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2001年2月24日改訂

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01 ホワイトハウス

ホワイトハウス
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ホワイト・ハウス White House 公式にはアメリカ合衆国の首都ワシントン D. C.にある大統領官邸(の建物)を指すが、アメリカ国内の新聞などでは大統領およびその直属スタッフの代名詞として使われることが多い。むしろそのほうが普通である。所在地は、ワシントン D. C. 北西区、ペンシルベニア通り1600番地。地上4階、地下2階、東西50mの文字どおり真っ白に塗られたこの建物は、国家元首の官邸としては、たとえばイギリスのバッキンガム宮殿やロシアのクレムリン宮などに比べると、はるかに小さく、簡素といってよい。このことは、もともと大統領の私邸として建てられたためでもあるが、1790年代、新しい連邦首都に立法、行政、司法の各機関が設置された当時の大統領=行政府の地位を示しているともみることができる。しかし今日、ホワイト・ハウス対キャピトル・ヒル(連邦議会)の関係は、明らかに大統領優位であり、〈大統領の権力〉を意味するシンボル用語としての〈ホワイト・ハウス〉が日常的に多用される背景もそこにある。

 大統領の権限、機能の拡大とともに、大統領府Executive Office of the President の機構、人員も肥大化し、現在、ホワイト・ハウスの建物で執務するのは正副大統領とその直属スタッフだけであり、その他の国家安全保障会議、行政管理・予算局などはホワイト・ハウス西側に近接した大統領府ビルディング(新旧2棟)にその事務局がある。1792年に起工された最初の建物は建築家 J.ホーバンの設計によるジョージアン様式の邸宅建築で、1800年 J. アダムズ大統領がはじめて住んだが、第2次英米戦争中の1814年にイギリス軍による攻撃で炎上した。現在の建物は、その後数回の増改築を経ている。大統領の執務室や居住室のほか、国賓などを迎える際に使用される公式宴会場イースト・ルームをはじめ多くの部屋がある。一部は観光客にも公開されている。

 左の写真は、テレビでおなじみの場所である。ニュースキャスターがこの歩道に立ってしゃべるのだが、驚いたことに、この場所はホワイトハウスの裏側に当たっている。正面玄関は高い柵があり、このような絵がとれなないので、ここがベストポジションということになったようだ。  

02 リンカン・メモリアル

リンカン・メモリアル
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リンカン 1809‐65 Abraham Lincoln アメリカ合衆国第16代大統領。在職1861‐65年。ケンタッキーの農民の子に生まれ、インディアナ、続いてイリノイに移り、1831年からニューセーラムに住んだ。雑貨店経営、測量技師、郵便局長などの職を経つつ法律を勉強して弁護士となり、37年州都スプリングフィールドに移って法律事務所を開いた。その間、1832年にブラック・ホーク戦争に志願してインディアン討伐に参加、34年にはホイッグ党員として州下院議員に当選して8年間務め、42年にはメアリー・トッドと結婚した。

 1846年連邦下院議員に選ばれたが、対メキシコ戦争に反対し、そのうえメキシコから獲得する領土に奴隷制を認めないという〈ウィルモット条項〉に賛成したため、選挙民の不評を買い、1期でワシントンを去らなければならなかった。しかし54年のカンザス・ネブラスカ法の成立とともに、同法に反対して政治活動を再開、56年にはホイッグ党から共和党に移った。そして58年、イリノイ州連邦上院議員のいすを争って、民主党の S. A. ダグラスと7回にわたる公開討論会を開いた。

 リンカンの立場は、既存の奴隷州には干渉しないが、準州へのこれ以上の奴隷制拡大には反対する、というものであった。ちなみに、奴隷制をめぐって分裂する連邦の未来を憂えた〈分かれたる家は立つことあたわず〉という演説は同年の州党大会で行われたものである。この選挙で敗北したものの、彼は一躍全国に名を知られ、60年共和党は比較的穏健な彼を大統領候補に指名、リンカンは北部票の支持を得て当選した。

 しかし、リンカンの当選を南部奴隷制への攻撃とみた南部各州は次々に連邦を脱退し、61年2月アメリカ南部連合を結成した。彼は強くこれに反対し妥協せず、ここに南北戦争が始まった。〈私の最高の目的は連邦を救うことであって、奴隷制を救うことでも滅ぼすことでもない〉とする彼は、軍人によるかってな奴隷解放を厳禁した。しかし62年9月22日、軍司令官の権限で63年1月1日を期して占領地域の奴隷を解放する〈奴隷解放予備宣言〉を公布した。これは彼の指導力を批判しはじめた北部を結束させると同時に、イギリスの南部連合承認の動きを中止させたすぐれて政治的な行動であった。

 彼の政治手腕と U. S. グラント、W. T. シャーマン、P. H. シェリダン将軍らの軍事的活躍に助けられ、64年リンカンは大統領に再選される。65年3月4日の就任演説では、南北戦争の責任は南北両方にあると説き、〈何人に対しても悪意を抱かず、すべての人に慈愛をもって〉と、博愛と寛容の精神を訴えた。連邦維持を念願する彼の関心は、脱退した南部諸州の早期連邦復帰であり、南部に寛大な再建策を用意し、共和党急進派の厳しい再建策〈ウェード=デービス法案〉を拒否した。南部降伏直後の最後の演説で南部へ寛大であるように訴えたリンカンは、その2日後、65年4月14日、ワシントン D. C. のフォード劇場で観劇中、南部出身の俳優ブース John Wilkes Booth に撃たれ、翌日死亡した。

 リンカンは、合衆国の分裂を防いだ指導者、〈ゲティスバーグの演説〉にみられるようなアメリカ民主主義を体現する人物、最もすぐれた大統領として尊敬され評価されている。彼の死を悼んだホイットマンの《先ごろライラックが前庭に咲いたとき》(1866)をはじめ、サンドバーグの《エーブラハム・リンカン》全6巻(1926‐39)など彼をテーマとした文学作品も多数あり、1922年には彼を記念するリンカン・メモリアルがワシントン D. C. に完成した。

 日本では、最初の国定教科書《高等小学修身書》(1904年使用開始)第2学年用で、〈勉学〉〈正直〉〈同情〉〈人身の自由〉の各項で描かれているように、〈丸太小屋からホワイト・ハウスへ〉を実現した立身出世の人、奴隷を解放した正義の人、あるいは南北戦争に勝利をおさめた直後に暗殺された悲劇の人として知られている。しかし、とくに子ども向きに描かれたリンカン像は多分に道徳化、神話化されたものが多い。
 

03 ワシントンの地下鉄

ワシントンの地下鉄

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ワシントン Washington アメリカ合衆国の首都。コロンビア特別地区District of Columbia でもあり、二つの名称をあわせてワシントン D. C. と呼ばれる。名称は G. ワシントンと C. コロンブスをたたえたものである。

 どの州にも属さず、連邦議会の直轄地で、面積176km
2、人口54万3000(1996)。合衆国大西洋岸地帯のほぼ南北の中央、ポトマック川東岸に位置し、ニューヨーク、ボストンを含むアメリカ・メガロポリスの南端を占める。ワシントン D. C. は、連邦議会議事堂(アメリカ国会議事堂)、大統領官邸(ホワイト・ハウス)、最高裁判所をはじめ政府関係官庁舎が多いのは当然であるが、そのほかワシントン記念碑、リンカン記念堂、ジェファソン記念堂、アメリカ議会図書館、スミソニアン協会傘下の自然史博物館と航空宇宙博物館、国立美術館(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)、国立公文書館、長大な遊歩公園など名所、公共施設が多い。

