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初日は、大内宿から南下し、会津高原・高杖(たかつえ)温泉にあるホテルで一泊した。会津高原は、観光開発のために名付けられたもので、福島県会津地方の南西部に広がる標高約1,000mの高杖温泉や高杖スキー場周辺一帯を指すが、1500m級の急峻な山や山地を多数含む広い山間エリアを高原と称している。 |
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会津高原 |
高杖 |
温泉(標高985m)の朝 2009.3.9 07:25 |
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会津高原は、越後三山只見国定公園と尾瀬国立公園、奥羽山脈に囲まれる観光地で、阿賀川(阿賀野川)とその支流で尾瀬を水源とする只見川や伊南川(いながわ)が深い谷を刻み、多くのダムが建設されて日本有数の水力発電による電源地帯ともなっている。 |
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早朝のスキー客
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会津若松市は、福島県西部の会津地方に位置する人口約19万人の中核都市。江戸時代には会津藩の城下町として盛え、現在は歴史上悲劇の舞台となった鶴ヶ城(若松城)や白虎隊などで知られる。 会津若松市公式サイト |
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資料:Google Earth |
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穏やかな晴天に恵まれた二日目は、会津高原から会津若松市に移動し、最初に会津武家屋敷を見学した。ここは戊辰(ぼしん)戦争で消失した武家屋敷のうち、家老・西郷頼母(さいごうたのも)邸を復元した観光スポット。復元された西郷頼母邸は、敷地面積2,400坪、建坪280坪に38室を有する大邸宅で、往時を偲ぶことができる。 |
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他にも旧中畑陣屋、茶室・麟閣(りんかく)を再現した茶室領南庵や坂本龍馬を暗殺した張本人ではないかとされている佐々木只三郎の墓などがある。 会津武家屋敷公式サイト |
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ぶけやしき めぐるあいづの はるあさし |
Early spring in Aizu, going around a samurai residence. |
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姿三四郎 |
のモデルになった西郷四郎の銅像 |
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家老屋敷の入口のそばに、富田常雄の長編小説「姿三四郎」のモデルになった西郷四郎の銅像がある。彼は会津藩士・志田貞二郎の三男として会津若松に生まれ、3歳のときに戊辰戦争を逃れるため家族で津川(現:新潟県阿賀町)に移住。16歳で会津藩家老・西郷頼母の養子となった。 |
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明治15年(1882)上京し、成城学校(新宿区原町)に入学、天神真楊流(てんじんしんようりゅう)柔術の井上敬太郎道場で学ぶ間に、同流出身の嘉納治五郎に見いだされ、講道館へ移籍。 |
明治19年(1886)警視庁武術大会で講道館柔道が柔術諸派に勝ったことにより講道館柔道が警察の正課科目として採用され、現在の柔道の発展の起点となった。西郷はこの試合で戸塚派揚心流に勝ち、勝利に貢献した。 |
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写真:フリー百科事典 Wikipedia |
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西郷の得意技は「山嵐」だが、足指が吸盤のような強い力を持つタコ足を生かし、相手の足を刈る技の切れは圧倒的に鋭かったといわれる。これは幼少の頃から漁船で仕事をしていた影響で身についたものという。 |
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現在でも小柄で強い柔道家を「○○三四郎」と呼称するのは、西郷がモデルとなった「姿三四郎」の影響である。 |
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家老屋敷の入口
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西郷家は会津藩松平家譜代の家臣で、代々家老職をつとめ、1,700石取りの家柄だった。幕末の当主は、頼母近悳(たのも・ちかのり)で、戊辰戦争の際、恭順論や藩主の京都守護職辞退を進言したものの容れられず、その後、数奇な運命をたどった。西郷一族21人の自刃の悲話は、今に語り継がれている。 |
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幕末の会津藩家老 |
西郷頼母近悳 |
の肖像写真 |
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資料 |
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西郷頼母邸などの武家屋敷は、往時は鶴ヶ城の周辺にあったが、戊辰戦争で焼失してしまったため、焼け残っていた家屋を松平家の墓所があるこの山麓に移築して復元したものという。 |
