ホームページオーストリア写真集お知らせお便りコーナー徒然日記俳句・海の風景ホームページ奮闘記作者のプロフィール
Wa☆Daフォトギャラリー

2001年11月9日改訂

今 日

昨 日

BGM

画像をクリックすると新たなウィンドウが開き、拡大写真が表示されます。

T
O
P
ウィーン市内を走る馬車

ウィーン市内を走る馬車

(1736x976)98KB
ウィーン Vien  オーストリアの首都であるとともに、九つの連邦州の一つである。英語ではビエンナ Vienna。面積414.5ku、人口160万(1994)。古くは南ドイツからハンガリーへ向かう〈ドナウの道〉とボヘミアからイタリアへ向かう〈琥珀(こはく)街道〉が交差する交通の要衝であり、ゲルマン世界とスラブ世界を結ぶ文化上の交差点であった。

【地理的概観】
ウィーンの森の東斜面が市の西部を緑の半月状にかこみ、東部にはドナウ川とその分流ドナウ運河が流れる。市の南部も丘陵であり、場所を選べば市の中心部が一望できる。気候はやや大陸的であり、最も寒い1月の平均気温は−1.4℃、最も暑い7月で19℃である。しかししばしば夏は暑く、10月にはいると多くの市民は暖房をいれる。冬は日が照ることは少ない。年雨量は平均676mm、夏は雨量が増して、7月の平均は85mmである。市の中心部の標高は166m、ドナウ川岸で172mである。市の人口はオーストリア全人口の約20%を占め、そのうち82%はカトリック教徒である。

 現在のウィーン市は、中世以来の旧市内である第1区を中心として23区に分かれている。旧市内の周りはリングという幅57mの環状道路がとりまき、さらにその外側は市内区 innere Bezirke(第3〜9区)である。市内区の外周には〈ギュルテルG
rtel〉という環状道路が走り、その外縁部が市外区 Aussenbezirke(第10〜23区)である。いわばウィーンはドーナツのように二重の環にかこまれているのであって、歴史のところで述べるように、この点に18世紀以来のウィーンの都市の独自な構造が示されている。

 〈リング〉に沿って19世紀後半以降建てられた多くの重要な建造物が並んでいる。大学、市庁舎、議会、自然史博物館、美術史博物館、ブルク劇場、国立オペラ劇場、取引所等がそれである。ウィーンは国際的に著名な観光の都市である。例年5月から6月にかけて〈ウィーン祝祭週間〉と称して、音楽、演劇、展覧会が華やかに繰りひろげられる。ドナウ運河の左岸には、もと皇帝の猟場であったプラーター Prater があり、その一部に高さ64mの大展望車 Riesenrad をもつ遊園地があって、〈道化芝居のプラーターWurstelprater〉の愛称で人々に親しまれている。

【社会、経済】 オーストリアの被雇用者の25.6%(1976年現在で62万3000人)がウィーンで働いている。そのうち主としてユーゴスラビア、トルコ等から来る外国人の出稼ぎ労働者が78年現在で7万8000人(1973年では9万2000人、ウィーンの被雇用者の11.8%)に達しているのが特徴的である。また被雇用者のうち約10万人は近隣のニーダーエスタライヒ州およびブルゲンラント州からの通勤者であり、逆にウィーンから近郊へ通勤している者が30万人である。

 ウィーンは1960年代以降も出生率低下と流出によって人口が減少しつつあり、61‐71年には私住宅は9%減少し、代わりに銀行、官庁、商業経営が中心部へ進出して、完全な機能転換が生じつつある。全職業人口の5分の1は工業に従事しており、市の南部およびドナウ川左岸に工業地帯が形成され、また近代的な労働者住宅の団地も建設されている。

 それら工業の雇用人口は16万4100人(1973年10月)であり、電気産業、機械・製鉄、化学、食品、金属加工、建築、製紙、皮革、繊維、工芸品、モード産業などによって構成されている。またシンマーリング Simmering とドナウシュタットには天然ガスと重油による火力発電所があり、ウィーンの必要電力の62%をそこでまかなっている。ウィーンは家庭燃料も近時天然ガスに切り換えられているが、従来、天然ガスの5分の3はロシアから輸送されていた。飲料水は導管を通して遠い山間部から運ばれる。したがってヨーロッパの他の都市とちがって、ウィーンでは水道の水をなまで飲むことができる。

 ウィーンはまた交通の上でも重要な位置を占めている。かつては市門から放射線状に街道が走り、南ドイツ、ボヘミア、ハンガリー、イタリア、アドリア海沿岸の諸地方へ通じていたが、いまも西駅、南駅、フランツ・ヨーゼフ駅から東西南北へ向けての国際列車が出ている。市内はバスと市電が走り、1976年に地下鉄も一部開通した。またザルツブルクとゼーベンシュタインへ向けてのアウトバーンも完成している。国際空港はシュウェハトSchwechat にある。さらにドナウ川も旅客輸送、物資輸送の両面で重要な役割を果たしている。
  