 加えて、ポトマック川対岸の桜並木、近郊の G. ワシントンの邸宅マウント・バーノンなどもあり、観光客の往来が多い。ニューディールおよび第2次大戦以来、連邦政府機構の巨大化に伴い、近郊のアーリントン(バージニア州)なども実質的に首都圏に含められるようになった。地域的に南部に属し、かつ連邦直轄地であるために南北戦争後南部諸州と異なって人種差別立法が設けられなかったことも手伝い、黒人が地区人口の約70%(1980)を占める。彼らはおもに東部に集中しており、これとは対照的に西部のジョージタウンなどは白人の高級住宅街である。

 1787年起草の合衆国憲法第1条8節17項で〈合衆国政府の所在地たるべき地区〉の設定が規定されたが、場所についてはとくに定めていなかった。ちなみに、初代大統領 G. ワシントンの就任式は89年4月ニューヨーク市で行われている。連邦制の下で中央政府の所在地については、各州はいずれも敏感たらざるをえなかったが、南北の妥協により、90年連邦議会は南北のほぼ中央南部寄りの、ポトマック河畔の一画とすることを定めた。翌年ワシントン大統領自身が10マイル平方の地区を指定し、メリーランド、バージニア両州より土地を譲り受け、フランス人技師ランファンPierre Charles L’Enfant 少佐の下で都市計画がつくられた。

 ワシントンは都市計画に基づいてつくられた近代最初の首都である。93年9月議事堂の礎石が置かれ、1800年4月合衆国政府は臨時首都フィラデルフィアより未完成の新都に移転し、1801年第3代大統領 T. ジェファソンの就任式はワシントンで行われた。1796年に正式名称として〈コロンビア特別地区〉が採用されたが、ワシントンという呼称も用いられた。

 1802年、同特別地区は〈ワシントン市 City of Washington〉としての法人格を与えられ、市議会をもつに至るが、74年には自治権を奪われた。同年、ポトマック川以西の地域をバージニア州に返還し現地区に落ち着いた。州とは異なり、ワシントン D. C. は大統領および連邦議会議員選出のための選挙権をもっていなかったが、前者は1961年の憲法第24修正で実現し、70年には下院議員1名の選挙権を与えられた。

 さらに74年には、財政は連邦議会の管轄下に置かれたものの市としての自治権を認められて市長と市議会が設けられた。82年〈ニューコロンビア州〉創設の運動により州憲法が住民投票により採択されたが、連邦議会はこの合衆国51番目の州を承認していない。
 

04 アーリントン国立墓地

アーリントン
国立墓地
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アーリントン国立墓地 Arlington National Cemetery アメリカ合衆国バージニア州北部、アーリントン郡にある国立墓地。面積約2km2。ポトマック川を挟んで首都ワシントンと接する。約6万人の戦死軍人と無名戦死者および政府高官が埋葬されている。第27代大統領 W. H. タフト、第35代大統領 J. F. ケネディ、彼の弟で上院議員であった R. F. ケネディなどがここに葬られている。

 無名戦士の墓の前で行われる衛兵の交代は観光名物となっている(写真)。この墓地はかつてのカスティス・プランテーション(J. P. カスティスは初代大統領 G. ワシントンの継子)の一部であり、1864年に開設された。墓地のある丘の上方には、南北戦争時の南軍の将軍 R. E. リーの記念館があるが、これはリーがカスティスの孫にあたるメアリーと結婚して住んでいた邸宅である。

 John F. Kennedy の墓のとなりに奥さんだったジャクリーンの墓がある。私には非常に奇妙に思える。彼女は、ダラスで主人が暗殺された後、ギリシャの大富豪オナシスと再婚したのに、死亡したときは、彼女の希望でアーリントンの前夫の墓のとなりに埋葬されたのだ。二人の墓の前で、私は複雑な心境でご冥福を祈った。

ケネディ 1917‐63  John Fitzgerald Kennedy アメリカ合衆国第35代大統領。在職1961‐63年。アメリカ史上最初のカトリック系の、そして最年少(43歳)で当選した大統領。1840年代ボストンに移住したアイルランド系移民の子孫で、父は成功した実業家であり、イギリス大使も務めた。ケネディは1940年ハーバード大学卒業、海軍に志願、南太平洋で魚雷艇の艇長として活躍した。

 第2次大戦後、政界入りを決意し、民主党候補として46年には下院議員に、52年には上院議員に当選する。ケネディの選挙戦は、アイルランド系移民を中心とする都市の大衆やリベラルなインテリを支持基盤に、民主党組織よりは自分の一族、友人を中心とする個人的組織、その豊かな個人的財産を活用することを特色としている。議員活動では、基本的には民主党の反共リベラル路線をとっていた。60年の大統領選挙に立候補、ニューフロンティアのスローガン、若さ、テレビでの巧みな演出などで、共和党候補ニクソンを
少の差ながら破って当選した。

 大統領としての治政は、63年11月ダラスで暗殺されるまで3年足らずであり、ことに内政面では具体的成果は少ない。老人医療、都市開発、教育援助、黒人への対等の市民権など計画は多くあったが、民主党保守派を含む議会勢力に阻まれて、彼の活動中には実現されなかった。むしろ比較的議会の束縛を受けない外交面で、大統領としての足跡を残したといえる。

 就任早々、キューバ侵攻問題でつまずいたが、ベルリン問題、キューバにおけるソ連ミサイル基地問題(キューバ危機)、核実験停止等でソ連フルシチョフ首相と激しく対立、渡り合いつつ、しだいに米ソ和解の道を切り開き、63年8月部分的核実験停止条約の調印にまでもっていった。他面、中国との外交正常化は残され、彼の政権の下で軍事顧問団の名で1万6000の軍人がベトナムへ派遣され、軍事介入が進められたことも忘れてはならない。ケネディがアメリカ史に残したものは、アメリカの国力の相対的低下を背景に、アメリカ〈全能〉の夢の終わったことをアメリカ国民に知らせ、外交への〈道徳主義的〉接近法を改めて、より現実主義的接近法をとらしめようとしたことであろう。

オナシス 1906‐75  Aristoteles Socrates Onassis 世界的な大船主。ギリシア領だったスミルナ(現、トルコのイズミル)に生まれたが、トルコ人による1922年のスミルナ占領でギリシア本国に難を逃れ、翌年アルゼンチンのブエノス・アイレスに渡った。電話会社に就職した後、タバコの輸入販売で富を築いた。30年にブエノス・アイレスのギリシア総領事に任命され、31年に6隻の中古船を購入してはじめて船主となった。

 当時、世界経済は大恐慌下にあり、海運業も船腹過剰による不況に悩んでいた。オナシスはこの時期の超安値で中古船を購入し、これを海運市況が回復するまで係船するという戦略をとった。これ以来、安値で中古船を購入し、これに安い賃金でギリシア船員を配乗して便宜置籍国に登録し、オナシス・ファミリー(同族企業グループ)で経営管理するという独特な経営方式で、不定期船市場にその地歩を固めていった。

 第2次大戦後はいちはやくアメリカ市民権をもつ2児の名義でニューヨークに海運会社を設立し、有利なアメリカ国有船の払下げとタンカー建造に対するアメリカ政府融資を受けて大きな成功を収め、一大海運王国を築き上げた。歌手のマリア・カラス、ケネディ元米大統領夫人ジャクリーンとの恋愛、結婚でも話題を提供した。なお、ギリシア船主の中には、古くからギリシア本国とは非常に関係の薄い特異な海運経営活動を展開している者が多く、この種の船主を一般にギリシア系船主と呼ぶ。

