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2001年2月17日改訂

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01 大聖堂ドゥオーモ(ミラノ)

大聖堂ドゥオモ
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ミラノ Milano イタリア北部、ロンバルディア州の州都で、またミラノ県の県都。ミラノ市の人口は163万4638(1981)であるが、北イタリアの工業地帯の中心都市として周辺の都市を合わせた大都市圏を形成して、ミラノ大都市圏の人口は約300万に達する。ミラノ県は人口約404万(1981)、イタリアの中で都市化と工業化が最も進んだ県であり、南部は穀物栽培と酪農が盛んであるとはいえ、農業人口の比率は5%に満たない。1人当り可処分所得も、イタリアのなかで、ジェノバ県に次いで高い。

 地形的には、ランブロ川、オロナ川など、ポー川の支流が乱流してつくり上げた氷河および河川の堆積物からなる複合扇状地の上に位置している。ローマ時代のミラノの中心は、現在のドゥオモ(ミラノ大聖堂)のすぐ南に位置していたことが遺跡によって確認されているし、近代のミラノ市の中心は、ドゥオモとミラノ城とを結ぶ軸であったから、ミラノの歴史的中心部は、2000年以上にわたって変わらずに、市街地が連続して存在してきたことになる。

 市を取り巻く城壁には、875年から880年にかけて建設されたもの、12世紀のフリードリヒ1世(バルバロッサ)による破壊の後に建設されたもの、スペイン統治下の16世紀前半に建設されたものがあり、それぞれミラノの外延的発展の跡を示している。12世紀の城壁に囲まれたミラノの面積は約3km
2で、環状の道路によってその跡が確認される。16世紀前半のものは、城門の一部や城壁が部分的に残っているが、取り壊されて環状道路(チルコンバラツィオーネ)になっており、それによって囲まれた市街地の面積は約13km2である。

ドゥオモ (ミラノ大聖堂) イタリアのミラノにある後期ゴシック様式の大聖堂。〈ミラノ公〉ジャン・ガレアッツォ・ビスコンティの命により1386年に起工、15世紀中ごろに内陣と交差廊ができ、身廊に着工された。イタリアのゴシック建築中最大の規模を誇り、5廊式身廊と3廊式交差廊を持ち、全長148m、身廊天井高45m、交差部ドーム上の塔は108m。聖堂全体が白大理石で覆われ、柱と扶壁上に人像を頂いて林立する小尖塔は135基を数える。建造初期にフランスやドイツなどから著名建築家が招かれたことが知られ、この大聖堂は北方ゴシックの影響が強い。西正面は、ナポレオンの命により1813年に完成。
02 ビットリオ・エマヌエーレ二世ガレリア(ミラノ)

ミラノ・ガレリア
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[経済都市ミラノ]  イタリアにおける政治の中心はローマで、経済の中心がミラノである。民間大企業および国家資本が参加している企業の本社の大部分はミラノにあり、特に金融業に関しては、イタリアの中心であるだけでなく、西ヨーロッパ金融業界の中心の一つでもある。このような事情を反映して、日本の主要な商社、金融機関の多くが、ミラノに支店または代理店を開設している。

 19世紀からミラノには、繊維産業をはじめとする軽工業が発達していたが、水力電力の開発とともに、19世紀末ころから重化学工業地帯が、ミラノ市の北郊および隣接するモンツァおよびセスト・サン・ジョバンニにかけて、多く立地した。1930年代から、西および東の郊外に、機械工業などの工場が建設され始め、第2次大戦後この傾向はますます強まった。これらの重化学工業と並んで、近くのコモを中心とする繊維産業、カントゥを中心とする家具製造などの地場産業も、ミラノ大都市圏の産業として重要である。60年代になると、かつての水田地帯であった南部にもさまざまな種類の中小の工場が建設された。

 イタリアの文化的および政治的分権的傾向を反映して、イタリアの出版業は、特に一都市に集中するという傾向はなかったが、第2次大戦後、大衆雑誌やペーパーバックの普及に伴って、ミラノは出版業に関しても、イタリアの他の都市を大きく引き離して、イタリアで大きな比重を占めるようになった。ミラノの代表的新聞《コリエーレ・デラ・セーラ》は、依然として北イタリアで広く読まれているとはいえ、全国紙的傾向をもつようになってきている。

 音楽におけるスカラ座、演劇におけるピッコロ・テアトロなどを通じて、舞台芸術においてもミラノは国際的な中心になっている。その他、美術の創作活動、ファッション産業などでも、ミラノは、他のイタリア諸都市とは違った独自の特色をもっている。学術面でも、ミラノ国立大学、工科大学、ボッコーニ商科大学、聖心カトリック大学と、イタリアの都市の中で最も多くの大学をもっている。

エマニュエル二世アーケード(Galleria V. Emanuele U)
 写真は、エマニュエル二世(V. Emanuele U)を記念して建てられたアーケードの入口。ドゥオモ広場に面している。
03 ミラノの警察官

ミラノの警察官
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写真はエマニュエル二世アーケード(Galleria V. Emanuele U)の内部。さすがイタリア・ミラノファッションだけあって、警察官の制服もファッショナブルである。

Vittorio DeSica
 イタリアの映画監督。第2次世界大戦後、《靴みがき》(1947)、《自転車泥棒》(1948)の2作でロベルト・ロッセリーニと並ぶ〈ネオレアリズモ〉の最大の監督となった。《子供たちは見ている》(1942)から《ミラノの奇蹟》(1950)、《ウンベルト・D》(1952)、《終着駅》(1953)、《ふたりの女》(1960)等々に至る代表作のすべてが脚本家のチェーザレ・サバティーニとコンビを組んだもので、サバティーニの主張した〈日常性のネオレアリズモ〉はむしろデ・シーカとの共同作業によって形成されていったものとみなすことができる。

 銀行員を父に、ソーラで生まれ、子どものころからの芝居好きが高じて、1922年、タチアーナ・パブロワ劇団に入り、舞台俳優の道を歩んだ。27年、映画界入りし、二枚目の人気俳優になり、監督になってからも、ロベルト・ロッセリーニ監督《ロベレ将軍》(1959)など、幾多の主演映画がある。《昨日・今日・明日》(1964)などソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ主演の艶笑喜劇を大ヒットさせるかたわら、晩年の傑作《悲しみの青春》(1970)では《ミラノの奇蹟》以来の変わらぬ繊細でみずみずしいいぶきを感じさせた。
04 スフォルツェスコ城(ミラノ)

スフォルツァ城
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[歴史]  ミラノの起源は、前400年ころ、ケルト人によって建設された交易の中心、軍事的拠点を兼ねた都市であるが、前3世紀、ローマ人によって征服され、メディオラヌム Mediolanum、すなわち〈平野の中の町〉といわれるようになった。これが現在の地名の起源であり、前1世紀ころから、北イタリアの商業、産業および文化の中心として急速な発展を遂げた。

 ミラノにキリスト教が伝えられたのは、1世紀末であるが、374年ミラノ司教に選ばれたアンブロシウスのもとで、北イタリアにおけるキリスト教の中心地としても重要な都市になった。386年に彼が創建したサンタンブロージョ教会は、その後11〜12世紀に修理されて現存している。アンブロシウスはミラノの守護聖人であり、その祝日12月7日は、ミラノの祝日で、たとえばスカラ座の初日は毎シーズンこの日に決まっている。

 何回かのゲルマン諸族による占領および略奪にもかかわらず、ミラノは6世紀後半、ランゴバルド族によって、征服されるまで、基本的にはローマ都市としての性格を保ち続けた。ランゴバルド王国のもとで、ミラノはすっかり没落したが、9世紀末から政治・経済の中心として徐々に北イタリアにおいて重きをなすようになった。1097年には、憲章を定めて自治都市(コムーネ)になった。

 1161年神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によって市は破壊されたが、76年にはロンバルディア同盟の一員として、レニャノの戦において皇帝軍を破り自治権を拡大した。12世紀末からは、ティチノ川およびアッダ川を結ぶ運河網が建設され始め、また、近郊農村では土地改良が進められて、ロンバルディアの中心としてのミラノの地位が固められた。政治的には、13世紀末にはビスコンティ家がミラノのシニョーレ(シニョリーア制)となり、以後わずかの中継を除いて、1447年までビスコンティ家の支配が続いて、ミラノはおおいに繁栄した。1386年には、ジャン・ガレアッツォ・ビスコンティによって、壮大なドゥオモの建設が開始された。