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家老屋敷の式台玄関
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西郷頼母(天保元年(1830)〜明治38年(1903))は、万延元年(1860)、33歳で家督と家老職を継いで藩主・松平容保(まつだいら・かたもり)に仕えた。文久2年(1862)、容保が幕府から京都守護職就任を要請されたとき、政局に巻き込まれることを恐れて容保に辞退するように進言したため、容保の怒りを買う。その後、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説くが認められず、国許で家老を解任され、蟄居(ちっきょ)する。 |
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明治元年(1868)、戊辰戦争が起きると容保(かたもり)から家老職復帰を許された。このとき、頼母をはじめ主だった家老や若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順を勧めたが、新政府側の要求は容保親子の斬首であった。 |
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やむなく頼母も白河城にて新政府軍と戦ったが、新政府軍の攻撃を受けて白河城は落城し(白河口の戦い)、別の峠を守っていたが、母成峠(ぼなりとうげ)が占領され、城下へ新政府軍が攻め寄ると、頼母は会津若松城に帰参し、再び恭順を勧めた。 |
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しかし、会津藩士の多くは頼母の進言を聞き入れず、なおも新政府への抗戦を主張したため、一子吉十郎と共に城を脱出し、藩主容保か家老・梶原平馬の命令で差し向けられた暗殺者の目を潜りぬける。その後榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦ったが、母や妻子など一族21人は頼母の登城後に自刃した。 |
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頼母は、箱館戦争で降伏後、館林藩に幽閉されたが、赦免後、明治4年伊豆松崎に行き、郷学謹申学舎塾長を務め、3年後に福島に戻って棚倉の都々古別(つつこわけ)神社宮司となったが、西南の役を起こした西郷隆盛との交流がきっかけで解雇。以後、日光東照宮宮司となった容保(かたもり)のもとで禰宜(ねぎ)を務め、明治36年(1903)会津若松で死去。享年74歳。 |
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幕末の第9代会津藩主 |
松平容保 |
の肖像画 |
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写真:フリー百科事典 Wikipedia |
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松平容保は、江戸時代末期の大名・陸奥国(むつのくに)会津藩9代目で最後の藩主。水戸藩主徳川治保(はるもり)の子孫。井伊直弼(いい・なおすけ)暗殺後、朝廷や薩摩藩の後援で将軍後継となった一橋慶喜(徳川慶喜)が文久の改革を開始すると、文久2年(1862)に新設の幕政参与に任ぜられ、のち新設の京都守護職に推される。 |
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元々病弱な体質で、このときも風邪を引いて病臥していた容保は、はじめ家臣の西郷頼母らの反対により固辞するも、やがてそれが噂になり、面子がなくなった容保は、この大役を引き受けることとなった。これは明らかに貧乏くじであり、後の会津の悲劇へと繋がっていった。 |
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西郷頼母一族の集団自決は悲惨を極めた。頼母の母をはじめ、妻や娘はことごとく自害して果てた。小さな子供はこれから何が起きるかも分からずニコニコしている。頼母の妻千重子(ちえこ)は、我が子を刺し殺し、自ら胸を刺して武士の妻としての最後を成就した。 |
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一族が自決した直後、土佐藩士中島信行小隊長率いる一隊が西郷邸に突入した。彼らは一族がことごとく自ら果てた悲惨な光景に驚愕。中島は、その中でまだ死にきれずうめいている女を見つけた。千重子の長女・細布子(たいこ)であった。自ら刺したが、死に切れないでいた。 |
細布子は中島を見て「敵か?味方か?」と問うた。意識のもうろうとした彼女は、彼が官軍の人間だということも判断できなかった。中島は、「味方です」と答えると、彼女は安心した表情になり、懐の刀を差し出し、介錯をするよう頼んだ。まだ16歳の少女に介錯を頼まれ、さすがの中島も涙ながらに引き受けたという。 |
妻千重子(ちえこ)の辞世の句: なよ竹の 風にまかする 身ながらも 撓(たわ)まぬ節(ふし)は ありとこそきけ |
【意訳】弱いなよ竹のように吹く風にゆれ動くばかりの弱い女の身だが、そのなよ竹にもどんな強風にも曲がらない節があると聞く。(私も節義に殉じて一死を選ぶ)。 |
会津若松市北青木の善龍寺には殉難婦女233名の氏名が刻まれた「奈与竹の碑」が建ち、同寺に西郷頼母夫妻らの墓がある。頼母一族自決のシーンは、会津武家屋敷にて人形により再現されている。 |
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西郷頼母一族の自刃
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