯貴族たちが来るようになったとか。その後夏のリゾート地へと発展。夏のバケーションを楽しむ高級リゾート地となった。
02 モナコ

モナコ
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モナコ Monaco 正式名称=モナコ公国 Principaut de Monaco 面積=1.95km2 人口(1996)=3万人 首都=モナコ Monaco(日本との時差=−9時間) 主要言語=フランス語 通貨=フラン Franc 

 ヨーロッパ南部、地中海に臨む小公国。フランス南東部、イタリアと国境を接するアルプ・マリティム県に背後を取り囲まれ、南はコート・ダジュールに面した世界第2の小国である。国土はアルプス前地の山が海岸に迫った、幅200〜500m、長さ3kmの細長い沿岸部を占める。住民の内訳はいわゆるモナコ国民が1割強で、大部分はフランス人、その他イタリア人、イギリス人などの外国人で構成される。気候は1月の平均気温10.1℃、8月の平均気温23.4℃。日照時間も年間3000時間に近く、きわめて温和で、風光明美な土地柄(がら)と合わせて避寒地として発達、観光・保養地となっている。

 公国はモナコ市、ラ・コンダミーヌ、モンテ・カルロ、フォンビエイユの4地区に分けられているが、一つの連続した市街地を形成しており、北側はフランスのボーソレイユ地区の市街地と連担(コナベーション)している。首都モナコ市の大部分は、地中海に突出した岩盤の岬上にあり、13世紀ジェノバ人の建設した要塞跡に現王宮が建てられている。この王宮のほか、政庁、裁判所などがこの岬上に集まり、モナコの行政の中心となっている。岬が取り囲むモナコ湾は天然の良港で、2万m2の広さをもつ港内には豪華ヨット、ボートが停泊している。

 モナコ湾北側一帯の市街地がラ・コンダミーヌ地区で、モナコの商業・業務地区である。その北東部を占めるのがモンテ・カルロ地区で、この地区には公営笛博場カジノ、豪華ホテル、別荘が建ち並び、デラックスな娯楽・観光保養地となっている。フォンビエイユ地区はモナコ市の西の海岸部を埋め立てた新興地区で、薬品、香水、リキュールなどの軽工業が立地した工業地区となっている。

 国土はアルプス前地の山が海岸に迫った、幅200〜500m、長さ3kmの細長い沿岸部を占める。住民の内訳はいわゆるモナコ国民が1割強で、大部分はフランス人、その他イタリア人、イギリス人などの外国人で構成される。 モナコ地区に王宮 Palais Pricier があり、駐車場からエレベーターとエスカレータを何回か乗り継いで王宮前広場に出る。ここからの眺めは抜群だ(写真)。

 近くに女優グレース・ケリーがモナコ・レーニエ3世と結婚式を挙げて女優を引退し、王妃となり、交通事故死のあと、棺が安置された大聖堂Cath
drale de Monacoがある。
03 ドーデの風車小屋

ドーデの風車小屋
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 アルルの北東約20qのレ・ボーとアルルの中間当たりにあるフォンヴィエイユFontvieilleという村の近くの丘の上に1軒の風車小屋が建っている。これが有名なドーデが1866年頃「風車小屋便り」の連作を執筆したところだ。同書の岩波文庫版の訳者、桜田佐氏が訪れた1958年には「すでに翼を失い、屋根も落ちていた」そうだが、今はすっかり改修されていて、売店まである。

ドーデ 1840‐97  Alphonse Daudet
 フランスの小説家。南フランスのニームに生まれた。父親が事業に失敗、破産したため、貧困のうちに幼少期をすごし、南仏を転々とし、一時は中学の舎監をつとめたりする。17歳のとき、作家であった兄を頼ってパリに出て、文学活動を始める。詩集《恋する女たち》(1858)がきっかけで、モルニー伯爵の秘書の職を得た。1866年、26歳で発表した《風車小屋だより》によって一躍有名になった。南仏プロバンス地方を舞台にした25の短編から成る作品集で、日本でも親しまれている〈スガンさんの山羊〉や、戯曲化され、ビゼーの作曲で有名な〈アルルの女〉などが含まれている。ドーデはパリでゴンクール兄弟、ゾラ、フローベールらと交際し、自然主義文学の影響を受けたが、ゾラのような理論や壮大な想像力はなかった。

 彼は常ににたずさえている手帳に、見聞きした庶民生活の印象的な出来事や個人的体験をメモしておき、それをもとにほろりとするような小さな物語をこしらえるのを得意とした。このほかに中学の舎監時代の体験にもとづいた《プティ・ショーズ》(1868)、南仏人の典型のようなほら吹きのお人好しを描いた《タルタラン・ド・タラスコン》(1872)、普仏戦争やパリ・コミューンを素材にした短編集《月曜物語》(1873)などがある。なお1896年にはゴンクール兄弟の遺言により、アカデミー・ゴンクールの創立会員に選ばれた。

 ドーデは、プロヴァンスの人々の気質を熟知していた。たとえば同書所収の「コルニーユ親方の秘密」は、蒸気仕掛けの大製粉工場が進出してきた村で、一人頑固に風車を回し続ける老人を描いた短編だ。この中で工場の連中のことを「パリのフランス人が...」と呼んだり、老人が「やつらは製粉工場の粉でプロヴァンスを毒殺しようってんだ」と言っていることに注意したい。老人は、ミストラル(ローヌ川流域を吹く北風)で粉を挽くことを誇りにしている。プロヴァンス人の誇りがこの風車には詰まっているのだ。
04 アルル

アルル
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アルル Arles  フランス南部ブシュ・デュ・ローヌ県にある観光都市。人口5万3000(1990)。マルセイユの北西約90km、ローヌ川の形成するデルタの頂点に位置し、その行政域(コミューヌ)はフランスの米作地として知られるカマルグなどデルタ部分を含み、フランス最大の面積(750km2)である。紀元前より海上・陸上交通の要衝として発達し、古代においてはローマ帝国属州の中心であり、また4世紀以来キリスト教の重要な拠点として幾多の宗教会議が開かれ、513年には大司教座の地位を獲得した。

 10世紀アルル王国の首都となり、13世紀中葉プロバンス伯領に従属するまで独立を守っていた。前1世紀に建造された円形競技場、野外劇場など、フランスにおける古代ローマ時代の遺跡の最大の宝庫で、〈ガリアのローマ〉と呼ばれる。
アルルは、ゴッホがやってきて、耳をそぎ落とした町だ。ゴッホはここで沢山の絵を描いており、そのゆかりの地を回るのも楽しい。夜のカフェテラスという黄色のカフェーを描いた作品があるが、今も変わらず営業しており、ゴッホが立って描いた場所に複製の絵が置かれていて興味深い。ゴッホが入院していた精神病院でもゴッホの絵の複製が置いてあり、景色を対比することができるようになっていて面白い。

 ローマ闘技場(世界遺産) Théâtre Antique は、現在は闘牛場として現役で使用されている。(写真はそこから見たアルルの眺め)

 闘牛にはスペイン式とポルトガル式があるそうで、スペイン式は最後には牛を殺してしまうのだが、ポルトガル式は牛の頭に触るか印を付けるだけで、勝負が決まり、決して殺戮はしないという。その得点が高いマタドールが優勝するとか。アルルの闘牛は、平和なポルトガル式だ。優勝者の最高の栄誉は、名士令嬢から選出されたミス・アルルにキスをしてもらうのだとか。安上がりで良い。

05 ゴッホの跳ね橋

ゴッホの跳ね橋
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 ゴッホの跳ね橋 Gogh's drawbridge アルル郊外にあるゴッホが描いたことで有名になった跳ね橋。この跳ね橋はオリジナルは戦争で破壊されていて、現在の跳ね橋は別の場所に復元したものなのだそうだ。

ゴッホ 1853‐90 Vincent van Gogh
 オランダの画家だが、後半生をフランスで送った。後期印象派を代表する一人。オランダではホッホ、フランスではゴーグと発音される。ベルギー国境に近い、北ブラバント州の小村フロート・ズンデルトGroot‐Zundertで新教の牧師の長男として生まれた。生来の極端な性格がわざわいして、その前半生は失恋と失職による挫折感に満ち満ちている。1869年、美術商グーピル商会につとめるが、76年解雇される。短期間イギリスで語学教師として働いたのち、一念発起して、77‐78年、アムステルダムの神学校、ついでブリュッセルの伝道師養成所で学び、無給の伝道師としてベルギー南部の炭鉱地帯ボリナージュにおもむく。

 しかしここでも、80年にその常軌を逸した振舞いにより教会から解雇され、失意のどん底に陥る。幼少より絵心のあったゴッホが画家になる決心をしたのはこの頃であり、ブリュッセルのアカデミーで数ヵ月間学んだのち、画商として一家をなしつつあった弟テオTheoの経済的援助に頼りきったまま制作をつづけた。宗教的情熱と一体となったこの時期の作品は、ミレーの深い影響もあり、社会の底辺の虐げられた人々にたいする共感に根ざしている。一時期、憐憫(れんびん)から同棲した娼婦シーンをモデルにした素描《悲しみ》(1882)、質朴な農民生活を描いた《じゃがいもを食べる人々》(1885)などはそのよい例である。しかしながら、画家としての才能が開花するのは、86年から88年にわたるパリ生活で印象主義の洗礼をうけてからである。

