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和田義男

 旅紀行ジャパン

2007年12月28日改訂

今 日

昨 日

♪和楽器メドレー

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太宰府や水面に深む秋の空  北舟

2007年12月27日制作

心字池にかかる太鼓橋

心字池にかかる太鼓橋(太宰府天満宮/福岡県太宰府市)

太宰府秋の旅

天満宮

戒檀院 天満宮 御神牛 和田義男
 

太宰府天満宮だざいふてんまんぐう

   観世音寺の見学のあと、バスは西鉄太宰府駅前の参道入口にある駐車場に止まった。地元・定期観光バスの特権で、参道に一番近い場所だと、運転手が自慢していた。ここでバスを降り、バスガイドの引率で太宰府天満宮にお参りした。

天満宮の参道

天満宮の参道

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   福岡県太宰府市の北部に鎮座する太宰府天満宮は、天神様(てんじんさま)と愛称される祭神・菅原道真(すがわらみちざね)が死亡した延喜(えんぎ)3年(903)に菅聖廟安楽寺天満宮(かんせいびょう・あんらくじ・てんまんぐう)として創建された神社である。初詣(はつもうで)には、九州はもとより全国から毎年200万人以上の参詣者があるという。

太宰府天満宮由緒

太宰府天満宮由緒

 

江戸時代の天満宮

   江戸時代の天満宮境内絵図には、広大な敷地に東に向かう参道が二本あり、九重塔や五重塔をはじめ多くの社殿が建ち並ぶ様子が描かれている。神道のお宮に仏教の五重塔があるのは、神仏習合のあらわれである。土産店が立ち並ぶ現在の参道は、この絵図の南(下)側と思われる。

天満宮境内絵図 泊與一筆 江戸時代

天満宮境内絵図 泊與一筆 江戸時代

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資料
   学問の神様として知られる菅公(かんこう)・菅原道真は、延喜元年(901)に藤原時平らの陰謀によって筑前国(ちくぜんのくに)の大宰府に太宰権帥(だざいのごんすい)として左遷させられ、延喜3年(903)2月25日に死去した。

心字池しんじいけ

にかかる太鼓橋

心字池にかかる太鼓橋

パノラマ写真(2000X970)524KB

 太宰府や水面に深む秋の空  北 舟

だざいふや みずもにふかむ あきのそら

天然記念物の楠の大木と太鼓橋

天然記念物の楠の大木と太鼓橋

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   道真の遺骸を都まで送ろうとしたが、大宰府から外れた所で牛車(ぎっしゃ)を曳いていた牛が動かなくなったためそこに留まりたいという死者の遺志によるものと考え、牛が止まった場所に墓が作られ、延喜5年(905)には墓所に廟(みたまや/おたまや)が建てられた。  
過去・現在・未来をあらわす三段橋の「

御神橋ごしんきょう

過去・現在・未来をあらわす三段橋の「御神橋」

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   天満宮が作成した前出の「太宰府天満宮由緒」によると、鎮座は道真が死亡した延喜3年(903)2月25日としている。しかし、死亡した場所はこの地ではないし、この地に埋葬されたのも何日か後であり、廟が建てられたのは延喜5年(905)のことである。矛盾しているが、天満宮は死亡日に天神様が鎮座したと考えることにしたのだろう。

平橋から楼門を臨む

平橋から楼門を臨む

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道真みちざね

たた

 
 菅原道真の没後、京の都では疫病や異常気象など不吉な事が続いたため「道真の祟り」と恐れられた。これを鎮(しず)めるため、延喜19年(919)に道真の墓所の上に社殿が建立された。これが太宰府天満宮の実質的な始まりである。京には北野天満宮が造られた。

楠の大木と楼門

楠の大木と楼門

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天神てんじん

信仰
   御霊信仰(ごりょうしんこう)の代表的事例である天神信仰は、菅原道真を「天神」として祀る信仰である。道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が続き、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貴が亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになった。
プールのように広い

手水舎ちょうずや

プールのように広い手水舎

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天神てんじん

人形
   江戸時代には、全国的に天神信仰が広がり、各地で天神様をかたどった人形が作られ、天神人形と呼ばれるようになり、正月や端午の節句などに、子供の成長や学問成就を願って飾られる風習が生まれた。
江戸時代から近代にかけて作られた

天神てんじん

人形

江戸時代から近代にかけて作られた天神人形

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資料
 

とお

りゃんせ
   「通りゃんせ」(作詞:不詳 編・作曲:本居長世)は、江戸時代に成立したと見られるわらべうたとして知られるが、天神信仰が子供たちにまで広がっていることが伺える。しかし、歌詞の内容が恐ろしく、色々な解釈がある。
 
  ♪ 通とおりゃんせ

クリックすると音楽が聞けます。

 
 
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
通りゃんせ 通りゃんせ
ここは冥府(めいふ=地獄)の細道じゃ
鬼神様の細道じゃ
ちっと通して下しゃんせ
(にえ=供物)のないもの通しゃせぬ
この子の七つの弔(とむら)いに
供養を頼みに参ります
生きはよいよい 還りはこわい
こわいながらも
とおりゃんせ とおりゃんせ

楼門の神燈

楼門の神燈

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   天満宮の「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことが由来だという。

太宰府天満宮の本殿

太宰府天満宮の本殿

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 現在、太宰府天満宮は、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社であり、また菅公の御霊廟として、篤く信仰されている。

拝殿の参拝客

拝殿の参拝客

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学問の神様
   道真が生前優れた学者であったため、道真の御霊に対する恐れも少なくなってきた中世ごろから、学問の神として信仰されるようになった。春の受験シーズンともなると、合格祈願のために受験生やその家族たちが参拝し、絵馬や御守りを求める姿が見られる。

菅公の墓の上に建つ本殿

菅公の墓の上に建つ本殿

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   明治4年(1871)、近代社格制度のもとで太宰府天満宮は国幣小社に列格されると共に、神社名を「太宰府神社」に変更した。これは国家神道(こっか・しんとう)を推し進める明治政府の政策で、「宮」が基本的には皇族を祭神とする神社しか使用できなくなったためである。
  なお、「神社」という社号は、明治政府が発明したもので、それまでは存在しなかった。また、「神前結婚式」も明治政府が臣民(国民)を国家神道に組み入れるために考え出した新しい儀式である。
   太宰府神社となった太宰府天満宮は、1881年には官幣小社に昇格、次いで1895年には官幣中社に昇格した。

お祓いをして頂いた神職と   撮影:ガイドの若林さん

お祓いをして頂いた神職と

 先の大戦で敗戦を迎えると、新政府による政教分離や民主主義政策が推進され、国家神道は終焉(しゅうえん)
天皇は現人神(あらひとがみ)から象徴となった。昭和22年(1947)、太宰府神社は、社号を太宰府天満宮に復し、現在に至っている

本殿裏手に奉納された大量の絵馬

本殿裏手に奉納された大量の絵馬

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戒檀院 天満宮 御神牛 和田義男
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