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2009年8月17日改訂

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'Arnisi'-'Tzivaeri'-'Matia Ble'-'Erotokritos'

アポロンの巫女の神託春の峪   北舟

 

The spring valley, an oracle by the Pythia of Apollon.

2009年5月27日制作

アポロンの神殿跡

拡大写真(2000x1350)677KB

アポロンの神殿跡(ギリシャ・デルフィ)

ギリシャ編

 ギリシャ・エーゲ海紀行

ギリシャ国旗

アポロン

 
デルフィ遺跡 Ancient Delphi
 
 古代ギリシャでは、地球は平らな円盤で、自分たちの住む国はその中央にあり、その中心点がデルフィの聖地だと考え、そこを「大地のヘソ(オンファロス)」と呼んだ。まさに古代の中華思想で、当時のデルフィは、ギリシャだけの聖域ではなく、全世界に開かれたものであるとしていた。デルフィ遺跡を巡ると、古代の人々が神託を信じ、完全にアポロンの神に帰依(きえ)していたことを実感する。  
 デルフィの歴史は、他の都市国家と同様に神話や伝説にその起源をもつ。遺跡の発掘は1829年にフランスの考古学者たちによって行われ、この地は紀元前12世紀のミケーネ時代から神を祀る場所となっていたことが分かった。

フィルギル・ゾリス作「ピュトンを斃すアポロン」

フィルギル・ゾリス作「ピュトンを斃すアポロン」

資料:フリー百科事典 Wikipedia

デルフィの歴史

 
 神話によると、紀元前1,000年ころ、海抜600mのこの地は、大地の女神ガイアによるデルフィ神託の地で、ガイアの子・大蛇ピュトンに護られていたが、ディロス島で誕生したゼウスの息子アポロンがピュトンを矢で殺し、巫女ピュティアに乗り移って降臨し、アポロンの神託所を開いた。紀元前8〜7世紀ころになると、その存在が重要視され、その名声はオリエント諸国まで広がった。
 アポロン神の言葉を霊感する巫女はピュテイアと呼ばれ、アポロン神殿の地底から立ちのぼる霊気(ある種の天然ガス?)を吸って神がかり状態となり、そのときに発する言葉を神官が解読し、アポロンの神託として依頼者に伝えた。紀元前.6世紀が最盛期で、その後、神託所は破壊と再建が繰り返されたが、392年にビザンティン帝国のテオドシウス帝がキリスト教を国教とし、異教崇拝の禁止令を発したために衰退し、廃墟となってしまった。 

ピュトンとアポロン

 ピュトンは、自分がレトの子によって死ぬという神託を受けた。そこで彼は、アポロンとアルテミスを身籠もっていたレトを世界の果てまで追い回し、彼女を亡き者にしようとした。しかしレトはゼウスやポセイドンらの助けによって無事出産した。アポロンは生まれて三日目で弓矢を執り、母の恨みを晴らした。
 アポロンはピュトンの亡骸を手厚く扱い、アポロン神殿の聖石オンファロスの下に葬った。また、ピュトンのためにピュティア祭 Πύθια の開催を定め、新たに開いた自分の神託所の巫女にもピュティア Πύθια Pythia を名乗らせた。ニシキヘビを意味するパイソン(英語:python)は、ピュトンの名に由来するという。

奉納品を円形に展示したアルゴス人の奉納跡

奉納品を円形に展示したアルゴス人の奉納跡

拡大写真(1800x1000)329KB

ヘソの石

 
▼ アポロンの聖域の入口からアポロン神殿に至る参道は「聖なる道」といわれ、現存しているので、我々も当時と同じ参道を辿って遺跡巡りをした。途中にヘソの石が置かれていたが、実物はデルフィ博物館にあるので、これはレプリカ(模造品)である。また、実際に置かれていた場所は参道ではなく、神殿の地下である。何のために参道に「大地のヘソ」のレプリカが置かれているのか分からなかった。