 それまでの暗い鈍重な色彩は消え失せ、《タンギー親爺》(1887)に代表される明るい筆触が画面を満たすようになる。これにはまた、日本の浮世絵版画からうけた強い印象がはたらいている。事実、88年、そもそもゴッホは、日本のイメージを求めて南仏のアルルへと向かったのであった。いわゆる〈ゴッホの耳切り事件〉という悲劇的な結末をみたゴーギャンとの共同生活を別にすれば、アルル時代はゴッホにとって実り豊かなものであった。

 この時期の《ひまわり》《麦畑》《糸杉》などでは、ぎらぎらした量感ある色彩とうねるような筆触によって、原初的ともいうべき自然のエネルギーを画面に噴出させ、また《夜のカフェテラス》(1888)では、強烈なコントラストによって、カフェにたむろする人間存在の狂気すらあばきだした。ゴッホ自身狂気と無縁でなく、89年5月サン・レミの精神病院に収容された。しかし創作意欲は失わず、この頃描かれた《星月夜》は、自然と感情とが狂おしいまでに一体になろうとうごめいている、画期的な作品である。

 90年5月、パリ近郊のオーベール・シュル・オアーズのガシェ Gachet 博士――著名な美術愛好家でもあった――のもとにあずけられ、いかにも病的な博士の肖像と、死の影が色濃くただよう《麦畑のうえの烏》を残し、7月末ピストル自殺をとげた。
06 ポンデュガール
ポンデュガール
世界遺産
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ポン・デュ・ガールPont du Gard 古代ローマ人が紀元前19年頃に築いた長さ275m、高さ49mの巨大な水道橋だ。南仏の町ユゼス近くの水源地とニームをつなぐ導水路の全長は49kmで、橋はその一部。石灰岩の切石を組み合わせた三段重ねのアーチの美しさは、古代建築技術の傑作のひとつと言われる。二段目と三段目のアーチの脚元は通路に、最上部は導水路になっている。アーチが美しいと言うが、ガイドによると、当時観光客が来るわけでもなし、美的感覚を考えて設計したわけがないと辛口批評。あくまでも実用的に強度上の設計からそうなったものだろうという。

 予想外に大きな建造物に圧倒される。素晴らしいの一言だ。ガイドからこのような大きな石をどうして積み上げることができたのかと聞かれたが分からなかった。答えは、ネズミが円筒をクルクル回しているのと同じ原理で、何人かの奴隷が大きな骨組みの円筒を歩いて回し、その中心の轆轤でロープを巻き取り、滑車を利用して何dもある石を釣り上げていたという。今から2,000年も前にローマ人はこのような凄い方法を考え出していたのだ。本当に感心する。(後日、モン・サン・ミッシェルで実物を見ることとなった。)
07 アヴィニョン

アヴィニョン
世界遺産
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 午後3時アヴィニョンAvignon到着。一旦 Hotel Frantour で荷物を預け、歩いて市内見学となった。アヴィニョンの街は周りをぐるりと城壁で取り囲まれており、駐車場もなく、大型バスの出入りは容易ではない。市庁舎の側にある我々のホテルは古いが、場所は一等地だ。メリーゴーラウンドもあって、町中は楽しい。

アヴィニョン Avignon
 フランス南東部、ボークリューズ県の県都。人口8万9000(1990)。ローヌ川右岸にあり、河口から約70km上流、ローヌ川が河口にちかい平原に入る地点にひらけた町で、商業・文化の中心地。系譜上はガリア人の集落に由来するが、アビニョンが歴史上の重要な地位をえるのは、14世紀初頭になってからのことである。教皇のアビニョン捕囚によって、1309年教皇庁がこの都市に移転され、教会大分裂の時代を含めて、100年以上にわたって所在した。

 当初、この土地はプロバンス伯の支配下にあったが、近在のコムタ・ブナサンとともに1348年教皇庁が買収した。歴代のアビニョン教皇によって都市は整備され、教皇庁関連の諸施設が立地するにおよんで、一躍ヨーロッパ・キリスト教の枢要の地に成長した。それぞれベネディクトゥス12世およびクレメンス6世による、旧宮殿と新宮殿の建設によって、1.5haにおよぶ巨大な教皇庁舎が完成した。旧宮殿は簡素に、新宮殿は豪華に築かれたが、同時代にあっては、群を抜く大きさであった。その建築物は、現在まで存続している。

 都市アビニョンは、教皇の臨在と庁舎の建築によって、突如の繁栄をむかえた。アビニョン教皇の多くが、枢機縁をはじめとする教皇庁高官のアビニョン在住を求めたため、かつてローマ市の教皇庁にはみられなかった繁栄が実現した。市内には教会高官の執務所兼住居が建造され、さらに中・下層の専門的教会官僚が居住することになった。アビニョン教皇庁の確立期には、都市は2万人前後の人口をかかえ、当時にあっては、驚異的な行政都市としての相貌を呈したと考えられる。

 各地から訪れる御用商人、教会行政官、学者、陳情者そしてユダヤ人や異端、遍歴芸人など、雑多な人びとがあふれ、経済的にも高揚した。イタリアの愛国者が〈アビニョン捕囚〉と呼んだのは、このような都市アビニョンの世俗的好況を妬み、音の響きにもあわせてバビロン Babylon になぞらえたのであった。

 1417年に、教皇庁はローマに完全復帰し、アビニョンは教皇庁管理下の一地方都市に立ちもどった。1791年、フランス国民公会が没収するまで、その状態は続く。かたわらを流れるローヌ川は急流であるため、橋はしばしば流失した。伝説上1177年架設とされるサン・ベネゼ橋は中途で流失したまま、残骸を現在にのこしているが、この橋はフランス民謡《アビニョンの橋》で子どもたちが踊る橋として知られている。
08 アヴィニョンの人々

アヴィニョンの人々
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 アヴィニョン Avignon 市内 中世の一時期、法王がローマではなくアヴィニョンに住んだことがある。「法王のバビロン捕囚時代」といわれるのがその時代で、当時はフランスの町アヴィニョンが法王庁の役割を努めていた。アヴィニョンにある法王庁 Palais des Papes はその時の名残だ。それは教会というより城砦であり、かつ法王の宮殿であった。堅固な外壁は今も威嚇するような感じでそびえ立っている。丘の上に建つ法王庁からローヌ川に向けて下っていくと、川の途中でプツンと途切れてしまった橋に出る。「輪になって踊ろう」の歌で有名なアヴィニョンの橋 Pont d'Avignonこと、サン・ベネゼ橋である。

 神のお告げを聞いたベネゼという牧人が、変人扱いされながらも村人からお布施を集めて、その一生を捧げてつくった橋だ。ローヌ川の氾濫で、橋のほとんどは流されてしまったが、中ほどに彼を祀る小さな礼拝堂が残っている。法王庁とはくらべものにならないくらい地味。でもそこには、ローヌ川の渡し守として彼を崇めた民衆の信仰の姿を見ることができる。権威を示す法王庁と質素なベネゼの橋。アヴィニョンは教会の持つ二つの面を見せてくれる町だ。

 最初に法王庁に行った。アヴィニョンにローマ法王が居たのは、ある時代、フランス人がローマ法王に選出されてしまい、ローマでイタリア人から嫌がらせを受けたようで、ローマにいるのはイヤだからフランスに居たようだ。唐草模様の法王の寝室など興味深かった。

 続いてアヴィニョンの橋を見学。ローヌ川 Rhône は、遠くスイス・ジュネーブのレマン湖が水源だという。ユックリと橋を見学。その後ホテルのチェックイン。夕食は午後0730からホテルのレストランで。ワインは、ガイドさんお薦めの白ワインで、Chateau'neuf du Pape A.O.C だ。法王は英語でPopeというので、法王のワインということらしい。なかなか美味かった。

09 カルカソンヌ(世界遺産)

カルカソンヌ
世界遺産

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カルカソンヌ Carcassonne フランス南部、オード県の県都。オード川とミディ運河に面し、トゥールーズの南東90kmに位置する。人口4万5000(1990)。地中海と大西洋を結ぶ交通上の要衝で、その地理的位置の重要性は古代から認められ、前1世紀以来ローマ帝国の属州ナルボネンシスの要塞都市が建設されていた。5世紀には西ゴート族、8世紀初頭には一時イスラム勢力の占拠するところとなったが、のちフランク族の支配下に入った。その後400年トゥールーズ伯支配下の伯爵領、子爵領として栄えた。13世紀異端者懲罰を目的としたアルビジョア十字軍(1208‐14)によってフランス王家とトゥールーズ伯との争いの舞台となり、1247年フランス王家に属した。