 短期間の共和政の後、1450年、ビスコンティ家のもとでの将軍であったフランチェスコ・スフォルツァがシニョーレとなり、1535年スペインのハプスブルク家の支配下にはいるまで、スフォルツァ家がミラノを支配した。この時期に現存するミラノ城の再建、大病院の建設などがなされ、ブラマンテ、レオナルド・ダ・ビンチをはじめとする芸術家も集まって、ミラノは黄金時代を迎えた(1809年に開設されたブレラ美術館 Pinacoteca di Brera など、現在も多くの美術館がある)。

 スペイン支配および17世紀前半における疫病の蔓延などもあって、ミラノは一時沈滞期を迎えるが、1707年に始まるオーストリア支配のもとで、さまざまな経済改革が実施され、繊維産業をはじめとする工業も興り、ミラノは経済的におおいに発展した。この繁栄は、1814年オーストリアの直接支配が始まる頃まで続いたが、それ以後は、ナポレオン戦争によって喚起されたナショナリズムと、他方、重税とミラノにとっては不利なオーストリアの保護貿易政策による経済的沈滞のために、ミラノ人の反オーストリア感情は強まっていった。1848年には〈ミラノの五日間〉と呼ばれる反オーストリア蜂起が起こり、やがて59年ミラノはサルデーニャ王国によって占領され、イタリア王国のもとで新しい発展を遂げることになるのである。

ミラノ公国
 北イタリアのおもにロンバルディア地方を支配地とした公爵領。共和制的政治勢力の多い北イタリアにおいて、一都市(ミラノ)が君主的政体(公国)をとることによって一大強国の形成に成功した好例である。その歩みはビスコンティ家の興隆と一致する。1311年マッテオ1世が皇帝に支援されてミラノの領主権を確立、30年アッツォーネが市民に自らを〈永遠の支配者〉と呼ばせ、君主制への移行を明確化、95年ジャン・ガレアッツォが皇帝から公爵位を授けられ、公国の歴史が始まる。

 同家の支配は広く中部イタリアの一部にまで及び、短期間(1447‐50)アンブロジオ共和国が成立するが、これを倒したフランチェスコ・スフォルツァにより公国が受け継がれる。スフォルツァ家の支配は1535年まで続き、以後公国は外国勢力(1540年ハプスブルク家のスペイン王家、1713年同オーストリア王家)の支配下に置かれる。1796年ナポレオン・ボナパルトが入市し、古い貴族的支配体制を解体した時に4世紀間続いた公国も姿を消す。


 1450年、ビスコンティ家のもとでの将軍であったフランチェスコ・スフォルツァがシニョーレとなり、1535年スペインのハプスブルク家の支配下にはいるまで、スフォルツァ家がミラノを支配した。この時期に現存するミラノ城(写真)の再建、大病院の建設などがなされ、ブラマンテ、レオナルド・ダ・ビンチをはじめとする芸術家も集まって、ミラノは黄金時代を迎えた。 
05 ミラノ市内
ミラノ市内
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 ミラノ市内は道路が狭い。歴史的建造物が多く、車の駐車場もままならない。道路に駐車する車の列が延々と続く。イタリアでは日本のように小型車が主流だ。

 ミラノのスカラ座の前に、レオナルド・ダ・ビンチの銅像が建っている。彼はフランスのロワール地方の
アンボワーズで亡くなり、アンボワーズに長く眠っていたのだが、現在はミラノに遺骨が戻っている。ミラノは、イタリアの天才ダ・ビンチゆかりの地だ。
06 水上タクシー(ヴェネティア)

水上タクシー
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水上タクシー ベネチアの表玄関は、もともと潟の水面に開かれ2本の大円柱を構えたサン・マルコの小広場(ピアツェッタ)であったが、近代に本土(テラフェルマ)との間に鉄道橋(1846)と自動車橋(1932)が建設されたために、都市構造が大きく転換し、北西部の鉄道駅と自動車のターミナルが町の新たな玄関となった。しかし、今なお町の中には車はいっさい侵入せず、陸上は完全に歩行者に開放されている。自転車も見あたらず、車と言えば乳母車だけのようだ。

 何系統かの水上バス(Vaporetto)が市民の足として利用され、ゴンドラやモーターボートも日常生活にとって欠かせない。我々ツアー一行は、モーターボートでホテルに向かった。これが水上タクシーと呼ばれている。キャサリー・ヘップバーン主演の映画「旅情(Summer Time)」では、主人公は駅を降りた後、「タクシー」と叫ぶが、ベニスではタクシーとはモーターボートであることを知る。バスもあることを知り、水上タクシーと水上バスの値段を聞き、安い方の水上バスに乗り、ホテルに向かった。列車で同席した男性は水上タクシーに乗っていた。
07 ヴェネティア

ベニス
世界遺産
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ベニス Venezia 北イタリアのベネト州の州都で、アドリア海の最も奥まった所にある潟(ラグーナ Laguna)の上に形成された水の都である。英語ではベニス Veniceという。人口30万6000(1994)。この潟は、堤防のように延びるリド Lido 島によってアドリア海と隔てられ、その途中3ヵ所にある自然の水門から出入りする海水によって絶えず浄化されている。ベネチアはこのような生きた潟のデリケートな自然環境のうえに誕生し、水辺の困難な条件を克服しながら独特の都市を築き上げた。潟の中には、ほかにもトルチェロ島、ブラノ島、ムラノ島など多くの島が散在する。

 この町は117の小さな島々がモザイク状に集まって成立している。それらの間をリオ rio と呼ばれる約150の運河が巡っており、島相互を結ぶ橋の数は400に及ぶ。モザイクの一片にあたる各島は、本来、教区(パロッキア)に相当し(近代を迎えるまでは約70の教区があった)、教区教会堂と、方言でカンポ campo と呼ばれる広場をもち、住民にとっての生活共同体となっていた。

 町の中心を逆 S 字形に大運河(カナル・グランデ)が貫き、中世からバロック時代にかけての華やかな貴族住宅や各国の商館の並ぶ幹線水路となっている。現在でも、市役所などのオフィス、大学、研究所、高級ホテルなどの主要な都市施設が並んでいる。ベネチアは12世紀以降、セスティエーレ(6区制)を採用し、行政的には町全体が六つの地区に分割されている。すなわち大運河の北東には、サン・マルコ、カナレッジョ、カステッロ、南西にはサンタ・クローチェ、サン・ポーロ、ドルソドゥーロ(ジュデッカ島を含む)の区がある。

 歴史的にみると、町の政治的・経済的中心はサン・マルコ広場周辺にあり、パラッツォ・ドゥカーレ(総督宮)、その私設礼拝堂として生まれたサン・マルコ大聖堂、新・旧行政館、図書館、造幣局などの古い公共的建物が集まっている。〈ヨーロッパで最も美しいサロン〉とナポレオンに絶賛されたこの象徴的な広場だけが、古来、イタリア語で広場を指すピアッツァ piazza の称号を与えられており、現在もここが観光の最大の中心となっている。

 一方、経済の中心は今日に至るまで、地理的にもこの町のほぼ真中にあたるリアルト Rialto 地区にある。その中央市場は今なお市民の台所を支えているし、リアルト橋のたもとのサン・バルトロメオのカンポは、仕事が引けた後の市民の出会いの広場としてにぎわいをみせる。また、この海洋都市国家にとって重要な役割を果たした造船所(アルセナーレ)は、東部のカステッロ地区にあり、その周囲には労働者の多い庶民的環境が形成されている。

 現在のベネチア市は、本土側に近代に発展した商工業の中心地、メストレおよびマルゲーラと行政的には一体となっている。古い島部の人口は、観光化、第3次産業化の進行とともに減少の傾向を示し、現在では全市人口のうち島部のそれは約10万にすぎない。
08 サンマルコ寺院(ヴェネティア)

サンマルコ大聖堂
世界遺産
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サン・マルコ大聖堂 Basilica di San Marco イタリアのベネチアを代表するビザンティン・ロマネスク様式の大聖堂。ベネチア商人によってアレクサンドリアから盗み出されたマルコ(以後ベネチアの守護聖人となる)の遺骸を納めるために830年ころ創建され、976年に内乱による火災で倒壊、978年に再建、さらに、11世紀に時の総督コンタリーニ Domenico Contarini(在任1043‐70)により現聖堂が建立された(1063‐73)。1807年司教座が置かれる。

