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2004年7月7日改訂

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01 天安門広場

天安門広場
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北京 Beijing (1) 中華人民共和国の首都。中国共産党中央委員会の所在地。上海、天津とともに国の直轄市で、10市轄区8県を管轄する。燕京、北平ともいわれた。面積1万6800ku、人口1259万(1996)。華北平原の北端、河北省の中部北寄りに位置する。

 華北地区と東北地区とを結ぶ要点に当たり、西には西山(太行山脈の東北への延長部分)、東に燕山、北西には軍都山(南口山脈ともいう)の諸山脈が連なり、南東には永定河と潮白河の両水系による沖積平野が開けている。古い北京の町は、永定河の扇状地に発達した。

 気候は温帯大陸性季節風型で、夏季は炎熱多雨、冬季は寒冷乾燥、春は北からの〈蒙古風〉が黄塵をまき散らすが、秋の9、10両月は青天が続き、もっとも快適な時節である。気温が高いのは7月で平均26.1℃、最高は42.6℃、低いのは1月で平均−4.7℃、最低は−22.9℃に達する。

 降雨量は華北地区ではもっとも多く、平均637mmで、その74%までが6〜8月の3ヵ月に集中している。しかも、降雨量が年によって一定せず、1974年10月から75年5月上旬まで7ヵ月余りの間、北京全市を合わせてわずか23mmという極端な例もあった。

天安門広場
 予想外に広い広場。モスクワの赤の広場は意外に狭くてガッカリしたが、天安門広場は、本当に広い。軍事パレードも余裕を持って実施できる。正面は故宮博物院(紫禁城)の天安門だ。巨大な毛沢東の肖像画が掲げられている。天安門広場は、どうしても天安門事件を連想してしまう。この事件を契機に中国の民主化が何処まで進むか、期待されるところだが、現在の状況は、経済特区による解放経済政策が重点で、民主化を求めるアメリカの要求には応えていない。

天安門事件
 (1) 1976年4月5日、中国の北京、天安門広場で起こった民衆による騒擾事件。同年1月に死去した周恩来を追悼するため、民衆が広場の人民英雄記念碑にささげた花輪を、北京市当局が撤去した。

 これに憤激した民衆が、広場の一隅の建物や路上の自動車に火を放ち、騒乱状態となったが、この裏には、文化大革命以来押さえつけられて自由にものも言えなかった民衆の不満と怒りがあった。後に、この事件は、五・四運動(1919)になぞらえて、〈四・五運動〉と呼ばれ、民主の実現をめざす運動の原点とされた。

(2) 1989年6月4日未明、民主化を要求して天安門広場を中心に集まった学生・市民に、治安当局が人民解放軍による武力弾圧を行い、300余人の死者を出した事件。〈六・四事件〉とも呼ばれる。1978年12月の中共11期3中全会を契機に、
小平によって始められた改革・開放政策は、経済面での活発化とともに、思想面でも人権や民主の要求を引き出すことになり、その一つの頂点がこの事件であった。

 4月15日、中共前総書記の胡耀邦が心臓発作のため急死。その前年、民主化を求める学生に対する政策が手ぬるいとして保守派から辞任に追い込まれた胡に同情的な北京の学生たちが胡の再評価を要求、当局の禁を冒して天安門広場を不法占拠して追悼した。

 当局はこの動きを〈動乱〉と規定して弾圧の構えをみせる。これに反発した学生たちは、独自の自治組織を結成し、当局との対話、憲法に書かれた新聞の自由など公民の諸権利の実現を要求して天安門広場に座り込み、5月13日からはハンストに突入。

 かねてから物価高や高級官僚の汚職に腹を据えかねていた市民もこれに同情して、100万市民が街頭に繰り出す事態に発展した。時の中共総書記趙紫陽は対話路線をとったが、最高実力者と呼ばれた
小平は、周到な準備の末に6月3日夜から4日未明にかけて戦車を出動させて弾圧。事件はその後も改革・開放政策に暗い影を落とすこととなった。 
02
人民大会議場

歴史博物館
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北京 Beijing (2) 人民共和国では52年以来、5回にわたる拡大と調整とをへて10市轄区(東城、西城、宣武、崇文、海淀、朝陽、豊台、門頭溝、石景山、燕山)と8県(昌平、延慶、懐柔、密雲、順義、平谷、通、大興)となり、市域面積は1万6800ku、人口は96年に1259万に達した。旧市街についていえば、皇城の城壁は中華民国時代にほとんど除去されたが、内外城の城壁や城濠は都市の近代化を妨げるものとして、1965年から全部取り払われ、そのあとは道路となっている。ただいくつかの城門だけが遺跡として保存されているにすぎない。

 天安門広場は初め11haだったが、1959年に拡張されて40haとなり、ここを中心として幅35mの大道が東西に伸び、旧市内を突破して東は通州、西は石景山に通じている。広場の南東部はもと東交民
(とうこうみんこう)といった一角で、1900年(光緒26)に公使館区域に指定され、中国の支配から独立した治外法権の地であったが、今日ではそのような過去の痕跡は一掃されてしまった。

 旧市内の道路はもちろん改修され、市外に新設された公路(自動車路)と連結して交通網が整備された。市内電車は57年から無軌道電車が運転を開始し、66年にはすっかり路面電車に取って代わった。市民の公共交通機関は無軌道電車と乗合バスを主とするが、地下鉄もあって、69年に第1期工事の23kmが完成している。

 北京は国内交通の一中心で、すでに清末から列強資本による幹線鉄道の始発点であった。今日では北哈(北京〜ハルビン)、京滬
(けいこ)(北京〜上海)、京包(北京〜包頭(パオトー))、京広(北京〜広州)の全国的な四大幹線のほか、京承(北京〜承徳)、京原(北京〜原平)、京(けいた)(北京〜子頭)、京通(昌平〜通江)、豊沙(豊台〜沙城)などの諸線が集中し、ウランバートルを経てモスクワに至る国際列車も通じている。また国際飛行場は北東の順義県にあり(市内の中心部まで直線距離で約25km)、58年の開設で面積は1100haであったが、近年の施設の拡張は著しい。