01 リングを走る電車

リングを走る
電車
(1840x1243)280KB
【歴史】
[古代の要塞]
 ウィーンの歴史は、ケルト人の移住地ウィンドボナ Vindobona から発している。だが紀元100年ころローマの第10兵団がこの地に侵攻し、同じくウィンドボナという名の屯営を築いた。これは長方形の要塞であって、彼らの住居跡がいまもホーエル・マルクトに残されている。170年ころマルコマンニ族との戦いで破壊されたが、皇帝マルクス・アウレリウスによって再建された。

 この時期にウィーンにはすでに市民も住み、南東の市外(現、3区)に市民区を拡張した。やがてウィーンのさらに東方の辺境の要塞地カルヌントゥムが没落した後は、ウィーンが重要な基地となった。しかし市は400年ころゴート族によって破壊され、433年フン族の手中に落ちた。ローマ帝国の没落とともに、以後約700年ウィーンは歴史の記録から消える。

[中世の商業都市]
 しかしこの間にもウィーンは、おそらく居留地としては存続し、ドナウ川の港であることもあって、おそくとも11世紀までには商業の重要な拠点となる。12世紀には現存するウィーン最古の教会であるロマネスク様式の聖ルプレヒト教会ができる。聖ルペルト(ルプレヒト)は塩商人の守護者であり、塩はザルツブルクからドナウを通って一度ウィーンへ陸揚げされ、ここからさらにハンガリーへ送られた。いまもウィーンには塩河岸 Salzgries の地名が残っている。

 1135年ウィーンはバーベンベルク家の支配下にはいり、翌々年の記録には〈キウィタス civitas〉と記される。当時の支配者レオポルト3世は以後ウィーンのパトロンとして記念され、その子ハインリヒ2世は56年ころ居城をクロスターノイブルクからウィーンへ移した。このときの城塞がいまも遺跡の残る〈アン・ホーフ〉であり、この時期の市地図によればシュテファン教会はまだ市の外にあり、市は一応のかこいと、八つの市門をもっていた。12世紀末ウィーンは現在の1区のひろがりをもつようになり、市壁を初めて築いた。

 市はとりわけレオポルト5世の下で最初の隆盛期を迎え、1221年通過商業の独占権を得、以後東と南への貨物の素通りを許さず、開市権と貨物集散権 Stadt‐und Stapelrecht を握る。こうしてブドウ酒、塩、鉄、毛織物等がレーゲンスブルク、パッサウ、シュワーベン地方からウィーンへ着き、さらにウィーンからハンガリーへ送られた。1220年市は拡張され、1858年までのウィーン市の規模がここに決まった。さらに1237年から78年にかけて3度も自由な帝国都市となった。バーベンベルク家の宮廷は栄華をきわめ、著名なミンネの歌い手ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデも長く
(とうりゆう)した。しかしバーベンベルク家の滅亡(1246)とともに市は帝国都市としての立場を失った。

[ハプスブルク家の支配]
 ボヘミア国王オタカル2世の支配を経て、78年ハプスブルク家のルドルフ1世が新たな勝利者としてウィーンへ入った。ここに、以後6世紀半にわたるハプスブルク支配の礎石がおかれる。しかし手工業者をも含めたウィーンの市民は必ずしも心服せず、88年にはこの新たな領邦君主に反乱したが、アルブレヒト1世によって武力弾圧され、96年には帝国都市としての自由を
奪される。

 ハプスブルク家のウィーン市に対する権力行使は、たとえば600年後の1897年キリスト教社会党員カール・ルエガー KarlLueger が市長に選ばれたとき、その承認を拒否した例にも示されている。このようにウィーンの政治的立場は弱体化したが、しかし経済的にはハプスブルクの版図の中心として興隆の道をたどった。14世紀には、シュテファン聖堂(ウィーン大聖堂)、マリア・アン・ゲスターデ教会、アウグスティン教会等の代表的ゴシック建築が建てられ、またプラハと競争して1365年にはウィーン大学が設立された。市民もその生活のなかで一定の権利と自由をもった。96年の市長および参事会の選挙規則によれば、18人の市参事会員、市判事1人、市長1人を選ぶにあたって、商人や手工業者も同権をもって参事会へ参加できたのである。

 自由で活気あるウィーンの市民生活について、ある人文主義者は1438年の手紙で次のように述べる。〈ウィーンは周囲2000歩の壁にとりまかれている。だがそれはきわめて広大な市外区をもっていて、この市外区自体がとりでになっている。市は深い堀と高い城壁をもっており、その壁は多くの塔と戦備の整った堡塁を備えてきわめて強力である。市民の住居は大きく、多くの装飾をもち、広い丸天井の玄関をもってりっぱな建て方をされている。ここでは広間の代りに暖房可能な部屋があって、〈シュトゥーベ〉と呼ばれている。こうすることでのみ、きびしい冬の寒さから身を守ることができるからだ。

