ホームページ韓国写真集お知らせお便りコーナー徒然日記俳句・海の風景ホームページ奮闘記作者のプロフィール
Wa☆Daフォトギャラリー

2002年8月30日改訂

今 日

昨 日

♪「アリラン・トラジ打令」歌のメドレー
画像をクリックすると新たなウィンドウが開き、拡大写真が表示されます。

01 ソウル市内

ソウル市内
(1918x1222)144KB
ソウル Sul 大韓民国の首都。朝鮮語でソウルは首都の意。人口1060万(1995)。朝鮮半島の黄海側、中部西海岸寄りにあって、京畿湾に注ぐ漢江下流の盆地に位置する。旧市街は四方を山に囲まれ、夏の平均気温は25.4℃、冬の平均気温は−4.9℃と年間温度差が30℃を超え、内陸性の気候を示している。北と南に、それぞれ北漢山(836m)・北岳山と、南山・冠岳山(629m)などがそびえ、また、中央部を漢江が東から西へと流れて自然の要害をなす。李朝の太祖、李成桂が1394年に、ここを王都に定めて以来500年以上にわたって、政治・経済・文化・軍事・交通の中心地となり、現在も特別市として大きな位置を占める。

[歴史]  ソウルの歴史は先史時代にさかのぼり、南東郊外の漢江の左岸地域には、旧石器・新石器(目文土器)・青銅器(無文土器)各時代の遺跡が残る。同地域の風納洞土城は、中国、魏の帯方郡治跡もしくは三国時代百済の都城と推定される。

 《三国史記》によると、そのころ慰礼城ないしは漢山、漢城などと呼ばれた。その周辺には、石村洞古墳群など百済前期の墳墓群が知られる。統一新羅時代に入ると、全国九州のうちの漢山州に編入されたが、景徳王代の8世紀の中ごろには、漢州に変わり、その付近を漢陽郡とした。京畿湾北部の開京(現、開城)に首都をおいた高麗時代には楊州と改められたが、その後、南京(高麗王朝の別宮がおかれた)、漢陽府と変遷し、さらに李朝時代には漢城府と改称された。このとき首都として大きく発展したが、その名残りを故宮や城門にとどめている。

 李朝時代、ソウルは漢陽または漢城と呼ばれたが、今でも中国では後者をソウルの正式呼称としている。遷都の理由は、すでに地徳の衰えた開京にとどまっていては繁栄できないとする風水説によったとされており、太祖自身風水にすぐれた土地を求めてあちこち旅したという。

 ソウルは周囲を山岳で囲まれた天然の要害であり、また南山を隔てた漢江により黄海および内陸方面への水運が便利な交通の要衝地であった。漢城は、四方が城壁で囲まれた城郭都市で、ソウル盆地を囲む山の尾根に沿って築かれた城壁の総延長は、18.5kmに達した。およそ20
kuの面積を有する城内には、景福宮、昌徳宮、昌慶宮などの宮殿、李王家の位使をまつる宗、景福宮へ通ずる大路沿いには官庁街が建設され、住民の消費生活をまかなう六矣廛(ろくいてん)(商店街)が六つの部門にわけて設けられた。住民(王族、官吏、商工人、奴婢)のほとんどが城内に定住したが、一部は城外に住んだ。城外一里までは漢城の管轄下におかれ、城内、城外をとわず京兆五部とよばれて、東西南北の四大門を通じて厳重な監視のもとに出入が許された。漢城の人口は初期の10万前後から李朝時代を通じて20万人前後に倍増した。李朝末期の大院君時代には、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に焼失した景福宮の再建や行宮(別荘)として使用されていた徳寿宮の改築などが行われ、李朝最後の威容を誇った。