 当初の建物は大部分木造であったが、現聖堂は瓦造りで、床に大理石、斑岩、メノウを敷き、壁面を大理石の装飾柱と金地モザイクで内装する。コンスタンティノポリス(現、イスタンブール)の聖使徒教会堂(アポストレイオン)を模して計画され、5個の円蓋によってギリシア十字形平面を覆う〈5ドーム式〉である。内径12.8mの中央円蓋は砕石と瓦で造られた4本の大きな角柱で支持され、他の4円蓋との間を階上席および歩廊とする。聖堂前のサン・マルコ広場の拡張・整備(12世紀中ごろ)に伴い、13世紀初めにナルテックス(前柱廊)が北側に延長され、同時に2層のオーダーに上下5個ずつのアーチを架した大理石製のロマネスク風西側ファサード(正面)、および南接する洗礼堂と宝物室が増築された。

 宝物室は装丁板、典礼器具などビザンティン金属工芸の秀作を所蔵する。ファサードには15世紀にベネチア・ゴシック風の葱花(そうか)形破風(破風内モザイクは17、18世紀に改作)が加えられ、大聖堂の独特な光彩と陰影はサン・マルコ広場の造形美に決定的役割を果たしてきた。

 中央入口アーチを飾るレリーフ枠はロマネスク彫刻の逸品として重要である。5個の円蓋は木組みで支持された鍍金鉛板ぶきの長円ドーム(13世紀)で覆われるが、この外殻は、中央ドームで内高より9.7m高く、球根状の頂塔を含めた聖堂の全高は約50mに及ぶ。

 聖堂内外は東方侵略の戦利品で飾られ、特に正面上部のテラスには、1204年第4回十字軍によってコンスタンティノポリスの馬術競技場跡から運ばれた4騎の古代ギリシア時代の鍍金ブロンズ製馬像が置かれる。堂内の広さ4000uに達するモザイク壁面は、主として12世紀後半から14世紀中ごろに制作されたが、11世紀末の断片、ティツィアーノの下絵による作品(16世紀)も残る。

 これらは〈聖霊降臨〉〈昇天〉〈キリスト・エマヌエル〉(聖堂主軸の3円蓋)、〈ヨハネ伝〉〈聖遺体の搬入〉(翼廊部)、〈旧約伝〉(ナルテックス)、〈奇跡〉〈受難〉〈復活〉などの画題を扱い、東方モザイク美術の様式発展と呼応した作品群として美術史上貴重である。主祭壇背後を飾るパラ・ドーロ Pala d’oro(黄金の障壁の意)は、細工を施した金板に約2000の宝石と137のエマイユ(象嵌色ガラス細工)をはめ込んだけんらんたる装飾パネル(高さ2.12m、幅3.34m)で、光と色彩の効果を聖画像のなかに追求したビザンティン荘厳美術工芸の至宝である。
09 サンマルコ広場(ヴェネティア)

サンマルコ広場
世界遺産
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サンマルコ広場 Piazza San Marco イタリアのベネチアの中心広場。市政と祝祭行事の舞台としてベネチアの歴史を刻む。現在は同市第一の観光名所として世界的に有名。ピアッツァ(広場の意。170m×70m)とピアッツェッタ(小広場の意。83m×47m)の、L 字形に連なる2部分に分かれ、前者の東辺にサン・マルコ大聖堂が、有翼ライオン像とテオドルス像を載せる2本の大円柱を介して海に開く後者の東辺にパラッツォ・ドゥカーレ(総督宮)が位置する。広場の歴史は最初期のパラッツォ・ドゥカーレと聖堂が創建された9世紀にさかのぼるが、現状に近い形をとったのは運河を埋め立てて拡張、整備が行われた12世紀中ごろである。

 12〜15世紀にかけてパラッツォ・ドゥカーレの改修、再建を含む広場の整備が進み、ルネサンス時代にはコドゥッチ Mauro Coducci が旧行政館横に時計塔を、ベネチアの公共建築行政主任を務めた J. サンソビーノがパラッツォ・ドゥカーレに向かいあうサン・マルコ図書館と鐘楼下の柱廊(ロジェッタ)を、スカモッツィが新行政館を建設し、19世紀初頭にナポレオンが改修したピアッツァ西辺(〈ナポレオンの翼〉)を除いてほぼ現状の姿が整った。

 広場の結節点に立つ鐘楼(高さ99m。ガリレイはこの塔から天体観測を行った)は10世紀の監視灯台(16世紀再建)を転用したもので、1902年の倒壊後、復元された。ナポレオンは、連続するアーケードで囲まれた広場を、〈ただ天空のみがその屋根としてふさわしいヨーロッパ最美のサロン〉と表現した。広場南辺のカフェ〈フロリアン〉は、1645年、ヨーロッパで最初にコーヒーを飲ませた店といわれる。
10 ヴェニスのゴンドラ

ベニスのゴンドラ
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ベネチア・ガラス Venetian glass この町の文化と産業を考えるうえで忘れられないのは、ガラス工芸である(ベネチア・ガラス)。オリエントやビザンティン世界から技術を導入し、10世紀ころからその製造が始まった。13世紀末に、火災の危険を避け、しかも技術の秘密を保持するために、すべてのガラス工場をムラノ島に移転させた。15、16世紀には最盛期を迎え、その華麗さを世界中に誇った。このガラス工芸は、モダン・アートとも結びつきながら、今なおベネチアの重要な産業となっている。

 文化産業も伝統的な特徴がある。つねに自由と民主体制を堅持したベネチアは、しばしば思想家、芸術家の避難所となった。とくに16世紀のベネチアは文化的創造性にあふれ、各分野の重要な文献がこの町で編集・出版された。この町の獲得した表現の自由と国際都市としての性格は近代に入っても受け継がれ、1895年、町の東部のジャルディーノを会場として国際美術展〈ベネチア・ビエンナーレ〉が開始され、近代美術の世界で大きな役割を果たしてきた。その後、映画祭、音楽祭、演劇祭も始まり、こういった文化的活動がベネチアの今日的な生き方をよく示している。

ベニスの保存問題
  1966年11月4日、ベネチアは押し寄せた高潮の下に沈んだ。この大水害を契機にベネチアの保存問題が注目を浴び、以後ユネスコをはじめとする国際機関、イタリア政府、民間文化団体、市行政当局の手で救済活動が精力的に続けられている。地盤沈下の原因であった本土側工業地帯での地下水耀上げが禁じられ、水理のバランスを崩すことにつながる潟沿岸でのこれ以上の工業地帯の建設が放棄された。潟への海水の進入量を調節するための水門を設置することも目下検討されている。

 教会やパラッツォなどのおもだった建造物の修復は、ユネスコを中心に国際的協力の下で進められている(1987年、世界遺産リストに指定)。しかし最大の問題は、ベネチアを観光のための博物館都市としてではなく、市民の生活の場としていかに再生できるかという点にあり、目下自治体の手で、歴史的街区を修復・整備し、住民にとっての魅力的な生活空間を取り戻すための再生事業が進められている。
11 ベニスの市場

ベニスの市場
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ベニスの商人 The Merchant of Venice イギリスの劇作家シェークスピアの喜劇。1597年ころ作。題材は1558年イタリアで出版された物語集《馬鹿者》その他から得たと思われる。ベニスの商人アントーニオは親友バッサーニオがベルモントに住むポーシャのもとに求婚に出かけるための資金を、ユダヤ人の高利貸シャイロックからみずからの肉1ポンドを抵当に借りるが、やがて自己の所有する商船が難破したために返済不能となって、命を奪われそうになる。

 バッサーニオと結婚したポーシャは夫の恩人の急を聞くや、ひそかに男装し法学博士としてベニスの法廷に現れ、肉は与えるが血は一滴たりとも許さぬと判決する。敗訴したシャイロックは財産を没収され、キリスト教への改宗を命じられる。彼の娘ジェシカもキリスト教徒ロレンゾーとの駆落ちに成功し、アントーニオの商船も無事に帰港して、万事めでたく終わる。

 バッサーニオとポーシャ、ポーシャの召使ネリッサとバッサーニオの友人グラシアーノ、ジェシカとロレンゾーという三つの恋のプロットがおとぎ話的なエピソードを連ねて展開する典型的なロマンティック・コメディであるが、その中にあって一見悲劇的とも思えるシャイロックの存在をめぐって意見の対立が絶えない。

