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和田義男

 旅紀行ジャパン

2008年1月2日改訂

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♪巡礼 KasedaMusicLabo

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天高し畑の中の戒壇院  北舟

2007年12月27日制作

戒檀院全景

戒檀院全景(福岡県太宰府市)

太宰府秋の旅

戒檀院

戒檀院 天満宮 御神牛 和田義男
 

はじめに

   平成19年(2007)11月21日(水)、JR博多駅前の博多駅交通センターから西鉄定期観光バスに乗り、「太宰府(だざいふ)半日コース」に参加した。この日はウィークデーで、乗客は私一人。バスガイドも運転手も愛想良く、うち解けた雰囲気で楽しく観光することができた。

西鉄バスの美人ガイド・若林さん

西鉄バスの美人ガイド・若林さん

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太宰府だざいふ

 北部九州は地理的に東アジア世界に最も近く、古くから交易で栄えてきたが、7世紀になると国防上の必要性から太宰府に太宰府政庁が置かれ、軍事・外交の重要拠点となった。
 現在、7万弱の人口を擁する太宰府市は、太宰府天満宮をはじめ、豊富な観光資源に恵まれた観光都市として発展し、平成18年度には732万人もの観光客が訪れたという。

太宰府衛星画像

マウスカーソルで画面のどこかをポイントすると説明が現れます。

太宰府衛星画像

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太宰府政庁だざいふせいちょう

   7世紀、朝鮮半島には、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)の三国があった。660年、倭国(わのくに)(日本)は、唐・新羅に滅ぼされた百済のために救援軍を派遣したが、663年、百済の首都・扶余(ぷよ)の西方・白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗した。
   この危機に対し、「凡(およ)そ政(まつりごと)の要(かなめ)は軍事なり」として、「賊(あだ)守る鎮(おさ)への城(き)」として、太宰府に水城(みずき)、大野城(おおのじょう)、基肄城(きいじょう)が築かれ、太宰府政庁は、国防上の重要拠点となった。

史跡・太宰府(政庁)跡

史跡・太宰府(政庁)跡

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水城みずき

防人さきもり

 日本書紀に「筑紫(ちくし)に大堤(おおづつみ)を築(きづき)て水を貯(たくわ)え名づけて水城(みずき)という」と記されているとおり、664年、太宰府の防衛施設の一環として水城が築かれた。水城は、高さ約10mの堤防と、その外側に幅60mほどの外濠(そとぼり)を設けて、外敵が太宰府へ侵入することを阻止するもので、万里長城(ばんりのちょうじょう)の日本版である。
 また、同年、対馬(つしま)、壱岐(いき)、筑紫(つくし)に防人(さきもり)が置かれた。主に東国(関東・中部地方)から徴集された兵士たちで、「万葉集 巻二十 防人の歌」には防人の悲しい歌が沢山のせられている。
   「韓衣(からころも) 裾(すそ)にとりつき 泣く子らを 置きてぞ来(き)ぬや 母(おも)なしにして」 他田舎人(おさだのとねり)(信濃国) 訳:着物のすそにとりすがって泣く子供たちを置いて、私は防人として遠い九州まで来た。子供たちには母親もいないのに・・・。  

水城みずき

○○堤跡

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学校院がっこういん

 
 学校院は、太宰府政庁や九州各地の官吏(かんり)(役人)を養成する府学校があったところ。当時の教育機関は、中央に大学(だいがく)、地方には国ごとに国学(こくがく)が置かれていたが、太宰府だけは府学校が置かれて、筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後の九州六国から約200人の学生が学んでいたという。

学校院跡

学校院跡

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太宰府

観世音寺かんぜおんじ

 
 「府の大寺」といわれた太宰府清水山観世音寺は、中大兄皇子(なかの・おおえの・おおじ)(天智(てんじ)天皇)が母・斉明(さいめい)天皇の菩提を弔うために発願した寺院。斉明天皇は、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済を助けるために九州に下ったが、661年、朝倉橘広庭宮(あさくらの・たちばなの・ひろにわのみや)(朝倉市)で亡くなった。

観世音寺

観世音寺

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 約80年の歳月を費やして聖武天皇天平18年(746)に完成した観世音寺は、政庁の隣に方三町(324m四方)の寺域を持ち、講堂、金堂、五重塔など、七堂伽藍(しちどう・がらん)の整った大寺院だったという。761年には日本に三箇所しかない戒壇院(かいだんいん)が置かれ、九州の僧尼(そうに)たちに戒律を授けることができる唯一の寺院として栄えた。
 平安時代になって、再三の台風や火災のために創建当時の諸堂はことごとく消失、その後再建されたが、元のような規模には戻らなかったという。

日本最古の梵鐘(国宝)

日本最古の梵鐘(国宝)