05 ヌアヌパリ

ヌアヌパリ

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ハワイ[諸島] Hawaiian Islands 太平洋中央部に位置し、アメリカ合衆国ハワイ州を構成する諸島。面積1万1641ku。火山性およびサンゴ礁の島々で、西北西〜東南東方向に、2400kmにわたってのびる。主要8島は、東からハワイ島、マウイ島、カホーラウェ島、ラナイ島、モロカイ島、オアフ島、カウアイ島、ニーハウ島で、同諸島東端部を占め、その他124の小島が西方に点在する。

 最大の島はハワイ島で、最高峰は同島のマウナ・ケア山(4206m)。ハワイ火山国立公園、ハレアカラ国立公園などがある。海洋性気候で、年間9ヵ月は貿易風の影響を強く受け、植物の種類は豊富である。ポリネシア人が住んでいたが、1778年キャプテン・クック(J. クック)が上陸、1795年から1893年までカメハメハ王朝のハワイ王国が統治していた。1898年アメリカ領に併合、1959年50番目の州となった。太平洋の十字路にあたるため交通・軍事上重要であり、サトウキビ、パイナップルを中心とする農業、漁業、観光業が主要な産業をなす。多人種の混住は人口構成の大きな特色である。ハワイという名称は、伝説ではポリネシアの西方にあるとされる、ポリネシア人の祖国ハワイキに由来する。
 
06 イオラニ宮殿

イオラニ宮殿

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ハワイ王国 19世紀にハワイ諸島を統一したカメハメハ王朝のこと。ポリネシア人は何千kmもの海を渡ってハワイに移住したが、その第1波は750年ごろマルキーズ(マルケサス)諸島から、第2波はタヒチ島からの大移動で13世紀ごろであった。タヒチ同様ハワイにも階層社会が形成されて貴族と平民に分かれ、平民が神の子孫とされる貴族と結婚することはできなかった。

 ハワイはいくつかの首長国に分かれ、それぞれにアリイ・アイモクと呼ばれる大首長が君臨していた。1778年3度目の探検航海の途上、J. クックはハワイを訪れ、彼のスポンサーの一人サンドウィッチ伯爵の名にちなんで諸島をサンドウィッチ諸島と命名した。翌年再訪したクックは、ボートを島民に盗まれたため大首長の一人を人質にしようとして、逆に殺されてしまった。指揮官を失ったクック隊は報復のために島民10名を殺し、150軒の家を焼き払って島を去った。当時ハワイの総人口は30万人に達し、数人の大首長によって分割統治されていた。

 やがて、ハワイに来る捕鯨船などから銃砲火器を入手したカメハメハが勢力を拡張していった。彼は1810年までに各島をつぎつぎに屈服させてハワイ統一を完成し、カメハメハ王朝を樹立した。カメハメハ大王は平民の地位を改善し、貴族や司祭の権利を制限した。カメハメハ2世以降の後継者たちも伝統的な神々の礼拝を禁じ、礼拝所を破壊するなどの手段で司祭階級の権力を奪い、王朝の安定に努めた。しかし、カメハメハ王朝は外部からの圧力に悩まされ続け、生き残るためにはアメリカ、イギリス、そしてフランスなどの外国勢力との均衡をはかるしかなかった。

 カメハメハ3世時代の1840年には、最初の憲法である立憲君主制憲法の制定に成功した。しかし、このころから本格化したアメリカのサトウキビ業者の入植などにより事態は困難の度を増し、サトウキビ業者たちはアメリカへの併合を推進する中心勢力になっていった。またハワイ人は農園労働者などとして移住してきた中国人や日本人などに職を奪われたうえ、外来者の持ち込んだ悪疫によって人口も激減し、独立の基盤を失ってしまった。93年リリウオカラニ女王がアメリカの圧力で退位させられてハワイ王国は倒れ、翌94年ドールを大統領とする共和国が誕生した。米西戦争に勝ったアメリカは1900年ハワイ併合を実現し、59年1月には50番目の州とした。

カメハメハ[大王] 1758‐1819  Kamehameha Nui ハワイ王国カメハメハ王朝の始祖。ハワイ島のコハラで長の家系に生まれ、同島とマウイ島のハナ地方を支配する大長で伯父に当たるカラニオプウの庇護のもとに育った。1778年キャプテン・クックがヨーロッパ人として初めてハワイ諸島に来航したおり、カラニオプウに随行してクックに会っている。

 1782年のカラニオプウの死後、内戦状態となったハワイ島を90年までに平定し、さらに遠征の兵を他の島々に送り、95年までにマウイ、カホオラウェ、ラナイ、モロカイ、オアフの各島を征服した。北のカウアイ、ニイハウの両島が服属し、ハワイ諸島の統一が完成するのは1810年のことであるが、通常1795年をカメハメハ王朝成立の年とする。カメハメハがハワイ諸島の統一に成功したことの陰には、ジョン・ヤング、アイザック・デービスという2人のイギリス人の助力と、フェア・アメリカン号という砲装をした洋式帆船の力があった。

 王国の統治に当たってカメハメハは知事職制をとり、配下の勲功のあった
長やヤングのような信頼できる外国人をこれに任じて各島の政治をゆだねる一方、自身はその上に絶対君主として君臨した。来航する外国船から港湾税を徴収し、当時のハワイの重要産物である白檀(びやくだん)の貿易を政府の独占とすることなどによって財源を確保し、王国の基礎の確立につとめた。欧米の文明を積極的に導入する一方、宗教と日常的な生活慣習に関しては頑固なまでに伝統主義者であり、カメハメハの治世は、文明化へ向けて始動しつつも、なお伝統文化が生活を支配した時代であった。

カメハメハ[3世] 1814‐54  Kamehameha III ハワイ王国カメハメハ王朝第3代の国王。カメハメハ大王の息子で、前王カメハメハ2世の弟に当たる。前王の死去に伴って即位し、その治世(1825‐54)はほぼ30年にわたり、ハワイ王国歴代諸王の中で最も長い。ハワイが立憲王国となり、代議制の国会が開設されたのは彼の治世においてである。1840年に憲法を発布し、45年には首都をホノルルに定めた。

 立法、行政、司法の諸制度を整備して近代国家の体裁を整え、従来国王の独占にゆだねられていた土地所有の権利を人民一般に解放した〈大マヘレ〉(マヘレはハワイ語で〈分割〉の意)を断行したのも彼である。当時盛況をきわめた太平洋捕鯨の機運に応じて、ハワイの捕鯨関連産業を振興し、王国の経済的基盤を固める一方、対外的にも英・米・仏の列強からハワイ王国の承認をとりつけるなどの事績を残した。

07 ワイキキビーチ

ワイキキビーチ

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ハワイ[州] Hawaii 太平洋中央部にあるアメリカ合衆国の州。略称Ha.。ハワイ王国の没落後、1898年にアメリカ領、1900年に準州となり、59年に連邦加入、50番目の州となった。面積1万6705kuで、四国よりやや狭い。人口118万(1996)。州都・最大都市ホノルル(オアフ島)。

 八つの主要な島(ハワイ、マウイ、カホーラウェ、ラナイ、モロカイ、オアフ、カウアイ、ニーハウ)と120以上の小島からなるハワイ諸島(北西端のミッドウェー島は含まない)が北回帰線をはさんで全長約2400kmにわたって連なる。狭義のハワイ諸島は、そのうち主要な八つの島の範囲である。ハワイ島南端のカラエ岬(〈南岬〉の意)は北緯18
56 でアメリカ合衆国の最南端にあたる。

