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「府の大寺」といわれた太宰府清水山観世音寺は、中大兄皇子(なかの・おおえの・おおじ)(天智(てんじ)天皇)が母・斉明(さいめい)天皇の菩提を弔うために発願した寺院。斉明天皇は、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済を助けるために九州に下ったが、661年、朝倉橘広庭宮(あさくらの・たちばなの・ひろにわのみや)(朝倉市)で亡くなった。 |
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観世音寺 |
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約80年の歳月を費やして聖武天皇天平18年(746)に完成した観世音寺は、政庁の隣に方三町(324m四方)の寺域を持ち、講堂、金堂、五重塔など、七堂伽藍(しちどう・がらん)の整った大寺院だったという。761年には日本に三箇所しかない戒壇院(かいだんいん)が置かれ、九州の僧尼(そうに)たちに戒律を授けることができる唯一の寺院として栄えた。 |
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平安時代になって、再三の台風や火災のために創建当時の諸堂はことごとく消失、その後再建されたが、元のような規模には戻らなかったという。 |
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日本最古の梵鐘(国宝) |
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日本最古の梵鐘とされる観世音寺の梵鐘(国宝)は、京都・妙心寺の鐘と兄弟鐘といわれている。妙心寺の鐘は、その銘によって698年に鋳造されたことが明らかになっている。二つの鐘は全体の形、大きさ、撞座(つきざ)の紋様がほぼ同じであるが、上下の唐草模様や龍頭(りゅうず)の形から観世音寺の鐘の方が古いとされている。 |
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観世音寺宝蔵 |
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1587年、島津氏を討って名実共に天下人(てんかびと)となった豊臣秀吉は、その帰りに太宰府に立ち寄り、観世音寺の日吉神社に陣を張った。ところが観世音寺の別当(べっとう)は、世の中の動きに疎(うと)く、秀吉が天下人になったことを知らなかったので、輿に乗ったまま対応してしまったため、秀吉の怒りを買い、観世音寺の寺領を没収されてしまった。その後、側近らのとりなしで元の寺領にもどったが、九州一の名刹であった観世音寺は、江戸時代に復興されるまで、著しく衰退してしまったという。 |
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観世音寺の秋桜と宝蔵 |
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観世音寺には鉄筋コンクリート造りの大きな宝蔵があり、「府の大寺」にふさわしい立派な仏像が多数残っていることでも知られる。もとは金堂や講堂などに安置されていたもので、平安時代から鎌倉時代に制作された仏像18躯(く)、石造・狛犬(こまいぬ)、舞楽面など、全てが国の重要文化財に指定されている。樟(くすのき)で作られたものが多いのも九州の特色だという。 |
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この観音は三眼八臂(さんがんはっぴ)(三つの眼と8本の腕)で、頭上に11面をいただくという特色あるもので、左の垂下した手に持つ羂索(けんじゃく)(縄)で、迷える人々をすべて救ってくれる観音である。もともと講堂に安置されていたもので、江戸時代に暴風雨が講堂を襲ったときも損傷せず、現在に至っているという。 |
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不空羂索 |
観音像 貞王元年(1222) 樟材 像高:丈六(1丈6尺 517cm) 国の重要文化財 |
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資料 |
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舞楽(ぶがく)は平安時代に隆盛した。観世音寺の延喜(えんぎ)5年(905)の資財帳には伎楽(ぎがく)や舞楽に関する調度品の記録が多数残っており、外国使節への饗宴などに使用されたとみられる。この当時の遺品は現存せず、現在のものはやや年代の下るものという。 |
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宝蔵に残る陵王と納曽利は舞楽の中で最もポピュラーなものとされており、一対で演じられることが多い。いずれも鎌倉時代の作で国の重要文化財に指定されている。 |
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資料 |
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この十一面観音立像は、不空羂索観音像に続いて復興されたもので、11世紀中頃に造られた最初の像の損傷が激しく、仁治3年(1242)に造られたものという。 |
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十一面観音立像じゅういちめんかんのんりゅうぞう |
(新十一面) 仁治3年(1242) 像高303cm 木造 国の重要文化財 |
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資料 |
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奈良時代、仏教は国家仏教として発展した。僧尼(そうに)は戒檀院で戒(かい)を受けなければ正式の僧尼と認められず、高僧にもなることはできなかった。その戒壇は、奈良の東大寺、太宰府の観世音寺、下野(しもつけ)(栃木県)の薬師寺の三箇所しかなかった。 |
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戒檀院全景 |
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観世音寺は、戒壇院を持つことで、西海道(さいかいどう)(九州)の全ての僧尼や寺院を管轄下に置き、名実ともに「府の大寺」として君臨した。戒壇院は、中世には廃れたが、江戸時代に再建され、観世音寺から分離独立して禅寺となった。 |
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戒檀院 |
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私一人が乗客の西鉄観光バス。5分や10分の遅刻は大丈夫ということで、ゆっくりと取材することができた。(^^ |
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筆者の借り切りとなった西鉄観光バス |
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