 産業方面では、北京はもともと完全な消費都市であったが、近年は軽工業ばかりでなく重工業も急速に発達して、新興の近代工業基地として発展している。その種類は鉄鋼、石炭、石油化学、電力、機械、化学、電子、紡績、製紙、印刷などに及び、生産額も年とともに増加した。その他、景泰藍
(けいたいらん)(日本でいう七宝)、玉器、象牙彫刻、じゅうたんなど伝統的な手工芸品の製造も盛んである。都市計画も産業の発展に応じ、旧市内には公害をともなわない軽工業を存置し、大規模な紡績・織物や各種の重工業は東・南郊外に建設するといった方針が立てられている。例えば、東郊には国営の綿紡績工場を集中させ、南西郊は石景山製鉄工場と発電工場を中心とし、京西炭鉱とともに長辛店、豊台一帯の機関車工場、鉄橋工場、さらには周口店に新設中の石油化学工場などを併せて重工業地帯とする計画がある。これらの工業地を衛星都市として発展させ、人口増加による北京旧市街の膨張を抑制する政策だという。

 北京は清代以来、全国的な文化・教育の中心で、中華民国になって国都が南京に移ってからも、ここは故都としてその地位を維持してきた。しかし、従前から継続している施設は故宮博物院(紫禁城)、北京図書館くらいで、現在では天安門広場の東側に歴史博物館と革命博物館、西に人民大会堂が立ち、天安門内の東には労働人民文化宮(太
)、その他、旧市内には自然博物館や民族文化宮などが新設された。公園としては北海、中山(社稷壇)、景山、天壇のほか陶然亭公園、西郊には旧市街に接して動物園、首都体育館、紫竹院公園などが連なっている。北西郊は文化教育区で、中国科学院を頂点とする多くの国立技術研究機構と、40に上る大学や高等学院がある。その中には北京大学(1898年創立、1952年に燕京大学の旧敷地である現在地に移転)、清華大学、中国科学技術大学、北京師範大学、少数民族のための中央民族学院等を含み、面積は約44km2、科学院から東は理工科系、西は人文社会系の高等学院が占める。文化教育区の西には頤和園(万寿山)がある。

 名勝旧跡としてはこのほか、旧市内には古代天文儀器陳列館(古観象台)、鐘楼、鼓楼、孔子
、国子監、法源寺、白塔寺、広済寺、雍和宮、清真寺(イスラム教)、市外では黄寺、白雲観(道教)、天寧寺、五塔寺、大鐘寺、蘆溝橋、西山の八大処、碧雲寺、臥仏寺、戒台寺、潭柘(たんしや)寺などすこぶる多い。さらに遠くでは八達嶺の万里の長城(延慶県)、居庸関、明の十三陵(定陵の地下宮殿を含む。以上昌平県)、湯山温泉、周口店遺跡、石経山(以上房山県)などもみな北京直轄市の境域に属している。また旧市内にもどれば、書画骨董や文房具の町である琉璃(るりしよう)、北京最大の百貨集中地として知られた東風市場(旧名は東安市場)、あらゆる遊芸の中心、庶民の歓楽地である天橋の名を忘れることはできない。

 次に北京は1952年以来、直轄市として市域が拡張された結果、相当の農地を含むこととなり、76の人民公社が組織されている。58年から引き続き十三陵ダムと懐柔ダムをはじめ多くの小型ダムが建設され、それとともに温楡河、鳳河、港溝河など主要河川の水利工事も進んで、灌漑面積は著しく増大した。農業生産は近郊平原地帯では蔬菜を、遠郊平原地帯では穀物(小麦、トウモロコシ、米、コーリャン、豆類など)と綿花を主とし、さらに広大な山地帯では穀物のほかナツメ、梨など果樹の栽培、あるいは鴨の養殖なども行われている。北京近郊の蔬菜生産地として有名な四季青人民公社は、北京の蔬菜総消費量の7分の1を供給しているという。

人民大会堂 R
n mn d hu tng
 中国の人民代表大会の議場。北京市の天安門広場の西側にある。天安門広場、中国歴史博物館、民族文化宮、北京站(中央駅)などとともに、解放後10年間の新中国による公共建築を代表するもの。北京を中心とする全国各地の設計部局、建築家たちが提出した設計案をもとに1959年8月末に完成。建築面積は17万1800m2、平面は山字形をなし、中央の大ホールの後方に吹抜けで、間口76m、奥行き60mの広さをもつ人民代表大会の議場があり、1万4000人を収容できる。5000人収容可能な大宴会場もある。建築意匠そのものは、ソ連との友好時代に定着した典型的な意匠で、全国各省・市の大会堂の範とされた。
03 天安門

天安門
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故宮博物院(紫禁城) 映画「ラストエンペラー」の世界が眼前に開けている。とにかく巨大な城だ。この映画は、中国最後の王朝・清の最後の皇帝の一生を描いた名作だ。映画の冒頭、3歳の皇帝溥儀が紫禁城の太和殿(写真04)中央に現れ、臣下がひれ伏す姿は圧巻だ。そして白い階段を下りてゆくのだ。その権力は凄いものだった。

 明・清時代に北京紫禁城に造営された宮殿
の規模は、故宮の名で現存している。南の天安門から午門をへて儀式場である太和・中和・保和の3殿が縦に並び、その東西に文華殿と武英殿が配されていて、これが外朝にあたる。乾清門の北が内庭つまり内朝であって、乾清宮、坤寧宮などが配された。場内を見学するには数キロを歩かねばならず、夏の暑い盛りには暑くて断念する観光客も多い。南から北に歩き、出口で車が待ってくれていた。その後景山公園に上り、そこからの紫禁城の眺め(写真08)が素晴らしい。
04 故宮太和殿