 町は二つの部分から構成される。シテとよばれるオード川右岸丘陵上の都市は古代に起源をもち、13世紀初頭の破壊ののちルイ9世、フィリップ3世によって復旧、補強された。その後、軍事上の意義が失われ、城塞都市は荒廃の一方であったが、19世紀になって、作家で歴史家のメリメの進言に基づいてその歴史的意義が認められ、美術史家ビオレ・ル・デュクがもとの姿に復元した。シテは城館を囲む城壁を含めると三重の厚い城壁に囲まれ、外壁の周囲は1kmに及び、今日ヨーロッパに残された最大の城塞都市として知られる。全部で50以上に及ぶ櫓(やぐら)、その間をつなぐ重厚な城壁そして狭間(はざま)や胸墻(きようしよう)などは、中世の戦闘場面を彷彿とさせる。

  シテから見下ろす対岸の都市は、現代カルカソンヌ市の活動の中心であるが、これがアルビジョア十字軍によるカルカソンヌ破壊後、シテの避難民のためにルイ9世によって建設されたニュータウンである。今日市の中心部を囲む大通りは、かつての城壁の跡であり、今日でもその姿を一部とどめている。変形六角形をした城壁の中は直交する東西南北の通りで方格状に仕切られており、計画都市のプランは今日そのままに残されている。丘陵上の古代に起源をもつ城塞都市、そして中世の建設都市という二つの都市の存在は、カルカソンヌを都市史上重要なものとしている。現代カルカソンヌ市は、オード県のブドウ産地の中心として、行政・商業の中心であり、工業活動はあまり盛んでなく、人口停滞の原因ともなっている。

 シテにあるサン・ナゼール旧大聖堂は、ロマネスク様式の身廊とゴシック様式の内陣が結合され、13世紀末南フランスに北方ゴシック様式が浸透してゆく過程を示す重要な建築である。西側ファサードは、ビオレ・ル・デュクにより修復された。青を主調としたステンドグラス(13〜14世紀)は南フランスの貴重な作例。他の諸教会も南フランスのゴシック建築特有の、幅広の単一身廊を持つ。


 昼食後城をユックリと見学、サン・ナゼール寺院も見てあとは自由行動。エリザベス女王やグレースケリーが泊まった四つ星ホテルがあり、そこで紅茶を注文。一杯50フラン(1000円)と高かったが、ミルクが固まり、まずくて全然飲めない。ガイドに抗議してもらったら、紅茶をいれたウェイターは自分のせいじゃないという。道具が悪いというような理屈らしい。日本なら当然謝罪した後、新しくいれ直してくれただろうに。やはりラテン民族だからか。一流ホテルでも社員教育がおろそかでは二流三流になってしまうということだ。その後町中をぶらぶらと散策してショッピング。一旦ホテルに帰る。

 
夜景を見に、希望者のみ夜7時にホテルを出発。歩いてオード川にかかる橋まで行き、ライトアップされた城塞を写真撮影。予想外に遠く、大変だった。1940からホテルで夕食。牡蠣のサラダは美味しかった。メインディッシュは、鳥と白豆の煮込み。これは美味くなかった。アメリカのカウボーイ料理の原点になっている料理なのだという。初めてデザートにアイスクリームが出た。

10 コムタル城
コムタル城
世界遺産

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コムタル城 Chateau Comtal カルカソンヌの二重になった堅固な城壁は、ヨーロッパ最大といわれ、1997年にユネスコの世界遺産に登録された。町は、市内を流れるオード川Audeを挟んで、下町 Ville Basse と城塞に囲まれたシテ La cite とに分かれている。シテの町は一周1,500mと予想外に大きくない。 城塞のとんがり帽子が特徴の塔は52を数える。ビオレ・ド・デュックという建築家が塔にとんがり帽子をかぶせたらしい。ケビンコスナーの映画「ロビンフッド」はカルカッソンヌでロケが行われたという。「カルカッソンヌを見ずに死ぬことはできぬ」という諺もある。ナポリと同じような話だ。それほど美しい。

 まずは Hotel Mercure でチェックイン。荷物を部屋に入れたところで、ロビーに集合。歩いて城塞へ。駐車場を横切り、正面の吊り橋を通って入場。コムタル城 Chateau Comtal から見学。その前に昼食を城の中のレストランでとった。レバーサラダ、鴨肉、フレンチフライドポテト、バリバリのアップルパイ。白ワイン1グラス16フラン。まあまあの味。
11 ボルドーのワイン畑

ボルドーの葡萄畑
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ボルドー Bordeaux  フランス南西部、フランスで5番目に大きな都市・ボルドー市内に入ると軍艦が一隻停泊している。ガロンヌ川に架かる橋は、ナポレオンにちなんで橋桁の数が17個にしてあるという。町並みは煤けていてこれまでの綺麗なイメージからは少し外れてしまった。汽船の煙で建物が煤けてしまったのだという。既に当時から公害の街だったのだろう。イギリスでは葡萄ができないので、ワインはフランスのボルドーから輸出されていたという。ボルドーはジロンド県およびアキテーヌ地方の主都。人口21万3000(1990)。ジロンド河口より120km、ガロンヌ河口に近く、おもに左岸に市街が発達する。

 ローマ時代から良港を持つ町として栄え、一時はイギリス領になったこともあるボルドー。フランス革命の引き金となったジロンド派を生み出したり、モンテスキューやモンテーニュを世に送り出したり、と歴史的にも興味深い町だ。長い歴史を物語るかのように汽船の煙で黒ずんでしまったガロンヌ川沿いの町並みは、近年塗り替えが始まり、2000年にはすっかり新しくなるという。新旧さまざまな話題があるが、ボルドーの魅力といえば、ワインに尽きる。

メドック Mêdoc
 南西フランス、ジロンド湾(川)と大西洋に挟まれた三角形の半島状の地域。上流ボルドー寄りのオー・メドック地方には、マルゴー Margaux、ポーイヤックPauillac、サンテステーフ Saint‐Estêphe の町を中心に、マルゴー、ベシュベル Beychevelle、ラトゥール Latour、ムートン・ロトシルド Mouton‐Rothschild、ラフィット Lafite など最高級の赤ブドウ酒を産するシャトーが点在している。この地方は、地形上、大西洋からの西風が松林で遮られ、ジロンド川の豊かな流れにより寒さを和らげられ、さらにやせた石灰質の砂利状の土壌はよく太陽熱を吸収、放射するため、収量は少ないが、きわめて良質のブドウを産出するのである。18世紀、ボルドーの高等法院貴族らにより、この地方で本格的なブドウ栽培が始められ、当時知られるようになった熟成技術により、主としてイギリスへ輸出するための高級赤ブドウ酒が作られた。

 19世紀には、ラフィット、ロスチャイルド、ペレールら大銀行家や貿易商の投資が盛んで、今日見られるシャトーの大部分はこの頃建てられたものである。1855年のパリ万国博覧会を機会に、ボルドー地方産出ブドウ酒の格付けが行われたが、赤ブドウ酒第1級は、グラーブ地域のオー・ブリヨン Haut Brion のほか、メドック地域のラフィット、マルゴー、ラトゥールの3銘柄(1973年にムートン・ロトシルドが加わる)により占められた。なお、この5階級の格付けは、ほとんど変化なく今日まで続いている。こうした名声により大経営は資本を蓄積し、1880年代の病虫害の危機も克服した。しかし、第2次大戦後は、多くのシャトーがあまりにも伝統墨守の経営のため、経営困難に陥り、内外の商社に買収されており、とくに1973、74年、価格崩落の危機後、その傾向が著しい。なお、こうしたシャトーのかたわらに、多数の中小農民の経営するブドウ畑が存在し、協同組合組織により優れたブドウ酒を製造している。

現地ガイドによるワインの説明
 葡萄を収穫すると、実と房を分け、皮を破ってに4日から7日ほど漬け込む。第一次発酵という。その後タンクに移され、更に発酵させる。葡萄つぶし作業の宣伝にうら若き乙女のポスターが使われているが、実際は大変な作業で、水虫の男性アルバイトなども投入して裸足で潰すという。葡萄の皮についている酵母により180cのブドウ糖から92cのアルコールと44.8gの二酸化炭素ができる。発酵は酸化を意味し、熱が出るので、30℃以下に押さえないとワインビネガーになってしまう。コンクリート・タンクでは冷却板に水を通し、ラジエター代わりにしている。ステンレスタンクの場合も冷却装置が入っている。タンクでの醸造は赤で1月、ロゼで4〜5週間かける。ロゼは、途中で皮と種を引き上げるのでそれ以上赤くならずピンク色になる。初期の発酵が終わるとステンレス・タンクの場合は樽に移し替え、コンクリート・タンクではそのままで、1年から1年半ほど寝かし、その後瓶詰めとなる。

 コンクリート・タンクの場合は、そのまま1年寝かし、その間2月に1回移し替え、澱をとる。ステンレスタンクの場合は、オークの樽に移し替えてから、1年半ほど寝かし、その間、1週間に1度ワインを補充し、澱をとる。寝かした後、卵のメレンゲで不純物を除去し、瓶詰めする。今は、フィルターで澱や不純物をとっている。アルコール度は、最低12度ないと熟成できない。葡萄のできが悪いときは、補糖シャフタリザシオンを行う。(シャンパンの場合、1瓶に角砂糖1個分の糖分を入れている。)そのため、平均気温9℃〜21℃のエリアがワイン用の葡萄ゾーンだ。ボルドーは北緯45度にあり、札幌と同じ緯度。ロワール地方がフランスのワイン生産地の北限で、それ以北は、ワインができないので、リンゴを栽培し、リンゴ酒・シードルを生産。シードル(サイダー)を蒸留したものがカルバドス(リンゴを原料とするブランデー)となる。