 1945年8月日本の植民地支配から解放されると、京城はソウルと改称され、アメリカ軍政下に置かれた。46年京城は京畿道の管轄からはずれ、ソウル特別市に昇格し、同年10月従来の日本式町名を一掃して新しい洞名を採用した。48年に大韓民国が独立すると同時にその首都となった。北緯38度以北を領土として独立した朝鮮民主主義人民共和国も72年まで憲法上の形式的な首都をソウルとし、平壌を臨時首都と呼んでいた。1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、ソウルは南北両軍の争奪の対象となり、著しく破壊された(この間、政府は釜山などに移転)。53年の停戦条約の調印をまって、ソウルは韓国の首都として再出発した。

[人口の膨脹と市域の拡大]  ソウルの人口は日韓併合後急速に増加し、36年に60万人、42年には100万人を突破した。45年以後には海外(日本、中国)や北緯38度線以北からの人口流入がみられ、韓国政府樹立後の49年に144万に達した。朝鮮戦争後、ソウルへの人口集中はいっそう促進され、60年には245万人に膨脹した。60年以降、朴政権の工業化政策の進展によってソウルの人口膨脹がさらに加速した。70年に553万人に倍増し、80年には800万を超え、世界的な巨大都市に成長、韓国の総人口の20%強を占めるにいたった。このように増加する人口を収容するため、ソウルの市域が次々に拡張され、京城時代の134km2から1949年に268km2へ倍増、95年現在606km2であり、人口密度は1万7500人/km2ほどとなっている。

02 青瓦台

青瓦台
(1897x1240)133KB
青瓦台 韓国大統領官邸をその瓦が青いことから「せいがだい」と呼ぶ。左の写真は市内から望遠で撮影。写真中央のごつごつした岩のある山の麓に位置している。

1999年5月24日の毎日新聞の記事

韓国:閣僚18人のうち11人を交代 金大中内閣改造

 【ソウル24日中島哲夫】韓国の金大中(キムデジュン)大統領は24日、18閣僚のうち11人を交代させる大幅な内閣改造を行った。青瓦台(大統領官邸)は「国政改革を推進するための実務的な第2期内閣」と規定している。

 対朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政策を担当する統一相には、包容政策(太陽政策)の推進派として知られる林東源(イムドンウォン)大統領外交安保首席秘書官、財政経済相にも経済首席秘書官を務めてきた康奉均(カンボンギュン)氏が充てられ、対外政策や経済政策は従来の姿勢が維持されることになる。

 日韓文化交流の流れを左右する文化観光相に、金大統領の腹心の一人である朴智元(パクチウォン)・青瓦台スポークスマンが起用されたことも注目される。洪淳瑛(ホンスンヨン)外交通商相ら7閣僚は留任した。

03 旧朝鮮総督府

旧朝鮮総督府

(1867x1231)155KB
朝鮮総督府 朝鮮史でいう日帝時代(日本帝国主義の支配期、1910‐45)に日本が朝鮮に置いた植民地統治機関。1910年8月の日韓併合を契機に韓国統監府と韓国政府の諸機関を統合し、完全なる植民地支配に適するように改編して同年10月に創設された。頂点に位する総督とその補佐役の政務総監の下に、中央には総督官房および総務、内務、度支、農商工、司法の5部を置き、別に所属官署として中枢院、警務総監部、鉄道局、通信局、専売局、印刷局、裁判所等とともに地方の13道(地方行政区)を組み込んだ。

 発足当初のこの機構はのちに数次の改革を経て、中央は1官房8局に細分拡充され、所属官署も肥大化した。初代総督には陸軍大将寺内正毅が就任し、各部局の長をはじめ重要なポストにはすべて日本人が選任された。各道の長官以下には朝鮮人も任用され、面(村に相当)には官選の面長が置かれたが、中央・地方の実権は日本人官僚の手中にあった。
04 景福宮光化門