参道に置かれたヘソの石

参道に置かれたヘソの石
 
アテネ人の宝庫 Athenian Treasury
 
▼ 参道の両側には、多くの都市国家が神託を受けたお礼に献上した宝庫や奉納記念碑(の残骸)が建ち並んでいる。なかでもフランスの考古学会が再建した縦10mx横6mの「アテネ人の宝庫」がほぼ完全な姿を見せている。  
 宝庫の入口にはドリア式の円柱が2本あり、南壁には「アテネがマラトンの戦いでペルシャ軍に勝利した感謝のしるしとしてアポロン神に捧げる」旨の献辞が刻まれている。宝庫の前には、マラトンの戦いでの戦利品が所狭しと並べられていたという。

聖なる道の角に東向けに建つアテネ人の宝庫(紀元前508年)

聖なる道の角に東向けに建つアテネ人の宝庫(紀元前508年)

拡大写真(1550x1600)418KB

 
アポロンの神殿 Temple of Apollon
 
▼ 聖域の中心をなすアポロンの神殿はアテネ人の宝庫の奥(北側)にある。長さ60m、幅23m、ドリア式列柱に囲まれた巨大な神殿である。初期の神殿は、月桂樹の木で造られていたが、紀元前7世紀に最初の石造神殿が建てられた。この後、神託の評判が急速に高まり、紀元前6世紀にドリス様式の神殿に建て替えられた。現在の神殿は、地震で倒壊した神殿を紀元前330年に再建したもの。今は6本の円柱と礎石が残るだけで、当時の面影はない。神殿の手前(南側)にはスフィンクスが載せられたナクソスの柱の台座がある。  

下から見上げたアポロンの神殿跡

ナクソスのスフィンクスの台座↓

 

↓アテネのストア(アテネ人の柱廊) ←神殿入口の柱→
下から見上げたアポロンの神殿跡

パノラマ写真(2300x1000)467KB

   神殿の内室は家内のかまどの守護神である女神ヘスティアの祭壇があり、絶えず聖なる火がともされていた。前室の壁面には、「汝、自身を知れ」「中庸を重んじよ」といった古代の7賢人*の教えが刻まれていた。また、フリーズ(水平の梁)にはマラトンの戦いで勝利した記念にペルシャから奪い取った黄金の楯が飾られていたという。  
*7賢人(ギリシャ7賢人):紀元前620〜550年に賢いと呼ばれた古代ギリシャの哲学者。プラトンが「プロタゴラス」の中で挙げた人物は、アテナイのソロン、ミレトスのタレス( ギザのピラミッドの高さを比率を使って求めた)、スパルタのキロンプリエネのビアスリンドスのクレオブロス、ミテュレネのピタコス、コリントのペリアンデロスの7人。

アポロンの神殿復元図

アポロンの神殿復元図

拡大写真(1600x800)196KB

 

ピュティア Πύθια Pythia による神託

 
   神託で中心的な役割を果たしていたのは、ピュティアと呼ばれるアポロンの巫女(みこ)である。一般の人だけでなく、都市や国家の要人までが神託伺いに訪れるようになり、アポロンの神託は、歴史上重要な決定に影響を及ぼすようになった。  
 初期の頃は、古代ビシウスの月の7日間だけだったが、後に冬の3ヵ月を除いて1ヵ月に1日となった。冬はアポロンが北の国に行って留守だったからで、代わりに神殿を守っていたのはディオニソスだったという。  

ナクソスのスフィンクスの台座

ナクソスのスフィンクスの台座

拡大写真(1600x800)196KB

▼ 神託伺いを願い出た者は特別の税を納めてから身を清め、生贄(いけにえ)の動物を捧げなければならなかった。神託を告げる巫女ピュティアは、まず、近くのカスタリアの泉から湧き出る清水で身を清めた。  
 それから神殿の奥深くに入り地の裂け目の上に置かれた青銅製の三脚台に腰を掛けた。月桂樹の葉を噛み地の裂け目から噴出する霊気を吸い込んで、憑依(ひょうい)状態になったという。

カップの内側に描かれたアポロンの神託の様子(440年頃 ベルリン国立美術館/ドイツ)