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日本最古の梵鐘

 
 日本最古の梵鐘とされる観世音寺の梵鐘(国宝)は、京都・妙心寺の鐘と兄弟鐘といわれている。妙心寺の鐘は、その銘によって698年に鋳造されたことが明らかになっている。二つの鐘は全体の形、大きさ、撞座(つきざ)の紋様がほぼ同じであるが、上下の唐草模様や龍頭(りゅうず)の形から観世音寺の鐘の方が古いとされている。

観世音寺宝蔵

観世音寺宝蔵

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秀吉と観世音寺

 
 1587年、島津氏を討って名実共に天下人(てんかびと)となった豊臣秀吉は、その帰りに太宰府に立ち寄り、観世音寺の日吉神社に陣を張った。ところが観世音寺の別当(べっとう)は、世の中の動きに疎(うと)く、秀吉が天下人になったことを知らなかったので、輿に乗ったまま対応してしまったため、秀吉の怒りを買い、観世音寺の寺領を没収されてしまった。その後、側近らのとりなしで元の寺領にもどったが、九州一の名刹であった観世音寺は、江戸時代に復興されるまで、著しく衰退してしまったという。

観世音寺の秋桜と宝蔵

観世音寺の秋桜と宝蔵

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 観世音秋桜揺るる散歩道  北舟 

かんぜおん しゅうおうゆるる さんぽみち

 

宝蔵ほうぞう

の仏像
 
 観世音寺には鉄筋コンクリート造りの大きな宝蔵があり、「府の大寺」にふさわしい立派な仏像が多数残っていることでも知られる。もとは金堂や講堂などに安置されていたもので、平安時代から鎌倉時代に制作された仏像18躯(く)、石造・狛犬(こまいぬ)、舞楽面など、全てが国の重要文化財に指定されている。樟(くすのき)で作られたものが多いのも九州の特色だという。
 

 
 

不空羂索ふくうけんじゃく

観音像
 
   この観音は三眼八臂(さんがんはっぴ)(三つの眼と8本の腕)で、頭上に11面をいただくという特色あるもので、左の垂下した手に持つ羂索(けんじゃく)(縄)で、迷える人々をすべて救ってくれる観音である。もともと講堂に安置されていたもので、江戸時代に暴風雨が講堂を襲ったときも損傷せず、現在に至っているという。  

不空羂索ふくうけんじゃく

観音像 貞王元年(1222) 樟材 像高:丈六(1丈6尺 517cm) 国の重要文化財 
不空羂索観音像

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資料

 

舞楽面ぶがくめん

 
 舞楽(ぶがく)は平安時代に隆盛した。観世音寺の延喜(えんぎ)5年(905)の資財帳には伎楽(ぎがく)や舞楽に関する調度品の記録が多数残っており、外国使節への饗宴などに使用されたとみられる。この当時の遺品は現存せず、現在のものはやや年代の下るものという。
   宝蔵に残る陵王と納曽利は舞楽の中で最もポピュラーなものとされており、一対で演じられることが多い。いずれも鎌倉時代の作で国の重要文化財に指定されている。  

陵王りょうおう

 鎌倉時代 国の重要文化財 
 

納曽利のそり

陵王 鎌倉時代 国の重要文化財   納曽利
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資料

 

十一面観音立像じゅういちめんかんのんりゅうぞう

(新十一面)
 
 この十一面観音立像は、不空羂索観音像に続いて復興されたもので、11世紀中頃に造られた最初の像の損傷が激しく、仁治3年(1242)に造られたものという。

十一面観音立像じゅういちめんかんのんりゅうぞう

(新十一面) 仁治3年(1242) 像高303cm  木造 国の重要文化財 
十一面観音立像

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資料

 

戒檀院かいだんいん

   奈良時代、仏教は国家仏教として発展した。僧尼(そうに)は戒檀院で戒(かい)を受けなければ正式の僧尼と認められず、高僧にもなることはできなかった。その戒壇は、奈良の東大寺、太宰府の観世音寺、下野(しもつけ)(栃木県)の薬師寺の三箇所しかなかった。

戒檀院全景

戒檀院全景

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  天高し畑の中の戒壇院   北 舟 

てんたかし はたけのなかの かいだんいん

   観世音寺は、戒壇院を持つことで、西海道(さいかいどう)(九州)の全ての僧尼や寺院を管轄下に置き、名実ともに「府の大寺」として君臨した。戒壇院は、中世には廃れたが、江戸時代に再建され、観世音寺から分離独立して禅寺となった。

戒檀院

戒檀院

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   私一人が乗客の西鉄観光バス。5分や10分の遅刻は大丈夫ということで、ゆっくりと取材することができた。(^^

筆者の借り切りとなった西鉄観光バス

筆者の借り切りとなった西鉄観光バス

戒檀院 天満宮 御神牛 和田義男
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