 これら8島は火山性で、南にあるものほど新しく、ハワイ島のマウナ・ロア山やキラウェア山は活火山として有名。最高峰はハワイ島のマウナ・ケア山(4206m)で、山頂部では冬に積雪があり、スキーも可能である。海岸には随所にサンゴ礁や溶岩の岩石海岸が見られ、常夏の強い太陽光線と相まって、美しい海岸景観を展開する。

 北東貿易風の卓越する熱帯にあるため、火山の北東斜面は熱帯雨林気候となっており、カウアイ島のワイアレアレ山頂では年降水量1万1445mmを記録しており、世界最多雨地の一つといわれる。しかし、風下の南西斜面は乾燥し、サバンナ気候で快適である。ホノルルで記録された最低気温は13.3℃、最高気温は31.1℃、年平均気温23.3℃。列島北西部のリシアンスキー島やライサン島は海鳥の宝庫である。

 一年中穏やかな気候に恵まれた島々は〈太平洋の十字路〉と形容される位置にあって、先住民であるポリネシア系をはじめ、アジア系、白人系などさまざまな要素が混交した文化をはぐくみ、その独特の異国情緒が多くの観光客を魅了している。

 別名〈アロハ・ステート Aloha State〉と称され、歓迎・別離のあいさつや愛情の表現にも用いられるハワイ語の〈アロハ〉ということばが、住民の気風を象徴している。

 1778年にキャプテン・クックが目撃したサーフィン、渡来した宣教師が女性の腰みのを改めさせるために考案したムームー、サトウキビのプランテーションで働いたポルトガルの労働者が持ちこんだ民俗楽器マシェーテ(ギターの類)が原形となったウクレレを用いるハワイアン音楽(ちなみに、《アロハ・オエ》(〈あなたに愛を〉〈さようなら〉の意)はハワイ王国最後の女王リリウオカラニ女王自身の作詞になる)や明るい原色のアロハ・シャツなど、ハワイが生みだしたものの多くが、〈人種のるつぼ〉と呼ばれるハワイ文化の性格を物語っている。

 現在、ハワイ経済の主柱は観光である。合衆国本土、日本、西ヨーロッパなどから1年間に州人口の4倍以上にのぼる436万8000人(1983)もの観光客が訪れ、海浜でのレクリエーション、壮大な火山景観、豊富な熱帯植物をはじめ、芸能や食事を楽しんでいる。ホノルル、ワイキキ海岸をはじめ、ハワイ火山、ハレアカラ両国立公園が観光の中心である。

 一方、アメリカの軍事戦略上の要衝であるハワイには、パール・ハーバー(真珠湾)をはじめ各地に巨大な海軍、空軍などの基地が配置され、オアフ島には全太平洋地域の総司令部がある。軍人およびその家族は12万7800人(1982)にのぼり、連邦政府の軍事費がハワイ経済にとって観光に次ぐ大きな収入源となっている。

 農業では、サトウキビ、パイナップルなどがプランテーションで栽培されるほか、ハワイ島では大規模な牛の放牧がみられる。サトウキビを原料とする製糖業は19世紀半ばからハワイ王国の経済を支える主産業で、中国、日本、ポルトガル、朝鮮などからの移民労働者が白人の経営するプランテーションの労働に従事した。また1900年代初頭から缶詰の企業化が始まったパイナップルの栽培は、生産高の90%が3社のプランテーションで独占され、機械化された栽培技術によって、世界最大のパイナップル生産地に成長した。また、先住民の主食であるポイの原料になるタロイモも栽培されている。

 ハワイはアメリカ合衆国で白人が過半数を占めない唯一の州である。混血が盛んなため正確な人種・民族統計は得られないが、ハワイ州政府の1986年の統計では、白人系が23%強、これに次ぐのが日系人の23%、3位がポリネシア系先住民ハワイ人(混血を含む)21%、フィリピン系11%、中国系5%、アフリカ系(黒人)2%、朝鮮系1%、その他13%である。

 全米50州のうち日系人が最も多い州で、政治、経済、文化の各方面で活躍している。1868年に日本移民の第1陣が到着し、85‐94年には日本とハワイ王国との政府間契約による約2万9000人の官約移民が入植した。当初は出稼ぎ意識をもち、一世には日本への帰属感が根強く保たれた。1941年、日本海軍の真珠湾奇襲攻撃で排日感情は頂点に達した。しかし、ヨーロッパ戦線での二世部隊の犠牲的奮戦が、今日の各界進出にいたる新たな社会的評価の基礎となった。74年には初の日系人知事が選出された。また、観光施設などへの日本からの資本進出も盛んである。

 観光開発による環境汚染、生活物資を本土に依存することからくるアラスカに次ぐ物価高、民有地の9割が10ほどの企業などに独占されていることが招く地価の上昇、好不況に影響されやすい観光産業の不安定さ、本土からの移住者による人口急増の圧力などが現在のハワイ社会の抱えている問題として指摘することができる。

 また、1970年代以降、先住民族ハワイ人の伝統文化を復興させ、その権利を要求する運動が活発になり、米軍射撃場として接収されているカホオラベ島の返還運動(1975以降)、環境保護運動、ハワイ王国転覆100周年を控えた92年のイオラニ宮殿占拠事件などが起こっている。

 なお、ハワイ大学および付属のイースト・ウェスト・センター、ビショップ博物館は東西文化、太平洋圏文化の研究・教育機関として知られる。

08 ワイキキビーチ

ワイキキビーチ

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ハワイ[諸島] Hawaiian Islands 太平洋中央部に位置し、アメリカ合衆国ハワイ州を構成する諸島。面積1万1641ku。火山性およびサンゴ礁の島々で、西北西〜東南東方向に、2400kmにわたってのびる。主要8島は、東からハワイ島、マウイ島、カホーラウェ島、ラナイ島、モロカイ島、オアフ島、カウアイ島、ニーハウ島で、同諸島東端部を占め、その他124の小島が西方に点在する。最大の島はハワイ島で、最高峰は同島のマウナ・ケア山(4206m)。ハワイ火山国立公園、ハレアカラ国立公園などがある。

 海洋性気候で、年間9ヵ月は貿易風の影響を強く受け、植物の種類は豊富である。ポリネシア人が住んでいたが、1778年キャプテン・クック(J. クック)が上陸、1795年から1893年までカメハメハ王朝のハワイ王国が統治していた。1898年アメリカ領に併合、1959年50番目の州となった。太平洋の十字路にあたるため交通・軍事上重要であり、サトウキビ、パイナップルを中心とする農業、漁業、観光業が主要な産業をなす。多人種の混住は人口構成の大きな特色である。ハワイという名称は、伝説ではポリネシアの西方にあるとされる、ポリネシア人の祖国ハワイキに由来する。
 

オアフ[島] Oahu アメリカ合衆国ハワイ州の島。ハワイ諸島のなかで経済的に最も重要で、人口84万(1990。州総人口の75%)、面積1531km2(ハワイ諸島中第3位)。火山性の島だが、活火山はない。南東〜北西方向に2列の山脈が走り、その間に標高250〜300mの平原が広がる。サンゴ礁に恵まれ、南東沿岸部には州都ホノルル、ワイキキ海岸、ダイヤモンド・ヘッドがあり観光業が発達する。サトウキビ、パイナップルを中心とした農業も重要。日本人が多く移住した所で、南岸部には1941年の日本軍の急襲で有名なパール・ハーバー(真珠湾)がある。