 ブルゴーニューは単一品種のワイン(セパージュ・ワインという)を造るが、ボルドーは品種ごとに漬け込み、それをブレンドして瓶詰めにする、つまりセパージュ・ワインをブレンドしたワインだ。カベルネ・ソーヴィリオン、カベルネ・ブラン、メルロー、プチ・ベルドなどが主な品種。

 地区別の特徴としては、オーメドックは、畑が粘土質なので、重いしっかりしたワインができる。サンテミリオンは砂地なのでしつこくない味。マルゴー、クラーブは砂利なのでさっぱり味だ。ブルゴーニューは粘土で石灰質なので飲みやすく、ピノー種が適している。

 ワインの栓を抜いたら、デキャンタで酸化を促進する。テイスティングのグラスは、チューリップ型。テイスティング・利き酒の仕方。@足を見る。足は粘り。長い方が良い。A香りをかぐ。葡萄+樽の香り。複雑な香り。バナナ、ミカン、バニラ、バラなど。B色を見る。ルビーなど。C口に含む。舌で転がす。利き酒は、瓶詰めする際、何年寝かしたら美味しくなるかということを調べること。パン以外のものは食べない。
 フランス人は、ワインは、アルコール飲料とは見ていない。奥さんの作った食事の脇役。主人が料理に合わせワインを選ぶ。良すぎてもダメ。あくまでも料理の引き立て役。ワインの表現には、女性の身体にたとえていうことがある。胸がある。腰が締まっている。足が長い。AOCワインは、アペラシオン・オリジン・コントーレの略で、ワインの格付け。1935年にメドック地区221箇所が指定を受けた。

 ワインの栽培は、水、肥料なし。土を掘り起こすのみ。雑草も抜かない。だから世話は非常に楽だ。ブドウの木は35年で引き抜く。年をとると収穫量が減り、病気になりやすいからだ。葡萄畑に薔薇を植えているところがある。薔薇にアブラムシが付くと農薬を散布するためだ。これが有名なボルドー液だ。

 最後にワインの効用だが、アルカリ飲料であることはもちろんとして、更に大きいのは赤ワインのみにポリフェノールが含まれているので、これが成人病予防に良いということだ。ポリフェノールは血管のコレステロールを浄化する働きをする。血液が綺麗に流れるようになるので、心臓病や高血圧、目のかすみ、呆けなど、コレステロールによる血のめぐりが悪化することによって生ずる症状、つまり成人病を予防し、快復させる薬理作用がある。フランスの実験結果によると、赤ワインを毎日適量飲んだグループをA、時々しか飲まないグループをB、全く飲まないグループをCと三つに分けて、成人病の発症率を観察したところ、グループCの人は全員が何らかの形で成人病にかかり、グループBの人はCよりも少ない発症率であったが、グループAからは一人も成人病患者が出なかったという。(この実験は、ワイン輸出国・フランスが行ったものであるから、多少割り引いて聞く必要があるだろうが、全く嘘ではなさそうだ。今後、大いに赤ワインを飲み、成人病にかからない健康な身体で長生きしたいものである。)


シャトー・モカイユ
Chateau Maucaillou  最初ワイン博物館を見学、その後フランス女性のガイドがワインの醸造を説明。日本人ガイドが通訳してくれた。

女性ガイドの説明: このシャトーでは、黒葡萄のカベルネ・ソーヴィニオン63%、メルロー30%、プチ・ベルド3%を栽培、9〜10月に収穫する。一番早くメルローが熟成し、その後カベルネ・ソーヴィニオン、その後プチ・ベルドの順となる。年代物は機械で収穫、若い木は手で収穫。2.5週間で収穫を終える。今年の分は既に収穫を終え、3種類の葡萄を別々にしてトータル60万gのステンレスタンスに入っている。(別室に30万gのタンクもある。)発酵を終えると、葡萄の種類ごとに分けてオーク(樫)の樽に詰め、18箇月寝かすことになる。その後瓶詰めする。新旧の樽は、6:4の比率だ。空樽は新品が3,000フランする。

 セコハンは、その40%の値段。瓶詰めした後でもワインは瓶の中で熟成するので、最低でも4〜5年は寝かすことになる。瓶詰めする際、テイスティングが行われ、3種類のワインのブレンドの比率を決める。専用の職人がいるが、最終的にはシャトーのオーナーが決定する。ブレンドの種類は2種類のみ。一種は高級ワイン。もう一つは若い木のワインをブレンドしたものを作る。品質は若干落ちる。ここではルージュ(赤)しか生産しないが、ブラン(白)はよそから購入し、ここで瓶詰めし、モカイユのブランとして出荷している。瓶詰めの際、公的にワインの検査が行われ、AOCワインとして格付けがなされる。

 説明の後テイスティングを実施。テイスティングは2年前にとれたもので今年瓶詰めにする赤ワインで、一人づつ、モカイユのマークの入ったワイングラスに注いでもらった。テイスティングしたところ、まだ熟成が進んでいないので、色も鈍く、渋みと苦みがあり、みんな吐き出していた。私も美味しくないので捨ててしまった。グラスは、記念に持ち帰って良いということだった。(売店で一つ500円くらいで売られていた。)
12 アンボワーズ城

アンボワーズ城
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アンボアーズ Amboise フランス中部、アンドル・エ・ロアール県の古い城下町。人口1万1116(1975)。ロアール左岸に位置する。中世にはアンジュー伯、次いでベリー伯の所領であったが、1434年シャルル7世により王領に編入。歴代の諸王が滞在したゴシック様式の城館(15世紀末)は、1560年フランソア2世を新教徒側にひき入れようとして失敗に帰した〈アンボアーズの陰謀〉の舞台として名高い。城内の聖ユベール礼拝堂には、近くのクロ・リュセの館で亡くなったレオナルド・ダ・ビンチの墓がある。

アンボワーズ城
Chateau de Amboise ロワール川のほとり、底辺180b、2辺200bの二等辺三角形型敷地に建てられた広大な城郭内に現存するのは川に面した巨大円筒とそれに接続する中央棟だけだ。直径21bもあるこの塔の名は、ミニムの塔 Tour des Minimes 。内部は螺旋斜路となっている。中央部、王の居住館2階にある会議用ホールは、豪奢な円柱列で二分され、天井は尖塔アーチになっている。暖炉には2人の天使が、それぞれフランスとブルターニュの紋章を支える図が浮き彫りにされている。

 一方、円柱は1本おきに、ユリの花と白テンの毛皮模様が彫られている。白テンはシャルル8世の妃アンヌ・ド・ブルターニュの紋章なのだ。この建築も装飾も、まだイタリア・ルネサンスの影響をほとんど受けていないゴシック様式だ。聖ユベール礼拝堂 Chapell St-Hubert はゴシック・フランボワイヤンの傑作とされ、非常に凝ったつくりだ。この城における最も著名な事件は、フランソワ2世時代に起きた新教徒の大虐殺だ。新教徒が錦の御旗を入手すべく、王を奪いに来たところが、理由を知った旧教徒に、この城内で大量に惨殺されたのだ。


 傘をさしての見学となった。城内にレオナルド・ダ・ヴィンチの像が建っていた。彼は、フランソワ1世が先進国イタリアから5,000人もの職人を連れてきて、フランスに技術導入を図った際、いっしょに連れてこられ、この地で亡くなり、埋葬されたところに胸像が建っている。イタリアから遺骨を戻して欲しいという要請で、今はダ・ヴィンチの遺骨はミラノに眠っているという。
13 シュノンソー城

シュノンソー城
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シュノンソー Chenonceaux フランス中部、アンドル・エ・ロアール県の小村で、ロアール川の支流シェール河畔に位置する。ロアール河畔の城館中屈指の名城シュノンソーの城館 Chateau de Chenonceau があることで知られる。この城館は、フランソア1世の徴税吏トマ・ボイエが1515年から22年にかけて造営した本館部を基に、アンリ2世の寵姫ディアーヌ・ド・ポアティエが橋を付け加え、さらに、その後ショーモン城と引替えにこの城を手中に収めたカトリーヌ・ド・メディシスが橋の上に2層のギャラリーを造営して、ほぼ現在の姿をとるにいたった。大革命の際、時の城主デュパン夫人の人徳のおかげで破壊を免れたという。現在はムーニエ家の私有財産だが、有料で公開されている。

シュノンソー城 Chateau de Chenonceau 
建物は3つの部分から成る。まずは15世紀の城塞の唯一の名残、手前右側の独立塔。次はシャンボール城よりわずか先に造られた、川岸近くの棟。初期ルネサンスの香り豊かな建築で、ゴシックの骨格にイタリア趣味の装飾を取り付けた特異なたたずまいである。最後は、対岸にまで渡る橋上の三層建築。最初は名建築家のフィリベール・ドロルムの手になる1階のみだったが、後日二層を積み重ねた。1階壁面は、橋脚にあわせて半円型にふくらませ、2階の窓に円弧の切妻ひさしを出し、3階には屋根をくり抜いた円窓が並ぶクラシックスタイル。この城の美しさは、立地条件に負う点も多いので、シェール川に投錨した船にたとえられることがしばしばある。いわく因縁あまたの城である。