 いたるところにガラス窓と鉄の戸がある〉〈ブドウつみは約40日もかかるが、その間ブドウを満載した300台もの馬車が日に2度も3度も市内に走りこみ、ブドウつみには1200頭の馬が使われる。市内ではけんかが絶えたことはない〉〈祭りが血を見ないで収まったことはない。死人が出るのも珍しいことではない〉。このような繁栄の反面、10世紀以降居住を拡大しつつあったユダヤ教徒、ユダヤ人に対し迫害も行われ、1421年には210人のユダヤ人が火刑に処せられ、1669年には少数の特権商人を除いて一時全ユダヤ人が市から追放された。

 15世紀にはいると、フス戦争によって東方貿易が妨げられ、南東ヨーロッパへオスマン帝国が侵攻し、西南ドイツの商業都市が発展する等の理由で、ウィーンの経済的地位は弱まった。しかし他面では、1438年以来神聖ローマ帝国皇帝の居城都市であることによって危機を克服することができた。宗教改革にあたっては、ウィーン市民の大部分はプロテスタントであったが、ハプスブルク家がカトリックで、プロテスタントを禁止したため、16世紀中ごろ以降はカトリックへ転換し、ウィーンは反宗教改革の拠点となった。

 1522年にはフェルディナント1世に対する市民の反乱が生じたが、ただちに鎮圧され、市長 M. ジーベンビュルガーらは断頭台で処刑された。支配者への反抗で命を失ったウィーン市長はこのときで3人目であり、以後市民の自治は制限され、ウィーン市長は実質的に皇帝の官吏以上のものではなくなった。47年最初の三角測量によるウィーン市の地図が作成された。
02 ウィーン市内

ウィーン市内
(1921x1276)178KB
[バロック時代の隆盛] ウィーンは1529年と1683年の2度にわたってオスマン・トルコ軍30万によって包囲された。1529年当時のウィーンは強大な市壁を誇り、12のバスタイ(くさび形の堡塁)と深い堀にかこまれていたが、トルコ軍による危機を脱した後、市の軍事的改造に着手する。

 まず1683年以降市壁の外周の緑地帯グラシ Glacis を拡張し、さらに1704年以降市外区の外縁に〈リーニエの壁 Linienwall〉を設ける。すなわち深さ3m幅4mの壕を掘って、その土を高さ4mに積み上げた(この跡が現在の〈ギュルテル〉となる)。リーニエの壁の外側200mは建築物を許さなかった。また市門から放射線状に走る街道が市外区を通ってリーニエの壁にぶつかったところも〈リーニエ〉と呼ばれ、ここでウィーンへの出入が管理され、さらに19世紀になるとリーニエは消費税の徴収が主たる任務となる。

 オスマン帝国の圧力からウィーンが最終的に解放されてから、建築・彫刻などでバロックからロココの時代が始まり、ウィーンはヨーロッパ文化の中心の一つとなる。シェーンブルン宮殿、ベルベデーレ宮殿等の庭園のついた貴族の城、カール教会やベーター教会等バロックの代表的建造物が建てられ、市内には市民のバロック風住居がいまも残る。

 市の人口もこの時期から急速に増大する。すなわち中世末期の5万が、1700年10万、1800年23万1000、1830年31万7000、1850年43万1000となる。18世紀の重商主義の時代にあって市の経済的意義も徐々に高まり、イギリス、フランスとくらべると後進的ではあるけれども繊維工業を中心として工業化も進展する。

 1718年にはマイセンの影響のもとで最初の陶器マニュファクチュアがウィーンにつくられる。マリア・テレジア、ヨーゼフ2世を経てフランツ1世の時代になると、反動的経済政策が推し進められ、ウィーンの市内および市外区に、また周辺2マイル以内に工場を建てることがしばしば禁止された。18世紀から19世紀にかけて官僚制も整備強化され、1804年にはウィーンはオーストリア帝国の首都となり、翌々年神聖ローマ帝国の首都であることをやめる。また1783年から1848年までは、市参事会 Magistratが設置され、市の行政をつかさどった。

[三月前期]
 1814‐15年のウィーン会議以降、いわゆる〈三月前期 Vorm
rz〉が始まり、美術史的には〈ビーダーマイヤー期〉が始まる。23年には〈ドナウ蒸気船運航会社〉ができ、また37年には最初の蒸気機関車がウィーンを発車する。しかし政治的には、三月前期のオーストリアは警察国家と検閲の時代であった。