景福宮勤政門
(1942x1203)137KB

景福宮 総督府支配の特徴は、まず第1にそれが非常に軍事的な性格を帯びていたことである。〈朝鮮半島は全く軍営化されたり〉(釈尾東邦《朝鮮併合史》)といわれたように、総督府の設置に先だって新聞が強制廃刊され、集会結社が禁じられ、総督の指揮監督をうける憲兵警察制度が確立された。司法、行政、立法の3権を掌握した総督は陸海軍大将から選任し、天皇に直属し、その任務は〈陸海軍ヲ統率シ及朝鮮防備ノ事ヲ掌(つかさど)ル〉軍事色を前面に掲げたものであった。総督は内閣総理大臣を経て上奏し、裁可を受け、その職権または委任によって朝鮮総督府令を発して、これに罰則を付することができ、また法律を要する事項は命令(制令)をもって規定することができるなど、広範な権限を与えられていた。

 総督府の設置とともに朝鮮社会は永続的な戒厳令下に置かれたようなものであった。その軍事色の度合の強弱から1919年の三・一独立運動までを〈武断政治期〉、その後1920年代を〈文化政治期〉と区分する見解もあるが、支配の軍事的性格が根本から改められたことはなかった。

 第2の特徴は日本本位の場当り的政策に終始し、朝鮮民衆の生活を破壊し続けたことである。日本国内の米不足を理由に朝鮮産米増殖計画を推進しても、日本農業と競合すると廃止してしまった。また、民族運動が国内に波及することを恐れて朝鮮人の渡航を制限したかと思えば、戦争で日本人労働力が不足すると朝鮮人を強制連行してこれを補おうとした。さらに、侵略戦争を拡大すると、その兵站
(へいたん)基地として農業中心の朝鮮社会に軍需工業を引き込んだりもした。戦局が悪化すると、朝鮮人を徹底的に日本人化して協力させるため、皇民化政策によってその民族性を根こそぎ奪おうとまでした。

 旧朝鮮総督府の建物は、旧帝時代の日本が左の写真にあるように景福宮勤政の真ん前にわざと建設したものであり、今となってはその横暴ぶりに目を覆うばかりだ。韓国にとって忌まわしいこの建物は、現在は完全に撤去されている。
05 景福宮

景福宮

(1976x1324)117KB
李氏朝鮮王朝の正宮 李成桂(太祖)が1392年に李氏朝鮮王朝を興し、1394年に郡を漢城(ソウル)に定めた際、正宮として建てたのがこの景福宮である。

 以後壬辰倭乱(1592年の豊臣秀吉の朝鮮侵略)で焼失するまでの約200年間、この王宮を舞台に李氏朝鮮王朝前期の歴史は展開された。

 第4代国王世宗が優秀な学者を集めハングルを発明させたり、天文などの科学技術を研究させたのもこの景福宮においてであった。

 焼失後長い間そのまま放置されていたが、王朝末期の1865年、失墜した王朝権力の威光を再び示すために大院君(国王高宗の父)李是応が国中の財力・労働力を集めて再建した。
 
06 景福宮香遠亭
景福宮香遠亭
(1939x1261)193KB
 日本による統治が始まると多くの建物が取り壊されたり、昌徳宮やその他の場所に移されたりしてしまった(日本の鎌倉の長谷寺大仏裏にもここから移設された建物が残っている)。

 そして正門である勤政門と正殿である勤政殿の間には、植民地統治の象徴たる朝鮮総督府庁舎(旧国立中央博物館の建物)が建てられた。

 まだ高層ビルも少ない時代、かつての朝鮮王朝の王宮の敷地に正殿をふさぐようにしてそびえ立ったこの建物は、植民地下に生きる人々に対し、たいへんな威圧感を与えていたに違いない。
 
07 景福宮勤政殿
景福宮勤政殿
(1388x1956)157KB
 年月は経ち、去る1990年からソウル定都600年(1994年)を記念して景福宮内の殿閣の復元工事が始まった。王が住んでいた康寧殿、王妃が住んでいた交泰殿をはじめとする20の殿閣の再建が進められている。
 
08 景福宮

景福宮

(1945x1342)240KB
 旧朝鮮総督府庁舎を撤去するかどうかについては、数年前から韓国内で広く国民の関心を集めた論争になっていた。忌まわしい日本の支配時代の記憶を清算するために一日も早く撤去しようという意見が主張される一方で、むしろ屈辱の歴史を忘れないようにするための教材として残しておこうという意見も根強く支持を集めていた。