 「6人の女の城」といわれるゆえんをつぶさに述べる紙数はないが、彼女たちのうちの一人ディアーヌ・ド・ポアチェを忘れてはならない。彼女はときの王アンリ二世より20歳も年上の姉さん、いやママさん女房だ。なぜなら彼女はこの王の亡き母君(王妃)と同年輩だったから。王がこの城を彼女に与え、彼女が橋をかけてその部分の1階と、城前面左側の美しい庭園をつくった。老いを知らない絶世の佳人と、甘い香り漂う庭園と城館。しかし、訪れる者の夢は、アンリ二世の突然の死とともに破れる。王妃カトリーヌ・ド・メディシスは星占いで、みずからの運命を予見していただろうか。この城はディアーヌからカトリーヌの手に移り、その後は華麗な宮廷生活が展開される。そして色恋沙汰も。ただ、シェールの水だけが全てを知り、今も静に流れている。
14 シャンボール城

シャンボール城
世界遺産

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シャンボール城 Chateau de  Chambord ロワール渓谷とはいうものの、この辺は日本人の眼には谷とは写らず、単なる流域平野だ。16世紀早々この地に着工された城は、ときの王フランソワ1世の生涯を通じて工事が継続された。円塔が乗った城壁を矩形にめぐらし、一辺には巨大な天守がそびえる。こういう計画は中世の平城を踏襲したものだが、こゝではフランスの伝統を重んじながらも、ルネサンスの新風によって、当時としては珍しい左右対称を強調している。

 不思議なことに、いかなる資料によってもこの壮大な城の設計者が、いまだに明確にならないそうだ。プリマティスとも想像されるし、また起工の前年に死んだダ・ヴィンチがこの計画に参加した可能性もある、ともいわれる。天守の中央にはこの城の目玉ともいわれる階段があるが、これは窓が開いた円筒のまわりを二重に取り巻く螺旋階段となっており、人がすれ違わないで昇降できる。この階段の原案はやはりダ・ヴィンチだろうといわれているが、決め手はない。この城にまつわる物語は多い。

 そもそも着工の動機が、若き日のフランソワ1世の恋心だ。隣りに綺麗な女性が住んでいたのである。下ってはカトリーヌ・ド・メディシスが、夜な夜な屋上でお得意の星占いにご専念。ルイ13世はここで彼女と密会し、ルイ14世は美女ラ・ヴァリエール嬢としけ込んだ。ルイ15世の時代には、ドイツ生まれの太っちょ将軍が住み、ミリタリスムと同時に、当代一流の劇場までつくってやる始末。尤もこの軍人さん、挙げ句の果てにはライバルと決闘して落命したらしいが...。建物もさることながら、その石壁が語る艶史がさらに面白い城である。
15 バイユーのタピスリー

バイユーのタピスリー
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バイユーBayeux 大戦時、1944年6月、ノルマンディ上陸作戦で最初に解放された街だ。ドゴール将軍が初めてこの地で演説。バイユーの東南東のカーンCaenでは大変な戦いが繰り広げられ、戦闘は2日に及んだという。バイユーは何といってもマチルダのタピスリー Tapisserie de la Reine Mathilde で有名だ。 

バイユーのタピスリー Tapisserie de Bayeux
 フランス、バイユーのノートル・ダム大聖堂所蔵の、11世紀の刺斥壁掛け。約70m×0.5mの麻布地に、青、緑、黄等濃淡8色の毛織糸を使用。ノルマン人のイギリス征服のエピソード「ウェセックス公ハロルドの偽りの誓いがウィリアムによる征服とハロルドの敗北と死を招くという因果物語」が、様式化の中にものびやかに描かれる。11世紀の風俗を知るための最も確実な稀有の資料として、また当時重要な美術品のカテゴリーであったこの種の作品の唯一の残存例として貴重。ウィリアムの異父弟オドン Odon(1032‐97)が司教であったバイユー大聖堂の身廊に、1077年の献堂式以来、聖遺物の祝日から9日間張りめぐらされたという。19世紀に控えめな修復がなされた。18世紀には《マティルド王妃のタピスリー》と誤って呼ばれる。工房や作者は不明。銘文等からケント伯になったオドンがバイユー大聖堂のためにイギリス人刺斥工に作らせたとする説が有力。タピスリー(つづれ織)と呼びならわされているが、実際には刺斥である。

 ノルマンディ公ウィリアムのイングランド征服を描いたマチルダのタピスリーは、織物というよりは刺繍を施した長い布なのだが、その表現はそこらの絵より余程迫力がある。幅50a長さ70bのタピスリー(英語ではタピストリー)。細切れの写真では絶対にこの迫力は伝わらない。美術館の一室に展示されたこの作品、見る人が歩くにしたがって物語は進行し、いつのまにか自分自身が戦闘の場面へと引き込まれているのに気づく。しかし、単に時間の流れに沿って物語が語られるのではない。たとえば、エドワード王の死の場面が彼の葬式よりもあとに描かれているのは、そのほうが構図として面白いという美的な観点によるものらしい。大胆な表現とこまやかな配慮とが見事にとけあった傑作だ。
16 カルバドス工場

カルバドス工場
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 ノルマンディ地方は、ブルターニュ地方とともにシードル(サイダー)の2大産地だ。ロワール地方が葡萄栽培(ワイン生産)の北限であり、ロワールの北方、大西洋に面するノルマンディは葡萄が育たず、その代わりにリンゴを栽培し、酒をつくることを考えた。シードルはリンゴでつくる醸造酒で2〜7度ある。BC100年頃から飲まれており、これを蒸留したのがカルバドスで、50〜55度、普通は40度くらい。寒い冬は、労働者が仕事の前に珈琲とカルバドスを飲んだという。

シードル cidre
 リンゴ汁を発酵させてつくったリンゴ酒。英語ではサイダー cider、またはアップルワインという。原料リンゴは糖度、酸度ともに高く、渋みのあるものを使うことが多い。これをつぶすか、スライスして搾汁し、酵母を加えて発酵させ、清澄ろ過して瓶詰にする。炭酸ガスを注入するなどして発泡性にしたものもある。アルコール分はふつう4〜7%程度であるが、補糖して発酵させたり、アルコール添加を行うなどして、アルコール分12%ほどにしたものもある。さわやかな酸味と甘みがあり、食前酒などにされる。また、これを蒸留してカルバドスなどのアップルブランデーがつくられる。

カルバドス calvados
 
北フランス、ノルマンディー地方カルバドス県産のアップルブランデー。シードル(リンゴ酒)を、コニャックと同様にシャラント型のポットスチルで2回蒸留し、オークの樽に詰めて熟成させたものだが、この呼称を許されるのはオージュ地方とその周辺の指定された地区のものに限られ、それ以外はオードビシードルの名で呼ばれる。カルバドスはこはく色で、独特の芳香があり、アルコール分40〜45%、高級品には50%以上のものもある。日本では第2次世界大戦後、レマルクの小説《凱旋門》の影響で人気が高まった。

 工場は、Domaine de la Pommeraie というところで、工場裏手のリンゴ畑を見学。リンゴは揺すって落としてから収穫するそうで、うずたかく積み上げてあった。リンゴの実は小さく、汚く、腐っているのもあって、余り好感が持てなかった。食べると甘酸っぱい味がする。その後、工場内に案内され、シードルからカルバドスへの蒸留の過程を説明してくれた。カルバドスという飲み物は日本ではほとんど知られておらず、珍しいので20年もの1本210フラン(約4000円)で購入。味はブランデーに似ている。
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モン・サン・ミッシェル

モン・サン・ミシェル
世界遺産
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モン・サン・ミッシェル Mont St-Michel 一面グレーの砂地に浮かぶ島。中世、ここに修道院が築かれて以来、巡礼の地として栄えてきた。島はもともと陸続きで、ノルマンディとブルターニュにまたがるシシイの森 Foret de Sissy の中にそびえる山 Mont Tombe であった。ところがあるとき押し寄せた津波がこの森を飲み、山は陸と切り離されて島となってしまったという。現在、陸地とは1本の堤防で結ばれているだけ。モン・サン・ミッシェル付近の一帯は、潮の干満の差が激しいことでも知られる。満潮時には驚くべき速さで潮が満ちてゆき、以前は島全体が水に囲まれた。このため僧院を訪れようとした数多くの巡礼者が命を落としている。島の入り口には潮の干満時刻を示した表示があり、満潮時に浜に下りないようにと今も記されている。
 昼過ぎ、世界遺産・カトリック四大聖地の一つモン・サン・ミッシェルに到着。(キリスト教系の四大聖地は、こゝのほかエルサレム、バチカン、スペインのコンポステラだそうだ。)