 シャイロック像を歴史的にたどると、道化役、復讐鬼・悪役、迫害された民族の典型的人物としての悲劇的英雄、喜劇的悪役comic villain などがある。日本への初期の紹介では、C. ラム《シェークスピア物語》に依拠した井上勤の翻訳《人肉質入裁判》(1883)があり、1885年に中村宗十郎一座が大阪戎
(えびす)座で上演した宇田川文海による翻案《何桜彼桜銭世中(さくらどきぜにのよのなか)》は、日本におけるシェークスピア劇上演の嚆矢(こうし)とされる。
12 リアルト橋(ヴェネティア)
リアルト橋
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[水の都と東方の影響]  この町の建築や都市の容貌には、水との結びつきと東方からの影響とが明白に読み取れる。ベネチアは潟の水面に囲われた天然の要塞であり、しかも政治が安定し内紛も少なかったため、建築は早くから開放的で軽快な様式をとった。軟弱な潟の土地でも、カラマツやカシの杭を地中の堅い層まで打ち込み、その上にイストリア産の石を置く独特の土台を開発したことにより、水から直接立ち上がる建物が可能となった。

 12、13世紀に、リアルトを中心とした大運河沿いにフォンダコ fondaco と呼ばれる商館が登場し、以後のベネチア住宅史の基礎をつくった。トルコ商館をはじめとするこれらの商館は、古代ローマ後期の別荘建築とビザンティン建築にその起源をもつとされ、ベネト・ビザンティン様式と呼ばれるが、さらにイスラム建築からの影響も見のがせない。こうして東方からの影響を受けながら、装飾的で快適な住宅建築がこの町に早い時期から生まれた。

リアルト橋 Ponte di Rialto 以前は木製 だったが、16世紀末に現在の石造りに変えられている。この界隈は一日中人であふれており、活気に満ちている。橋から運河を眺めるもよし、両側の店でショッピングを楽しむのもよし。たっぷりとヴェネツィア気分に浸れる場所だ。

 朝、サンマルコ広場の鐘楼にエレベーターで上った。1人8,000リラ。360度のパノラマで、素晴らしい眺めだった。風が強く寒い。その後歩いてリアルト橋(Ponte di Rialtoへ。橋の下は凄いラッシュ。どうも様子が変だった。デモをしていると附近のアメリカ夫婦が教えてくれた。なるほど警察の警備艇も出動していた。

 橋を渡って市場へ。新鮮な水産物が目白押し。野菜市場もあり、市民の台所という雰囲気だった。狭い路地を歩いて散策。ローマ広場目指したが結局行き着けず、水上バス(
Vaporetto)に乗り、一つ手前の船着き場まで無賃乗車。そこで1人6,000リラで下りの便に乗り直し、大運河(Canal Grande)をサンマルコ広場まで水上ツアーをエンジョイ。水の都だけあり、市内は車もバイクも自転車も見えない。乗り物といえば乳母車だけ。後はひたすらテクシーと水上交通機関のみだ。観光には素晴らしいが、住むのには不便なところだろう。

13 花の聖母教会(フィレンツェ)

花の聖母教会
世界遺産
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サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 Santa Maria del Fiore イタリア、フィレンツェの大聖堂。その巨大な円蓋は同市とそのルネサンス文化のシンボルとされる。聖堂の名(命名1412年)は〈花の聖母〉を意味し、中世の市名フィオレンツァ(花の町)に由来する。1296年、アルノルフォ・ディ・カンビオの計画にもとづき、サンタ・レパラータ旧大聖堂を取り壊して起工された。

 ラテン十字形平面をもつ3廊式教会堂であるが、八角形の大交差部を囲む方形祭室によって内陣と翼廊を同形とした集中的構成はゴシック教会堂として前例のない斬新さを示す。1331年以降、工費を負担しえなくなった司教にかわって同市の羊毛組合が工事を主導し、14世紀を通じてジョット、アンドレア・ピサーノ、フランチェスコ・タレンティ、ジョバンニ・ラポ・ギーニらが建築主任として市の威信と栄光をかけたこの大建設事業を進めた。

 ジョットの設計、監督によって34年に起工され、その没後 A. ピサーノと F. タレンティによって完成された鐘楼(いわゆる〈ジョットの鐘楼〉。高さ84.7m)が、窓割りが示す伝統的意匠と、上層にむかって垂直性を強調しつつより重厚、華美な装飾を用いる独創的手法とを、大聖堂と共通する色大理石の外装のなかで巧みに調和させた傑作である。

 57年カンビオの旧案にかえてタレンティがより大規模な設計案を定め、67年には大聖堂建設委員会によって中央交差部の厳密な計画が決定された。現大聖堂と円蓋の寸法はこの規定にもとづいている。地上53.8mからたちあがる内径45.2mの交差部大円蓋の架設は、それを覆うに足る作業足場と仮枠の建設が不可能であったため最大の難工事とされたが、競技設計の末、ブルネレスキによって施工中にも仮枠なしに自立しうる構造と架構法が考案され、その指揮下に1420年から14年の歳月をかけて工事が行われた。

 円蓋外側基部の装飾歩廊は彼の弟子による後補であるが、市民の不評をかってその工事は中止された。円蓋の頂塔も競技設計の末ブルネレスキ案が選ばれ、その死(1446)の1ヵ月前に着工、ミケロッツォとベルナルド・ロッセリーノを工事主任として1471年に完成した。ファサードはタレンティによって建設されたが未完のまま1587年に取り壊され、現ファサードが補われたのは19世紀後半である。

 頂塔を含む大聖堂の全高は115mに達し、周囲の家並みをはるかに超えてそびえるその雄大かつ明快な量塊は市の景観にとって欠くことのできない造形美をつくり出している。堂内にはウッチェロ、アンドレア・デル・カスターニョのフレスコ画、ギベルティのブロンズ製聖棺、ルカ・デラ・ロッビアのテラコッタ・レリーフ、ミケランジェロの彫像《ピエタ》をはじめとする多くの芸術作品が残り、大聖堂向い側の付属美術館にはカンビオ作のファサード彫刻群(部分)、ロッビアおよびドナテロの聖歌壇、ブルネレスキ自作の頂塔木製模型等が保存される。
14 ヴェッキオ橋(フィレンツェ)

ヴェッキオ橋
世界遺産
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フィレンツェ Firenze イタリア中部、トスカナ州の州都。英語、フランス語では Florence(フローレンス、フローランス)。人口39万2800(1994)。かつてルネサンス文化の中心であり、今日でも旧市街は〈都市博物館〉といわれるほど多くの記念物がある。

 フィレンツェが大きく発展し始めたのは1865年から71年までこの町がイタリア王国の首都となってからである。3万の人口が一挙に増加したが、その大部分は政府に勤務するピエモンテ出身者であった。新しい市街地が作られ、アルノ川北岸の市壁が破壊されてその後は広い環状道路となった。アルノ川南岸の丘の上にはミケランジェロ広場や広い並木道が作られた。中心部の再開発も行われ、旧市場広場が破壊され改装された。その際に中世以来の多数の建物が壊され、雑然としているが活気に満ちた市場の景観が失われてしまった。

文化] 文化面で重要なのは新聞《ラ・ナツィオーネ》(1861)、歴史学雑誌《アルキビオ・ストリコ・イタリアーノ》(1842)、文学評論雑誌《ヌオーバ・アントロジーア》(1866)などが発行されたことで、フィレンツェはイタリアの重要な文化的中心地となった。また、ラスキンやアナトール・フランスなどの外国人の著作によってフィレンツェの文化遺産の価値が広く喧伝された。

 首都がローマに移ると人口が一時減少したが、世紀末からふたたび増大し、20世紀初頭には20万を突破、さらに1951年には40万に達している。第1次大戦以後都市域がさらに拡大し、とくに近年は北西の平地に向かって伸びている。第2次大戦末期にはアルノ川をはさんで戦闘が行われ、ベッキオ橋
Ponte Vecchio を除く五つの橋がすべて爆破されるなど、両岸に大きな被害がでた。また66年11月4日の集中豪雨による洪水は都市中心部に莫大な被害を与えた。

 全世界から義援金が寄せられ、美術品や建築物の修復が行われたが、修復不可能なものも少なくない。イタリアの中央図書館である国立図書館や国立文書館も大きな被害を受けた。経済的にはフィレンツェはなおトスカナの農業中心地としての性格をもっているが、一部には機械工業も発達している。高速道路の沿線には工場や物流基地の進出がみられる。フィレンツェはミラノとならんで出版の中心地であり、ファッション産業も活発である。しかし都市の経済を左右しているのは何といっても世界中の人々を迎える観光業であろう。木工、わら細工、銀細工などの伝統的手工業も観光と結びついて盛んである。

ヴェッキオ橋 Ponte Vecchio アルノ川にかかるフィレンツェ最古の橋。彫金細工店や宝石店が店の両側にギッシリと並ぶ。しゃれたプロムナードも、13世紀には、なめし革屋や肉屋が並び、異臭を放っていたとか。宮殿近くに臭い市場がることを嫌ったフェルディナンドI世の命令により、1593年に市場は撤去され、宮殿周辺にふさわしい宝石店が並ぶようになった。