 日本からの解放50年という節目の年となった1995年、金泳三大統領はついにこの建物の撤去を正式に発表し論争に決着をつけた。そしてまず、この年8月15日の光復節(独立記念日)の記念式典のセレモニーの中で、旧庁舎の中のもっとも象徴的な部分である中央ドームの尖端部分を取り外した(この尖瑞部分は現在独立紀念館に展示されている)。私が訪問した96年には撤去作業中だった。(現在撤去完了)

 旧総督府庁合にあった国立中央博物館は他の場所に新たに建設され再開される予定だが、暫定的に景福宮内に王宮歴史博物館が設置されることが決まっている。そのようなわけで工事中の場所の多い景福宮である。
 
09 新婚さん
新婚さん
(1909x1309)173KB
新婚さん 景福宮の建物に目をやる前に、王宮内のあちこちに見受けられるウエディングドレスとタキシードに身を包んだカップルたちの方に視線が行ってしまうことになる。

 筆者が訪問した時も、チマチョゴリに身を包んだ民族衣装の若いカップルがいた。実はこの王宮は新婚カップルの記念最影のための名所にもなっている。モデルばりに気取ったポーズをとっているカップルの姿には、見ている私たちのほうが恥ずかしくなってしまうほど愛情表現たっぷりだ。 
10 板門店
板門店
(1939x1225)109KB
板門店  P‘anmunjm 大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の境をなす休戦ライン上の要地。開城から東に約10km、ソウルから北に約50km離れた非武装地帯内にある。

 1951年10月から朝鮮戦争の当事者である北朝鮮・中国軍と韓国・アメリカ軍(国連軍)の代表がここで休戦会談を行い、53年には休戦協定の署名が行われ、現在は両者が共同管理している。会議場の他に、北朝鮮側に板門閣、韓国側に〈自由の家〉があって、それぞれ報道関係者や観光客が訪れている。70年代以来、ここで南北会談もしばしば行われている。
11 軍事停戦委員会会議場

軍事停戦委員会会議場
(1976x1368)105KB
朝鮮戦争勃発 1945年8月15日に日本による苛酷な植民地支配から解放された朝鮮民族は、すぐに独立国家の建設に着手したが、米ソ両大国の冷戦の影響などを受け、統一国家を樹立することに失敗した。そじて1948年8月に北緯38度線を境にした南半部に大韓民国が、9月には北半部に朝鮮民主主義人民共和国建国された。

 武力による国家の統一をそれぞれ目標としていた両国は1950年6月25日、北側からの進攻を契機についに戦争状態に突入した。いわゆる朝鮮戦争のはじまりである。

 アメリカ軍を中心とした国連軍(南を支援)を巻き込んだ戦争は国土の大半を荒廃させ、約126万人といわれる死者、さらに現在も1000万人いるという離散家族を大量にに発生させた。戦線はローラーをかけるように半島を往復したのち、やがて半島の中央付近で硬直するに至った。

寒村から一躍脚光をあびた板門店 
休戦のための準備会談は1951年7月に開城で開始されたが、その後開城から10キロほど東の、昔からノルムン(ノルは板、ムンは、門の意)と呼ばれていた地に場所を移した。藁葺き屋根家が4棟あるだけだったというこの地が以後板門店として、一躍世界の視線を集める場所となったのである。

 そして長く激しい交渉の末、ついに1953年7月、中朝両国軍と国連軍との間で休戦協定が結ばれた。(当時休戦に反対していた韓国の代表は署名していない。また、このとき休戦協定が調印された建物は、現在の共同管理地域よりも800mほど離れた北側の非武装地帯内にあるため、ソウルから訪れる場合は見学できない)。
 
T
O
P
帰らざる橋(板門店)