故宮太和殿
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愛新覚羅溥儀 ふぎ 1906‐67 P¢ y 中国、清朝最後の皇帝。在位1908‐11年。年号により宣統帝という。また満州国の皇帝としては康徳帝といい、在位1934‐45年。姓は愛新覚羅(アイシンギヨロ)、字は浩然。光緒帝の弟載(さいほう)(醇親王)の長子として生まれ、西太后の意志で3歳で即位した。辛亥革命により退位後も中華民国臨時政府の清室優待条件により大清皇帝の尊号を保持し、紫禁城内に住んで小朝廷を維持していたが、1924年馮玉祥ら国民軍の北京占領に際し、優待条件を取り消され天津に移った。

 それ以前も以後も清朝再興の望みを捨てなかったが、31年の九・一八(満州)事変の翌年、日本の関東軍の働き掛けを受け入れて、彼らが樹立した〈満州国〉の執政、ついで34年皇帝となった。日本の敗戦によりソ連軍に捕らえられ、チタ、ハバロフスクの収容所を経て、50年以後撫順、ハルビンで囚人生活を送り、59年反省を認められて釈放され、北京の文史資料研究委員会に勤務した。64年北京で出版された自伝《わが半生》は世界中で反響を呼んだ。
05
太和殿玉座

太和殿玉座
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中和殿玉座
中和殿玉座
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故宮 G gng 北京の旧市内のほぼ中央を占める紫禁城のことで、明・清時代の宮城だから故宮といわれる。もとはこれとともに宮苑や官庁を併せ含んだ区域を皇城と称したが、周囲の城壁は早くから取り払われている。1417年(永楽15)に明の成祖永楽帝が南京から都を移し、元の宮城跡に築いたもので、明末に大破壊をこうむったあと、清がほとんどその規模を受けついで復興し今日にいたった。

 地域は南北960m、東西760mで、高さ10mの厚い城壁に囲まれ、四面に各1門、四隅に角楼を設け、その外に幅50m余の堀をめぐらす。もとの皇城の正門に当たる天安門から、東の太(現、中山公園)と西の社稷(しやしよく)壇(現、労働人民文化宮)の間を通り、端門をへて宮城の正門である午門に達する。

 これをくぐると、御河に架した金水橋を隔てて太和門があり、内に太和殿、中和殿、保和殿の3大殿が南北に並び、きわめて壮観である。これらは国家の重要な儀式を行ったところで、中でも正殿である太和殿は正面約60m、奥行き約33mの大建築である。東側には東華門内に文華殿、文淵閣、西側には西華門内に武英殿、南薫殿などがあり、以上の南半部は皇帝の公的な場所という意味で外朝と称する。

 その北半部は皇帝一家の私的な住居で内廷と称し、保和殿背後の乾清門から北に乾清宮、交泰殿、坤寧宮などが一直線に配置され、北門である神武門に終わっている。これを中央にして内廷は南北縦割りに5区域に分かれ、それぞれに多数の建築が立ち並ぶ。

 諸建築は明代の遺構もあるが、大部分が清代のもので、広大な敷地に黄釉の瓦屋根と朱塗りの柱壁が相映じ、往時の絶大な皇帝権を象徴する。中華民国成立後も清朝最後の宣統帝は故宮に住むことを認められていたが、1924年に脱出し、莫大な財宝は国務院に接収された。今日では国有の文化財として全国重点文物保護単位に指定され、故宮博物院と称し一般に公開されている。
06 故宮雲龍階石

故宮雲龍階石
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宮廷 中国では、宮廷というのは帝王の居処のことであり、宮庭とも書かれ、〈朝廷〉〈宮闕(きゆうけつ)〉あるいは単に〈朝〉〈闕〉といわれ、しばしば商品交易の場である〈市〉と対して呼ばれた。《周礼(しゆらい)》考工記によれば、国都を造営する際には、中央に王宮をおき、東に宗、西に社稷(しやしよく)、前方つまり南に〈朝〉、後方つまり北に〈市〉を設けたし、《周礼》全体の記述からみると、天子には三朝があったことになり、路門より内側を天子の日常起居する場所である燕朝といい、路門外、応門内を天子が毎日臨御して政事をみる場所たる治朝といい、応門外、皋門(こうもん)内を朝士が政事をつかさどる場所たる外朝といったとされ、全体を内朝と外朝とに二大別するときは燕朝と治朝をあわせて内朝といったのである。

 秦・漢以後の歴代の宮廷つまり朝廷が、《周礼》に記述されていたとおりの構造をもっていたわけではないが、大綱においては、その構想は尊重されていたとみてよい。すなわち、天子たる皇帝を中心に皇后をはじめとする多くの女官や宦官、外戚の勢力の渦まいた内朝と、宰相をはじめとする中央官僚たちがひしめいた外朝は、歴史的にみると、つねに微妙な緊張関係におかれていた。皇帝が、宰相以下の百官のいる外朝を信頼しきった時期もあれば、内朝の宦官や外戚の意向に従って政治を行い、外朝の中央政府を単なる事務執行機関と化してしまった時期もあったのである。宮廷あるいは朝廷というのは、内朝と外朝をあわせた総称であるが、ごく一般的な用法でいえば、内朝のみが宮廷であり、外朝は政府とみた方がよかろう。
07 故宮九龍壁
故宮九龍壁
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 宮廷に建てられた宮殿は、それぞれの時代文化を代表するものであった。秦の始皇帝は阿房宮をはじめとする700余の宮殿を建てたというし、漢代の未央(びおう)宮や甘泉宮なども大規模なものであった。隋・唐時代の長安もこれらと同じであって、たとえば唐の長安城の北端中央におかれた宮城たる太極宮には、儀式場たる太極殿や両儀殿のほか、門下省と中書省の建物があり、太極宮の西に掖庭宮、東に東宮が位置していた。これら三宮の南に皇城とよばれる官庁街が林立していたのであって、太極宮が内朝に、皇城が外朝に当たるわけである。