 とりわけ40年代後半にはいると凶作、失業、食料品の値上がり等によって人々の生活は窮乏化し、農村を離脱したプロレタリア人口がウィーンのリーニエの外縁に貧民街を形成する。この社会問題を背景にして、48年3月ウィーン市民は学生や労働者と共に憲法制定、国民軍設置、検閲の廃止等を要求して蜂起し、メッテルニヒ体制を打倒する(48年革命とよばれる)。こうして同年3月から秋にかけてウィーンには実質的に市民のコミューンが成立する。しかし10月にはいると宮廷勢力が勢いを盛り返し、ウィンディシュグレーツ指揮下の大軍がウィーンを包囲する。市民側はプロレタリアートや学生を主力にして激烈な武装抵抗を行ったが、結局降伏する。

[48年革命後の都市改造]
 この革命の教訓に学んで、政府は58年ウィーンの市壁を撤去し、その跡に〈リング(環状道路)〉を設けた。また〈三月前期〉から農村から流入した労働者人口によってウィーンの外縁部がいよいよ肥大し、1850年には34の市外区がウィーンへ併合された。さらに92年には南部と西部の周辺区もウィーンへ合併された(現、11〜19区)。この合併によって人口も急増し、1891年136万4000、1914年224万となる。

 一般に1861‐95年のオーストリアはリベラルな時代といわれるが、しかし1873年には世界博覧会がウィーンで開かれはしたものの、経済恐慌によって深刻な社会的緊張が生じた。95年にはリベラル派が市評議会(1848成立、定員150名)の選挙で破れ、代りに反ユダヤ主義的なキリスト教社会党が過半数を占めた。第1次世界大戦の終了とともにハプスブルク王政は崩壊し、ウィーンもまた35万の住民を失い、いまや小国の首都となった。1919年以来市評議会では社会民主党が多数派となり、市政を担当した。

 以後〈赤いウィーン〉はしばしば連邦政府と衝突し、27年7月には労働者のデモで司法省が炎上し、さらに34年には社会民主党を中心とする労働者の武装組織〈防衛同盟 Schutzbund〉が蜂起し、カール・マルクス・ホーフに立てこもって軍隊と戦った。しかし38年以降オーストリアはドイツのナチス体制の支配下に入り、それまでの連邦州はドイツ帝国の管区 Reichsgan に編入された。44年から45年にかけてウィーンもまた空襲その他の戦争被害があり、住宅の21%と工業施設の25%が破壊され、市民1万1035が死亡した。

 第2次世界大戦が終結するとともにウィーンはソ連、イギリス、アメリカ、フランスの4占領地区に分かれて分割管理された。45年以来社会民主党が市評議会で多数を占め、市長は戦後ずっと社会民主党から選出された。
03 ウィーンの人々

ウィーンの人々
(1771x1153)163KB

【文化】
 
ウィーンはとりわけ18世紀のバロック期以来、建築、彫刻、美術、音楽、演劇、文学等の領域でまさにウィーン的としかいえない文化を展開させる。その特徴として第1に指摘しなければならないことは、そもそものウィーン文化はゲルマン、ラテン、スラブの諸民族の混合文化だったということである。たとえば18世紀ウィーンにおける代表的なバロック建築を設計したフィッシャー・フォン・エルラハ父子、J. L. von ヒルデブラントは、イタリアの影響をウィーンの風土のなかに生かそうとした。演劇もまた18世紀においてはコスモポリタン的であった。

 ドイツ語だけでなく、フランス語、イタリア語、スペイン語が交互に舞台で語られたのである。19世紀の終りから20世紀へかけても、このコスモポリタニズムは生きていた。建築、音楽、哲学、医学、詩、美術、演劇等の領域で人々は見えざる糸で結ばれ、ひたすら〈モダンなもの〉を追求する。彼らがウィーンのカフェハウスでかもし出した雰囲気は当時の排他的で、しばしば反ユダヤ的なドイツ主義とは無縁だった。これらの文化形成のなかでユダヤ人が大きな役割を果たした。19世紀末から1930年代までのウィーンのユダヤ人は全人口の8〜10%を占めた。

 ウィーン文化のもう一つの特徴はそれがしばしば民衆文化だったということである。たとえば演劇がそうである。ブルク劇場のように宮廷劇場の系譜を引いてドイツ語演劇の古典的代表ともいうべき流れもあるが、それと対照的な〈民衆劇場Volkstheater〉がウィーン演劇の本来の顔である。18世紀から19世紀初めにかけてはそれは〈ハンスブルスト〉の道化を主役とした即興喜劇であった。

