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 感動写真集

2004年11月26日改訂
祭囃子メドレー

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2004年11月26日作成

五番曳山・鯛

魚屋町五番曳山・鯛(唐津くんち/唐津市)

唐津くんち

御神幸

深見重利

 

宵曳山

御神幸

町廻り

御旅所神幸おたびしょしんこう

 翌11月3日(水)は御旅所神幸で、祭りのクライマックスの曳き込み・曳き出しが行われる。午前9時半、お旅所へ向かう神輿の後に曳山が続き、市内を巡行。午後0時に御旅所と呼ばれる砂地に一番曳山「赤獅子」を先頭に所定の位置に次々と曳山が曳き込まれる。

お旅所へ渡御する宮神輿

お旅所へ渡御する宮神輿

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十二番 曳山やま

珠取獅子たまとりじし

 京町(きょうまち)は、唐津城築城時の総町12ヵ町の一つで町人の町だった。京町東端の町田川には札の辻橋が架かり、橋の西側には午後9時に閉まる木戸や高札場、町奉行があったという。
   「珠取獅子」は、明治8年(1869)、細工人・富野淇園、塗師棟梁・大木夘兵衛らによって、糸屋の屋敷内で製作されたと伝えられている。  
   京町が「珠取獅子」を選んだ理由としては、次のような言い伝えがあるという。
(1)町内の長門屋に伝えられていた唐津焼の「珠取獅子」をモデルにしたもの
(2)本町の富野淇園が発想したもの(モデルの焼物も富野が作ったといわれる)
 

十二番曳山・珠取獅子

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四番 曳山やま

源義経の兜

 前日に続く呉服町(ごふくまち)の兜曳山。唐津くんちの衣装は、いわゆる火消し装束といわれるもので、肉襦袢(にくじゅばん)(法被のこと)や長法被、鉢巻は町内毎に意匠と工夫が凝らされている。中でも肉襦袢は、羽二重(はぶたえ)という正絹の2枚重ねの生地でできている。
呉服町の 肉襦袢にくじゅばん
 呉服町曳山の肉襦袢は、戦前には布団の布地で作ったというが、戦後桃色地に白抜きの桜の文様に変わり、昭和30年代には紺に白抜きの「呉」字を染め抜いたもの、昭和40年代には現在のうぐいす色の地に龍頭と「ご」の字を染めたものに変遷している。

四番曳山・源義経の兜

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五番 曳山やま

たい

 魚屋町(うおやまち)の鯛が再登場。 砂地に車輪がめり込んだ曳山をものともせず、各町の若者が囃子にあわせて懸命に綱を曳く勇壮な姿に、観衆も一体となって声援を送り、曳山が所定の位置につく度に大きな拍手が湧き上がる。

五番曳山・鯛

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十四番 曳山やま

七宝丸しちほうまる

 江川町(えがわまち)の七宝丸が再登場。宵曳山(よいやま)では法被姿だった氏子たちは、赤い向う鉢巻をキリリと締め、諸肌脱ぎの法被に腹掛け姿の男気を見せる。背中の黒い襷がけが格好良い。

十四番曳山・七宝丸

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曳山やま の揃い踏み
 氏子たちによって御旅所の砂地に曳き込まれた曳山は、唐津城を背景に定位置に並んだ。向かって右から「八番・金獅子」「九番・武田信玄の兜」「十番・上杉謙信の兜」「十一番・酒呑童子と源頼光の兜」が一直線に並んだ姿は、実に壮観である。

曳山の揃い踏み

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三番 曳山やま

亀と浦島太郎

 材木町(ざいもくまち)の曳山は、天保12年(1841)に須賀仲三郎によって製作された。三番曳山に亀を選んだ理由としては、次のような言い伝えが残っているという。
(1)熊本県八代(やつしろ)市の妙見祭の神輿に供奉する亀蛇に着目したもの
(2)鹿島明神が早亀という亀に乗って上陸したところを描いたもの
   亀の背中には、元は宝珠が乗っていたが、不運な出来事があったために、製作後20年くらいで浦島太郎に代わったといわれる。明治から6回の修理がなされ、そのたびに色も変化し、今日に引き継がれている。  