サーフィン surfing 本来は波乗りのことであるが、現在は、浮力のある板(サーフボード)を使って沖合から波打ちぎわまで波乗りをする海のスポーツを意味するのが一般的である。1人でボードのみを使うもののほか、カヌーのようにパドル(櫂)を用いるサーフスキーや4人乗りの大型のサーフボードもある。ポリネシアの人々の古くからの遊びがその起源だといわれ、ハワイ諸島ではとくに活発に行われていた。1778年にハワイを訪れたキャプテン・クックが、そのようすを記録している。

 その後、1821年にヨーロッパからやってきた宣教師によって不道徳な遊びとして禁止されたが、20世紀に入ってから復活した。とくに、ハワイ出身でオリンピックの水泳100m自由型優勝者カハナモク Duke Kahanamoku が、1920年ワイキキに初めてサーフィン・クラブを作って以来、アメリカ本土でも愛好者が増加した。高波の打ち寄せる海岸ならばどこでもできるので、海水浴場の楽しみの一つとしてしだいに定着した。59年には、それまでの木製のサーフボードに代わって、ウレタンのボードが開発され、安価で軽く使いやすくなって普及に拍車がかかり、アメリカ、オーストラリアを中心に世界に広がった。

09 ハワイの結婚式

ハワイの結婚式

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[伝統音楽] ハワイ伝統文化において音楽が文芸、舞踊と結合した形で行われてきた点では他のポリネシア諸島と共通しているが、ポリネシアの中では例外的に楽器の種類が多い。ヤシの丸太をくりぬきサメ皮を張った片面太鼓パフ pahu、ヤシ殻に魚皮を張り膝に結びつける片面太鼓プーニウ pniu、巨大なひょうたんをマットの上で搗奏したり、指や手のひらで打奏するイプ ipu などは舞踊フラ hula の伴奏楽器として基本的である。

 おもに踊手自身が採物として手に持つ音具としては、2本の硬い木片を打ち合わせるカラアウkala’au、小さなひょうたんやヤシ殻の中に小石、種子を入れた羽毛飾つきがらがらとしてのウリーウリー ul
’ul、竹筒をのように細く裂いたささら竹を身体に打ちつけるプーイリ p’ili、2対の平らな石を両手に持ってカスタネットのように打ち合わせるイリイリ’ili’ili がそれぞれ特有の音色により変化に富んだ音響世界をつくり出す。

 こうした楽器の伴奏による歌唱メレ mele、また無伴奏の朗唱風歌唱オリ oli においては、自然知識、社会生活、恋愛、宗教に関連した歌詞が、ビブラートやグリッサンドの多用により表現力を与えられ、ひいては宇宙的な力すなわちマナを発揮すると考えられていた。多民族社会への移行とともに伝統音楽・舞踊は本来の社会機能から離れはしたものの、パフォーマンスの伝承はある程度進行し、とくに1970年代にはハワイアン・ルネサンス運動に乗って復興されている。
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ハワイの結婚式

ハワイの結婚式

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ホノルル Honolulu アメリカ合衆国ハワイ州、オアフ島南岸にある州都で最大都市。人口38万6000(1994)、大都市域人口86万(1992)。ホノルルとはハワイのポリネシア語で〈保護された湾〉という意味。1794年にイギリス船がここに白人として初めて到着したときには、ポリネシア人の小さな村があるにすぎなかった。その後港町として発展し、太平洋の捕鯨基地ともなった。

 1820年にはニューイングランドのプロテスタントの宣教師が布教を開始した。50年、カメハメハ3世の代にハワイ王国の首都となった。19世紀後半にはパイナップル、サトウキビの栽培が発展して、多数の移民労働者が集まった。ハワイは98年、アメリカ合衆国領となったが、その後もホノルルは中心都市として発展し、1959年のハワイ州成立とともに州都となった。まさにホノルルはハワイの顔であり、中心である。

 港湾機能はかなり後退したが、航空交通の要点としての役割は絶大で、太平洋中部最大の拠点となっている。西方のパール・ハーバー(真珠湾)の軍港もこの戦略的位置から重要視されている。常夏の気候とワイキキ海岸に見られるような美しい熱帯景観に魅せられて、世界各国とりわけ合衆国本土と日本からの観光客が集まる。

 住民はヨーロッパ系、日系、ポリネシア系、フィリピン系など多様であり、日本語もかなり通用している。文化施設には、ハワイ大学マノア校のキャンパス内にある東西比較文化の研究で知られるイースト・ウェスト・センター、太平洋圏文化のコレクションで知られるビショップ博物館やポリネシア文化センターなどがあり、多くの人をひきつけている。
11 ハワイの結婚式

ハワイの結婚式

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ハワイの結婚式 Hawaiian wedding ワイキキのハワイ最古のホテル「シェラトン・モアナ・サーフライダー・ホテル」に一週間ほど宿泊したが、土曜日と日曜日に地元市民のハワイアン・ウェディングがあった。いずれも夕方二階の部屋から、テラスで挙行された結婚式と披露宴をつぶさに見ることができた。ラッキーだった。

 1組はモヒガン頭の海軍兵士のカップル、もう1組は韓国系のカップルだった。ハワイの正装はアロハシャツに、長ズボン、それに革靴である。牧師がホテルまで出張のうえ挙式。介添え役に新郎新婦の友人がそれぞれ5名いる。

 挙式の後、引き続きその場にテーブルがセットされて披露宴が開かれた。ワイキキ・ビーチの水着姿の見物人もいて、ハワイならではののどかな結婚式だった。由緒あるこのホテルでの挙式が地元市民に人気があるという。 
12 ハナウマベイ

ハナウマベイ

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ハナウマベイ Hanauma bay ワイキキのホテルからは、乗り合いタクシーが便利。バスが運行されているが、本数が少なく、非常に込んでいて不便である。ハナウマベイに着くと、展望台から見た空と海の吸い込まれそうな青さにまず圧倒される。透明な海は珊瑚礁まで透けて見え、エメラルド・ブルーの宝石が輝いているようだ。

 潜らなくても、泳いでいる魚が透けて見えるほど海は綺麗だ。魚も逃げない。以前は餌をやってもよかったが、下に降りていくと暖かい海の中にびっくりするほど大きな魚が群をなして泳いでいるのが見える。スキューバ・ダイビング(ここではボンベをゴムボートに載せ海面を主体にダイビングする)のレンタルもあり、手軽に海中散策で熱帯魚や珊瑚礁を観察することができる。

 しかし、年々、観光客に踏まれることで珊瑚が死に、それによって魚の生態系が変わってきてしまっているという。そのため、以前は無料で入れたこのハナウマベイも今は入場料がとられる。管理料として一人3$。全面禁煙。毎週水曜日の午前中は清掃作業のため入場禁止。観光と自然保護とのバランスが難しいことを改めて思い知らされる。 
13 ハナウマベイ

ハナウマベイ

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スキューバダイビング scuba diving 水中で呼吸のできる機械スキューバを用いた潜水のこと。スキューバははじめは軍事目的、水中の捜索、学術研究のために使われた。スキューバを駆使して撮影したフランスの記録映画《青い大陸》は、日本にも紹介され、海中の景観の魅力を多くの人々に印象づけた。

 スキューバを用いたスポーツとしての潜水は、第2次世界大戦後アメリカ、ヨーロッパを中心にしだいに盛んになった。それは、潜水技術をもった軍人が退役して、潜水指導者となったことも一助となった。

 1952年ごろ日本にはじめて紹介されたときは、大戦中に敷設された機雷処理のためであったが、その後は海洋科学の研究のために、さらに60年代以降は、海洋レジャーの発展とともに、スポーツとしてのダイビング愛好者が急増した。それに伴い全日本潜水連盟をはじめとする潜水指導の団体がいくつも結成されて、スキューバダイビングの技術を教え、各団体ごとに初心者講習会を受けた人に認定証を発行するようになった。