拡大写真(1300x1330)258KB

▲ 巫女の口を通して授けられる神のお告げは、神官によって解釈され、依頼者に伝えられた。巫女の発する言葉は、しばしば曖昧であり、どのようにも解釈できることもあったが、それによって神託の権威が失墜することはなかったという。写真上は、三脚台に座って神のお告げを受ける巫女と神官の姿を描いたものである。  

大理石でできたイオニア式柱頭

大理石でできたイオニア式柱頭

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大祭壇
 
▼ 神殿東側の入口の前には、ヒオス人から奉納された祭壇が置かれていた。これは神託を授かる権利を与えられたヒオス島の人々がアポロンに謝意を表して捧げたものである。  

アポロンの大祭壇

アポロンの大祭壇

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オイディプス王伝説
 
 デルフィに来れば、オイディプス王伝説を避けて通ることができない。テーベ(テーバイ)の王ライオスは、デルフィで「我が子に殺される」という神託を受けたため、生まれた子の両足に釘を打ち、キタイロン山中に捨てさせた。  
 羊飼いに拾われた赤子は、コリントス王に育てられたが、彼の両足は傷つき腫れていたので、オイディプス(腫れた足)と呼ばれた。成長したオイディプスは、出生に疑問を持ち、デルフィで神託を受けると、「父を殺し、母と交わる」とのお告げを受けた。

ドーリス(ドリア)式のアポロンの神殿入口

ドーリス(ドリア)式のアポロンの神殿入口

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 ショックを受けて帰る途中、山中でデルフィに向かう車に乗った老人と出会い、口論の末、殺害してしまった。老人は実父ライオスだったが、その事実はまだ知らないままだった。  
 テーベはその頃、怪物スフィンクスに悩まされており、旅人はこの怪物の謎に答えられずに殺された。前述のように怪物の謎を解いてテーベを救ったオイディプスは、ライオス亡き後のテーベの王として迎えられ、王妃イオカステと結婚したが、彼女こそオイディプスを産んだ母親だった。

アポロンの神殿復元図(正面)

アポロンの神殿復元図(正面)

拡大写真(1800x1250)325KB

エディプス・コンプレックス Oedipus complex
 
 こうして、デルフィの神託は二つとも当たり、母子は互いに交わって子をもうけた。その後、羊飼いの証言で真実を知った母イオカステは自殺し、オイディプスは自ら両眼をえぐって盲目となった。
 オイディプス・コンプレックス(日本ではエディプス・コンプレックス)という言葉は、男の子が無意識のうちに母親に愛着を持ち、自分と同性の父に敵意を抱く傾向を意味する心理学の用語で、父と知らずに殺害し、生母と結婚したギリシャ神話のオイディプスにちなんでフロイトが提唱したものであるという。
  アポロンの巫女の神託春の峪  北舟 

あぽろんの みこのしんたく はるのたに

The spring valley, an oracle by the Pythia of Apollon.

アポロンの神殿(紀元前330年)全景

アポロンの神殿(紀元前330年)全景

拡大写真(2000x1350)677KB

 
ピュティア祭 Πύθια   Pythian Festival
 
 ピュティア祭は古代ギリシャの大祭で、デルフィの聖地に全ギリシャから市民が参集して開催されたアポロン神の祭儀である。大祭は8年に一度開催され、音楽競技を奉納していたが、後に隣接する都市クリッサとの戦争に勝利してからは、4年に一度に変更された。  

神殿奥の音楽競技が行われた劇場(ローマ時代の改築)

神殿奥の音楽競技が行われた劇場(ローマ時代の改築)

パノラマ写真(2000X1200)592KB
▼ アポロンを讃えるために、芸術分野の競技や、後にはオリンピア大祭と似たスポーツ競技も行われた。ピュティア祭は全ギリシャ的に祝われた4つの古代競技祭典の一つに数えられるもので、競技は、アポロンの聖域の最奥部にある細長いスタジアムで行われた。  

スポーツ競技が行われた最奥部のスタジアム

スポーツ競技が行われた最奥部のスタジアム

パノラマ写真(2000x700)405KB

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