 ところが、太極宮(西内)の地域が湿度の高い悪条件の場所だったので、太宗のときに東北の地に大明宮(東内)をたて、さらに玄宗のときには皇城の東の方に作られた興慶宮(南内)が事実上の宮城となった。これらを総称して三大内と呼んだ。宋の宮殿も唐制をつぐが、いわゆる征服王朝であった遼の上京と金の上京は、本城に接続して漢城を設け東を正面にしたし、元の大都では宮城が南端近くにあってモンゴルの風習に従うところが多かった。
08 故宮神武門

故宮神武門
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 歴代の宮廷は、政治の中心であっただけではなく、宮廷音楽、宮廷文学の場であり、宮廷画家が活躍した。漢代には、雅楽が天地祖先をまつる儀式音楽として制定されたし、賦という文学形式が宮廷でもてはやされた。三国時代には魏の曹操父子のいわゆる三曹が当時の文学界をリードしたし(建安文学)、南朝斉の竟陵王や梁の簡文帝のサロンではまさに宮廷文学が花開き、宮体とよばれる詩体が流行した(永明文学)。

 唐代では、とくに玄宗治世の宮廷で、西域伝来の音楽などが異国情緒をただよわせたのであって、王建が七言絶句のかたちで詠んだ宮詞は、当時の宮廷内部の秘事や遺聞を今に伝えてくれる。なお、画院に属した宮廷画家は、漢代以後いつも存在したが、とくに宋の宗が芸術を好んだために重んぜられたし(林図画院)、清初にはイエズス会修道士カスティリオーネ(郎世寧)のごとき宮廷画家さえ出現したのである。
09 北京の下町

北京の下町
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 華やかな繁華街を離れ、下町に入ると、NHK大河ドラマ「大地の子」さながらの世界が現れる。主人公陸一心が学校の先生夫妻に拾われ、暮らした狭いながらも楽しい我が家。こうした世界が、今もまだ沢山見られる。しかし、中国の経済開発は急ピッチで進んでおり、いずれ、このような光景は過去のものとなってしまうことだろう。中国12億の人口をかかえる大国。その秘められたパワーを感じる。

 旧市街の南西50kmの周口店(房山県に所属)は北京原人の化石発見地として有名で、当地には約50万年前すでに人類が生活していたことが明らかとなった。さらにその付近からは洪積世の末期、約10万年前の山頂洞人の遺跡が発見され、これらが今日の中国人の祖先となったと考えられている。時代を下ると、中国史上の二大土木工事と称せられている万里の長城と大運河とは、不思議にも北京と密接な関係がある。

 北京は古くから東北地区に通ずる軍事的要地であったから、遊牧民族の侵入を防ぐため、その北方に万里の長城が築かれ、南方から軍需物資を輸送する目的で大運河をここまで引いてきた。中国全体の首都となると、物資を充実するために大運河はいよいよ整備され、国都防衛の必要から長城はますます堅固に築かれたのである。
10 北京の下町

北京の下町
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北京大学 Bi jng d xu 
中国の北京にある文理系の総合大学。清朝時代の官学、京師大学堂(1898創設)がその前身。1912年、北京大学と改称したが、当時はまだ官吏養成機関としての性格が強かった。17年、元培が学長に就任して、陳独秀を文科科長に据え、李大(りたいしよう)、魯迅などを招聘し、アカデミックな大学に改革して以来、名実ともに学問の殿堂としての陣容を整えた。

 19年の五・四運動の先頭に立ったのは北京大学の学生であった。抗日戦争中は昆明に疎開し、清華大学、南開大学と国立西南聯合大学を結成。46年、北京に復帰。52年、〈全国工学院調整方案〉が公布され、北京大学は工学部を清華大学に、農学部を北京農業大学に移管し、医学部を北京医学院として独立させる一方、清華・燕京大学の文理系および輔仁大学等の諸学科を吸収合併して、従来の総合大学から文理系の総合大学として新発足した。

 96年現在、北京大学は理科系12学科・文科系16学科、研究所80余で構成され、教員約2200名、学生1万8000余名を有している。なお、毛沢東が長沙の第一師範を卒業後、半年あまり北京大学の図書館司書となり、このとき李大
等のもとでマルクス主義を学んだことは、北京大学および毛沢東を語る際、必ず言及される事柄である。
11 万里長城

万里長城(慕田峪長城)
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始皇帝 前259‐前210 Sh° hung d  中国、秦31代の王(在位、前247‐前222)、中国最初の皇帝(在位、前222‐前210)。姓は(えい)、名は政。荘襄王の子。一説では実父は陽の大賈である呂不韋とする。荘襄王が人質となって趙に寄寓していたおりに呂不韋は自分の姫妾を荘襄王に献上したが、彼女はすでに妊娠していたという。政は趙の国都邯鄲に生まれ、荘襄王の死去により13歳で秦王となった。はじめ呂不韋を相国として国事をゆだねたが、即位10年に(ろうあい)の事件に連座したためにしりぞけ、ついで法家の李斯を重用した。王翦(おうせん)等を派遣して韓を手始めに、魏、楚、燕、斉、趙の戦国六雄を次々と滅亡させ、古代帝国の成立を実現させた(前221)。太古の三皇五帝から採って皇帝の称号を定め、みずからは始皇帝と称して帝位を2世、3世と無窮に伝えることを意図した。さらに、朕、制、詔など皇帝専用用語を制定し、また旧来の文や武といった諡法(しほう)を廃止した。

 帝国は五行のうちの水徳となし、これにもとづき歳首は十月、黒色を尊び、数は6をもって文物制度を規格し、黄河を徳水と名をあらため、また庶民を黔首
(けんしゆ)(黒頭)と呼んだ。天下を36郡に区画し、領土の拡張に伴い42郡、さらに48郡に編成し、郡県制を全国に施行した。郡ごとに守(民政)とその丞(補佐)、尉(軍政)とその丞および監(監察)を、県には令(または長、民政)、丞および尉を置き、いずれも中央政府から派遣する中央集権体制を確立し、また什伍の法を全土に適用させた。郡県制はすでに戦国各国が実施していた統治方式であり、秦の旧領も12郡に編成されていた。天下統一によりこれを全域に及ぼしたのである。民間から武器を没収して国都の咸陽に集め、鐘などの楽器や金人を鋳造して宮廷に並べ、また地方都市の城郭を取り除かせた。度量衡を統一して基準の量器を全国に配布し、車軌を一定し、標準となるべき文字(篆書(てんしよ))や貨幣(半両銭)を制定した。