 その取得者は、1996年末までの累計で73万人(発行団体は約40)に上っている。スキューバダイビングは、日本人のレジャー、レクリエーションの場を沿岸の海中にまで広げたが、一方で、ダイバーが貝類やエビ、カニなどをとることが大きな問題となり、漁業権の侵害としてダイバーを拒否する漁業組合も現れた。ダイバーの事故の問題とともに、漁業権の尊重ということも十分に配慮を要する課題である。
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日没のダイヤモンドヘッド
日没のダイヤモンドヘッド
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日没のダイヤモンドヘッド Sunset of Diamond Head 「ナバティック・ディナー・クルーズ」というオプショナル・ツアーに参加。夕刻、双胴船に乗りホノルルを出発。

 ワイキキビーチからダイヤモンド・ヘッド沖を通り、ハナウマベイの近くまで往復。船上で豪華なディナーを食べながらフラダンス・ショーを見る。

 太陽が丁度ダイヤモンド・ヘッドに沈み、絶好のシャッターチャンスとなった。時刻といい、船の位置といい、少しでもずれていれば左の写真は撮れなかっただけに、ラッキーだった。自然の荘厳さを感じた。 
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ポリネシア文化センター

ポリネシア文化センター
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7人の島人

7人の島人

ポリネシア文化センター  Polynesian Cultural Center ホノルルからバスで1時間半、オアフ島北東ライエにあるポリネシア文化を体験できるテーマパークである。広大な敷地内にポリネシアの島々、ハワイ、サモア、タヒチ、フィジー、トンガ、マルケサス、ニュージーランドの7地域の村が再現されている。

 各地域の伝統文化や生活に関する展示はもちろん、ショーやイベントも盛りだくさん。必見は夕食後のイブニング・ショー。こゝは、モルモン教が運営しており、ここで働く人の多くは隣接するブリガム・ヤング大学の学生だそうだ。

 入園料の一部はここで働く学生達の奨学金として利用されてるとのこと。モルモン教は禁酒を励行しており、我々観光客にもそれを押しつけていて、アルコール飲料を飲むことができない。今いち傲慢さを感じるが、しかし、ショー自体は掛け値なしに素晴らしい。圧巻は、サモアのファイアーダンス。90分のショータイムがあっという間に過ぎてしまう。フラッシュ厳禁のためショーの撮影は不可。

ポリネシア
 Polynesia 太平洋の島々のうち、北はハワイ、南はニュージーランド、東はイースター島を頂点とする一辺およそ8000kmの巨大な三角形に含まれる島々の総称。ポリネシアという言葉は、元来ギリシア語で〈多数の島々〉を意味する。地質学的には、オーストラリア大陸プレートの前縁にあたるニュージーランド、ケルマデク諸島、トンガ諸島と、太平洋プレート上のハワイ、マルキーズ諸島、ソシエテ諸島など数多くの諸島からなる。

 前者は水成岩と深成岩、変成岩、安山岩などの火山岩からなり、地殻活動が活発で地震も多い環太平洋造山帯上の陸島である。これに対して後者は玄武岩からなる洋島の火山島である。東太平洋海嶺から北西方向への太平洋プレートの移動に伴う海洋底の沈込みに応じ、太平洋プレート上の火山島は北西方向にゆくにしたがい沈降が大きく、水没した火山島の表面を覆うサンゴ層の厚さは、エリス諸島のフナフティ島で305m、ミクロネシアのマーシャル諸島のビキニ島で780mにもおよぶ。

 これら海洋底の移動に伴う火山島の沈降に対し、ニウエ島やタヒチ東方のマカテア島など、若干の島々では数十mの隆起がみられる。太平洋の洋島の多くはサンゴ礁からできているが、サンゴ虫は海水温度18℃以下か、水面下およそ40m以深のところでは生息できない。そのため冷水塊の上昇しているところではサンゴの発達が悪い。熱帯海域であるにもかかわらず寒流のペルー(フンボルト)海流が洗うマルキーズ諸島やこれより東方の島々にサンゴ礁がみられないのはこのためである。

 地質学的な区別に対し、高島(火山島)と低平なサンゴ礁島および隆起サンゴ礁の区別は生態学的に重要な意味をもつ。低平なサンゴ礁島は高さが5mを越えることはまれであり、基盤が保水性の悪い石灰岩であることから、植物の成育には適さない。地下水は普通塩分を含むため、植生はココヤシやタコノキの仲間などの耐塩性の植物に限られる。同じく隆起サンゴ礁も浸透性の強いサンゴ岩を基盤とするため土壌の水分は乏しく、耐乾性の植物に限られる。これらのサンゴ礁島は飲料水を天水に頼っている。これに対し、高島は水が豊富であり、火山性母岩の風化が進んだ古い火山島は肥沃な土壌にも恵まれ、植物の繁茂も盛んである。

 ポリネシアの島々はニュージーランドが温帯圏に属するほかは、すべて熱帯もしくは亜熱帯に位置し、気温は南北両端の島を除き均質であり、年較差は小さい。一般に雨は赤道の北側では6〜10月に、南側では11〜4月に多いが、季節的にも、地理的分布においても多様である。北半球ではハワイ諸島、南半球ではイースター島のある東太平洋上の亜熱帯高圧帯から赤道沿いの無風帯へ向けて吹き出す貿易風は、地球の自転により北半球では北東風、南半球では南東風となる。

 このため高い火山島の風上にあたる東斜面には雨が多く、風下は雨が少ない。しかし、低いサンゴ礁の島は貿易風による降雨は少なく、スコール性のにわか雨に頼るのみである。赤道無風帯は風向の一定しない微風を特徴とするが、二つの貿易風の衝突による熱帯前線のため、スコール以外の降雨量も多い。しかし、無風帯は赤道以南には現れず、低温のペルー海流、南赤道海流に面したマルキーズ諸島やクリスマス島、フェニックス諸島、モルデン島などでは雨量はきわめて少なく、植物は貧弱である。また熱帯低気圧の発達したハリケーンが、樹木作物や建物に被害を与えることもあり、その場合、とくに低いサンゴ礁島は致命的打撃を受ける。

 ポリネシアの動植物は大洋での孤立によりそれほど豊富でなく、とくに脊椎動物は小さなトカゲ類と、人間の移動に伴ってもたらされたネズミやコウモリだけである。ヘビ類はサモア諸島にみられるが、それ以東には生息しない。また、マラリアを媒介するハマダラカもポリネシアにみられない。東ポリネシアの鳥類はグンカンドリ、アホウドリ、ウミツバメ、アジサシなどの海鳥であり、島に植物の種子を運んだり、排泄物の堆積したリン灰分の豊かなグアノをもたらした。鉱物資源はマカテア島のリン鉱石(1966年採掘中止)だけであったが、最近、海洋底のマンガン団塊や熱水鉱床が注目され始めている。  

15 ポリネシア文化センター

ポリネシア文化センター
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ポリネシア人 Polynesian 太平洋のポリネシアに住む人々の総称。

[人種的特徴]   ポリネシアの諸言語は、イースター島からアフリカ東岸のマダガスカル島までの範囲に及ぶアウストロネシア語族の一部をなしており、ミクロネシアやメラネシア東部の諸言語と密接な親縁関係をもつ。これはポリネシアの人種の起源を考えるうえで重要な手がかりを与える。