 モン・サン・ミッシェルに近づきすぎると全景を撮影できないので、一旦島に向かう道路上で停車し、撮影をした後、バスは島の駐車場に入り、徒歩で砂上に浮かぶ島に向かう。入り口を通過してすぐに La Mere Poulard 「プーラールおばさん」の看板のある店に入った。オムレツが有名な三ツ星ホテルだ。入り口ではオムレツの実演が見られる。昼食時で凄く込んでいて、3階でかなり待たされ、やっと席が空いたところで2階で昼食。もちろんオムレツが出たが、なかなか美味かった。一人卵一個分で泡立てた素朴な味だ。ノルマンディ地方では葡萄がとれず、代わりにリンゴを栽培し、リンゴ酒(シードル、英語ではサイダー)をつくっており、お薦めなのでグラス一杯のリンゴ酒を飲んだ。腹ごしらえと小用の後、現地フランス人の日本語ペラペラのガイドさんに案内され、島の見学に入った。

砂の上に浮かぶ僧院 Abbaye
 ときは8世紀の初め、アブランシュの司教であった聖オベールは、夢の中で聖ミッシェルSt-Michelのお告げを聞いた。この地に修道院を建てよ、と。長期の難工事を経て完成したのがこの僧院だ。その後聖地として、多くの巡礼の徒をこの島に招くこととなった。見るからに堅固なその外観は、修道院というよりむしろ城か砦を思わせる。実際、百年戦争中は英仏海峡に浮かぶ要塞としての役目を果たした。また、ナポレオン1世の治世には牢獄として使われている。宗教と政治がからみあう中で、生きながらえてきた僧院である。内部は中世の建築方式が混ざり合った独特なもの。

 キリスト教では、三大天使というのがある。ガブリエル(ヘブライ語で〈神の人〉の意。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の天使で〈神意の伝達者〉の役割を果たす。)、ラファエロ(不明)そしてミカエルなのだそうだ。サン・ミッシェルとは聖ミカエルのことをいう。モンは、モン(山)ブラン(白い)のモンなので、モン・サン・ミッシェルとは、聖ミカエルの山ということになる。ミカエルは、天軍の長であり、最後の審判のときに死者の心臓をはかり、天国に送るか地獄に送るかを選別する役割をする。いわば仏教の閻魔に当たる存在のようだ。空飛ぶ龍を踏みつけ剱を持っている姿が勇ましく、近年になってヘリコプターで塔の先端に金色のミカエル像が取り付けられた。

 
遠くにトンブレーヌ孤島という島が見える。島のすぐ側にノルマンディとブルターニュを分ける川が流れ、モン・サン・ミッシェルは、なるほどきわどくノルマンディ地方の方に入っているのが分かる。過去に争いもあったという。一番高い広場まで歩き、そこから建物内部に入り、徐々に下りていく。何階にもなっているので、それを支える強度が必要で、色々な工夫がなされている。それに湿気対策も重要だ。台所や食堂は、大きな暖炉があり、煙突にも工夫がある。長い時空をかけて、築き上げてきた奇跡の建物。建物の中に庭があり、植木がある。ストレス発散のための回廊など、あちこちに工夫がある。この地は雨の多い地方だそうで、今日みたいなからりと晴れた日は本当に珍しいという。僧院の影が海面に映っているのもラッキーだ。バイキングの地・ノルマンディらしく、大部屋の天井が船底型になっているところがある。荷物を巻き上げる縦置きの木製ホイルがあり、中に3名ほど人が入って歩くことによりホイルを回し、重量物を巻き上げる装置も残っていて、興味深い。

17 オンフルール
オンフルール
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オンフルール Honfleur オンフルールは、大西洋に注ぐセーヌの河口にある古い漁港の町。15世紀の百年戦争には、要塞の拠点として歴史にその名をとどめたが、今は色とりどりに並んだヨットの眺めが目を楽しませてくれる静かな港町だ。印象派の画家たちも平和な港の風景を愛し、繰り返しキャンバスに描いた。

 またオンフルールは、かの天才作曲家エリック・サティの生まれ故郷でもある。絵に描いたように美しい街。小さな漁港にヨットがつながれ、彩りを添えてくれる。底引き漁船が沢山いたが、面白かったのはどれも胴体が短く、ずんぐりむっくり型だった。色はカラフルだ。ところ変われば何とかで、ここではそれが当たり前なのだろう。キャンバスに向かってせっせと港の風景を描いている画家や画家志望の人たちが沢山居て楽しい。サント・カトリーヌ教会 Eglise Ste-Catherine に行った。丁度パイプオルガンの生演奏をしていた。荘厳な音楽が雰囲気を醸し出していて、興味深かった。教会の天井がバイキングの船底の形をしている。

18 ドーヴィル

ドーヴィル
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ドーヴィル Deauville 有名な音楽「ダバダバダ、ダバダバダ---」の映画「男と女」で知られる世界的なリゾート。夏は映画祭、競馬、馬の競売会、クリケット競技会、カジノでの賭博が催され、パリに代わってフランス社交界の中心となる。外に出てノルマンディー風木造建築の美しい高級商店街、砂浜につくられたこの町特有の道プランシュPlancheを歩くのも良いだろう。スノップでエレガントなこの町も、シーズンオフには静まりかえってしまう。

 ダバダバダで有名になった「男と女」は、カンヌ映画祭でグランプリを受賞した作品だ。パリから車で2時間、手頃なリゾートだ。宿は、高級ホテル Hotel Normandy 。部屋の鍵を受け取り、ポーターがまだ荷物を持ってこないうちに裏口から海へ出た。サンセットの素晴らしい光景を見るためだ。ホテルすぐ裏の馬場では、子供達が乗馬の練習をしていた。浜辺でも更に大きい子供達が、つまり、路上運転を許可された子がグループで練習している。広い砂浜は人影もなく、ひっそりとしていた。極めの細かな白い砂が素晴らしい。遠浅の海。晩秋の大西洋の海水は、ほのかに冷たい。綺麗な貝殻があちこちに散在していたので、記念に拾う。板張りの道プランシュを歩き、カジノの前を通り、町中へ。

 夕食は、1915から貸し切りのバンケット・ルームで。高級ホテルなので、背広にネクタイが必要と示唆されていたが、私はジャケットを着ただけでノーネクタイ。それが正解だった。料理は魚介類の盛り合わせだ。生ガキ、カニ、エビ、ボイルした巻き貝、シャコエビ、ツブ貝がメインで、それが全て。後は野菜サラダとフルーツが出て終わり。魚介類はひたすら殻をむき、ワインビネガー、マヨネーズ、レモンをつけて食べるだけ。ワインは4組で3本注文。高級ホテルのバンケット・ルームでのディナーにもかかわらず、ソムリエらしき人は見かけず、結局私がソムリエ役になり、乏しい知識ながらロワール地方のミュスカデを選択。ドライな白ワインが魚介類にぴったりとあった。
19 ルーアン(ノルマンディ)

ルーアン
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ルーアン Rouen  フランス北部、セーヌ・マリティム県の県都。人口10万5000(1990)。パリとル・アーブルの中間にあるセーヌ河畔の工業都市で、ノルマンディーの旧主都。古来パリの外港として発展し、現在は石炭、石油、木材などの輸入と、パリ、ルーアンで生産される工業製品の輸出が行われる。伝統的な紡績工業に加えて製鉄、造船業などの重工業のほか、近年は石油化学工業の発展が著しい。ノートル・ダム大聖堂は、フランス・ゴシック建築の代表作の一つで、大半が13世紀に建てられた。袖廊の南北扉口に施された浮彫は、14世紀ゴシック彫刻の傑作。この大聖堂はモネが好んで描いたことでも知られる。

 また、フランボアイヤン様式の華麗なサン・マクルー教会(16世紀初め)、大時計などが残されるほか、この町で処刑されたジャンヌ・ダルクゆかりの史跡も多い。オルレアンの少女ジャンヌ・ダルクは、19歳という若さで、この地で処刑された。生きながら火あぶりにされ、灰はセーヌ川に投げ込まれたという。処刑地にはモニュメントが建てられ、花が絶えない。セーヌ川に投げ込まれた場所にも花が沢山置かれていた。もちろん菊の花である。フランスを救ったジャンヌがなぜ処刑されたのかという点については、十分な説明は聞けなかった。

 ラフにいえば、フランス軍の男性のねたみから裏切りにあい、イギリス軍に捕まり、ルーアンで処刑されたのだという。(帰国後、世界大百科事典を読むとどうも事情がもっと複雑だ。イギリスに捕まったのにフランスが宗教裁判を要求し、それをイギリスが認め、フランスによるルーアンでの裁判の結果、異端女と断定、フランスのルーアン代官が処刑している。やはりフランス男性のジェラシーだったのか。)

