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か ん お う |
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平成20年(2008)4月20日(日)空路福島空港に入り、2泊3日の日程で、福島県と山形県の桜の名所を訪ねた。 |
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三春藩の城下町として知られる福島県田村郡三春町(みはるまち)はシダレザクラの町。咲き誇るシダレザクラは約2000本、中でも根尾谷(ねおだに)の淡墨桜(うすずみざくら)(岐阜県本巣市(もとすし))と実相寺の神代桜(じんだいざくら)(山梨県北杜市(ほくとし))と共に日本三大桜と称される三春滝桜は、国の天然記念物に指定された名木である。 |
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平成2年(1990)には「新日本名木100選」の名木ベスト10に選ばれ、桜の名所ランキングでは常に第1位の評価を得ている。 |
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例年、4月中下旬にかけて開花のピークを迎え、滝を思わせる美しい姿をひと目見ようと、全国から20万人もの見物客が訪れるという。樹高12m、根回11m、幹周 9.5m、枝張は東西22m、南北18m。 |
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天文年間(1532〜55)に植えられたと伝えられる三春滝桜は、天保(てんぽう)(1830-1843)の頃、歌人・加茂季鷹(かものすえたか)の歌によってその名を知られ、三春藩主の御用木として、周囲の畑の税を免じ、柵を設けて保護された。 陸奥(みちのく)に みちたるのみか 四方八方(よもやも)に ひびきわたれる 滝桜かも 加茂季鷹 |
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会津若松市は、福島県西部の会津地方に位置する人口約19万人の中核都市。江戸時代には会津藩の城下町として盛え、現在は歴史上悲劇の舞台となった鶴ヶ城(若松城)や白虎隊などで知られる。 |
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文久2年(1862)、会津藩主松平容保(まつだいら・かたもり)は京都守護職に任ぜられ、尊王攘夷派の志士の取締りや京都の治安維持を担ったが、長州藩を初めとする倒幕派の恨みを買うことになった。慶応4年(1868)、戊辰(ぼしん)戦争が勃発すると、会津藩は攻撃の対象とされた(会津戦争)。新政府軍は若松城下にまで侵攻し、城が炎上したと見誤った白虎隊が飯盛山(いいもりやま)で自刃するなどの悲劇が起き、城下町の大半が灰燼に帰した。 |
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白虎隊は、会津戦争に際して会津藩が組織した15歳(16歳とも)から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊などがある。 |
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会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられた。なかでも最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保(まつだいら・かたもり)の護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原(とのくちはら)の戦いで決定的な打撃を受けて潰走(かいそう)し、戦死者も少なからずあり、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山(いいもりやま)へと落ち延びた。 |
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しかし、戦闘により町が炎上している様子を見て若松城が落城・炎上したものと誤認し、総勢20名が飯盛山で自刃、一命を取り止めた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)を除く19名が死亡した。 |
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実際に城は落ちておらず、途中はぐれた庄田保鉄らはその後、若松城に入城できた。 彼らは士中一番隊の生存者と共に合同隊を組織して西本丸を守り、籠城戦は1ヵ月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。 |
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その後、飯沼貞吉(貞雄)は電信技士として維新後を生き抜き、昭和6年(1931)に79歳で没した。彼が飯盛山での出来事について重い口を開いたのは晩年で、そこから白虎隊の最期の様子が後世に伝わることとなった。 |
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飯沼貞吉の証言により明らかとなった19名の落城誤認による自刃ばかりが「悲劇の白虎隊」として何度も映像化されてきた経緯があるためか、実際には全体の8割以上の290名の若者が生き延びたことは、余り知られていない。生存者が多かったのは、新しい時代に向けて、追い腹を切る事を禁じられたからだといわれている。 |
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会津若松市追手町(おうてまち)にある若松城は、地元では鶴ヶ城と呼ばれ、観光名所として知られる。地元以外では会津若松城と呼ばれることも多い。文献史上では黒川城(くろかわじょう)、会津城とされることもある。国の史跡としての指定名称は、若松城跡(わかまつじょうあと)となっている。 |
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つるがじょう ひげきにちりし はなきょうも |
Tsurugajyo castle,
Today's blossoms once fallen in tragedy. |
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