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慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの後、合戦の功労によって豊前・豊後(ぶぜん・ぶんご)の大名として入国した細川忠興は、豊富な川の水を取り入れた外濠の周囲8kmの内側を城郭とする大規模な小倉城を築城した。 |
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外濠は、現在も満々と水を湛え、睡蓮が美しい花を咲かせ、当時の面影を偲ぶことができる。 |
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睡蓮の咲く外濠 |
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細川忠興は小倉城の築城を終えると、領内の総鎮守として、元和3年(1617)、祇園社(現在の八坂神社)を創建した。社伝によると、城外に鷹狩りに出掛けた忠興公が小さな祇園社の祠にある御神体を見ようと杖でこじ開けようとしたところ、中から鷹(たか)が飛び出し、忠興公の目を蹴ったという。 |
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満々と水を湛える外濠 |
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失明同然になった忠興公は神罰だと深く反省し、荘厳な社殿を建てたところ、目が快癒したと伝えられている。 |
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北の丸跡の八坂神社 |
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以後、祗園社は小倉城下の人々の信仰を集め、京都の祇園祭を取り入れた小倉祇園祭が盛大に執り行われるようになった。明治になって社名が八坂神社に変わり、昭和9年(1934)、現在の北の丸跡(小倉北区城内2-2)に社殿が移された。 八坂神社ホームページ |
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八坂神社の楼門 |
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細川忠興は愛宕山の祇園社を南殿に、古船場町の祇園社を北殿とし、一つの大きな神社を造ったため、北の丸跡に移った八坂神社の本殿は一つであるが、中では二つの祇園様が祀られており、とても珍しい様式という。 |
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小倉祇園祭は、380余年の歴史を誇る八坂神社の夏祭りである。江戸時代には、廻り祇園(山鉾巡行)と呼ばれ、城下の各町内が趣向を凝らした飾り山鉾(山車)を出し、踊り子の舞台をしつらえ、三味線・鉦・笛の賑やかな囃子で城下の町々を巡回したという。 小倉祇園祭 |
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毎年7月に入ると小倉の街は「ドドン、ドドン・・・」と至る所で勇ましい太鼓の音が響き、熱気と興奮に包まれる。 |
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小倉祇園太鼓は、昭和18年(1943)に公開された映画「無法松の一生」で全国的に知られるようになった。太鼓祗園ともいわれるように、現在は山車に据えた太鼓を打ち鳴らすのが祭の特徴となっている。 小倉祇園太鼓 |
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資料 |
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小倉祇園祭のハイライトは太鼓の競演会で、揃いの浴衣に身を包んだ大人組・少年組あわせて約100団体が参加して伝統の太鼓の打法を競い合う。全国的にも珍しい両面打ちの小倉祇園太鼓は、昭和33年(1958)福岡県指定無形民族文化財となった。 無法松の一生(度胸千両) |
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睡蓮の花 |
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二の丸から見た天守閣は、威風堂々として風格がある。このアングルから撮影された小倉城は多くの絵葉書を飾り、お馴染みのシーンとなっている。北の丸跡の石垣も味わい深い。 |
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