 メラネシア人がその身体形質、言語、文化において多様な変化をみせるのに対し、ヨーロッパ人と接触する以前のポリネシア人は人種、言語、文化においてかなり同質的であり、地方的な偏差はあるが比較的等質な身体特徴をもっていた。身長は167.5〜174.8cm、褐色の皮膚をもち、頭髪は黒色の波状毛である。顔は卵円形でほお骨が高く、幅広の高い鼻をもち、虹彩は暗褐色で眼瞼にはときとして蒙古ひだがあり、体毛は少なくひげは濃い。一般に短頭であるが、西ポリネシアやニュージーランドでは長頭の傾向があり、頭長幅示数は74.3〜86.5を示す。下肢は比較的長い。

 ポリネシア人は一般にミクロネシア人よりも長身でかつたくましいが、これはポリネシア人の生活条件がより恵まれていることによるものと思われる。ポリネシア人の身体特徴はモンゴロイドとの強い類似を示すとともに、メラネシア要素の混入もみられる。現在では白人やアジア系移民との混血が進み、純粋のポリネシア人は少なくなってきている。

[社会組織]   ポリネシア人の伝統的社会は、個人の生得的な身分によって貴族と平民に区別される階層制社会である。この社会の構造上の特色は、リネージに相当する選系出自集団と、長子の系統を社会的に優越させることによって成員および選系出自集団間に序列化をつくることにある。この出自集団のメンバーは双系的にたどられるが、一般には父系が重視され、社会・経済的な単位集団は拡大家族であり、直系の長男が家父長として大きな権力をもつ。各出自集団において、すべての個人は集団の始祖の長子から長子を経て現在にいたった者を最高位とし、彼からの系譜的距離に応じて社会的地位が順序づけられる。またこの原理は異なる出自集団の最高位者である各首長の間に大首長、中首長、小首長というような序列をつくる。

 タヒチ、トンガ、ハワイなどではこの始祖からの系譜的距離に基づき貴族と平民の階層分化がみられた。タヒチでは貴族層は政治、経済、宗教、戦争などの役割を、他方、平民は農業労働などを担っていた。貴族のうちでも最高の首長は偉大な神の子孫として莫大なマナを身体に充満させているため、平民が彼に、直接的にも間接的にも接触することは死にいたる危険があり、タブーの対象とされた。

 この首長は必要と思ったいかなるもの(言葉から品物まで)にもタブーを宣言できた。マナとランクの概念は極端にランクの差異のある人の間に、一種の禁忌をつくりだし、身分の区別をはっきりさせる働きがあった。このマナとタブーは社会をコントロールするための背景として、ポリネシア人の日常生活のあらゆる面に深く浸透していた。また、首長は日常の生活物資の集積と再分配の焦点であり、これら物資の集積は首長の個人的消費に充てるというよりも、大部分は再分配の形で生産者に還元されるのが常であった。平民からのこれら物資の集積や労働力の提供は強制的なものでなく、親族に対する義務的慣習の一つであり、封建体制下での原理とは異なるものである。

 ヨーロッパ人との接触以後、キリスト教の宣教師たちによる首長たちの改宗は、ポリネシア古来の宗教的慣行を打破しただけでなく、首長のもつ権力は宗教的なタブー・システムを通じて発揮されてきたため、これまでの階層制社会を急速に崩壊させた。また土地はそれまで共同で所有されており、その代表者が首長であったが、土地が個人所有されることになったハワイでは1890年にはその3分の2が宣教師やその子孫である白人のものとなった。タヒチにおいても、コプラ・ブームとともに、首長が生産の禁止を宣言できる伝統的なラフイ制度の廃止が、個人的土地所有化を促進した。現在も世襲的な首長が支配力を保持している社会は、トンガ諸島とサモア諸島だけである。

 今日のポリネシアでは、知事や行政官が首長に代わり、ヨーロッパ風の近代的民主政治も行われるようになってきた。また島の都市への人口集中がみられ、都市の魅力が若者を田舎から都市へと向けさせている。またアメリカ合衆国やニュージーランドへの出稼ぎや移民が増しており、これは近年の医療衛生の導入による人口増とも関係している。ポリネシアの産業は小規模な食品加工などがあるにせよ、コプラ生産などの農業を主とするためにこの過剰人口を吸収できない。経済的には白人、アジア系移民の支配が優勢であり、原住民はきわめて低い地位にある。これらの変化に伴い、地方の過疎化や大家族から小家族への移行がみられる。

16 ポリネシア文化センター

ポリネシア文化センター
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[生活、文化]  ヨーロッパ人と接触するまでのポリネシア人は金属器を知らず、石器や貝殻などの原始的道具のみを使用し、また土器や機織りも知らなかった。しかしながら利器の素朴さにもかかわらず、技術は精妙であり、数々のポリネシア独自の工夫がみられた。ポリネシアでは漁労と農耕が生活の基盤であるが、太平洋での長距離航海に耐えるアウトリッガー・カヌーや全長数十mにおよぶダブル・カヌーには幾何学紋様の精巧な彫刻や彩色がほどこされていた。

 またカヌーの製作だけでなく、航海に関する知識が非常に発達しており、各島の天頂を通過する星、波のうねり、海の色、雲のでき方、海鳥の飛び方などによって各島の位置を知った。漁法の発達は多岐にわたり、弓矢や投槍による漁法から、やな、漁網、釣針、毒などによる漁法があった。環礁は人々に日々の食料に必要な魚貝類を供給し、貝や亀は装飾品や釣針などの原料とされた。

 そのほかカニ、エビ、ナマコなどが食事に供された。環礁の外側の海にはカツオやマグロが豊かであり、釣漁の対象とされ、芸術的ともいえる精巧な釣針がつくられた。危険な外洋でのサメ獲りや鯨獲りは個人の名声を高め、鯨の歯は首長の権威の象徴とみなされた。地位の高い人々は真珠のネックレスや羽毛などで身体を飾る特権があった。

 ポリネシア各地で入墨の慣習があり、マルキーズ諸島やニュージーランドのマオリ族などでは全身に描かれた幾何学紋様が芸術的ともいえる作品を生んだ。土器がないため、料理は主として材料を葉にくるみ地炉で蒸焼きにするウム料理で、東南アジアから連れてきた家畜は犬、鶏、豚であったが、祭礼のとき以外豚肉を食することはまれであった。家は一般に開放的であり、壁のあるものとないものがあった。

 農作物はタロイモ、ヤムイモ、バナナ、ココヤシ、パンノキの実、サツマイモなどであった。とくにタロイモの栽培はさまざまの環境条件に応じた工夫がみられ、棚田や灌漑施設がつくられ、低いサンゴ礁では水がないため、溝を掘って堆肥が入れられていた。衣服はクワ科植物の内皮をたたきのばしたタパ tapa と呼ばれる樹皮布が織布の代りに用いられ、すぐれた品質をもっていた。

 ポリネシアではアルコール性飲料は知られず、コショウ科の植物からつくられたカバは麻酔性があり、首長の会合などのとき特別な作法で飲まれた。このような会合の場合、人々はたくさんの食物を首長に献じたが、これら食物は首長が独占するのではなく、人々に再分配されなければならず、この再分配を専門職とするものがいた。首長制の発達した社会では社会的分業がみられ、大工、舟大工、彫刻師、入墨師などの専門職の分化がみられる。首長たちは一般にこの日常的仕事に従事することはなく、宗教的・政治的問題にかかわっていた。

 これら伝統的生活も近年は大きく変化した。現在ではポリネシア人の大部分はキリスト教徒であり、日曜日に礼拝を欠かすことはない。草ぶき屋根からトタン屋根へ、石蒸しから鍋へ、タパから織布へと変わり、食物も缶詰などが好まれている。  