 制度文物の統一とともに焚書
(ふんしよ)と坑儒(こうじゆ)を強行して思想および言論の統制を図った。史官は秦史以外の列国の歴史を焼却処分し、民間が所蔵する詩書諸子百家の類はことごとく守・尉に提出して焼却させた。ただし、医薬・卜筮(ぼくぜい)・農業については除外され、また朝廷の博士はいかなる書籍の所有をも許可された。坑儒とは、諸生が始皇を誹謗し、あるいは妖言をもって民衆を惑わしたという理由により、容疑の方士と諸生とを咸陽において穴埋めにして見せしめにした事実をいう。

 国都の咸陽は渭水が貫流し、渭北には咸陽宮、渭南には興楽宮が設けられ、二宮は渭橋によってつながれていた。咸陽宮が手狭になったので、渭南の上林苑中に朝宮(阿房宮)の造営に着手した。しかし、在世中は前殿のみが完成しただけで、工事は二世皇帝に引き継がれた。宮殿の整備とともに、天下の豪商12万戸を強制移住させて人口を充実させている。また、馳道
(ちどう)を建設して中央と地方とを結ぶ交通を緊密にした。

 即位28年から斉、楚、燕などの故地への巡幸を開始した。まず、山東地方に至り、泰山に登りここで封の儀式を、ふもとの梁父
(りようほ)で禅の儀式を執行した(封禅)。ついで、山東半島をめぐったが、このおりに斉人の方士徐市(じよふつ)(徐福ともいう)から海中にある三神山(楕族、方丈、瀛州(えいしゆう))のことを聞き、徐市に人(仙人)と不死の薬を求めさせた。不老長生を願い、みずからも真人(仙人)を思慕するあまり、しばらくは真人と自称して朕の称号を捨てるほどであった。(えきざん)、泰山、瑯(ろうやだい)、之罘(しふ)、碣石(けつせき)では始皇の功績を石に刻ませている。

 前215‐前214年、〈秦を滅ぼすのは胡である〉という讖緯
(しんい)を誤解して北辺に蒙恬(もうてん)を派遣し、オルドスに占住していた匈奴を漠北に追い払うとともに、燕、趙、秦の旧城をつないで遼海から臨(りんとう)に至る約1500kmに及ぶいわゆる万里の長城を築き、北方民族の侵入に備えた。前214年には陸梁の地を滅ぼして南越三郡(南海、桂林、象)を設置し、コーチシナにまで領土を拡張した。

 前210年、巡幸の途中で病死したが、丞相の李斯と宦官の趙高は内乱の発生を危惧してこれを秘し、詔命と偽って太子の扶蘇と蒙恬を自殺させ、棺を咸陽に運んではじめて喪を発し、驪山
(りざん)に埋葬した。末子の胡亥が二世皇帝として即位したが、始皇以来の法罰至上主義、たび重なる外征および朝宮や陵墓などの土木工事に民衆の反感を招き、山東や楚地を中心に反乱が起こり、始皇の没後わずか4年で秦は滅亡した。
12 万里長城

万里長城(慕田峪長城)
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万里の長城
中国で外敵防御のために築かれた長大な城壁。現存の長城は明代、とくにその後半期に築造されたもので、東は渤海湾岸の山海関から、中国本土の北辺を西に向かい、北京と大同の北方を経て、南流する黄河を越え、陝西省の北端を南西に抜けて再び黄河を渡り、いわゆるシルクロードの北側を北西に走って嘉峪関
(かよくかん)に至る。地図上の総延長約2700km、あるいはそれ以上といわれ、人類史上最大の建造物とされている。この間、北京の北西、八達嶺付近から居庸関を経て、大同の南、雁門関に至る部分は二重に築かれているほか、2700kmのすべてが同じ構造をもつわけではない。もっとも堅固なのは山海関から黄河に至る区間で、長城の外面は焼いて造ったうすねずみ色の瓦でおおわれている。いわゆる(せん)であるが、内部は粘土をつき固めた造り方である。

 八達嶺付近の長城は高さ約9m、幅は上部で約4.5m、底部で9mにおよび、上には鋸歯状の女牆(ひめがき)を設けて銃眼とし、約100mごとに
(とんだい)が置かれている。これに対し、黄河以西の部分はかなり粗雑で、の代りに粘土を型に入れて乾燥させただけの日乾瓦が使われたところが多い。清代に入ってから補修がほとんど行われなかったため、日乾瓦造りの部分は破損がひどく、すでに原形を想像できぬほど崩れた個所もある。

[起源]
 長城の起源は春秋時代に
るが、この語が文献にあらわれるのは戦国時代である。当時の長城は北防に限定されず、いわゆる中原の地に建国した国々も、長城を築いて外敵の侵入に備えた。斉、中山、楚、燕、趙、魏、秦などの諸国である。このうち、燕・趙・秦の3国の北辺の城壁については文献に記載があるだけであったが、近年内モンゴル自治区の赤峰付近で遺址らしきものが見つかったと報告されている。

 前221年、中国を統一した秦の始皇帝は燕や趙のつくった北辺の長城を連結し、さらに西方へと延長して、北方遊牧民族に対する防衛線とした。西方は甘粛の岷県付近を起点とし、黄河の北をまわって趙の長城に合し、その東端を燕の長城につなぎ、赤峰から遼陽付近に至るのが始皇帝の長城であった。前漢時代の長城は、その東部についてはほぼ秦代のままであったが、西方では甘粛の回廊地帯を匈奴の侵攻から守るため、武帝の時代に武威・酒泉の2郡を置き、その北に長城を築いた。のちさらに張掖・敦煌の2郡を設け、これにともなって長城も酒泉から西へ、玉門関にまで延長された。後漢時代になると匈奴の勢力は衰え、中国と争う力を失ったので、長城の補修は行われなかった。

