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ポンペイの遺跡 1/2 ポンペイの遺跡1/2 ポンペイの遺跡2/2


 Pompeii


 イタリアの古代都市。カンパニア州北西部,ナポリの南東約23kmのナポリ湾沿岸,ベスビオ山の南麓に位置する。交通の要衝,肥沃な後背地などの条件によりオスキ人がまず集落をつくった。やがて前8世紀以降ギリシア人植民者,エトルリア人が移り住み,町は拡大した。交易が栄え,農産物,ブドウ酒,魚介類,軽石を産し,輸出した。ギリシア神殿もできたがオスキ・イタリア文化も発展した。前5世紀にはサムニウム人の進出で略奪をうけ,ついにはその支配下に入り,ヌケリアNuceria を盟主とする都市同盟の一員となり,貴族共和政の体制を保った。この間,市域は拡大し城壁も強化された。前3世紀ローマの進出でポンペイは一時独立し,ヘレニズム・ローマ文化を急速に取り入れた。ポエニ戦争ではハンニバルについたが,のちローマ支配下に入り,同盟市戦争で再びローマに敵対した。結局ローマ市民権を得てローマの軍門に降り,多数のローマ人植民者を迎え入れた。以来都市制度を整え,ラテン語を受容し,劇場,ウェヌス神殿,イシス神殿,浴場,バシリカなどを建てて大都市に発展していった。ローマ人富裕者の保養地として豪華な別荘もでき,華麗な壁画・彫刻・モザイクで飾られ,水道,舗装路,商店も整えられた。元首政期の人口は2万人近くに達した。しかし63年に大地震による災害をうけたのち,79年8月24日ベスビオ山の大爆発により火山礫(れき),火山灰に埋もれた。死者は約2000,都市としての機能を失い,ついに二度と復興されなかった。


上水道

[発掘]  1748年,偶然の契機で発見されたポンペイは,現在,その約8割が発掘されている。サムニウム時代に建造された城壁に囲まれた市街地は,公共広場を中心とする旧街区とそれ以外の新街区から成り,後者はほぼ碁盤目状の街割りを呈している。ポンペイ発掘の意義は,この城壁内に残る数多くの住宅址とその室内を装飾する壁画にあり,それらによって,約2世紀間にわたる当時の日常生活と絵画の様式変遷が解明された。〈外科医の家〉など最古の住宅址は前4世紀にさかのぼり,アトリウムをもつ古イタリア的形式であるが,前2世紀からは〈ファウノの家〉などのようにギリシア・ヘレニズム的要素であるペリステュリウム peristylium(建物あるいは中庭を囲む列柱廊)が取り入れられている。また,壁面装飾においても四つの様式が認められ,数色のしっくい装飾のみによる第1様式,おもに建築モティーフを描いた第2様式,エジプト的な装飾モティーフを優雅に配した第3様式,それに幻想的装飾である第4様式に分類されている。これらは,他の古代遺跡では見ることのできない出土例の豊富さと,2世紀間以上にわたって連続した様相を示していることから,〈古代絵画館〉と通称されるほどである。また彫刻においては前4世紀のプラクシテレスらの模刻が好まれ,教養主義的で装飾的な彫刻に対する好尚があったことを明らかにした。

 日常生活のうえでは,食生活,装身具,貸借関係,クリエンテラ制(クリエンテス)に基づく選挙,家庭内における信仰などが明らかとなった。このほか,アポロン神殿,ウェヌス神殿,ユピテル神殿,ドリス式神殿,選挙投票場(コミティウム),市参事会会議場,マケルム(市場),五つの浴場,大小の劇場,パラエストラ(体育場),円形闘技場,度量衡管理所など都市として必要であった施設のすべてが残っており,公共生活がどのようなものであったのかを理解するためにも重要な資料を提供している。

