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昼食は、ツアーバスで北上し、喜多方ラーメンを食べた。喜多方市は会津地方の北部に位置し、かつては北方(きたかた)と呼ばれていた。蔵とラーメンと桐で有名で、特に喜多方ラーメンは全国的に名が知られ、札幌、博多と並んで日本の三大ラーメンのひとつに数えられることもある。 |
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近年は、太極拳のまち、グリーンツーリズムのまちとしても知られている。 また、合併によって喜多方市になった山都町(やまとまち)は、蕎麦(そば)の里として全国的に有名。 |
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資料:Google Earth |
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飯豊山(いいでさん)は、越後山脈北部にある飯豊連峰の主峰であり、飯豊本山(いいでほんざん)とも呼ぶ。磐梯朝日国立公園に位置し、山形県と新潟県の県境にあるが、南東麓の福島県側から山頂を経て御西岳に至る登山道付近は喜多方市である。飯豊連峰の主峰は飯豊山(標高2,105m)であるが、最高峰は大日岳(標高2,128m)である。 |
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飯豊連峰 |
の主峰 |
飯豊山 |
(標高2,105m)/喜多方市 |
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民謡「会津磐梯山」で知られる磐梯山(1,818.6m)は、福島県耶麻郡(やまぐん)猪苗代町(いなわしろまち)、磐梯町(ばんだいまち)、北塩原村(きたしおばらむら)にまたがる山で、会津富士(あいづふじ)、会津磐梯山(あいづばんだいさん)とも呼ばれ、日本百名山の一つに数えられる。 |
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残雪の |
会津磐梯山 |
(1,819m) |
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猪苗代湖(いなわしろこ)の北にそびえる活火山で、主峰・磐梯山のほか、赤埴山(あかはにやま)(1,430m)、櫛ヶ峰(1,636m)を含めて「磐梯山」としている。磐梯高原を含めて磐梯朝日国立公園に属する。元は「いわはしやま」と読み、「天に掛かる岩の梯子(はしご)」を意味する。数万年前から山体崩壊を起こし、猪苗代湖をつくった。
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野口英世記念館
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磐梯山と猪苗代湖に挟まれた猪苗代町に野口英世記念館がある。野口英世が西アフリカで殉職した昭和3年(1928)東京の追悼会で、遺徳遺業の顕彰と生家の保存を目的として「野口英世博士記念会」が生まれ、昭和13年(1938)に財団法人としてスタートし、翌年、「野口英世記念館」が開館した。 野口英世記念館公式サイト |
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入口に建つ野口英世の銅像
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明治9年(1876)11月9日に生まれて上京するまでの19年間を過ごした生家は、建てられて200年近く経った今も当時の姿が保たれている。野口英世が火傷した囲炉裏(いろり)や上京するときに決意を刻んだ柱が今も残されている。 |
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野口英世(明治9年(1876)11月9日 - 昭和3年(1928))5月21日)は、日本の細菌学者。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。その他、ブラウン大学、イェール大学より理学博士を授与されている。称号はエクアドル共和国陸軍軍医監、名誉大佐。 |
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野口秀世を主人公とした子供向けの偉人伝が多数刊行されて「偉人の代表」ともいうべき存在となったため、医学研究者としては非常に知名度が高い人物である。2004年より発行されている日本銀行券のE号千円札の肖像になっている。 |
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野口英世は、黄熱病や梅毒等の研究で世界的に知られる。また、コッホから始まる細菌学的医学権威の最後の一人ともいわれる。ガーナのアクラで黄熱病原を研究中に自身も感染して51歳で死去したのが惜しまれる。 |
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細菌学の権威として著名な野口英世であるが、医学研究者としてのスタイルは、膨大な実験から得られるデータ収集を重視した実践派といえる。想定される実験パターンを全て完璧に実行し、尚且つその作業は驚異的なスピードと正確さをもって行われたという。 |
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この特異な研究姿勢から、当時のアメリカ医学界では野口を指して「実験マシーン」「日本人は睡眠を取らない」などと揶揄する声もあったという。この評価は本人も少なからず気にしていたようで、晩年になってから同僚に「自分のような古いスタイルの研究者は、不要になる時代がもうすぐ来るだろう」と語っていたと伝えられている。 |
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清作 |
(秀世)が1歳半の時に落ちて火傷をした |
囲炉裏 |
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野口英世の生家は、予想外に大きかった。座敷の柱には、彼が上京する際にその決意を彫り込んだ「志を得ざれば再び此の地を踏まず」の文字が今も残されている。 |
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館内の展示に母シカが息子・秀世に宛てた唯一の手紙がある。幼い頃に覚えた文字を思い出し、たどたどしいひらがなで、息子・秀世に帰って欲しいと訴えたもので、心を打たれる。 |
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↓決意が刻まれた柱
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野口英世記念館から猪苗代湖まで、斑雪(まだらゆき)の田畑が続いている。受付嬢に聞くと、湿地となっていて湖には出られないといわれたが、ぬかるんだ畦道を行けるところまで行った。 |
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母シカの愛情を一身に受けて育った清作少年にとって、忘れられない故郷は、磐梯山と猪苗代湖の恵みを受けて広がる美しい田園地帯だった。生家の板の間には、シカが猪苗代湖で採った小エビがムシロに干されていた。当時は貴重な蛋白源だったことだろう。残雪の磐梯山がとても美しく、旅情をかき立ててくれた。 |
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↓野口英世の生家 |
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いなわしろ ははのたはたに のこるゆき |
Inawashiro, the remaining snow of mother's fields. |
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