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オーヴェル
シュル・オワーズ
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オーヴェル・シュル・オワーズ Auvers-sur-Oise 何の変哲もないオワーズ川沿いのこの村が多くの旅人を引きつけるのは、ひとえに、あの炎の天才画家ヴァンサン・ヴァン・ゴッグ Vincent Van Gogh(英語読み:フィンセント・ファン・ゴッホ)のためだ。晩年、すでに狂気にとらわれていたゴッホは、この村で彼の最後の名作を描き、1890年7月、村はずれの畑でみずからの銃弾を胸に撃ち込んで、37歳の生涯を閉じたのだ。 ミレーやゴーギャン、広重などの強い影響のもとに、絵画の既成概念をうち砕く作品を次々と生みだしたゴッホ。だが、アカデミズム全盛の当時、彼は誰からも認められることなく、狂気と貧困と孤独のただ中で苦悩の一生を終えた。名作「カラスのいる麦畑」は、自殺の数日前に描かれたもの。沸きかえるような真夏の光の向こうに垣間見えるむき出しの狂気とどす黒い死の予感...。ピストルの引き金をひく直前のゴッホが見たオーヴェルの風景も、きっとこの絵のようなものであったにちがいない。写真は、自殺を遂げた麦畑。ゴッホが描いた麦畑のコピーが彼が描いた位置に掲げられている。

フランス人ガイドによる説明
 ゴッホはオランダの牧師の子だったが、27歳で画家になり、パリで活動していたが、新天地を求めアルルに移った。アルルに着いたとき、南仏のイメージはなく、珍しく雪が降っていたという。スタートから落胆が始まり、1年半いたアルルであったが、ゴーギャンともうまくいかず、殺そうかとも思ったが思いを遂げられず、ゴーギャンはアルルを去ってしまう。その辺から錯乱状態に陥り、自らの耳をそぎ落としてしまう。アルルでは190点の作品を残しているが、その後サン・レミの精神病院に収容され、治療していたが、最後はパリ近郊のこの地オーヴェルに移り、自殺するまでの70日間をここで過ごし、発作に苦しみながらも1日1点のハイスピードで作品を描いた。彼の面倒を見た医師がガシェという人で、ゴッホが描いたその肖像画は、現在日本人が所蔵しているが、油絵の中で世界一高い値段で買ったのだのだという。(50億円?)ゴッホは、たった10年で2,000点もの作品を残した。そのうち油絵は、900点だという。

 彼は、弟のテオから財政的支援を受けていたので、彼の作品は、全て弟のテオに送られている。ゴッホが自殺した原因は、ゴッホの支援で経済的にも困窮していた弟のテオが病気になり、それが自分のせいだと思いこんだことによるといわれている。ゴッホは、自殺を図ってから2日後に死亡したが、弟も間もなく死亡。ガシェ医師がゴッホの墓をオーヴェルの墓地に建て、弟もそのとなりに一緒に眠っている。ゴッホの作品は、生きているときは1点だけ友人が買ったというが、それ以外は全く売れなかった。2,000点もの遺作は、テオの奥さんが所蔵したが、金に困って二束三文で売られたりしていて、その後散逸。現在は、オランダに財団が組織されていて、ゴッホの作品を収集しており、最近ゴッホ美術館がオランダにできたようで、保存活動が続けられている。

 我々は、フランス人ガイドの後をぞろぞろと歩き、ゴッホが二階に泊まっていたラヴー亭Ravoux、ザッキン作のゴッホ像、石段を上がった教会、少しぬかっていたがゴッホが自殺した麦畑、そしてゴッホのお墓などを見て回った。ゴッホの墓は、墓地に入って左の壁脇にある。そのすぐ隣には彼の弟テオTheoが眠っている。色とりどりの大輪の菊の鉢が沢山置かれている。墓地を見渡すと、本当に菊菊菊だ。最近まで村の中央通りにあったカフェ・レストラン A Van Gogh は、ゴッホが間借りしていたところだ。もとはラヴー Ravoux という名前で、当時の主人の家族が1986年末まで店をやっていた。ゴッホの部屋がそのまま保存してあったが、狭い屋根裏部屋で、ベッドと小さなテーブルとイスがあるだけの寂しさ。ゴッホは麦畑の中でピストルで自分の胸を撃った後も死にきれず、自力で部屋までたどりつき、このベッドの上で2日間、もだえ苦しんだ末に息を引き取ったという。

 オーヴェルは、ゴッホだけでなく、佐伯祐三や荻須高徳、そしてセザンヌゆかりの地でもある。ゴッホの面倒を見、その最後を看取った医師ガシェは、印象派の良き理解者で、セザンヌとも親しかったという。

21 ベルサイユ宮殿

ベルサイユ宮殿
世界遺産
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ベルサイユ宮殿 Chateau  パリ南西郊外ベルサイユにある、ルイ14世の造営になる宮殿。東端に位置する宮殿 、その背後に広がる庭園、離宮グラン・トリアノン、プチ・トリアノンなどからなる。騒擾(そうじよう)事件が頻発し衛生状態のよくないパリの町を嫌ったルイ14世は、郊外の森に囲まれた田園地帯に、ルイ13世時代の狩りの館を大々的に作りかえる形で、まったく新しいタイプの宮殿、そしてそれに付属する都市を構想し、その意匠を王宮建築家たちにゆだねた。ベルサイユの場合は、その建設を国家的規模で行い、しかも国王の居館のみならずパリにあった政府機関をすべてそこに移し直したという点で稀有のものであった。実際、宮廷関係の人間は約2万人にも及び、そのうち貴族、執政者が1000人、その家臣4000人、計5000人前後が宮殿内に起居し、さらに1万4000人にものぼる従者や兵士たちが付属の建物、ないし町の中に住んでいたと伝えられる。建設は1661年に開始され、82年には政府機関がパリからこの地に移される。

 宰相コルベールの下で当初宮殿の設計にあたったのは王室首席建築家のル・ボーであったが、彼の死にともなってJ. H. マンサールがその任を継ぎ、宮殿を今日の形になした。マンサールはフランスにおけるもっともバロック的な精神を代表する建築家であり、宮殿の配置や形態、内部の意匠にその具体的な例を認めることができる。左右対称の宮殿の中心を貫く軸線に沿って、外側から大遠舎、正門、〈大理石の中庭〉、国王の居室〈鏡の間〉が配され、その両側には長大な南北翼を備える。

 さらに背後にはル・ノートルの手になる壮麗な庭園が控えている。宮殿正面に向けて、放射状に広がる街路が集中するよう計画されるなど、国王の居室が都市と宮殿すべての中心として位置づけられており、都市計画も放射状平面にもとづいている。その後、マンサールは広大な敷地内に閑静な離宮グラン・トリアノン Grand Trianon を完成させるが、そうした小館の建設はルイ14世の死後も続き、ポンパドゥール夫人のためのプチ・トリアノン PetitTrianon(1768。ガブリエル設計)、マリー・アントアネットのためのアモー Hameau(田舎家。1783、ミック R. Mique 設計)など、時代の思潮に合わせて珠玉の建築作品が生み出された。同宮殿は、ルイ14世の威光を照らし出すかのように全世界に強い影響を与え、18世紀初頭から半ばにかけてウィーン郊外のシェーンブルン宮殿(1696‐1713)やペテルブルグ郊外のペテルゴーフ宮殿(現、ペトロドボレツ宮殿。1745‐47)など各地にベルサイユにならった宮殿の建設が相次いだ。日本の赤坂離宮(現、迎賓館)も、ベルサイユ宮殿をモデルとしている。

 0945ベルサイユ宮殿着。宮殿は、パリの西南西20qの地にある。バスで約40分だ。宮殿内部の見学は1120から1時間という予約になっているので、それまで、庭園を自由見学することになった。時折冷たい風が吹き、歩いていても寒い。しかし、邸内の壮大さは、言葉に表せない。宮殿の庭を一周するだけでも1時間はかかりそうだ。そしてまわりは果てしない森林が続く。宮殿内の見学は1時間、ガイドの後を歩いて廻る。城内の豪華さにはただただ圧倒されるばかりだ。ベルサイユ宮殿にはトイレがない。どうするのかというと、王様は持ち運び式のオマルで用を足す。一般客はそういうサービスは受けられないので、庭に出て用を足すのだという。庭といっても広大な敷地に砂利が敷き詰めてあり、植木も少なく、噴水があるのみで、隠れてするところはない。繁みに入るとなると、その庭から森へと続く道に降りていかなければならない。簡単に行って帰れるようなところではない。用を足すのは本当に大変だったのではないかと思う。 

22 リーブル美術館

ルーブル美術館
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ルーブル美術館 Musêe National du Louvre パリのセーヌ川右岸、ルーブル宮殿内に設置されたフランス国立美術館。《ミロのビーナス》《モナ・リザ》をはじめ広く知られた名作を数多く収集・展示する世界最大級の美術博物館の一つ。隣接するテュイルリー公園内のジュ・ド・ポーム・ギャラリー(いわゆる印象派美術館)はその直轄部門で、他に図書館、美術史・考古学の教育機関〈ルーブル学院 cole du Louvre〉も併設。行政的には、国立美術館総局 Muses Nationaux de Franceが併置され、フランスの全国公立美術館を統括する。古代オリエント部、古代エジプト部、古代ギリシア・ローマ部、中世以降の彫刻からなる彫刻部、中世以降の絵画を収集する絵画部、宝石類をふくむ工芸部の主要6部門から成り、他に版画、素描の収集保存もなされている。フランソア1世時代以来の歴代の王室コレクション、とくにコルベール時代に飛躍的に増加した収集に起源をもつ。これらの王室所蔵品は、ルイ15世時代リュクサンブール宮殿で公開展示され、革命後の1793年8月10日、共和国美術館としてルーブル宮殿で公開された。従来の収集に加え、ナポレオン時代のエジプトからの将来品、その後の発掘品や購入品、寄贈が今日のルーブル美術館を形づくっている。なお、収蔵品の増大にともないルーブル美術館は近年改修が施され、中庭に新たにピラミッド風建築が造られるとともに、19世紀後半の美術品は、印象派美術館の所蔵品とともにセーヌ川対岸に1986年開館したオルセー美術館 Mused’Orsay に移管された。