三番曳山・亀と浦島太郎

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八番 曳山やま

金獅子きんじし

 宵曳山で見た本町(ほんまち)の金獅子が、御旅所でもひときわ輝きを放っている。金獅子の形は第1回塗り替え時に額と鼻のしかめ(顰しかめること)に粘土を盛り上げ、こぶを中野霓林によって細工した。
   第2回目の塗り替えでは左右の鬢(びん)(耳ぎわの髪)が張っていたのを削ってスマートにし、舌を外し、口がぴったり閉じるようにした。角(つの)も尖っていたものを丸く大きくした。  
   その後、歯も銀箔からアルミ箔へかわり、角を銅板でこしらえ金箔を張って軽くした。狭い町内を通るため、本町だけは両耳とも真上まで上がる。赤獅子・青獅子の後部は竹かごで作られていて軽いのに対して、金獅子は全部一閑張りで作られていて重たくなっている。氏子たちの創意工夫により現在の姿がある。  

八番曳山・金獅子

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深見重利ふかみしげとし

 さんのこと
  2004年7月中旬の日曜日、遅い朝食をとりながら新聞を読んでいると、広報紙に青梅在住の写真家の紹介があった。早速、そのホームページにアクセスしたところ、自然讃歌 というタイトルで素晴らしい富士山の写真が多数掲載され、多くの個展や写真集を出版されているプロの写真家であることを知った。感激の余り、直ぐにお便りをお出ししたところ、早速、恐縮するほどご丁寧な返事をいただいた。
和田 様 今日は、はじめまして。ご丁寧なメールを頂き有難うございました。小生、自力でホームページを作るようになってから丁度一年が経ったところです。
 それまでは富士山一本槍でしたが、それがきっかけで多摩川源流へとテーマを広げてやってきて、やっと纏まりが付いてきたところです。
 和田さんのHPを拝見したところ、映像の素晴らしさ・規模の大きさに驚いています。まだほんの一部しか拝見しておりませんのでゆっくり見させていただきます。
 ご連絡を頂いてから、青梅にもこんなに素晴らしいHPを開いている方がおられる事を知りました。何かとご指導いただければ嬉しく存じます。 深見重利                
 こうして深見さんとの交流が始まった。深見さんは、多摩川を挟んで対岸に住んでおられ、私の自宅から自転車で15分程で行くことができる。10月初旬にはご自宅にご招待いただき、ボルドーの赤ワインを携えてお邪魔した。奥様の手料理に舌鼓を打ち、酒を酌み交わしながら遅くまで写真談義に花が咲いたことは言うまでもない。

 先日 「唐津くんちの写真をホームページにアップロードした」という電話をいただいたので、早速 自然讃歌 にアクセスすると、奥多摩歳時記 唐津くんち2004 というタイトルで、3頁にわたる写真集が掲載されていた。
 そこには豊かな色遣いとシャープな影像で、3日間にわたる唐津くんちの全てが見事に再現されていた。どの写真もプロ仕様というべきもので、私のレベルとは格段に違う仕上がりで、このような鮮やかな祭りの写真は見たことがなく、すっかり魅了されてしまった。
 

和田義男

 深見さんにお聞きすると、唐津くんちの画像は全て愛用のニコンD100のRawモードで撮影されたという。いつも1/8圧縮のJPGで撮影している私は、色遣いを大事にしたいときにはRawで撮影することを学んだ。

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 いつものように感動が理性を越えてしまった私は、恐れ多くも深見さんの「唐津くんち」の写真を感動写真集に掲載させていただきたいと、厚かましいお願いをしてしまった。メールを送信して直ぐに後悔の念が湧いた。
 間もなく深見さんからご了解の電話をいただいたときには、天にも舞い上がる気持ちだった。こうして感動写真集の第17番目の作者となっていただいた深見さんの素晴らしい作品をご紹介できることになったのである。深見さんの寛大なお人柄には、頭の下がる思いであり、心から御礼申し上げます。    2004年11月25日  和田義男

 

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