 階上は、かってウッフィツィ宮とピッティ宮殿を結ぶ通路としてヴァザーリにより建設されたもので、当時は、小さな車も通ったという。戦時中、唯一破壊を免れたこの橋の上をヒットラーや、それに対抗するパルチザンが歩いたのも今や遠い想い出。ここから、トリニタ橋を望んでの夕焼けは、フィレンツェ1の絶対のお薦め観光ポイントだそうだ。

15 ウッフィッツイ美術館

ウフィツィ美術館
世界遺産
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ウフィツィ美術館 Galleria degli Uffizi イタリアのフィレンツェにある美術館。建物はメディチ家のコジモ1世がトスカナ大公国の主要な13の政庁を統合する庁舎の目的で1560年にバザーリに命じて着工させたもので、アルノ川を越えてパラッツォ・ピッティに至る歩廊も加えて、80年に建築家で彫刻家のブオンタレンティ BernardoBuontalenti(1536‐1608)らが完成。翌年にフランチェスコ1世は、それまでにメディチ家が収集した美術品を展示するために、3階建ての最上階を美術館にした。

 現在の収蔵品はメディチ家のコレクションを中心に、19世紀から20世紀にかけて諸教会やアカデミア美術館より移管された絵画、購入および寄贈作品などからなり、後期ゴシックからルネサンスを経てマニエリスム、バロックに至るフィレンツェ派絵画の展開を余すところなく伝える。他にベネチア派、ドイツ、オランダ、フランスの絵画、タピスリー、著名な画家たちの自画像も展示されている。2階は10万点を超す作品を収納する版画素描室となっている。

 ウッフィツイ美術館でボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」と「春」を鑑賞。素晴らしかったとしか形容できない。ボッティチェリの本物の作品に対面するのは初めてである。フラッシュをたけないが写真撮影はOKということだったので、撮影したが、残念ながら出来映えは良くなかった。本物のすばらしさは脳裏に焼き付けてあるが、お見せできないのは残念だ。ルーブル美術館のモナリザは予想外に小さな作品だったが、今度は予想外に大作で、素晴らしさに圧倒された。教科書の絵ではとても表せない。

ボッティチェリ 1445‐1510
Sandro Botticelli イタリアの画家。フィレンツェ生れ。父は皮なめし業を営む。1462ころ‐67年、当時プラートにあったフィリッポ・リッピの工房で徒弟として修業。70年にはフィレンツェ市内で独立した工房を構え、70年代前半にはしだいに制作依頼が増えてきたもようである。この時期は、ベロッキオの影響を感じさせる繊細な写実主義を示している。70年代には、一般にこの時代の作とされる3点の《三博士の参拝》(ロンドンのナショナル・ギャラリーの2点、およびウフィツィ美術館のいわゆる《ラーマ家の礼拝》)制作を通じて、写実と理想との均衡のとれた様式と、盛期ルネサンス絵画を予告する端正な求心的構図法とを確立する。

 そのような様式の頂点に存在するのが、《春》(1478ころ)、《ビーナスの誕生》(1485ころ)など、一連の神話画である。これらは、他の追随を許さない精妙な描線と洗練された色彩が生む完璧な視覚美によって、彼の代表作であると同時に、西洋美術史上最も人々に愛好される作品となっている。さらにこの2作品は中世以来最初の異教的主題の大画面である点で特異であり、15世紀という時点でそれが可能であったのは、ボッティチェリが神話画において単に神話的情景を描くことだけを目的としておらず、新プラトン主義の視覚化を試みているゆえであろう。

 81‐82年、教皇シクストゥス4世に招かれてローマに赴き、バチカンのシスティナ礼拝堂壁画を他の画家たちと競作し、名実ともに一流画家としての地位を固めてゆく。フィレンツェ帰還後も、市庁舎内の壁画やロレンツォ・イル・マニーフィコの個人的依頼など重要な注文は後を絶たなかったが、そのかたわらで、80年代後半以降、しだいに感情的表現の濃厚な、均衡を欠いた様式になってゆく(《受胎告知》1490)。次いで90年代に帰せられる作品には、激しい動感、刻みこむような描線、強烈な色彩などの目だつ、悲壮な雰囲気のものが多い。多くの研究者たちはこの変化の原因を、ボッティチェリがサボナローラの教えに帰依したことに見いだしている。

 1501年には、唯一の年記と署名入りの作品である《神秘の降誕》でイタリアの動乱の時代に対する憂慮と来るべき平和に対する期待を表明した。ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの依頼によって、おそらく1480年代から描きつづけてきたと思われるダンテの《神曲》挿絵素描の最後の部分もこのころの制作になるものであろう。しかし、そのほかには没年までの活動は記録されておらず、バザーリは病身の晩年を送ったと記している。明瞭な描線を主体とするボッティチェリの様式は、レオナルド・ダ・ビンチやラファエロなどの柔らかな16世紀的描法とは正反対のものであり、新しいものを求める当時の顧客の関心を引かなくなっていた。その意味で彼は15世紀の終末とともに姿を消すべく運命づけられた画家であったといえよう。
16 ダヴィデ像(アカデミア美術館)

ダヴィデ像
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ダビデ David イスラエル・ユダ複合王国の王。在位、前997ころ‐前966年ころ。ユダのベツレヘムのエッサイの子。羊飼いの少年ダビデは、琴の名手として、悪霊に悩まされていたイスラエル王サウルを慰めるため宮廷に出仕した。別の伝承によると、ペリシテ人の勇士ゴリアテ Goliath を倒して認められ、サウルに仕えるようになったという。いずれにしてもサウルの武将として頭角を現し、サウルの息子ヨナタンと深い友情で結ばれ、サウルの娘ミカルMichal を妻に与えられた。

 しかし、彼の成功をねたんだサウルに命をねらわれるようになり、宮廷から逃亡してユダの荒野に身を潜め、サウルの支配に不満を抱く人々を集めた。しばらくの間、ゲリラ戦によってサウルと対抗したが、身の危険を悟り、あえてイスラエルの宿敵ペリシテ人の都市国家ガテの王アキシ Achish のところへ亡命した。アキシはダビデにチクラグ(ネゲブにあったユダの町)を与え、護衛の長にした。サウルがギルボア山でペリシテ人と戦って敗死したことを聞くと、ダビデは南方諸部族の中心都市ヘブロンに行って、ユダ王国を建てた。サウルの軍の長アブネルAbner は、東ヨルダンに逃げてサウルの子エシバアル Eshbaal をイスラエル王として擁立したが、結局、2人とも暗殺されたため、ダビデにイスラエル王位が提供された。

 こうして、前997年ころイスラエル・ユダ複合王国の王になったダビデは、エブス人のエルサレムを占領して、ヘブロンから移住した。エルサレムは南北両部族の中間に位置し、それまでイスラエルのどの部族にも属していなかったため、部族間のバランスを保って統一国家を建設したダビデにとって理想的な首都であった。攻めてきたペリシテ人を撃退すると、ダビデは東ヨルダンの諸王国とシリアのアラム人を征服して、南は紅海から北はユーフラテス川に達する大帝国を建設した。この成功を背景に、ダビデは王政前にシロ部族同盟の象徴であった〈神の箱(契約の箱)〉をエルサレムに搬入し、イスラエルの神ヤハウェが、エルサレムとダビデ家を永遠にイスラエルの首都と王家に選ぶ約束をした、と主張した。この神の約束は〈ダビデ契約〉と呼ばれ、のちにダビデの子孫からメシアが現れるというメシア思想の源泉となった。

 晩年、ダビデの中央集権政策に対する民衆の不満はアブサロムの乱となり、ユダ族偏重策への批判はシバ Sheba の乱を引き起こしたが、いずれも軍の長ヨアブ Joab の働きによって鎮圧することができた。ダビデの治世は、ユダ王時代を含めて約40年間であった。彼はまた詩人としても傑出していたために、後代、多くの詩篇が彼の作とされた。

 美術作品において、王としてのダビデは王冠を着け、短いひげをもつ姿、王となる以前は羊飼いや武装した青年の姿で表される。単独像では、《詩篇》本の扉絵に、玉座に座り竪琴を持つ王の姿として描かれるのが代表的である。《ビビアンの聖書》(850ころ)には、楽師らに囲まれて竪琴を手に踊る表現がみられる。旧約聖書による生涯の物語場面の成立は古く、ドゥラ・ユーロポスのシナゴーグの壁画(245ころ)には〈塗油〉の場面がある。