 館内に入って驚いたのは、その広さだ。展示品を全て見るには、何と20qも歩かないといけない。3時間のツアーは、クタクタに疲れてしまったが、それでもほんの一部しか見学できなかった。ガイドの早口で手慣れた解説は、そのうち頭が痛くなるほど湯水のように襲ってきた。世界的に有名な絵画や彫刻が続くと、段々と感激が薄れてしまうから不思議だ。モナリザ、ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ等々。凄い展示品がぞくぞくと続き、圧倒される。ルーブル博物館は、地下に城跡がある。それを復元し、その上に建物が建てられているのだ。美術館の地下に遺跡があるなんて、これも驚きだ。スタートは遺跡見学から始まるのだから。感想としては、中世の古い作品が多く、特に絵画は宗教画が大半を占めている。ルノワール、モネなどといった19世紀の作品はオルセー美術館に移されてしまっているので、印象派の作品はまったくない。日程がタイトなので、オルセー美術館に行けなかったのが心残りだ。ツアーは午後5時過ぎ終了。マイバス社に戻る人はピラミッド下に集合。歩いてもと来た道を引き返す。
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シテ島とセーヌ川

シテ島とセーヌ川
世界遺産
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シテ島 Île de la Citê  パリ市内を流れるセーヌ川中の島。パリ市のほぼ中心に位置し、パリ発祥の地である。この島に初めて集落を形成したのは、ケルト系のパリシイ族で、前1世紀ころと推定されている。しかし前53‐前52年にローマ人が侵入した際、彼らはシテ島を放棄し、ローマ人がこの島に砦をもうけた。メロビング朝期から王がこの島に居所をもつようになったが、カペー朝のときに王宮が建てられ、以後16世紀まで諸王の公式の王宮の所在地となった。14世紀初期のシテ島の状態は、下流側の西端が〈王の牧場〉となっており、これに隣接して王宮があった(現在のパレ・ド・ジュスティスの位置)。王宮の東側には市場が存在し、同業組合に属する商人も居住し、ユダヤ人地区も生まれた。さらに東のノートル・ダム大聖堂に至る地帯には、パリの大多数の教会や礼拝堂が集中していた。こうしてシテ島は王権と教会の権威の所在地、そして商業の中心地となった。

セーヌ川 Seine 
パリ盆地を貫流するフランス第3の長流。全長776km、流域面積7万7800km2。パリ盆地南東部のラングル台地、標高471mの地点に水源をもち、シャティヨネーからシャンパーニュにかけての石灰岩台地を深く刻んで北西に流れる。オーブ川を右岸から合わせると、イル・ド・フランスのケスタに沿って南西に転じ、ケスタを横切るモントローでは左岸からヨンヌ川が合流する。ヨンヌ川は標高700mをこえるモルバン山地から流下するため水位変動が大きく、水力発電も盛んである。ヨンヌ川の影響を受けて、合流点より下流では流量の季節変化があらわれ、パリでは冬から春の融雪期にかけて、セーヌ川沿いの自動車道路が水没することもある。しかしパリ盆地の比較的乾燥した気候と、透水性の高い石灰岩が広く露出する地質を反映して、大きな洪水は生じない。水位が最も下がるのは夏である。イル・ド・フランスに入るとセーヌ川は北西に向きを変え、フォンテンブローの森と小麦の穀倉地帯であるブリ台地を分けてパリに向かう。パリ南東端のシャラントン・ル・ポンでは右岸から最大の支流マルヌ川が合流する。河床標高はパリでわずか26mにまで低下するので、下流側の勾配は著しく小さくなり、オアーズ川との合流点付近から下流部のルーアン周辺にかけては蛇行が最も激しい。また河口からルーアンまでは感潮河川となる。河口のキルブフからはエスチュアリー(三角江)となり、右岸には大貿易港ル・アーブル、左岸には古くからの港町オンフルールが開ける。

 勾配がゆるやかなこと、水量が豊かで安定していることから、セーヌ川は水運に重要な役割を果たし、とくにルーアンからモントローまでは川に並行する運河もつくられて、3000トンまでの船の航行が可能である。パリのやや下流にあるパリ港はフランス第1の河港であり、ルーアン、ル・アーブルも河港としてパリ港に次ぐ重要性をもつ。しかし上流部では、運河によってソーヌ川、ロアール川と結ばれているものの、水門が多く水路も狭いためにその利用価値は限られている。セーヌ川はパリ盆地を東西に貫く交通・エネルギーの大動脈であり、とくにパリとその下流部の諸都市を関連づける上で大きな役割を果たしている。パリとル・アーブルとの間のセーヌ河谷に沿うベルト状の工業地域(自動車・電機・石油化学工業など)の発展がめざましい。

 またル・アーブルからパリにかけてのセーヌ川沿いにはパイプラインが設置されている。パリを中心とするイル・ド・フランスの歴史はセーヌ川と不可分であり、パリはセーヌ川の渡河点であったシテ島を発祥の地としている。中世以来、パリはセーヌ川を航行する積荷船の交易を支配することによって繁栄した。川沿いに並ぶポプラの影を映しておだやかに流れるセーヌ川は、モネやルノアールをはじめとする印象派の画家たちに豊かな画題を提供したばかりでなく、パリに集まる作家や詩人たちにもさまざまな影響を与え、パリ、ひいてはフランスの芸術をはぐくんできた。セーヌ川の左岸と右岸とではパリの都市空間にも大きな違いがある。セーヌ川はパリを構成する最も重要な要素であったし、これからも常にパリを活性化し続けることだろう。

24 ノートル・ダム大聖堂

ノートル・ダム大聖堂
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ノートル・ダム大聖堂 Cathêdrale Notre‐Dame de Paris パリのシテ島にある司教座教会。フランス・ゴシック建築のなかでは西正面が最も調和を見せている、初期ゴシック建築の壮大な作例である。矩形の双塔や、双塔の線に沿って正面を3部分に分割するバットレス(扶壁)の垂直線と、〈王のギャラリー〉の水平線とが、ばら窓を中心に比類ない均衡と調和を保っている。現在の建物は、5世紀、6世紀(または7世紀初頭)の建造に続く第3番目のものである。12世紀中ごろ、内陣から建造が始まり、1182年に完成。身廊部は1180‐1200年に、西正面は1200年ごろから50年に完成された。内部は中央身廊を中心に5廊式で、アーケード、トリビューン(階上廊)、高窓と3層構成をとる(かつては4層構成であった)。

 しかし、側廊の上にあるトリビューンの存在が採光の妨げになり、内部は暗い。高さ35mに達する天井は、なお6分リブ・ボールトで、初期ゴシック建築の特徴をとどめる。直径12.9mのばら窓を持つ南北袖廊(トランセプト)は、13世紀中ごろ建築家ジャン・ド・シェル Jean de Chelles とピエール・ド・モントロー Pierre de Montreau によって増築された。南北ばら窓や西正面ばら窓(直径9.6m、1215‐20)は、多くの修復を蒙ったものの、今なお当時の輝きを放っている。フランス革命により、外壁を飾っていた多くの彫刻は破壊された。西正面の〈王のギャラリー〉の28体の彫像、三つの扉口側壁に立つ彫像などは、19世紀の修復になる。

 しかし、右側扉口タンパンの〈聖母子〉(1165‐70ころ)、左側扉口タンパンの〈聖母戴冠〉(1210‐20ころ)、中央扉口タンパンの〈最後の審判〉(1220‐30ころ)は、いずれも当時の姿を伝えており、ここでアルカイックな初期ゴシック彫刻から典雅な盛期ゴシック彫刻へと向かう発展を跡づけることができる。また、北側の〈赤い扉口〉中央柱に立つ〈聖母像〉(1250ころ)、内陣周囲を飾る極彩色のほどこされた〈キリスト伝〉(14世紀)の浮彫群も見のがせない細部である。

 ノートルダム大聖堂は、ツアー最後のスポットだ。シテ島は、島なのだが、橋が架かっているし、島という印象はない。セーヌ川はロンドンのテームズ川のように幅が広いと思っていたのだが、思ったより狭く、観光船が走る程度の川だ。百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。シテ島に渡る橋の手前でバスを降り、歩いて大聖堂へ。ミサが遅れていて、有名なバラ窓を見ることができなかった。中に入ろうとすると、止められてしまった。この辺が宗教と観光との調和が難しいところだ。信者ではなさそうな人が中に入ったりしており、白人は絶対に有利だ。ノートル・ダム大聖堂やノートル・ダム寺院というのは、あちこちにあるが、要はキリスト教で聖母マリアを祀ったところなのだそうだ。
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