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鶴ヶ城は、福島県会津若松市追手町にある。他県にも鶴ヶ城があるので、管理者である(財)会津若松市観光公社のパンフレットには、史跡若松城跡(しせき・わかまつじょうあと)「会津 鶴ヶ城」と表示されている。文献では若松城、黒川城、会津城と表記されることもある。 会津・鶴ヶ城公式サイト |
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資料:Google Earth |
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鶴ヶ城は、旧市街地の南端にあり、郭内(武家屋敷)と町屋敷が外濠で隔てられ、郭内に内濠を持つ平山城である。城跡は都市公園鶴ヶ城公園となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されている。 |
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鶴ヶ城の濠
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史跡外の三ノ丸跡には、陸上競技場と市営プール、福島県立博物館がある。また、再建された天守は若松城天守閣郷土博物館となっているが、パンフレットには、鶴ヶ城天守閣と表示されている。 |
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巨大な岩石を積んだ鶴ヶ城の石垣
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約600年の歴史を有する鶴ヶ城は、至徳元年(1384)葦名直盛(あしな・なおもり)が東黒川館を建てたことにはじまり伊達、上杉、保科、松平など8家が城主となって幕末を迎えたが、戊辰戦争の際、約1ヶ月の籠城戦で天守閣が小破し、明治7年(1874)陸軍省の命令で取り壊された。 |
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昭和9年(1934)国の史跡に指定された後、昭和40年(1965)現在の天守閣が昔の姿そのままに復元された。 |
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鶴ヶ城のマップ
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会津若松の本格的な町作りは、天正19年(1591)、蒲生氏郷(がもう・うじさと)の入城から始まった。氏郷は織田信長の後継者とさえ目された非凡な武将であったが、秀吉が天下を取ると、その力量を怖れた秀吉によってこの会津に追いやられたという。 |
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赤い欄干が美しい鶴ヶ城
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氏郷は七層の天守閣を築くと共に、町作りに着手。信長の「楽市楽座」を更に発展させて商人が税を取られず自由に商売が出来る「十楽」という制度を創設。産業振興策にも力を入れ、会津の伝統産業であった酒や漆器の基礎を築いた。それらは今も会津若松の重要な産業となっている。 |
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つるがじょう ひげきにちりし はなきょうも |
Tsurugajyo castle,
Today's blossoms once fallen in tragedy. |
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撮影:南光 優 |
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鶴ヶ城は、明治6年(1873)、明治政府により、一旦は存城処分と決定された。しかし、中央から派遣されていた当時の福島県令・澤簡徳は、「若松城は戊辰戦争の時の砲撃で相当痛んでおり、頑なで了見の狭い輩(旧会津藩士)がこの状況を見て悲愴感慨の情を起こすよりは、むしろ取り壊して陸軍の部隊を設置した方が費用をはぶくだけでなく、彼らの悲愴感慨の心を消すことができる。」旨記載した『旧若松城廃毀之儀ニ付建言』を上奏したため、翌年、天守閣をはじめとする建造物が全て解体されてしまった。 |
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もし、鶴ヶ城が保存されていれば、姫路城(世界遺産)、彦根城、犬山城、松本城と共に国宝の城となっただけに惜しまれる。この無慈悲な県令は、歴史の汚点として永遠に語り継がれることだろう。 |
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写真:フリー百科事典 Wikipedia |
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その後西南戦争で疲弊した明治政府は、財政再建の一環として全国の不要城郭を競売にかけたが、会津若松城は、「城跡には、戊辰戦争で亡くなった幾千もの魂が残っている。保存して千古の記念とすべきである。」として、一人の元会津藩士・遠藤敬止(七十七銀行頭取)が私財2,500円を投じて城跡の払い下げを受け、それをそっくり主筋(松平家)に返還し、一般企業への転売・流出を阻止した。 |
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昭和40年(1965)、悲願の鶴ヶ城天守閣が復興されたが、当時の会津若松市の年間予算(9億6千万円)に対し1億5千万円という莫大な再建費用は、会津市民の協力はもとより、地元を超えた企業からの寄付により賄われ、その原動力となったのは、全国各地で組織された会津出身者による「会津会」だったという。 |
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鉄門 |
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南走長屋 |
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干飯櫓 |
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はるやはる あかきかわらの しろありき |
The spring of springs, there was a castle of red roof tiles. |
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寒さに強い赤瓦で葺かれた |
南走長屋 |
と |
干飯櫓 |
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江戸時代の寛永4年(1643)、会津は徳川直系松平氏の統治するところとなり、やがて悲劇の戊辰戦争に至る。 |
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「幾人の 涙はいしに そそぐとも その名は世々に 朽(くち)じとぞ思う」 |
これは、幕末の藩主松平容保(まつだいら・かたもり)が戊辰戦争で自害した白虎隊を弔った歌である。 |
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鶴ヶ城の北方にそびえる |
磐梯山 |
と |
飯盛山 |
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磐梯山(1,819m) |
飯盛山(314m) |
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白虎隊は、会津藩が組織した15歳(16歳とも)から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊などがある。飯盛山(いいもりやま)に落ちのびた20人の少年たちは、押し寄せる西軍(会津では官軍と呼ばないという)が城下に放った火を落城と錯覚し、もはやこれまでと覚悟して、いさぎよく自決した。 |
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撮影:南光 優 |
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その結果、一命を取り止めた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)を除く19名が死亡。飯沼の証言により明らかとなった19名の自刃が「悲劇の白虎隊」として後世に語り継がれ、幾度となく映画やテレビに取り上げられてきた。 |
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白虎隊十九士の霊神像/ |
宇賀神堂 |
(飯盛山) |
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撮影:南光 優 |
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会津若松の基礎を造った蒲生氏郷(がもう・うじさと)は、利休十哲の筆頭に数えられた一流の文化人で、秀吉の命令で切腹した千利休の子・少庵を会津に匿(かくま)い、茶道千家再興に力を尽くした。その少庵ゆかりの茶室「麟閣」が場内の一角に復元されている。 |
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麟閣は、少庵が会津に匿(かくま)われていたときに、氏郷のために造ったものといわれ、戊申戦争後は、地元の茶人宅に保存されていたが、平成2年(1990)、会津若松市が市制90周年を記念して元の場所に移築・復元した。 |
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麟閣の裏手に荒城の月碑がある。昭和21年(1946)、荒城の月は、土井晩翠が鶴ヶ城と仙台の青葉城をモチーフに作詞したことが判明したことから、翌年、有志による詩碑建設会が発足し、同年6月5日、土井晩翠夫妻の来賓の下に「荒城の月碑」の除幕式が行われた。この碑には、土井晩翠直筆の歌詞が記されている。 |
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