 またキプロス出土の一連の銀皿(7世紀前半)には、〈塗油〉〈サウルの前のダビデ〉〈ライオンとの格闘〉〈ダビデとゴリアテ〉〈ミカルとの結婚〉など数場面が、各1場面ずつ表されている。中世には、〈モーセ八書〉や《詩篇》などの写本挿絵に、詳しい物語場面が描かれた(《ウィンチェスターの聖書》、12世紀後半)。このほかダビデの姿は〈エッサイの樹〉の中に表されたり、旧約の預言者たちと並んで表されたりすることも多い。ルネサンス期には若い勇士としてのダビデが好まれ、ドナテロのブロンズ彫刻(1434ころ)やミケランジェロの大理石彫刻(1501‐04)などの名作がある。

ダヴィデ像
 フィレンツェのアカデミア美術館に行き、本物のダヴィデ像を見た。日本もそうだが、コピーはあちこちにある。このアカデミア美術館のダヴィデ像こそ、ミケランジェロが作成したものだ。フラッシュはたけなかったが、撮影が許可されていたので、トライし、上手く撮影できたのが左の写真である。本物の素晴らしさにしばし感動する。
17 ピサの斜塔

ピサの斜塔
世界遺産
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ピサ Pisa イタリア中部、トスカナ州の都市。人口9万6763(1994)。ティレニア海に流れ込むアルノ川の河口から約10kmの両岸に発達し、中世からの伝統のある商業都市。現在はガラス、金属、機械製造も盛ん。大聖堂(ピサ大聖堂)、洗礼堂、鐘楼(ピサの斜塔)は町の重要な観光資源になっている。

 ローマ帝政期、すでに重要な軍事基地の役割を担っていたピサは、造船で知られ、交易地でもあった。11世紀の初めイスラム勢力を追い払って西地中海へ進出し、コムーネが成立した。12世紀に入ると十字軍に参加し、東方貿易で富を得、後背地に領土を拡張した。さらにジェノバとティレニア海の覇権を争い、アルノ川の確保をめざすルッカ、フィレンツェと敵対するようになった。

 南イタリアやシチリア征服をもくろむ神聖ローマ帝国はピサが所有する船舶を必要としたため、ピサは皇帝と協力関係を結んでティレニア海の島々の統治を固め、1162年、フリードリヒ1世によりポルトベネレからチビタベッキアまでの沿岸地域の支配権が譲与されて、その最盛期を迎えた。ピサの毛織物業はマニュファクチュア化が進み、農村から多くの人口を吸収した。また交易は西地中海全域をカバーするようになった。

 船主であった都市貴族と、台頭した市民階級の市政権争いはピサの政治・経済力を弱め、内陸ではルッカ、フィレンツェの進攻にさらされ、1284年メロリア Meloria の海戦でジェノバに敗北を喫し、ピサの海上の地位は失われた。ピサの衰退は続き、ついに15世紀の初頭、フィレンツェのメディチ家に征服された。トスカナ大公国時代には、大学が復興され学問が盛んに行われた。
18 ヴァチカン

バチカン
世界遺産
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バチカン[市国] Vatican City 正式名称=バチカン市国 Stato della CittdelVaticano 面積=0.44km2 人口(1994)=1000人 日本との時差=−8時間 主要言語=イタリア語、ラテン語 通貨=リラ Lira(イタリアと共通)

 ローマ市のテベレ川右岸にあるローマ教皇を元首とする世界最小の国家。1929年2月のラテラノ協定に基づき、カトリック教会の首長たるローマ教皇が国際法上の主権と領土的基盤をもつことを認められて成立した。教皇が他の国家の制約をうけることなく、自由に宗教上の権限を行使するのを保障する目的で組織された国家で、通常の国家とは機構も性格も違っている。

 市国の制度と運営は29年6月制定のバチカン市国基本法、法源に関する法、市民権と居住に関する法、行政組織法、経済・通商・職業組織法、治安法などによって定められている。これらに従って行政機関、裁判所、警察が設置され、また国旗、通貨、郵便切手、放送局、鉄道を有しているが、もともと市国の諸法の多くはカノン法に根拠をおいて制定されており、組織的に教皇庁と不可分の関係にある。

 市国の行政は教皇庁国務省の管轄下にあり、また外交に関しては教皇庁外務評議会がその担当機関で、国連ではバチカン市国の名の代りに聖座 TheHoly See の名称が使われている。市国内にはサン・ピエトロ大聖堂、バチカン宮殿、バチカン市国政庁、庭園などがあり、イタリア警察の管轄のもとに一般に開放されているサン・ピエトロ大聖堂を除くと、国境は市壁によって囲まれ、華麗な服装のスイス衛兵が警備に当たっている。

 バチカン宮殿は歴代教皇によって増築を重ねられた建物で、そのうち壁画に彩られたシスティナ礼拝堂、教皇館の〈ラファエロの間〉〈ボルジアの間〉などはバチカン美術館の一部をなしている。また美術館に隣接したバチカン図書館は膨大な図書のほか、写本、地図、版画を多数蔵して、研究者の閲覧に供している。市国はこのほか、領土外にサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂とラテラノ宮殿、サンタ・マリア・マッジョーレ教会、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ教会、カステル・ガンドルフォの教皇別荘と庭園などを所有しており、治外法権が認められている。


サン・ピエトロ大聖堂 Basilica di San Pietro in Vaticano
 バチカン市国にある、ローマ・カトリック教会の主聖堂。ローマ・カトリック教会の宗教活動の中核で、キリスト教教会堂の中では世界最大の規模をもつ。歴代教皇の墓所を蔵し、教皇庁舎、ベルベデーレ庭などとともにバチカン市国を形成する。

 324年ローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって創建され、ルネサンス、バロック時代に現大聖堂が新築された。創建時の旧聖堂は使徒ペテロの墓の上に位置する5廊のバシリカ式教会堂であったが、老朽化したため、15世紀の教皇ニコラウス5世(在位1447‐55)が全面的改修に着手した。

 一流の建築家が参加した新大聖堂の建設はイタリア・ルネサンス最大の建築事業で、とくにブラマンテとミケランジェロの果たした役割は大きい。ブラマンテは、教皇ユリウス2世の依頼で、四隅に塔、中央に半球単殻ドームをもつギリシア十字形平面の設計案を用意し、その没後はラファエロ、A. da サンガロ(イル・ジョバネ)が建設主任となった。しかし、工事は設計変更や補強の繰返し、ローマ劫掠などによって進
せず、1547年教皇パウルス3世(在位1534‐49)はミケランジェロを主任建築家に任命して竣工をめざした。

 彼は前任者サンガロの煩瑣な計画を排して純化された中央交差部の量塊感を強め、同時に東腕部をわずかに延長して集中・バシリカ両形式の融合をはかった。現大聖堂の中核部、16本のリブから成る円蓋の二重殻構造、巨大オーダーによる均一な外壁はこの案にもとづいている。

 その没後1585‐90年にジャコモ・デラ・ポルタは中央円蓋をやや尖頭形に改めて完成させ、17世紀後半には、バシリカ式平面(ラテン十字プラン)を求めた反宗教改革の理念に従ってカルロ・マデルノが身廊部を3柱間延長し、現ファサードを補った。大聖堂の全長は194m、ファサードの幅114.7m、高さ45.4m、円蓋内径42m、頂塔を含む地上高は132.5mに達し、1962‐65年の第2バチカン公会議で全世界の司教2816人が身廊に参集できたことからもその大きさが知られる。

 堂内の美術作品のうち、ブロンズ製ペテロ座像(12世紀)、ナビチェラ(小舟)のモザイク画(1298、ジョット)、ブロンズ製正面扉(1433‐45、フィラレーテ)等は旧聖堂に由来するが、ミケランジェロの《ピエタ》(1499‐1500)を除く他の主要作品はバロック期以降に属し、近作としては玄関廊左端のマンズー作入口扉(1947)が注目される。教皇の祭壇を覆うブロンズ製大天蓋(1624ころ‐33)および大聖堂最奥に位置するペテロの司教座(1656‐65)は内装彫刻に主導的役割を果たしたベルニーニの代表作であり、前者では4本の巨大なねじれ柱が波うつ傘蓋を支え、その高さはローマ市内の大邸宅パラッツォ・ファルネーゼにほぼ等しい。

 玄関廊右奥の扉は〈聖なる扉〉とよばれ、25年ごとの聖年に教皇みずからが開閉し、それを通る者は免罪を受けると言い伝えられる。16世紀の改修工事を機に地下祭室(クリプタ)が設けられたが、1940‐50年代にその発掘調査が進み、旧聖堂の床面、古い墓
等が発見された。
19 ナポリ

