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 旅紀行日本の祭り

2012年6月16日改訂

 

 

 

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BGM

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2003年6月9日制作

三社祭

三社祭(東京・浅草寺)

仲見世の賑わい

2003年5月17日(土)、東京三大祭りのひとつ、浅草の三社祭に出かけた。JR中央線神田駅で下車、営団地下鉄・銀座線に乗り換えると五つ目の駅が浅草だ。雨の降りそうな曇り空ではあったが、大勢の見物客が集まっていた。

仲見世の賑わい

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浅草寺 せんそうじ

 東京都台東区浅草2丁目にある寺で、俗に浅草(あさくさ)観音と称される。山号金龍山。天台宗に属していたが、1950年聖観音宗を立て支院25ヵ寺、末社18舎をひきいる総本山となった。
浅草寺・雷門
 浅草寺縁起によれば628(推古36)年3月18日未明、宮戸川(隅田川)で漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の網に観音像がかかった。
 郷司(ごうし 村の長)の土師真中知(はじのまつち)がこれを見て尊い観音像であることを知り、深く帰依して自宅を寺とし、その観音像を奉安し、拝礼・供養に勤めた。
 これが1寸8分(約5.45cm)で金無垢と伝える本尊であるが、645(大化元)年、勝海上人がこの地に留まり観音堂を建立、また夢告により本尊は秘仏とされ、武蔵国の観音信仰の中心地となった。
 平安期はじめ、慈覚大師の巡拝により伽藍の整備が行われ、信者の層も厚くなった。江戸時代、天海僧正の進言もあって、徳川幕府の祈願所と定められ、江戸の信仰と文化の中心として庶民の間に親しまれるようになった。
 堂塔は関東大震災にも無事で人々の観音信仰を集めたが、太平洋戦争による空襲で焼亡し、本堂は1958年、五重塔は1973年再建された。寺宝に伝小野道風筆法華経(国宝)や江戸期を記録する《浅草寺日記》などがある。
仲見世 浅草寺正面の雷門と宝蔵門(仁王門)の間の東西両側・長さ140mにわたって仲見世と呼ばれる小間物、人形小物、雷おこしなどのみやげ品店がある。 浅草寺マップ
 寺内町の仲見世は、江戸きっての盛り場であった。境内の奥山には芝居・見世物小屋が並び、松井源水の曲ごま、深井志道軒の講釈、軽業、居合抜、からくり、女相撲など庶民的芸能が技を競いあったという。

宝蔵門の神輿

仲見世から宝蔵門を通過し、観音堂(本堂)に向かう神輿

宝蔵門の神輿

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仲見世町会の神輿

仲見世町会の神輿 A 仲見世町会の神輿 B

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観音堂の大観衆

観音堂の大観衆

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観音堂正面の神輿

観音堂正面の神輿

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三社祭 さんじゃまつり

三社神輿船渡御の図

三社神輿船渡御の図
「東都歳時記」より

 浅草神社の祭礼・三社祭は、四万六千日(しまんろくせんにち ほおずき市)、歳の市(羽子板市)などとともに今日も続く代表的祭礼である。
 浅草神社は、推古天皇のころ宮戸川(隅田川)に出漁して浅草寺本尊の観音像を網で引き上げたという3人の漁師を祀っている。このため古くは三社権現、三社明神と称された。
 三社祭は、当初3月に行われていたが、明治以後は5月17、18日に行われるようになり、現在は毎年五月第三土・日に行われる。祭では氏子町内から約100基の神輿が、宮入りと称して神社にお祓いを受けに繰り込み、仲見世や町内を練る。
 三社祭は、江戸時代、大森や佃はもとより、遠く安房(あわ)、上総(かずさ)などからゆかりの漁師たちが船に乗って押し寄せたという。
 各町から絢爛(けんらん)豪華な山車(だし)が繰り出され、観音堂に供えられた神輿は各町を巡った後、浅草橋のお旅所から船に遷され、隅田川を上って浅草神社に還った。
 「東都歳時記」の三社神輿船渡御の図は、当時の漁師たちがふんどし一丁で船祭礼を執り行う様子がいきいきと描かれている。かって隅田川の主役は舟だった。朝早くから白魚、鰻、鯉といった江戸前の魚を求めて網を打つ漁師たちの舟が走り、渡し舟が川面を行き交った。
 三社祭の歴史に残る船祭礼は、隅田川と浅草の人々の絆を色濃く浮き上がらせる。現在、船祭礼が途絶えているのは、寂しい限りである。

観音堂横の神輿

観音堂裏の集合場所に向かう神輿

観音堂横の神輿

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100基の神輿

5月17日(土)は、各町神輿連合渡御が行われる。氏子町会44町から100基の神輿が観音堂裏手の広場に集まる。この光景は他に比類がなく、圧巻の一言に尽きる。

100基の神輿

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出番を待つ氏子たち

出番を待つ氏子たち

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寿二の兄貴

寿二丁目町は、南部の駒札(出発の順番)6番である。今年は西部13町、南部16町、東部12町が参加する。全ての神輿が出発するには、大変な時間がかかる。

寿二の兄貴

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いざ出陣!

午後零時半から連合渡御が始まった。スケジュール表に従って「西11芝崎東町発進!」というアナウンスで、芝崎東町の氏子たちは待ちに待った時を迎え、神輿を担ぎ上げる。

いざ出陣!

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 江戸子のセイヤで担ぐ大神輿  北舟 

花道を通る神輿

観音堂の前で1本締めのあと、花道を進む。

花道を通る神輿

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浅草神社に向かう神輿

観音堂裏広場より観音堂右奥にある浅草神社境内に入り、お祓いを受ける。

浅草神社に向かう神輿

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浅草神社 あさくさじんじゃ

 三社(さんじゃ)様・三社権現の名で親しまれる浅草神社は、浅草寺観音堂の右奥隣りにあり、祭神は隅田川で魚撈中、浅草寺本尊の観音像をすくい上げた檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)の兄弟と、その像を小堂に奉安した土師真中知(はじのまなかち)である。のちに、現在の淡島堂付近にあった東照宮が1642(寛永19)年焼失したため東照大権現(徳川家康)を合祀した。 
 創建は平安末期から鎌倉時代初期で、現社殿は1649(慶安2)年徳川三代将軍家光の寄進になるもの。本殿・幣殿を渡り廊下でつなぐ権現造りの神社建築である。昭和21年国の重要文化財に指定された。
 江戸時代以前は、神仏混淆(しんぶつこんこう)により浅草寺と一体をなしていたが、明治のはじめ、神仏分離政策により浅草寺と別れ、明治元年三社明神、同5年浅草神社と改称し、現在に至っている。

仲見世に入る神輿

浅草神社でお祓いを受けた神輿は、各町内三方面に分かれて繰り出して行く。南部16町の神輿は、御幣(ごへい)を頭上に掲げ持った先導役を目印に、観音本堂正面〜宝蔵門〜仲見世を通り、分散・帰路につく。

仲見世に入る神輿

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お囃子屋台

南部、駒番11番、浅一三栄町のお囃子屋台が仲見世を通る。提灯の浅草壱・三栄の文字が誇らしげだ。

囃子屋台

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仲見世の神輿

大勢の見物客が見守るなか、狭い仲見世の参道を神輿が進む。三社祭ならではの光景だ。

仲見世の神輿

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