 三国から晋代にかけては、いわゆる五胡の動きが活発となり、大挙して中国に侵入するにいたった。彼らは自由に長城を越えて出入し、内地に定住する者もあらわれた。漢族の晋は長江(揚子江)流域に南遷し、南北朝時代が始まった。華北に入った鮮卑は北魏を建てたが急速に中国化し、外モンゴリアにおこった柔然の侵攻に対抗するため、長城の修築を大がかりに実施した。これは始皇帝時代のものを補強したと考えられている。北魏の領土を受け継いだ北斉と北周も巨費を投じて大規模な築造を行った。この長城は山西省離石県付近から渤海湾岸まで、ほぼ1500kmにわたる規模で、現在の長城線の位置に新たに築かれたものである。かくして、このころから北方の古代の長城、つまり春秋戦国時代にはじまり、漢や北魏の時代に補修されてきた旧長城は放棄され、遺址もわからなくなっていくのである。
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万里長城 (慕田峪長城)

万里長城 (慕田峪長城)
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万里長城の図面

万里長城図面
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改修と変遷 隋は中国統一後、長城の補修につとめるとともに、オルドス南縁に新しい長城を設けている。唐代になると、北方遊牧民族に対する姿勢が積極的かつ攻撃的となったため、長城の補修・新設などのことはなかった。五代以後は長城一帯の地が、遼、金、西夏など異民族の領土となったから、長城はほとんど手を加えられることなく放置された。金代には、以上とは別の長城が築かれている。金はモンゴル高原の東端に住むタタール部の侵入を防ぐため、新たに興安嶺の西側に大規模な長城を築造した。現在のチチハル(斉斉哈爾)の北西、興安嶺を越えたあたりから、南あるいは南西にのび、陰山山脈北側の草原を西に走り、包頭(パオトー)の北方に達していたらしく、その遺址は今も断続的に残っている。元はモンゴリアと中国を統一的に支配したため、長城を必要としなかった。元代の記録に長城のことはまったく見当たらない。何度も長城線を越えたマルコ・ポーロも《東方見聞録》に長城のことは一行も記していない。おそらく建設以来数百年を経、すでに破壊されて、長城の姿をとどめていなかったからであろう。

 現在の長城はほとんどが明代に築かれたものである。明は永楽帝の時代まで、北方民族に対し攻撃的であったが、以後しだいに防御的となり、彼らの侵入を防ぐため、歴代しばしば修築を行った。主として北斉時代の遺址を基礎としたが、地域によってはかなりの部分を新設したところもある。長城の築造はすでに永楽帝時代(1403‐24)に始まっている。まず、山海関から大同にかけての区間が強化され、ついで正統年間(1436‐49)には北京の正面部分が二重となった。さらにオルドス南縁の長城が改修されたが、この部分は隋の長城をもとにしている。しかしモンゴル族の侵寇は防ぎきれず、嘉靖時代(1522‐66)以後、あらためて大がかりな修築を行った。工事は東部から着手され、今日見られるような
造の堅固な長城ができあがった。西方部分は漢代に築かれて以来、ほとんど放棄されたままであったが、オルドス南縁の長城に続けて甘粛に至る部分が築かれ、ついで蘭州から嘉峪関に延長された。こうして今日に残る長城がほぼ完成したのが、16世紀末のことであった。

 明は長城を北防の第一線として膨大な駐屯軍を配備し、区域を分けて防衛を担当させたが、これを九辺鎮と称する。明代には長城を辺牆とよんだが、北辺の辺牆のほかに、遼東辺牆とよばれるものがあり、山海関から東へ進み、遼寧省瀋陽・開原付近に及び、南下して鴨緑江岸に達していた。これは満州民族の侵掠に備えて設けられたものである。清代になると、満州(東北地方)、モンゴリアから新疆に至る地域が中国と統一して支配されたから、長城は軍事的意味を失い、中国本土と満州、モンゴリアを分ける政治的境界にすぎなくなった。このため修理されることもなく、荒れるにまかされて20世紀の前半にいたったが、中華人民共和国成立以後、整備の手が加えられ、山海関や八達嶺は観光地として内外に有名である。

 古い時代の長城はもっぱら版築とよばれる工法で、土でもって築造された。両側に板を塀のように立て、上から土を入れ、杵などでつき固めていく工法である。長城地域の大部分は黄土地帯であり、黄土は乾燥すると非常に固くなる粘土であったから、簡単な工法ではあるが、雨量が少ないこともあって、相当の耐久性をもっていた。黄土を型にはめて乾燥させると日乾
瓦ができ、これを焼くとじょうぶな瓦となる。これがである。で長城の外部を築くようになったのは明代、とくに嘉靖・万暦以後、つまり16世紀後半以後のことであり、地域的には山西以東の区間に限られている。山西以西ではのほか、日乾瓦の部分と版築らしい部分も存在する。一説によると、八達嶺の長城に用いられているの重さは1個あたり20〜30kgであるという。

[軍事・経済的役割]
 長城には一定の間隔をおいて
台が設けられ、道路と交叉するところには門が開かれて守備兵が駐屯していた。このような場所を関(かん)、あるいは口(こう)とよぶが、山海関、古北口、居庸関、独石口、嘉峪関などはとくに有名である。歴史的にみると、万里の長城にはいろいろな意味があった。一般的には、農耕地帯と遊牧地帯をわける境界線であるとか、遊牧民族の侵入を防ぐための設備であるとかいわれているが、最も重要なのは、やはり防衛線としての軍事的意味であった。しかし実際的には、期待されたほどの効果を発揮することなく、北方民族の勢力が強くなると、彼らはどの王朝の時代でも簡単に長城を越えて中国の農耕地帯に侵入し、華北の農村は大きな被害を受けるのが常態であった。

