2001年11月23日、家内とともに比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に行った。往きはJR京都駅前から57系統のバスで延暦寺バスセンターまで1時間余り。帰りは比叡山山頂から叡山ロープウェイとケーブルカーを乗り継いで八瀬(やせ)まで下った。 |
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延暦寺 |
延暦寺は天台宗の総本山で、標高848m、東山三十六峰の北端に当たる比叡山の山頂から東側斜面にかけて、かつては三塔十六谷三千坊といわれた大寺である。山号は比叡山。延暦寺という名の建物はない。 |
開祖は、伝教大師(でんぎょうだいし)と呼ばれる最澄(さいちょう)で、約1200年前の788年(延暦7年)、京の東北に位置する比叡山に自ら刻した薬師如来を安置した小堂・一乗止観院(いちじょうしかんいん)を営み、比叡山寺と名付けた。 |
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不動明王二童子像
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延暦寺の名前は年号を寺名としたもので、823年(弘仁14年)に嵯峨天皇よりその名を勅賜(ちょくし)された。
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その後
最澄は唐に渡り修行して1年後に帰国、天台宗を開き、一乗止観院を根本中堂(こんぽんちゅうどう)と改めた。
これが天台宗の本堂になり、中枢伽藍となった。
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延暦寺最古の千手観音 |
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805年、桓武天皇(かんむてんのう)の勅願により、平安京の鬼門 (東北の方向)
を守る鎮護国家の祈祷(きとう)道場として規模も整えられ、繁栄した。 |
最澄以後比叡山で多くの名僧が修行し、鎌倉新仏教の祖師といわれる浄土宗の法然(ほうねん)、浄土真宗の親鸞(しんらん)、禅宗の栄西(えいさい)・道元(どうげん)、日蓮宗の日蓮(にちれん)など日本仏教を代表する高僧・名僧を多数輩出した。 |
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波乱の歴史
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しかし、この間、南都(奈良)・北嶺(比叡山)の争い、山門派(延暦寺)・寺門派(園城寺)の争いなど僧兵の激しい争いが繰り返され、堂塔も焼失したが、その都度復興した。
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戦国時代には、比叡山が越前朝倉氏に荷担したため、1571年(元亀げんき2年)、織田信長の叡山焼き討ちが行われて全山が焼亡し、数千人の僧徒が殺戮される歴史的大事件があった。
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しかし、その後、豊臣秀吉や徳川家康によって延暦寺は復興。
特に家康のブレーンであった天海僧正は、天台座主として本格復興と天台寺院の拡大に大きな力を尽くした。
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近くは明治の廃仏毀釈があるが、その波にも飲み込まれることなく、伝統を守り続けて来た。
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一宗を越えたその普遍的な存在ゆえに世界宗教サミットの会場にも選ばれ、1994年(平成6年)には、古都京都の文化財を保有する地域の一つとして世界文化遺産に指定された。
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広大な寺域
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近江、山城二国にわたる広大な山上の寺域は、三塔(東塔
とうどう、西塔 さいとう、横川
よかわ)十六谷に分かれる。東塔(とうどう)は、東・西・南・北・無動寺の5谷より成り、最も早く開かれた寺域で、一山の本堂である根本中堂をはじめ、大講堂、戒壇院、文殊楼、総持院、浄土院(最澄の妓所)、無動寺等がある。
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西塔(さいとう)は、東・北・南・北尾・南尾の5谷より成り、834年(承和1年)円澄(えんちょう)が西塔院を開創したことに始まる。釈梼堂を中心に、相輪娯(そうりんとう)、法華堂・常行堂の2堂(にない堂)、宝幢院(ほうどういん)等がある。
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横川(よかわ)は、般若・解脱・兜率(とそつ)・樺尾(かぼう)・戒心・飯室(いいむろ)の6谷より成り、829年(天長6年)、円仁(えんにん)が首楞厳院(しゅりようごんいん)を開いたことに始まり、横川中堂(首楞厳院)、四季講堂、恵心院等がある。
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これらの堂舎は、寛永期もしくはそれ以後の再建で、もと三千と号した坊舎も、今は百を数えるに過ぎない。
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古来、山僧の多くは山上に住まず、東西坂本と洛中に里坊(さとぼう)を有したが、今では主として東坂本(大津市坂本)に集住し、ここには最澄生誕地と伝える生源寺、座主の住坊である滋賀院門跡をはじめ多くの住院がある。
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東 塔
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延暦寺バスセンターの奥に東塔(とうどう)への入口がある。境内に入るとすぐ左に国宝殿がある。中に入ってみると、殆どの展示物が重要文化財で国宝の展示は少ない。 |
国宝殿を出ると、参道の両側に比叡山が生んだ名僧の絵や伝教大師の生い立ちを説明したボードが並んでいる。 |
このなだらかな登り坂の突き当たりに「照千一隅此則国寶(一隅を照らす、これ国宝なり) 」の石塔が建っている。 この
「一隅を照らす」
は最澄の聖語として、各地の天台寺院で必ず目にするものである。
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