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岸和田城(千亀利ちきり城)/猪伏いぶせ山 |
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岸和田名物は「お城とだんじり」だという。パレードが終わったあと、岸和田城に行った。岸和田城は、周囲を満々と水を湛えた堀に囲まれている。この水が素晴らしく綺麗だ。さすが自慢するだけはある。 |
市民のオアシス・岸和田城
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岸和田城(千亀利(ちきり)城)は、南北朝期の元弘4年(1334)、楠木正成の一族・和田高家(たかいえ)が築いたことに始まるが、近世城郭として現在地に初めて本格的に整備したのは豊臣秀吉の重臣・小出秀政で、慶長2年(1597)、五層の天守閣が完成した。 |
寛永17年(1640)、岡部美濃守宣勝が高槻から入城し、以来明治維新まで13代、5万3千石の藩主として続いた。 |
文政10年(1827)天守閣が落雷で消失。昭和5年岡部氏が城地を岸和田市へ寄贈。昭和29年天守閣が再建され、今は郷土資料館を兼ねている。 |
外観は慶長年間の趣きを伝えており、三層五重の堂々たる天守は、端正で素晴らしい。春は桜が美しく、毎年4月1日〜5日にお城まつりが行われる。 |
紀州街道の天性寺(てんしょうじ)には、岸和田の落城を救ったと伝えられる蛸(たこ)地蔵が安置されている。
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市役所前のこなから坂(城の北西)
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9月15日の本宮では、午前9時45分から14台のだんじりが岸和田市役所前の「こなから坂」(写真上)を駆け上がり、岸城神社に宮入りする。
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だんじり祭の起源
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元禄16年(1703)、時の岸和田城主岡部長泰(おかべながやす
3代藩主)が京都伏見稲荷を城内三の丸に勧請(かんじょう)し、五穀豊穣を祈願して行った稲荷祭にはじまる。氏子たちは城内にだんじりを入れ、その上で「にわか」を演じて見せたという。
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当時のだんじりは長持ちに車をつけたような簡素なものであったらしく、現在のような形になったのは、天明5年(1785)、北町の油屋治兵衛らが泉大津から中古地車を購入したのがきっかけといわれている。
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岸城神社
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岸和田城のすぐ東に岸城(きしき)神社がある。岸城神社は岸和田城の鎮守社である。現在、だんじり祭はこの神社の例祭となっており、
9月15日の本宮にはだんじりが宮入りする。
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神社の入り口には宮入りする14町の御神燈が並べられており、「祝
年番制度200年 だんじり曳行300年」の垂れ幕が掲げられていた。
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岸城神社は、620年ほど前に、京都の八坂神社より勧請(かんじょう)し、牛頭(ごず)天王社と呼んで、岸和田村の産土(うぶすな)大神として祀られたのに始まる。
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のち慶長年間、小出秀政が岸和田城を創建した際、八幡大神(はちまんおおかみ)を合祀(ごうし)。以来、社殿を修改築して規模を整えるなど、代々の城主、住民の尊崇をうけてきた。明治維新に至り、社名を岸城神社とし、明治29年に現今の社殿が奉建された。
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五軒屋町だんじり
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彫り物
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岸和田城を一周し、市役所前を通り、再び岸和田港塔原(とのはら)線に戻った。海の方(西方)に向かっていくと、道路で休憩しているだんじりがあった。
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五軒屋町(ごけんやちょう)のだんじりだった。
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道路で休憩
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五軒屋町は、道路の左側にだんじりを止め、2本の引き綱の両側に座り込んで休憩していた。引き方の手を見ると殆どの人がテープを巻いている。手にまめができるほど、一生懸命引いているのだろう。4tonもあるだんじりを走らせるのだから大変だ。
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お陰で、だんじりをゆっくりと見物することができた。総檜(ひのき)造りのだんじりは、全周にわたり精巧な彫り物が施されている。伝説や想像上の動物が多い。
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このだんじりは、平成10年完成というからまだ新しい。正面には大坂冬の陣、右には川中島の合戦、左には本能寺の変が彫り込まれている。特に灯籠を担いだ鬼は良くできていた。
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だんじりの周囲を金糸でできた金綱(金縄)で巻いているが、精巧な彫り物を傷つけないよう、座布団のようなものを擦れ当てにしている。囃子方(はやしかた)も座布団をあてて注意している様子がよく分かる。手すりにも彫り物があり、実用性を度外視した造りなので取扱者にとっては気苦労が多いことだろう。
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中町だんじり正面の飾り
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だんじりの前に立つ中町曳行責任者
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中町の纏
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更に西に進むと、中町(なかまち)が休憩していた。大正12年に造られたかなり年季の入っただんじりだ。
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中町自慢の纏(まとい)を見せてもらったが、立派なものだった。纏持ちはベルトに革製のホルダーをさげていた。だんじりは纏を目印に進む。
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だんじりの正面には、前旗2本が飾ってあり、中町の紋章が刺しゅうされていた。だんじりの下部は、彫り物を保護するため、全周にわたって金網が張ってある。
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動き出した中町だんじり
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引き方は赤いストライプの入った紺の法被に青い捻り鉢巻をしている。鉢巻の色が白の人もいる。役割分担がわかるようにしているのだろう。例によって大工方だけが白装束で、鉢巻のみ青色だ。
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休憩時間が終わったようで、中町だんじりは「らんかん橋」に向かって動き出した。いよいよ佳境に入る。
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