ナポリを見て死ね
世界遺産
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ナポリ Napoli イタリア南部のカンパニア州の州都、ナポリ県の県都。ティレニア海に面するナポリ湾の北岸に位置した港湾都市で、背後に農業地帯のフレグレイ平原が広がり、東部にベスビオ火山がある。ジェノバに次ぐイタリア第2の商港で、観光船を含めた船舶の出入りと乗降客数では最大の港。市の人口は121万0503(1981)で、ローマ、ミラノに次いで第3位だが、ナポリ湾岸の小都市群とともに人口300万の巨大都市域を形成している。

[歴史]
  古くは、海中に身を投じたセイレンの一人パルテノペの死体が流れつき、その墓がたてられた場所ということでパルテノペ Parthenop
とよばれた。ナポリの名はギリシア人がこの地に植民市を建設し、ネアポリス Neapolis(〈新市〉の意)としたことに由来する。前4世紀ローマの支配下に入り、次いで6世紀に東ゴートを破ったビザンティン帝国が治め、8世紀に独立の公領となった。

 1139年ノルマン人に征服された後はシチリア王国、ナポリ王国、あるいは両シチリア王国の歴史と同じ歩みとなる。この間、16世紀にナポリ市の人口は急増する。アラゴンおよびスペイン支配のもとで集権化政策が進み、司法・行政諸機関のナポリへの集中に伴って大量の人口が流入したからである。それに市内の住民には食料供給、税制および営業認可に関して優遇措置が図られたことが、この動きを促進した。15世紀末に10万だった人口は17世紀初めには27万に達し、当時パリに次いでヨーロッパ第2位の数となった。

 人口増とともに16世紀には都市改造も進められた。とりわけスペイン総督トレド Pedro de Toledo の支配期(1532‐53)に市域の拡大、道路整備、住宅建築、防備の強化などが実行され、現在の市の目抜通りであるローマ通り(旧トレド通り)もこのとき造られた。しかし都市整備にもかかわらず、増加した人口問題を解決することはできず、劣悪な環境のもとで生活する貧民層が街にあふれた。ラッザローネ lazzarone とよばれるこれら下層大衆は、経済的にはめぐまれない境遇にいたが、彼らの快活で陽気な存在は、この街の日常性に並はずれたにぎわいの性格を与えることになった。

 温暖な気候と自然の景観を誇っていたナポリは、こうして16世紀に街のたたずまいを一変させ、〈悪魔にすみつかれた天国〉と評する者もでてきた。1647年広範な下層大衆の参加したマザニエーロの一揆が起こったが、その後56年のペストの流行は人口を一挙に15万人に減少させた。その後人口は回復して1740年代に30万台に達するが、64年の大飢饉で市民生活は再び危機に見舞われた。99年フランス革命軍の進駐に呼応した革命によってナポリ共和国が成立するが、ラッザローネの多数が反革命にくみして共和政を短命に終わらせた。なお、1839年イタリアで最初の鉄道がナポリ〜ポルティチ間(8km)に敷設されている。
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ポンペイの遺跡(世界遺産)

ポンペイの遺跡
世界遺産
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ポンペイ Pompeii イタリアの古代都市。カンパニア州北西部、ナポリの南東約23kmのナポリ湾沿岸、ベスビオ山の南麓に位置する。交通の要衝、肥沃な後背地などの条件によりオスキ人がまず集落をつくった。やがて前8世紀以降ギリシア人植民者、エトルリア人が移り住み、町は拡大した。交易が栄え、農産物、ブドウ酒、魚介類、軽石を産し、輸出した。ギリシア神殿もできたがオスキ・イタリア文化も発展した。

 前5世紀にはサムニウム人の進出で略奪をうけ、ついにはその支配下に入り、ヌケリアNuceria を盟主とする都市同盟の一員となり、貴族共和政の体制を保った。この間、市域は拡大し城壁も強化された。前3世紀ローマの進出でポンペイは一時独立し、ヘレニズム・ローマ文化を急速に取り入れた。ポエニ戦争ではハンニバルについたが、のちローマ支配下に入り、同盟市戦争で再びローマに敵対した。

 結局ローマ市民権を得てローマの軍門に降り、多数のローマ人植民者を迎え入れた。以来都市制度を整え、ラテン語を受容し、劇場、ウェヌス神殿、イシス神殿、浴場、バシリカなどを建てて大都市に発展していった。ローマ人富裕者の保養地として豪華な別荘もでき、華麗な壁画・彫刻・モザイクで飾られ、水道、舗装路、商店も整えられた。元首政期の人口は2万人近くに達した。しかし63年に大地震による災害をうけたのち、79年8月24日ベスビオ山の大爆発により火山礫
(れき)、火山灰に埋もれた。死者は約2000、都市としての機能を失い、ついに二度と復興されなかった。

[発掘]
  1748年、偶然の契機で発見されたポンペイは、現在、その約8割が発掘されている。サムニウム時代に建造された城壁に囲まれた市街地は、公共広場を中心とする旧街区とそれ以外の新街区から成り、後者はほぼ碁盤目状の街割りを呈している。ポンペイ発掘の意義は、この城壁内に残る数多くの住宅址とその室内を装飾する壁画にあり、それらによって、約2世紀間にわたる当時の日常生活と絵画の様式変遷が解明された。

 〈外科医の家〉など最古の住宅址は前4世紀にさかのぼり、アトリウムをもつ古イタリア的形式であるが、前2世紀からは〈ファウノの家〉などのようにギリシア・ヘレニズム的要素であるペリステュリウム peristylium(建物あるいは中庭を囲む列柱廊)が取り入れられている。また、壁面装飾においても四つの様式が認められ、数色のしっくい装飾のみによる第1様式、おもに建築モティーフを描いた第2様式、エジプト的な装飾モティーフを優雅に配した第3様式、それに幻想的装飾である第4様式に分類されている。

 これらは、他の古代遺跡では見ることのできない出土例の豊富さと、2世紀間以上にわたって連続した様相を示していることから、〈古代絵画館〉と通称されるほどである。また彫刻においては前4世紀のプラクシテレスらの模刻が好まれ、教養主義的で装飾的な彫刻に対する好尚があったことを明らかにした。

 日常生活のうえでは、食生活、装身具、貸借関係、クリエンテラ制(クリエンテス)に基づく選挙、家庭内における信仰などが明らかとなった。このほか、アポロン神殿、ウェヌス神殿、ユピテル神殿、ドリス式神殿、選挙投票場(コミティウム)、市参事会会議場、マケルム(市場)、五つの浴場、大小の劇場、パラエストラ(体育場)、円形闘技場、度量衡管理所など都市として必要であった施設のすべてが残っており、公共生活がどのようなものであったのかを理解するためにも重要な資料を提供している。
 
20 ポンペイの遺跡

ポンペイの遺跡

世界遺産
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 専用バスでナポリの近くにあるポンペイに向かった。ローマからの道のり260qを約3時間かかって到着。徒歩で遺跡を見学。ベスビオ火山は、今は死火山となっているという。2,000年前のローマ帝国華やかなりし頃の市民の生活がそのまま埋もれており、当時の様子が分かる。鉛の水道管が施されて水道があったのは驚異だ。猛犬注意の表示もあり、今と変わらない生活ぶりが忍ばれる。歩道もあり、横断歩道もある。凄いという一言につきる。

 昼は、「ラ・クリマ・クリスティ」キリストの涙というワインを飲みながらの昼食。貝入りスパゲティとサラダ、魚介類のフライを食べた。土産にキリストの涙を購入。1本
2,000円也。帰りはナポリ近郊のカメオ工場を訪れた。カメオといえばナポリなのだ。手にタコができたマエストロの実演を見学。そのあとショッピング。手作りのカメオを購入。年月日と家内の名前、それに作家のサインを彫り込んでもらった。素晴らしい記念品となった。その後ナポリを見学。展望台でナポリの全景を撮影(写真19)。「ナポリを見て死ね」という諺に納得。天候に恵まれ、素晴らしいツアーだった。
21 トレビの泉(ローマ)

トレビの泉
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トレビの泉 Fontana di Trevi ローマの観光名所として知られる、バロック様式の噴水のある泉。トレビの名は泉の前の広場に3本の街路が集まることに由来。前19年 C. アグリッパが市郊外約20kmの水源から水を引いて創設し、ローマ時代にはアクア・ウェルギネ AcquaVergine と呼ばれた。