 これをもとにしてウィーン特有の〈魔法劇Zauberposse〉が生まれる。メルヘンや魔物、妖精等のモティーフが交錯して陽気で風刺的な笑劇が展開される。その最も著名な代表はボイアーレ、ライムント、ネストロイである。これらの劇はケルントナートーア、レオポルトシュタット、ウィーデン、ヨーゼフシュタット等の市外区の劇場で上演された。しかもそれは民衆の言葉、つまり〈ウィーン弁〉と切っても切り離せない関係にあった。それは教養層も無教養層も、宮廷人も市民も引きつけたのである。この民衆劇は19世紀後半には衰退したが、しかしネストロイらのウィーン的パロディはいまでもウィーン人の心を離さない。

 ウィーンの音楽にも民衆的流れはある。たしかにハイドン、モーツァルト、ベートーベンの〈ウィーン楽派〉をはじめ、ウィーンの〈音楽的な〉雰囲気は貴族の庇護によるところ大であった。大貴族は自分のオーケストラをもち、定期的に自分の宮殿でコンサートを開いた。たとえばハイドンを自分の楽師長としていたエステルハージ公などがそうである。

 しかし当然民衆の音楽もあった。少なくとも〈三月前期〉から多くの
楽師が手回しオルガンをもって父の J. シュトラウスやランナーの曲を演奏しつつウィーンの街を流していた。街の音楽〈シュランメルムジーク〉や食卓の音楽〈ターフェルムジーク〉とウィーン人の暮しは切り離せない。息子の J. シュトラウスの《こうもり》《ジプシー男爵》やズッペらのオペレッタの軽快なメロディになると、皇帝から馬車の御者にいたるまで同じように口ずさむ。それはすでに一つの〈ウィーン気質 Wiener Blut〉になっている。

 このようなコスモポリタン的で民衆的な特質とともに、とりわけ19世紀末から20世紀にかけてのウィーン文化には、ハプスブルク帝国の没落の意識が暗く投げかけられている。それは象徴的な意味で〈世紀末世界 Fin de Si
cle‐Welt〉であった。R.シュトラウスと協同してオペラに幻想的世界をつくりだしたホフマンスタール、フロイトの影響下で独自の心理描写を展開したシュニッツラーらがその典型である。文学においても多くの作家はたとえばカール・クラウスの雑誌《炬火》に見られるように、第1次世界大戦の悲惨さと古いオーストリアの解体の意識を担いながら、内面的心理の藤を社会批判に結びつけたのである。

 さらにまた哲学の世界において形式論理学を武器に伝統的な形而上学を批判し、この哲学的立場を法学、心理学、民俗学、経済学、歴史学などにおいて展開させ、多くの場合実証主義的な〈ウィーン学団〉を確立した(論理実証主義、オーストリア学派)。ハプスブルク帝国の〈世紀末〉にウィーン文化は最後の花を咲かせたのである。

ザッハートルテ Sacher Torte ケーキの定番、ザッハートルテは、ウィーンのザッハー Sacher ホテルから生まれた。ホテルの前には、Original Sacher Torte という看板が出ている(写真03)。かなり観光客で混んでいて、なかなか席が空かない。やっと順番がやってきて注文。その甘ったるいこと、この上ない。甘すぎる。日本は既に甘ければ甘い程良いという段階は過ぎてしまった。日本人の味覚には甘ったるくて、今いちなのだ。それでも地元の市民は上手そうにほおばっている。写真では、ホテルの奥に伊勢丹の看板が見える。
04 ハプスブルク家

ハプスブルク家
(1973x1153)233KB

ハプスブルク家 Haus Habsburg
 中世以来ヨーロッパで最も重要な由緒ある名門の王家
[オーストリア支配と世界帝国]
 スイスとエルザス(アルザス)に所領をもつ豊かな貴族として、1020年にはスイス北部にハプスブルク城を築き、伯の称号をもっていた。大空位時代の混乱の後、始祖ルドルフ1世は、1273年ドイツ国王に選ばれ、競争者ボヘミア王オタカル2世からオーストリア、シュタイアーマルクを没収し、82年息子たちに授封し、初めて東方に家領を確保した。

 兄弟全員による相続権所有の原則から、以後相続争いと系統分立を繰り返すが、断絶の際には残った系統に再統一される復元力もあって多産系のこの王家は家領を拡大する。ルドルフ1世の死後も、国王を出してはいるが、ドイツ王は諸王家の間を転々とする。ハプスブルク家は14世紀発祥地の西方で諸王家・諸侯と争い、とくにスイスの独立戦争に敗れて家領の拡大に失敗する(1315年のモルガルテンの戦、1386年のゼンパハの戦)。

 しかし東方では1335年ケルンテンとクラインを、63年にはチロルを家領に加え、ルドルフ4世建設公 Rudolf IVder Stifter(1339‐65)は家領の領邦化を進め、ルクセンブルク家の皇帝カール4世の金印勅書(1356)に対抗して大特許状 Privilegium majus を偽造してまで領邦君主としての特権を主張し、みずから大公と称した。1452年ハプスブルク家のフリードリヒ3世(神聖ローマ皇帝、在位1452‐93)が皇帝になると53年この大特許状を公認し、以後ハプスブルク家は事実上皇帝位を独占するに至った。