 大同・殺虎口間、張家口付近、独石口、古北口などが、彼らの主要な突破地点であったが、ただ明代の山海関だけは清軍の攻撃に耐え、ついに突破されなかった。つまり長城はほとんど役に立たず、漢人には堅固な防備があるという安心感を与える程度のもの、北方民族に対しては、その巨大な建築構造によって心理的な威圧感を与える程度のものであった。さらに平和な時代には、長城はまったく無用の長物であった。漢人は長城線を越え、商業的利益を求め、あるいは農地を探して北に向かった。遊牧民族も生活必需品の入手を目的に関口をくぐった。長城をはさんでモンゴリアや満州方面との貿易は古くから行われていた。

 小規模なものは長城付近の村落で行われる物々交換であるが、大規模なものは長城内の都市を基地とし、隊商を組んで奥地に入った。明末以降の帰化城のように、長城外にありながら商業都市として繁栄したところもある。清代には政府の意に反して、中国商人とくに山西商人は帰化城からモンゴル高原の奥深くまで足をのばした。長城越えの貿易路としては、熱河(承徳)・満州方面に通ずるものがある。このルートが長城を抜ける地点は、唐以前は古北口であったが、遼代に山海関が開かれてからは2点となった。モンゴリア方面へは大同から北上し、得勝口あたりの関口を通るのが主要ルートであるが、明末からその中継基地となったのが帰化城である。
 
13 蘇州

蘇州
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蘇州 S zhu 中国の江蘇省南東部、上海の西約80kmにある市。省直轄市であり、近郊にある呉県の県政府所在地。人口105万(1994)、うち都市人口69万。古い歴史をもち文化財、景勝の地に富む江南第一の観光都市。特に滄浪亭、獅子林、拙政園、留園等の園林は著名である。また虎丘、霊巌山、宝帯橋等の名勝、寒山寺、報恩寺、玄妙観等の寺も重要な観光地である。これらの文化遺跡やすぐれた工芸品の産出地として、日本においても古くからよく知られている。

江南の中心]
  長江(揚子江)デルタの後背湿地にあり、西は太湖に面し、他の三方は多くの湖沼をもつ低湿地で、大小の水路が縦横に走る水郷景観を呈する。豊富な水利と温暖な気候は、稲作に好適で、新石器時代から平野中に点在する丘陵や微高地によって、集落の形成がかなりすすめられていた。北方の中原文化の影響も早く伝わり、太湖周辺の小台地から発見される湖熟文化には、明らかに殷文化の影響がみられる。殷の末年、周の太王の子、泰伯・仲雍がこの地に亡命して〈句呉〉の国をたてたという伝承も、この関係の一端を示すものであろう。呉国の中心は当初梅里(現、無錫
(むしやく))にあったが、やがてよりデルタの先端近くに移され、春秋時代、呉王闔閭(こうりよ)のとき、伍子胥(ごししよ)の助力を得て、国土の整備をすすめ、周囲47里といわれる大きな都城を建設した。これが今の蘇州の基礎となる。ここは長江デルタ全体を統轄し、かつ北方の斉、西方の楚、南方の越に対して等しく水陸両道が通じており、勢力を拡張するのに最もよい位置であった。闔閭より次の夫差にかけて、呉は越を臣服させ、北上して斉を攻撃するなど、江南の覇者として活躍するのも、この位置を占めたためであろう。

 秦の統一がなると、江南は会稽郡の地とされ、郡治は呉に置かれた。秦末に反乱を起こした項梁、項羽は、この中原から離れた辺地でまず烽火をあげたが、以後も北方の中央に対して基本的に反抗する性格を有しつづける。前漢には会稽郡の西部は丹陽郡となり、さらに後漢になると浙江以東を会稽郡、以西を呉郡として、呉は長江下流域の太湖周辺、江南で最も肥沃な土地の中心としての地位を確立した。三国・南北朝時代には、江南全域では、やや内陸にあって地勢的にすぐれた要衝を占める建業(建康、のちの南京)が中心となり、呉はそれに及ばなかったが、隋代、これまでにも部分的に開かれてきた運河が、全面的に修築整備され、南北を結んで全通すると、江南の中心は運河に沿う蘇州、あるいは潤州(鎮江)や揚州へ移った。呉郡の名も、姑蘇山にちなんで蘇州に改められた。唐代には疆域の変遷がしばしばあったが、江南東道、浙江西道節度使などの治所として、蘇州は最も安定した中心都市であり続けた。城郭内も含め、呉県の東部を析して長洲県が置かれたのも、都市内の充実がすすんだことを示している。

 五代には呉越国の北部における中心として、中呉府、のちに中呉軍節度が置かれ、比較的安定した状況の下で水利の整備、城郭の拡張がおこなわれた。園林の造築もこのころから始まる。宋代には平江軍と改められ、北宋末、府に昇格した。このあとすぐに金の侵入を受けるが、南宋には再興し、国都杭州と並んで繁栄する。蘇州はすでに政治的中心力を持たなくても十分に繁栄できる基礎的経済力を最も堅固に身につけた都市に成長していた。元末、張士誠がよるに至ったのも、この基盤があったからである。朱元璋が明を建てて江南を平定すると、平江府は蘇州府に改められ南京に直隷した。しかし宋・元代に杭州に対したと同じく、明・清代にも南京をしのいで、経済文化上の中心性を保持したが、太平天国の乱に至り、江南の中心としての地位を上海に譲った。
14 蘇州・水郷

蘇州・水郷
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産業と文化の都市  蘇州周辺における水利整備は、春秋時代にはじまるとされるが、大規模な開発は南北朝時代にはじまり、江南運河が開かれ全国の穀倉地帯として江南が位置づけられた隋・唐以降は、水利開発は国家の重要事業となった。唐代には常熟、元和などの灌漑・通運を兼ねた水路が開かれたことが知られ、これより五代にかけて現在みられるような水郷景観が、ほぼ形成されたと考えられる。また水稲ばかりでなく、北方の桑園が破壊されたことで、江南でも桑の栽培がすすめられ養蚕が急速に広まった。生産される絹糸絹布は、国内ばかりか運河によって来航する外国の商人のあがなうところとなり、蘇州の経済力は飛躍的に高まった。これとともに唐代には韋応物、白居易、劉禹錫、皮日休等が相次いで行政官として駐在し、文化水準を高めた。のちの滄浪亭をはじめとする園林、寺院の建築もすすみ、都市文化が形成されはじめたといえよう。〈上に天堂(天国)有り、下に蘇杭(蘇州と杭州)有り〉といわれはじめたのもこのころである。