17 ポリネシア文化センター

ポリネシア文化センター
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[美術]  ポリネシアの美術は全域にわたって一様性を示している。それは、ポリネシアへの民族移動や文化の伝播が比較的新しく、過程も複雑でなかったことや、舟造りと航海に長じた住民が、諸島間の交通を盛んに行ったためであろう。しかし地域が広範なだけに、各諸島の美術それぞれに独自の特殊化がみられる。また、ポリネシア東端に孤立するイースター島だけには、巨石人像のモアイ Moai など独特の造形がみられる。

 ポリネシアでは、一般に木彫が発達し、神像、家屋、カヌー、儀斧 (ぎふ)、戦闘用棍棒、食器、などに念入りな彫刻がみられる。なかでも注目すべきは、ニュージーランドのマオリ族のきわめて精巧な透し彫、浮彫の技術で、家屋の戸口の枠や窓の(まぐさ)などに、渦巻文などの抽象文様で豊かに装飾された神像が彫刻される。

 ハワイ諸島にもすぐれた美術がみられる。代表的なものは、大きな目と大きくゆがんだ口をもつ戦いの神の像で、木彫や鮮やかな羽毛をはりめぐらした蔓の編細工などで表現される。

 そのほか〈ティキ Tiki〉と呼ばれる小型彫像は、ポリネシア各地でみられる。ティキは、中央ポリネシアでは神を表し、マルキーズ諸島では男性像の様式的な表現をみせる。トンガ諸島、サモア諸島、タヒチ島などでは造形作品がきわめて乏しい。しかしこれらの諸島ではタパ(樹皮布)の技術が発達している。タパには島により独自の文様があり、手描きやさまざまな版画の手法がみられる。

 とりわけハワイ諸島のタパは文様が繊細で色彩が豊富である。多くの地域ではすでにタパがつくられていないが、ポリネシア西部では今日なお盛んにつくられている。なおポリネシアでは土器や織物を制作しないが、土器に関してはマルキーズ諸島、サモア諸島、トンガ諸島などで古い土器の破片が多く発掘されている。

[音楽]   ポリネシアの文化領域は東部と西部に分けられるが、全体的に統一感が強いため、音楽の内部構造、文化的関連において、本質的に共通の特徴がみられる。たとえば、ヤシ殻、竹、木、石を利用した楽器が踊手自身によって奏され、しかも歌を同時に歌う演奏形態を基本とし、声の表現はなめらかな曲線的音高変化、大きなビブラート、多声合唱を特徴としている。

 この伝統は、ギターやウクレレの導入とキリスト教化に伴いハワイアン、フラダンス、賛美歌などの新しい表現形態のなかに積極的に取り入れられ、汎太平洋的な様式を形成することに役立てられた。そしてこれが観光産業の重要な一端を担っている。最近では、より純粋な伝統様式を復興させる気運も高まっていて、学校教育や社会行事にも組み入れられ、さらに新しい様式を模索しているのが現状である。

ハワイアン・ミュージック Hawaiian music ハワイ諸島の民俗音楽に、欧米の音楽の要素が加わって成立した音楽。単に〈ハワイアン〉ともいう。ハワイ諸島原住のポリネシア系のカナカ族は、無伴奏の歌オリ、打楽器(ひょうたんの〈イプ〉、竹のささら〈プーイリ〉など)と踊り(フラ)などをもっていた。

 19世紀にアメリカ人によりキリスト教の賛美歌が持ち込まれて西洋式のメロディとハーモニーを吸収し、さらにメキシコ人によりギター、ポルトガル人により小型ギターが紹介されることによって、スラック・キー slack key(独自の調弦と演奏法によるハワイの民俗的ギター奏法)、スチール・ギター、ウクレレが考案され、19世紀末には《アロハ・オエ Aloha Oe》(リリウオカラニ女王が1878年に作った)に代表されるハワイアンの古典様式が完成した。

 20世紀に入り、ハワイの音楽家たちがアメリカに出稼ぎに行く機会が急増するとともに、ジャズやブルースの要素が大幅に取り入れられ、1930年代にスチール・ギターの電気増幅式のものが導入されてハワイ音楽のポピュラー化が進行した。第2次世界大戦後はモダンなハーモニーやロック・ビートの影響などでハワイ音楽の独自性は極度に薄れたが、1960年代からスラック・キー・ギターが見直されるなど、ハワイ独自の音楽の再評価の動きが高まってきている。

アロハシャツ
 aloha shirt ハワイ諸島で男性の日常着として用いられている半袖、開襟シャツの一種。丈は短めで裾をズボンの外側に出して着るのが特徴。生地は主として木綿が使われ、熱帯植物などをモティーフにした大胆な色彩のプリント柄が多い。〈アロハ aloha〉とはハワイ語で〈愛〉や〈親切〉、挨拶の〈ようこそ〉〈さようなら〉を意味する。1950年代の日本でも夏のシャツ・スタイルに取り入れられ、リゾートウェアやホームウェア以外に一部の若者の間ではタウンウェアとしても用いられ、彼らは〈アロハ族〉と呼ばれた。

18 ワイキキ・トロリー

ワイキキ・トロリー
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トロリーバス trolley bus 無軌条電車ともいう。車体はふつうのバスと同様であるが、路上の2本の架空線から車上のトロリーポールを用いて集電し、電動機によって走行するもの。タイヤで走行するので路面鉄道に比べて騒音は少なく、路上の軌道に拘束されないので走行上はある程度の自由度をもち、一方、ふつうのバスと比較した場合は、内燃機関を用いないので石油燃料を使わないですむと同時に大気汚染もないという長所をもっている。

 また、バスに比べれば車両費は高いが、軌道を用いないので全体の建設費は路面鉄道より安くつき、1910年ころから世界の多くの都市で採用された。しかし道路が自動車で極端に混雑すると、バスほどの自由度がないために走行がかなり不自由になるという欠陥はぬぐえず、日本では現在、扇沢〜黒部ダム間の道路トンネル内の交通機関として用いられるだけとなった。

 外国の都市では現在でも用いているところがあり、車体にも2階式、連接式などが採用され、また新しい企てとしてドイツでは架線および車内の電池の2方式の電源を選択できるようにしたデュアルモード方式も使われている。
19 ビショップ博物館

ビショップ博物館

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ビショップ博物館 Bishop Museum 正称はバーニス・パウアヒ・ビショップ博物館 Bernice Pauahi Bishop Museum。アメリカ、ハワイ州ホノルルにある私立の博物館で、パウアヒ王女(1831‐84)の追悼記念として夫のチャールズ・ビショップ(1822‐1915)によって1889年に創立された。

 王女の相続したカメハメハ王朝の遺産を主要な収集品として設立されたが、その後研究部門による太平洋地域からの人類学、考古学、動・植物学の収集品および出版された報告書により、世界に知られる博物館となっている。

 また日系移民はじめハワイへのアジア系移民に関する資料も豊富である。10万点を超える民族・歴史関係資料を有し、自然科学部門では植物学、昆虫学、魚類学、貝類学各部があり、1900万点余りの標本が常時世界中の研究者に利用されている。
 
20 フォスター植物園
フォスター植物園
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フォスター植物園 Foster Botanical Garden オアフ島にあるハワイの植物園に行った。意外と盲点になっているが、熱帯の植物や樹木が多数栽培され、素晴らしいスポットだ。

 特に写真のように巨大な樹木が沢山茂っている。日本では全く見られない珍しい植物も沢山ある。

 昔の大砲の球状の砲弾に似た実をつけるキャノン・ボールなどは、必見のアイテムだ。観光ルートには組み込まれていないことが多いので、トロリーやバスで行くことになる。
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