 現在の噴水は、1732年、競技設計の末サルビ Nicol
Salvi(1697‐1751)の案にもとづいて起工、62年に完成した。重厚な凱旋門を背景として中央にオケアノスの巨像を配する。バロック彫刻の代表傑作には含められないが、建築、彫刻、および自然要素としての水と岩を、噴水という効果的な都市装置のなかで巧みに融合させている。ローマに旅した者が泉に背を向け、肩ごしに硬貨を池に投げ入れるとローマ再訪がかなうと言い伝えられる。

 トレビの泉水でアイスクリーム(ジェラード)を食べた。右手でコインを二つ、左肩越しに投げ入れると、願い事が叶えられるという。コイン一つだとまたこれるそうだ。家内安全・無病息災を祈願。
22 スペイン広場(ローマ)

スペイン広場
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ローマの休日 Roman Holiday 1953年製作のアメリカ映画。ウィリアム・ワイラーWilliam Wyler(1902‐81)監督作品。ヨーロッパを親善旅行中の某国の若い王女(オードリー・ヘプバーン)とアメリカの新聞記者(グレゴリー・ペック)とのラブ・ロマンスを、ローマの美しい観光名所を背景に、軽快にほほえましく描くロマンティック・コメディで、オリジナルストーリーは、〈赤狩り〉のブラックリストに載せられていたドルトン・トランボDalton Trumbo(1905‐76)が、イアン・マクレラン・ハンターの仮名で書いたものである。アカデミー脚本(オリジナルストーリー)賞が与えられたが、近年、インディアナ大学の蔵書のなかからベン・ヘクト Ben Hecht(1893‐1964)が1951年に書いた第2稿が発見されたという。

 そもそもは、ロマンティック・コメディの傑作として知られる《或る夜の出来事》(1934)をつくったフランク・キャプラ監督の〈リバティ・フィルムズ〉が、1948年にエリザベス・テーラーとケーリー・グラント主演で映画化する企画として、パラマウントに持ち込んだものであったが、製作費の問題で実現せず、それから4年後、ハリウッドがテレビの攻勢を受けていたときに、キャプラからワイラーに企画が引きつがれ、アメリカのマーシャル・プラン政策によってイタリアに凍結されていたパラマウントのドルを使って、ワイラーが製作、監督した。ローマ・ロケとチネチタ撮影所のセットでの撮影のあと、ハリウッドで編集して完成された、いわゆる〈ランナウェイ runaway〉映画のはしりである。

 フランスの女流作家コレットの目にとまり、ブロードウェーで《ジジ》の主役を演じたオードリー・ヘプバーンAudrey Hepburn(1929‐93)は、この映画でグレゴリー・ペックと共演してアカデミー主演女優賞を受賞し、トップ・スターの座についた。
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ローマ・競技場跡

ローマ・競技場跡
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ローマ Roma イタリア共和国の首都。人口283万0569(1981)。イタリア中部、中部アペニノ山脈に発するテベレ川の下流部の両岸に位置している。市の中心部は、河口から約25kmの所にあるが、ローマ市の行政領域は、イタリアの諸都市の中でも例外的に広く、海岸にあるレオナルド・ダ・ビンチ空港、フィウミチーノ漁港、リド・ディ・ローマの海水浴場も市域に含まれる。1929年のラテラノ協定により、市域内にバチカン市国(約44ha)が成立した。スプロール状に宅地化が進んでいるが、市域内には耕地や放牧地がまだかなり残っている。

[第2次大戦後のローマ]
 第2次大戦後のローマの発展および変化はきわめて著しい。人口は1951年の155万6000から80年には約2倍の280万台に増大しているし、通勤圏を含めたローマ大都市圏は人口約350万と考えられている。

 第2次大戦後、何回か都市計画が立案され、また、建築基準、文化財の保護に関する法律の改正も何回かなされた。ファシスト政権の遺産である EUR は、官庁および高級住宅からなる副都心として生まれ変わり、1960年、ローマでオリンピックが開催されたのを契機にして道路網の整備がなされた。

 1950年以降、イタリア政府が工業の北部集中に歯止めをかけて、低開発地域の経済発展を図る政策を実施した中で、それまで工業をほとんどもたなかったローマの郊外に、ローマという大市場を目当てにした工場が多数建設されるようになった。また外環状道路が完成し、ここからイタリア各地に高速自動車道路網が延びて、ローマはイタリアの陸上交通路の拠点となった。

 混合経済体制をとる第2次大戦後のイタリア共和国において、ローマの官僚機構はますます肥大化した。マス・ツーリズムの発展によって、ローマを訪れる観光客の数は飛躍的に増大した。このように、第2次産業の発展はいくらかみられるものの、その大部分は建設業であり、ローマは基本的に第3次産業の都市である。1970年のデータについてローマ県をみると、就業人口の72%が第3次産業であり、所得について第1次、第2次および第3次産業の比率をみると、それぞれ3%、20%、77%になっている。

 世界の大都市と同様に、ローマも多くの都市問題を抱えている。とくにローマにおいて深刻化している問題をあげれば、1960年代および70年代を通じて、アパート建設という形で不動産投機が盛んになされ、市街地がローマ平原にスプロール状に拡大したことである。そのための、道路、上・下水道、電気、ガス、交通機関の整備のために、ローマ市は巨大な赤字を抱え込んでいる。第2にあげられるのは都心部の交通難である。文化財の保護という観点から、歴史的都心部の再開発は不可能で、都心部への普通車の乗入れは原則として禁止されているが、それでもバス、タクシーおよび都心居住者の車で、ローマの都心部はヨーロッパの都市の中で最悪の交通渋滞を引き起こしている。地下鉄の建設は遺跡にぶつかるたびに中止されるので、非常な年月と経費を必要とする。

 第2次大戦後ローマを東西に横断する路線の建設には20年以上を要したのである。第3に、イタリア経済の慢性的かつ構造的な不況の中で、ローマは失業および半失業者の累積する町となっている。麻薬の売買やさまざまな犯罪など社会病理的現象が、近年ますます顕在化しているし、ローマ大学は収容能力の10倍近い登録学生を抱え込み、そのかなりの部分は実質的には若年失業者である。

 〈永遠の都〉という言葉が、しばしばローマに冠せられるが、詳細にローマをみるならば、古代ローマの部分がみごとな廃墟として残っているのは、そこにおける居住が中世以降放棄されていたからなのであり、ルネサンス・バロック期のローマは、そこにたくさんの文化財を集めているが、現在のローマの住民の大部分にとっては、そこはもはや生活の舞台ではない。1975年以降、市政は左翼勢力によって担われているが、財政赤字をはじめとする諸困難に直面しており、短期的にはこれらの問題は解決されそうもない。長期的には、管理中枢機能を外縁部のエウル、チェントチェレ、ピエトララータにまとめ、これらを高速自動車道で結びつけることなどをはじめとする都市計画が立てられている。

ローマ・競技場 
チャールトン・ヘストン主演の映画「ベン・ハー」で戦車(馬車)の競争をした場所である。長さ一キロ以上もある広大なグラウンドだ。つわもの(兵)どもの夢のあとだった。
24 コロッセオ(ローマ)

コロッセオ
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コロセウム Colosseum ローマ市内の古代ローマ帝政期の円形闘技場の通称。ローマ帝国最大の規模を誇る。紀元79年ウェスパシアヌスが献堂し、翌年ティトゥスが完成した。長径188m、短径156mの楕円形プランを有し、最高部が48.5mある。約4万人の収容能力を有する階段状の観客席が、長径86m、短径54mの楕円形アレナ(闘技を行う場所)を囲む。

 賭
体はコンクリート造であり、観客席はアーチによって支えられている。外観はこのため4層のアーチが積層し、その表面は大理石で化粧され、下から、ドリス式、イオニア式、コリント式、そして複合式の建築オーダーによって装飾されている。通常は剣闘士や猛獣の闘いを催すが、アレナに水をたたえ、模擬海戦も行った。正式名称は〈フラウィウス朝の円形闘技場 Amphitheatrum Flavium〉であるが、紀元1000年ころから、そのそばにあったヘリオスに模したネロ帝の巨像〈コロスス・ネロニス〉の名称が闘技場に転用され、爾来コロセウムと呼ばれるようになった。

 学校ではコロセウムと習い、百科事典にもそうなっているが、ローマではコロッセオと呼ばれている。ポンペイの遺跡もそうだ。昔、学校ではベスビオス火山が噴火して埋もれた町だというふうに習ったが、イタリアではベスビオ火山と呼ばれている。。百聞は一見に如かずというが、どうしてこんなに違った情報になるのだろう。
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