 宋代における都市の充実ぶりは、南宋の紹定2年(1229)刻とされる《平江図》によってうかがえる。城内には縦横に水路と道路が走り、そこにかかる橋梁は350余を数え、市民の居住する坊
の間には、多くの官署や寺が建ち並ぶほか、商店街、手工業者の同業者町が形成され、飲食、技芸など消費生活も発達していた。元初にここを訪れたマルコ・ポーロも、同様の記述を残している。このころからワタの栽培もはじまり、全国的に需要が拡大してゆくなかで、新しい有力な産業となった。さらに明代にはこれら繊維製品の染色加工業がおこり、これらの産業に従事する都市人口は、周辺の農村、他郷からの流入で増加する一方であった。同時にこれらの商品を取り扱う商人も、安・浙江等から集まり、商業・金融業が著しく発達し、巨万の富を蓄える豪商が軒をつらねた。明の万暦年間(1573‐1619)ごろはその頂点といわれ、蘇州一府の租税納入額は、浙江一省に匹敵し、全国の1/10を占めた。

 このような経済力は、また蘇州文化ともいうべき著しい特色をもった文化を発達させた。元末の張士誠は、異民族支配に抗して漢民族の伝統文化を保持するため、天下の文化人を蘇州に招いていた。それは朱元璋の恐れるところとなり、明初には強い弾圧を受けたが、北方の官僚主義に対する反感と軽侮を基調とする気風は維持された。〈呉中四才子〉と呼ばれる祝允明・唐寅・文徴明・徐禎
を中心とし、文学や絵画はもちろん、生活態度を通じて、このような気風は一つの近世的都市文化をつくりあげた。これが政治的にも意味をもつ一つの運動となったのが、明末の復社である。しかしこれはそれに先行する東林党とは性格を異にし、あくまでも文化運動として始められたものであった。ここに蘇州文化の斬新さと、中国社会における限界があろう。

[蘇州より上海へ]
  明末・清初の混乱期を終えると、再び商工業は盛んになったが、乾隆(1736‐95)中期より絹布の輸出が停滞し、綿布も広東に新しく生産地が生まれ、蘇州の経済は深刻な打撃を受けた。また1823年(道光3)の大洪水は、以後の農業不振をもたらし、都市全体が不景気の不安に沈んだ。これは文化の退廃をもたらし、さらに太平天国の乱が江南に及び、南京が陥落すると、蘇州の資本は大部分が新興の都市上海へ保護を求めて移動してしまった。1896年(光緒22)、日清戦争後の下関条約で日本は蘇州を開市せしめ、租界を設けたが、往年の活気の失われた都市では特に繁栄もみられなかった。

 過去の文化遺産をみるだけで、常に新しいものを吸収し、生みだしてゆく文化力は、上海に移って再生した。解放後、蘇州でも工業化がはかられているが、軽工業部門と伝統的手工芸を主とする体質に大きな変化はなく、大運河を経済の動脈として再利用しようという計画もすすんでいない。工業中心は上海に移ったのはもちろん、西隣の無錫が近代になって発達し、蘇州はいずれの面でもたち遅れたことは否めない。しかし伝統的文化を保持した美しい水の都として貴重な存在である。同じ水の都、イタリアのベネチアとは友好都市になっている。
  
15 蘇州・拙政園

蘇州・拙政園
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蘇州河 S zhu h 中国、長江(揚子江)下流の支流の一つ。江蘇省蘇州の南、太湖瓜口から上海市に至り黄浦口に合す。呉淞(ウースン)江ともいう。今の呉淞口は、かつて蘇州河の河口であった。蘇州河の前身の松江は太湖からの主要な流出路であったが、泥がたまってつまったため新しく黄浦江が開削され、排水の主流はそちらに移った。

 しかし太湖と上海を結ぶ重要な水路であり、船舶の交通は多い。黄浦江との合流地点付近は、上海の中心で、外白渡橋(旧名ガーデン・ブリッジ)がかかり、河岸にある黄浦公園は市民の遊覧地である。流域は中国でも最も人口密度の高い地域で、水質汚染も大きな問題となっている。
16 上海

上海
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上海  Shng h 中国、中央直轄市の一つ。長江(揚子江)デルタの先端、黄浦江を少しさかのぼった左岸に中心がある。

 
市域は、北は崇明島を含み、南は杭州湾口に達し、西は太湖周辺の湖沼地帯で江蘇省、浙江省と接する。面積6340.5
ku。黄浦区、南市区、浦東新区ほか計14の区(面積2057ku)と、南、奉賢、松江、金山、青浦、崇明の6県(面積4283.5km2)を管轄する。人口1304万(1996)。太湖平原の一部をなし、ほとんど平坦な沖積平野で、縦横に水路(クリーク)の走る水郷景観を呈するが、微地形的にみると古い海岸線や旧河道沿いに微高地があり、特に市の西方を北西〜南東に走る砂丘列(崗身)は、沖積世海進期の海岸線を示すもので規模が大きい。

 土地利用、集落立地、水路の走り方も、これらの微地形に左右されるところが大きい。上海はこのデルタの成育とともに発展した都市で、地域中心として歴史に姿を現すのは宋代になってからである。地域の開発が、内陸の中心として、また内陸諸地域と結びついているだけでなく、外洋を通じて別の世界との結びつきによって引き起こされるようになると、長江の河口にあって、長江、大運河を通じて華中・華北の主要部と、外洋を通じて南海、西洋と結びつくこの位置は、新しい中心となるのに最適で、中国南部のみならず、中国全体の経済的中心となった。
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