 その子マクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝、在位1508‐19)は西方において77年ブルグント公女マリアとの結婚によって同公領を併せ、86年にはドイツ国王となる。その帝国改革は失敗に終わるが、96年その子フィリップ1世美公(1478‐1506)をスペイン王女フアナと結婚させ、孫のカール5世が1519年ドイツ国王に選出されたとき(翌20年神聖ローマ皇帝)、スペイン王国との結合によるハプスブルク世界帝国が実現する。加えて東方に対しても孫フェルディナント1世を16年にボヘミア・ハンガリー王女アンナと婚約させている。

 こうした結婚政策はフランスとの対立を激化させ、これと結んだオスマン・トルコの北上を招いたが、26年モハーチの戦でのラヨシュ2世の敗北はボヘミア・ハンガリー両王国を王家に結びつけたのである。皇帝カール5世は宗教改革による教会と帝国の分裂のなかで、22年のブリュッセル協約によってドイツの家領と皇帝位の継承権を弟フェルディナント1世とその系統に譲らねばならなかった。また彼は長い対仏戦争とウィーンを包囲したオスマン・トルコの圧力のために、帝国では諸侯と妥協し、意に反する55年のアウクスブルク宗教和議の翌56年みずから退位し、ここにオーストリア系とスペイン系への両統分立が確定する。

[マドリードとウィーン]  ネーデルラント、イタリアを含む全スペインを譲られたカール5世の子フェリペ2世(スペイン王、在位1556‐98)のもとでスペイン帝国は最盛期を迎え、反宗教改革の担い手としてマドリードに宮廷文化の華を咲かせたが、フランスに加えてエリザベス1世のイギリスを敵に回し、しかもオランダ独立戦争(八十年戦争)に直面する。88年の無敵艦隊の壊滅は早くも衰退のきざしとなった。オーストリア系でもボヘミア・ハンガリーを家領に加えたとはいえ、皇帝フェルディナント1世の死後も相続争いと宗教争乱は続いた。

 反宗教改革の使徒フェルディナント2世が宗家を継ぎ、1617年ボヘミア王、19年皇帝になると三十年戦争が始まる。この戦争はボヘミアの宗教争乱に始まったが、列強の干渉を招き、初めての国際戦争となった。48年のウェストファリア条約は、帝国の分裂と戦禍の荒廃によるドイツの立遅れを決定的にした。しかしオーストリアでは、王家に残された皇帝位と反宗教改革の勝利が皇帝崇拝に聖人崇拝を結びつけ、たび重なるマドリードとの同族結婚もあってウィーンの宮廷文化は花開き、王家の権威も高まった。

 皇帝レオポルト1世 LeopoldI(在位1658‐1705)が83年再びウィーンを包囲したトルコ軍を撃退、全ハンガリーを確保してから、ウィーンはハプスブルク・ドナウ帝国の中心となり、芸術を愛好するバロックの君主たちを生んだ。スペイン系がカルロス2世(在位1665‐1700)で断絶し、スペイン継承戦争が勃発すると、レオポルト1世の次子カール6世も継承権を要求する。兄皇帝ヨーゼフ1世(神聖ローマ皇帝、在位1705‐11)の死によってカール6世が皇帝(在位1711‐40)になると、ハプスブルク世界帝国の再現を恐れた西欧列強は1713年ユトレヒト条約を結び、スペイン王位はハプスブルク家を離れ、ブルボン家に移った。

[啓蒙君主たち]  しかしオーストリア家はネーデルラントとイタリアの旧スペイン領を併せ、カール6世は同じ年の1713年国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン Pragmatische Sanktion)を制定し、広大な世襲領の永久不分割と長子相続を図ったが、継承者に男子を欠き、長女マリア・テレジアの一括相続のために譲歩を重ね、国際的承認を得ていた。

 しかしプロイセンのフリードリヒ2世大王がシュレジエンを占領、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが相続権を主張すると、マリア・テレジアは40年オーストリア継承戦争に直面する。45年ドレスデン和約で、シュレジエンを失うが、世襲領の相続とともに夫フランツ1世 FranzI(神聖ローマ皇帝、在位1745‐65)に皇帝位を確保した。

 戦後は軍・行財政など国内改革を進め、外交でも数世紀にわたって敵対関係にあったフランスとの同盟を成功させ、プロイセンの孤立化を図り、七年戦争ではロシアとともにフリードリヒ2世を苦しめたが、シュレジエンの奪回には失敗した。

