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か ん お う |
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翌4月24日(木)は、ツアーバスで岩手県盛岡市・盛岡地方裁判所の前庭にある石割桜と秋田県仙北市の角館(かくのだて)の桜を観光した。盛岡市民が日本一と自慢する石割桜は、周囲が21mもある巨大な花崗岩の割れ目に幹周(みきまわり)4.6m、 樹高11.0m、樹齢350〜400年と推定されるエドヒガンザクラが生育している。 |
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この敷地は南部藩(後に盛岡藩と改名)の家老を勤めた北監物(きた・けんもつ)の屋敷跡で、落雷で裂けた庭石の割れ目に桜の種が飛んできて芽を出し、成長とともに石の割れ目を押し広げていったものといわれている。明治初期には桜雲石(おううんせき)と呼ばれており、明治天皇も東北行幸の際にご覧になったという。大正12年(1923)に国の天然記念物に指定されている。 |
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秋田県仙北郡(せんぼくぐん)角館町(かくのだてまち)は、平成17年(2005)に田沢湖町、西木村と合併し、仙北市(せんぼくし)となった。「かくのだて」として名を馳せるこの地は、秋田県のほぼ中央に位置し、深い木立と重厚な武家屋敷が今もなお藩政時代の面影を残しており、「みちのくの小京都」と呼ぶにふさわしい風情を町全体に漂わせた桜の名所である。 |
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撮影:松井公代 |
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かくのだて さくらづつみの はてしらず |
Kakunodate,
No one knows the end of the cherry tree dike. |
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撮影:松井公代 |
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角館は、元和6年(1620)この地方を領していた角館城主・芦名義勝(あしな・よしかつ)によって造られた町である。豊かな仙北平野の北部に位置し、玉川と桧木内川(ひのきないがわ)に沿い、三方を山々に囲まれた地形は、城下町を形成するのに最も適した場所だった。 |
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撮影:松井公代 |
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城下の縄張(レイアウト)として最も注目されるのは、東西の一番狭いところに「火除け」を設けて南北を区分するとともに、それを武家居住区の内町と町人居住区の外町とに区分したことである。 |
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撮影:松井公代 |
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北側に位置する武家町は広い敷地に深い木立が覆い、南の商人町は家屋がびっしりと埋まって対照をなしており、380年余りたった現在も藩政時代の町割りが大きく変わらずにそのまま残っている。角館はいにしえの歴史が今に息づく町である。 |
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秋田県指定史跡の青柳家は、約400年続いた家柄で、角館武家屋敷の中で最も代表的な家屋敷である。現在「角館歴史村・青柳家」として公開されている。入場料は大人500円。 参照:青柳家公式サイト |
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道路に面して「のぞき窓」がついた黒塗りの簓子塀(ささらこべい)がめぐる青柳家は、矢板に万延元年(1860)大工棟梁柴田岩太郎という銘の薬医門がある。武家屋敷の建築様式を今に伝えるこの家屋は寄棟萱葺屋根の母屋、薬医門、蔵、塀など全体として非常によくまとまっている。 |
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青柳家は、代々芦名氏譜代の侍だったが、芦名氏断絶後は佐竹北家の組下となった。南部境目山役を務める家禄80石(こく)の支藩の家柄で、表高(おもてだか)は少ないが、実質200石程度の家格を有する生活で上級武士の体面を保持していたという。 |
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黒塗横矧二枚胴具足 |
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青柳家の武器蔵には、戦国時代の「黒塗横矧二枚胴具足(くろぬりよこはぎにまいどうぐそく)」などの甲冑や刀剣類など、青柳家に伝わる武具や文献数百点が展示されている。 |
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青柳家と姻戚関係にある小田野直武(1750-1780)は江戸時代中期の画家で、平賀源内に師事し、西洋の陰影による画法を学んで秋田蘭画を確立。また、江戸に出て「解体新書」の挿絵を描き、名声を得た。後の洋画界に大きな影響を与えた秋田蘭画は、小田野直武と時の秋田藩士・佐竹義敦(さたけ・よしあつ)によって完成された。 |
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解體(体)新書は、ドイツ人医師クルムスの医学書 Anatomische Tabellen のオランダ語訳「ターヘル・アナトミア」を江戸時代の日本で翻訳した書。西洋語からの本格的な翻訳書として日本初。著者は杉田玄白。安永3年(1774)、須原屋市兵衛(すはらや・いちべえ)によって刊行された。本文4巻、付図1巻。内容は漢文で書かれている。 |
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資料 |
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秋田蘭画は、江戸時代における久保田藩(秋田藩)の藩主と藩士が編み出した画法で、西洋画の手法を取り入れた構図と純日本的な画材を使用した和洋折衷絵画である。秋田派ともいう。安永年間(1772-1781)に成立したが、後継者がなく、天明年間(1781-1789)には廃れたが、遠近法は後代の浮世絵にも大きな影響を与えたという。 |
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角館には、特産品のひとつとしてヤマザクラの樹皮を素材にした「樺細工」がある。今から約200年前の天明年間(1781-1788)に佐竹北家の家臣・藤村彦六(ふじむら・ひころく)が秋田県北部の阿仁(あに)地方から技法を伝授されたことに始まる。 |
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佐竹北家の城主に手厚く保護を受けた樺細工は、下級武士の副業として広まった。明治時代に入ると、禄を失った武士が収入を得るために本格的に取り組んだことで、今日の原型といえる作品が作られるようになったという。 |
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角館の |
樺細工 |
創始者・藤村彦六作(伝)の「蛸入三段印籠」/角館町伝承館 |
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角館の地場産業として定着した樺細工は、胴乱*(どうらん)や印籠が主で、参勤交代の土産物に所望されたともいわれる。近代民衆工芸運動の先駆者である柳宗悦(やなぎ・むねよし)は、「日本固有のものである」「日本の木でもある桜が使われている」と高く評価。角館が唯一の産地である樺細工は、一時廃れそうになったものの、角館の商人と職人の手によって現在に受け継がれている。 |
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*胴乱:革や羅紗布などで作った方形の袋。薬・印・煙草・銭などを入れて腰に下げる。 |
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松本家は、足軽や中間などの下級武士の家である。門柱を二本建て、柴垣で屋敷を囲んだ簡素な造りをしている。杉皮葺きの置石屋根が特徴。松竹映画「たそがれ清兵衛」のロケで使用されたという。 |
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平成20年(2008)4月24日(木)に訪れた角館は、春雨が降り、地面は散り桜で覆われていた。雨天で平日のため観光客も少なく、そのお陰で、無人の武家屋敷通りや桧木内川提(ひのきないがわつつみ)を撮影することができた。 |
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桧木内川の堤防に約400本のソメイヨシノが延長約2kmにわたり見事な桜並木をつくっている。花のトンネルとしては名実共に日本一で、国の名勝に指定されている。シダレザクラと合わせて、さくら名所100選の一つである。 |
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