[絵画] ポンペイが埋没するまでのローマ絵画の変遷は,おもにポンペイ遺跡の壁画によって判明している。ポンペイの壁画および壁面装飾は前3世紀末から後79年まで4様式に区分されている。異なる色大理石の壁面を,しっくいによって模した第1様式(漆喰装飾様式。前3世紀末〜前80ころ),建築モティーフを主とする第2様式(建築装飾様式。前80ころ〜アウグストゥス時代),華麗な植物文モティーフを用いた第3様式(華麗様式。アウグストゥス時代後半〜後62年),それに複雑な非現実的建築モティーフを描いた第4様式(複雑様式。62〜79年)である。第1様式は,地中海東部や黒海沿岸,シチリアなどにもその遺例を見る,ヘレニズム時代に広く普及していた壁面装飾様式であり,ポンペイの〈ファウヌスの家 Casa del Fauno〉などから典型的例が出土している。第2様式はヘレニズム期の宮殿の装飾壁画を模倣したもので,ポンペイの〈秘儀荘 Villa dei Misteri〉壁画,ボスコレアーレ出土壁画,それに《オデュッセウスの風景画》などがこれに属する。第3様式はエジプト趣味の反映,および第2様式の発展とみなすことができる。第4様式は,ポンペイの〈ベッティイ(ウェッティウス)の家 Casa dei Vett〉などに作例を見る。79年以降の絵画は,オスティア,エフェソス,都ローマ,それにヨーロッパ属州の都市から出土しているが,いずれも断片的で,様式の変遷をとらえるに十分な数の作例が残るわけではない。ただし,建築モティーフはさらに幻想的性格を強くし,カタコンベの壁画に近い様式に至ったことは推定できる。画家の名は,前300年ころのファビウス・ピクトル Fabius Pictor やネロのドムス・アウレア(64ころ)を装飾したファブルス Fabullus らしか伝わっていない。後者の壁画は16世紀初頭ラファエロに影響を与え,グロテスク形式の装飾壁画を生むことになる。

 絵画的領域としては,このほかモザイクがあり,おもに住宅,宮殿,公共浴場などの床の装飾に用いられた。これは多色モザイクと単色モザイクに分類できる。前者は《アレクサンドロス・モザイク》のような精緻な作品から,ピアッツァ・アルメリーナの広大な床面まで技法・形式とも多彩である。後者は,共和政末期から現れ,ローマ固有の形式として発達した。

[庭園] 古代ローマの住宅は,軸線上に配置されたアトリウム(前庭)とペリステュルム(列柱中庭)の二つを諸室が囲む形を基本とし,さらにその奥に蔬菜園などが配される形を基本としたが,必ずしもそれのみにとらわれぬ多様な庭が造られていたことは,ポンペイやエルコラーノ,オスティアなどの遺跡に明らかである。噴泉は好んで多用されたが,それとともに刈込み(トピアリア topiaria)がさかんに行われ,幾何学的な構成の生垣のほかに,文字や動物をかたどったものまでが造られた。また室内に壁画として庭のすがたを描くことも行われており,ローマ国立美術館に保存されている皇妃リウィアのウィラの壁画はその好例であって,果樹が豊かに実を結び,噴泉が高く水を吹き上げる当時の庭園のようすをしのぶことのできる貴重な資料である。

[道路] ローマ時代の都市の道路(ローマ道)には車道に高い歩道が設けてあり,歩行者の横断のためには車道に歩道の高さの踏石が置いてあったのがポンペイの遺跡でわかる。ローマの都市間の道路は驚くほどりっぱに建設されていたが,中世になると整備が行き届かず,敷石は城壁や住居に転用されるしまつで,馬車の発達を妨げた。

[浴場] 浴場が一般化し市民のあいだでその重要性が増すのは,前2世紀のイタリア半島においてである。特にポンペイのスタビア Stabia 浴場は,ローマ帝政期に入ってから発達する公共浴場(テルマエ thermae)の原型として有名。また,ポンペイの富裕市民は,住宅内に数室から成る浴場を有しており,後の別荘住宅(ウィラ)にもその伝統は継承される。

[洗濯] ローマ人の洗濯様式は,ポンペイより発掘された洗濯場で,奴隷たちが踏み洗いをしていたことからうかがわれる。征服に次ぐ征服でローマの統治範囲が拡大するたびに,あらゆる分野における奴隷が誕生し,洗濯も奴隷の仕事であった。新約聖書《マルコによる福音書》に〈その御衣は非常に白く光り世のさらし屋ではとてもできないほどの白さであった〉とあり,布晒しをする洗濯業者がこの時代に出現してくる。この業者をフーラー fuller といい,フーラーズ・アース fuller’s earth(ケイ酸アルミナ)を使い洗濯をしていた。また毛織物の洗濯にはアンモニアを用い,そのためローマ市内の尿を集めたといわれる。