 その後も産業育成、農民保護、教育改革など啓蒙的諸政策を進め、65年夫フランツ1世の死後も長子ヨーゼフ2世(神聖ローマ皇帝、在位1765‐90)との共同統治のなかで、その急進性を抑えながら、敬虔なカトリックの啓蒙君主として、また宮廷にあっても市民的な家庭を築き、国内の諸民族から国母として敬慕された。

 マリア・テレジアの死後ヨーゼフ2世は単独統治に入ると翌81年寛容令、農奴解放令を発布し、その後も修道院解散、税制改革など矢継ぎばやに改革を進めたが、ことにドイツ語の強制による中央集権化は貴族や諸民族の反発を激化させ、フランス革命に対する国際的反動化もあって、この合理主義的急進的な啓蒙主義は90年ヨーゼフ2世の死とともに破産し、弟レオポルト2世(神聖ローマ皇帝、在位1790‐92)の啓蒙主義も反動化を防ぎえなかった。

[オーストリア帝国]  ナポレオン戦争のなかで1806年神聖ローマ帝国は解体し、最後の皇帝フランツ2世(神聖ローマ皇帝、在位1792‐1806、オーストリア皇帝、在位1804‐35)は、これに先立つ1804年オーストリア皇帝フランツ1世を称し、ウィーン会議後は反動的なメッテルニヒ体制の頂点に立った。

 1748年の三月革命は王家を動揺させたが、その年12月フランツ・ヨーゼフ1世(オーストリア皇帝、在位1848‐1916)は反革命を担う若き君主として即位し、翌49年ロシア軍の援助を得てハンガリー革命を鎮圧する。しかしブルジョアジーの台頭と諸民族のナショナリズムの高まりのもとで、反動的な官僚主義と啓蒙的な君主思想のはざまにあって悩み続ける。ことに59年のイタリア独立戦争、66年の普墺戦争に敗れてイタリアとドイツから排除されると政策上も中央集権化と諸民族の連邦化との間を動揺する。

 ドナウ帝国の再建のために67年ハンガリーとアウスグライヒ Ausgleich(妥協)を行い、オーストリア・ハンガリー二重帝国を成立させるが、犠牲にされたスラブ系諸民族の不満は高まる。78年ベルリン会議後のドイツ・オーストリア同盟も、ロシアとの関係を悪化させてスラブ系諸民族をロシアに近づけ、また西欧列強からも孤立してドイツへの従属を深め、オーストリア帝国主義は民族運動と帝国主義の交錯するバルカンの泥沼にはまり込む。

 国家統合の要であった老帝には家庭における悲劇も続き、1914年サラエボにおけるセルビア民族主義者による皇太子夫妻の暗殺(サラエボ事件)をむかえる。これが直接の原因で第1次大戦は始まり、フランツ・ヨーゼフ1世は戦争のなか、帝国と王家の前途を憂えながら1916年長い生涯を閉じる。最後のオーストリア皇帝カール1世(在位1916‐18)は18年、敗戦によるオーストリア・ハンガリー二重帝国の崩壊とともに退位し、7世紀にわたるハプスブルク王家の歴史も終わった。

05 ウィーン大聖堂

ウィーン大聖堂

(1975x1340)226KB
ウィーン大聖堂 Stephansdom,Wien オーストリアの首都ウィーンにある後期ゴシック様式の大聖堂。正称はシュテファンスドーム(シュテファン大聖堂)。14世紀初頭からロマネスク期の建物を逐次改築、身廊は1450年に完成。三廊式のハレンキルヘで、東端に3祭室を置く単純な構成を示す。交差廊の南北両端に主出入口があり、鐘塔が立つ。北塔は未完成だが、南塔(1433)は高さ137mに達するレース状の石造尖頂屋根を頂く。3身廊を一つの棟に架ける急勾配の大屋根は、色瓦の模様張りで知られる。内部には15世紀中葉の木彫衝立を持つ祭壇や、16世紀の石造説教壇など優れた彫刻が見られる。 

フランツ・シュテファン Franz Stephan 1700年ハプスブルクのスペイン家系が断絶し、それに続くスペイン継承戦争の後、イタリアとオランダのスペイン領はオーストリア家系の手に入った。この時期マリア・テレジアはプロイセンのフリードリヒ1世に軍事的に対抗する宿命を担って即位し、1740年から80年まで統治した。彼女は1736年ロートリンゲン公フランツ・シュテファン Franz Stephan(1708‐65)と結婚し、それによってハプスブルク・ロートリンゲン家を創設した。彼女は16人もの子をつくり、シェーンブルン宮殿を愛好したが、他面強力な国家改革を推し進め、統一的な行政機構としての官僚制的国家をつくり出した。

06 シェーンブルン宮殿
ベルベデーレ宮殿
(1918x1249)226KB
ベルベデーレ宮殿 Belvedere ウィーンにあるオーストリア・バロックの郊外宮殿。