帰らざる橋(板門店)
(1952x1156)99KB
世界史上最長の休戦協定 体戦協定によって、板門店は双方からの代表で構成される軍事停戦委員会の本部区域として設定され、また中立国監督委員会の本部が置かれ監視委員が常駐することとなった。以後、板門店は今日まで続く世界史上もっとも長いといわれる休戦を管理する場所となり、この間およそ500回にもおよぶ軍事停戦委員会本会議がここで開かれてきている。

 板門店は休戦ライン上の唯一の南北の接触点となっていることから、1971年に南北赤十字予備会談が行われて以来、軍事に関すること以外の、南北当局者間の直接対話のための場所としても利用されれるようになった。直接対話は80年代以降いっそう頻繁に行われるようになり、赤十字会談のほか、スポーツ会談などさまざまな会談がここで開かれてきた。

 今日では破門店といえば、軍事停戦委員会の所在地としでよりも、南北対話の舞台としてのイメージのほうが強くなってきている。南北間の会談はいずれも最後には険悪な雰囲気となって決裂してしまうことも少なくなかったが、災害時の食料援助や一部の離散家族の訪問、芸術・スポーツでの南北交流の実現などという成果もわずかながらあげてきた。

帰らざる橋 中央の橋をとおり南北間を往復する。韓国側から北朝鮮側を望む。左上部に高い鉄塔のある村が見えるが、北朝鮮側の非武装中立地帯に設けられた「平和の村」である。高さ160mの鉄塔に幅30mの巨大な北朝鮮の国旗がたなびいている。ただ、一見瀟洒な住宅が建ち並ぶ平和の村は、全て同じ時間に電気が灯り、同じ時間に消えるそうで、無人の北朝鮮の宣伝村だという。

12 帰らざる橋(板門店)

帰らざる橋(板門店)
(1968x1360)101KB

南北をつなぐ唯一の陸上の窓口 朝鮮半島の中央を大きく横切る軍事境界線が人々の自由往来を妨げている今日、飯門店はまた南北をつなぐ唯一の陸上の通路としての役割も担っている。捕虜の交換などがここで行われてきたほか、両国間で政治・文化・スポーツなどの交流が実施された際にも、双方の代表団はここを通って相手の国を訪れている。

 もちろんこの板門店を通じて行き来ができるのは、両国の政府に許可された者に限られており、一般の人々の自由通行は全く認められていない。90年代に入り、政治的目的をもった南の入が政府の許可を得ずに第三国経由で北に入国する事例が時折見られるようになったが、彼らも南へ帰ってくる際には分断の象徴を越えるという意味で、この板門店を通って帰ってくる。しかじその行為は国家保安法に違反するとして、いずれも休戦ラインをまたぐとすぐに逮捕されてしまっている(とくに1990年に北を訪れた女子大生イム・スギョンさんの帰国は当時南北双方で大きな注目を集めた)。 

 二つの国家が対峙しながら存立し、南北間の自由な往来を妨げている現在の朝鮮半島の状況は、本来一つであるペきものが「分断」されている状況だと朝鮮民族には認識されている。ゆえに本来あるべき姿として国家がふたたび「統一」されることが、今日において全民族的な悲願となっている。

 かつて東西ドイツ分断の象徴として聳えていたベルリンの壁は、東西対立の終結後、あっけなく崩壊してしまった。同じように朝鮮半島においても、「分断」状況が克服され、板門店がまたかつてのようにのどかを田舎にもどる日はいつ訪れるのであろうか。朝鮮半島、そして世界中に暮らすすべての朝鮮民族は一日も早くその日が訪れることを切実に願っている。
  フォトギャラリーへ 特集!旅紀行目次へ 世界の名城 感動写真集目次へ  
旅紀行ジャパン目次へ   多摩川紀行
旅紀行日本の祭り 旅紀行日本の裸祭り 旅紀行日本の花目次へ
Wa☆Daフォトギャラリー

今 日

 和田フォトギャラリー

昨 日

 Copyright (C) 2000-2006 Yoshio Wada. All Rights Reserved. 

ホームページ韓国写真集お知らせお便りコーナー徒然日記俳句・海の風景ホームページ奮闘記作者のプロフィール