[風俗画] ローマ時代,とくにポンペイの壁画には,田園生活,染色作業場などの職人の仕事場,闘鶏などの大衆的娯楽など,日常の多様な光景がくりひろげられている。

ベスビオ[山]  Vesuvio

 ヨーロッパ大陸唯一の活火山。古称ウェスウィウス Vesuvius。ナポリの東12kmに位置し,底面直径約15kmの複合成層火山を総称していうが,厳密には外輪山をなすソンマ Somma(最高峰1132m)と中央丘である狭義のベスビオ(標高1281m)より構成されることからソンマ・ベスビオと称される。初期のソンマ火山は標高3000mに達したと考えられるが,前8世紀ころの大噴火により,山頂火口が拡大され,その後,79年まで活動は休止した。当時死火山と考えられていたこの火山は,63年の地震を前兆として,79年8月24日に大噴火した。その結果,ソンマ火山の火口壁は,現在ベスビオ(狭義)の北側を取り巻く外輪山となったとされている。この噴火で大量の軽石や火山灰が噴出され,おもに南東山麓に降下してポンペイを埋没させた。また,噴火後に火山泥流が西方に流出してヘルクラネウム(現,エルコラーノ)を埋没させた。現在,両市街とも発掘が進み,当時の生活状況が再現されている。79年の噴火は,当時,対岸のミセヌム岬にいた小プリニウスにより詳細に記述されたので,プリニアン(プリニー式)噴火と称される。すなわち,激しい爆発によって,大量の軽石や火山灰が上空高く噴出して,巨大なキノコ形の噴煙が生じた後,大規模な降下火砕物を伴う噴火である。

 79年噴火以後,50回以上の噴火が繰り返された。とくに1631年以降は活発で,山頂および山腹で起こり,たびたび溶岩を流出した。山頂には直径約400mの火口があり,休止期には深さ200m以上にもなるが,活動期には溶岩で満たされ,しばしば出した。最近の噴火は1944年3月で,溶岩流出を伴ったが,その後,現在までベスビオの噴煙は絶えている。

 ベスビオの基盤は,第三紀堆積岩,白亜紀・ジュラ紀の石灰岩,三畳紀ドロストーンで,そのマグマ溜りの頂部は上記基盤の最下部層中にあると考えられる。ベスビオの溶岩は SiO247〜48%,ややアルカリに富み,テフライトと称される。その噴出物中には,マグマと反応した石灰質岩石の捕獲岩を多く含んでいる。

 1845年に標高608mの所に,世界最初の火山観測所がつくられ,現在にいたっている。これより山麓にかけては,地味肥沃で果樹が多い。ナポリ民謡〈フニクリ・フニクラ〉は,80年に,ベスビオの麓,標高800mから火口縁(標高約1200m)までフニコラーレ(索道鉄道)が開通した際のコマーシャルソングである。このフニコラーレは,1944年の噴火で破壊されたので,現在は,2人掛けの腰掛けリフトが観光客を火口縁に運んでいる。

ポンペイ最後の日

ブルワー・リットン 1803‐73 Edward George Earle Bulwer‐Lytton,1st Baron Lytton

 イギリスの小説家,政治家。本来の姓はブルワーであったが,母方の財産を継いでその家名リットンを加えた。またリットンと呼ばれるのは,政治家として貴族(男爵)に列せられたためである。上流の出身で,ケンブリッジ大学卒業後社交界に出入りし,やがて政治家,小説家として華やかにデビューした。作品は多く,社交界小説,政治小説,犯罪小説,怪奇小説,未来小説など多様であり,深さや芸術性には欠けるものの,時代の好みや風潮を巧みにとらえて広い読者に迎えられた。社交界の上流青年の恋と政治の遍歴物語《ペラム》(1828),《アーネスト・マルトラバーズ》(1837),犯罪を社会問題とし,犯罪者を同情的に描く《ポール・クリフォード》(1830),《ユージン・アラム》(1832),ローマ時代の歴史小説《ポンペイ最後の日》(1834)などが有名である。日本でも《アーネスト・マルトラバーズ》(丹羽純一郎訳《花柳春話》1878)をはじめ,多くの作品が明治10年代に翻訳され,西洋小説翻訳史上,D. デフォーや J. ベルヌらと並んで先駆をなした。

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