 皇子オイゲンがヒルデブラントに造らせたもので、斜面をなす庭園を挟んで、社交・祝典用の〈上ベルベデーレ〉(1721‐22建設)と居住用の〈下ベルベデーレ〉(1714‐16建設)の2棟からなる。

前者はウィーン市街を見渡す高台にあり、庭園に続く〈テレーナの間〉、その上の大広間、この両室をつなぐ大階段ホールといった壮麗な内部空間を備えている。1955年5月この宮殿で、オーストリアの主権回復を認める〈オーストリア国家条約〉が米・英・仏・ソ4国の間で調印された。
07 シェーンブルン宮殿

ベルベデーレ宮殿

(912x1200)115KB

 ベルベデーレ宮殿は、裏に回ると広大な庭園がある。そして城の周りには、写真07のような上半身が裸の女性で下半身はライオンの像が沢山ある。像を良く見ると、手も人間の手ではなく、獣の手になっている。乳房が大きくふくらみ、露出した像は、何を表現しているのだろうか。この宮殿を造った王様の女好きがなせるわざ(業)なのだろうか。想像はふくらむ。

08 ザルツブルグ

ザルツブルク
(1337x1841)187KB

ザルツブルク Salzburg オーストリア中部、ザルツブルク州の州都。人口14万4000(1991)。政令指定都市、大司教座所在地。中央をザルツァハ Salzach 川が南東から北西に貫流し、右岸にカプツィーナーベルク、左岸にメンヒスベルク、その背後にラインベルクと三つの丘が囲む。

 市の中心は往年の君主公館、大聖堂、市庁舎である。その南には大司教宮殿のあるカピテル広場、メンヒスベルクの麓にはザンクト・ペーター修道院教会と付属墓地がある。17世紀以来の乗馬学校は20世紀に3度の改造で祝典会館に衣替えした。夏にはザルツブルク音楽祭、春には復活祭祝典が開かれる。音楽学院(モーツァルテウム)、総合大学(1623創設、1810敗戦で廃校、1962復活)のほか州立劇場、モーツァルトの生家兼記念館、ミラベル庭園などがあり、郊外にヘルブルン、クレスハイム、レオポルツクローンの諸宮殿がある。石材、セメント、繊維、被服、光学器械、醸造など工業都市としての横顔ももっている。

 ラインベルクにはケルト人の住居址がある。1世紀初め、今日の旧市街の部分にローマの植民市ユウァウム Juvavum が建設され、属州ノリクムの固めとなる。696年ごろ、聖ルーペルト Rupert はユウァウムの廃墟にザンクト・ペーター修道院を、小高い丘に残る砦に、ノンベルク女子修道院を建立。この砦を川の名にちなんでザルツァハブルクSalzachburg、縮めてザルツブルクと呼び、これが集落名として文字史料に登場するのは755年である。

 10世紀末ごろには、最初の商人定住区が成立した。1077年に始まるラインベルク上のホーエンザルツブルク要塞の造営は、15〜17世紀にも拡充された。中世後期には交通上の好位置から中継貿易で栄えた。16世紀以降領邦体制が強まり、市民団の政治的自由は制限された。地理上の発見に伴いイタリアとの交易が低下し、反宗教改革の確立による有力商人の流出など、16、17世紀には経済的衰退が目だつ。他方、バロック期の歴代大司教の建築熱は都市景観に決定的刻印を与え、18世紀に入ってやっと鎮静化した。ナポレオン戦争の結果、1803年以降君主の府であることをやめたが、60年代に鉄道の開通が復興のきっかけとなり、20世紀からは音楽、演劇、観光の中心地として蘇生した。

[美術]
  ホーエンザルツブルク要塞の麓、旧市街の中心には、1596‐1792年ローマ・バロックの様式で造営された大司教宮殿が立つ。内部はスタッコとフレスコ画による豊麗な装飾をもつ。宮殿広場の南にそびえる大聖堂は、1614‐28年ソラーリ S. Solari がイタリア初期バロック様式で造営したもの。ラテン十字形プランをもち、2塔式の正面は明るいザルツブルク大理石で造られている。

 また、ウィーンの宮廷建築家フィッシャー・フォン・エルラハの造営した教会が四つあり、なかでも三位一体教会は、バロックの建築家ボロミーニのサンタニエーゼ教会(ローマ)に倣ったもので、西正面を内にくぼませ、双塔間から力強い丸屋根を突き出させる。内部のフレスコ画はロットマイアー J.M. Rottmayr による(1700)。このほか、12世紀にロマネスク様式で建てられ、18世紀にバロック様式に改造されたザンクト・ペーター修道院教会や、中世末にシュテットハイマー H. Stettheimer によってハレンキルヘ(等高式)に造営された内陣をもつフランシスコ会教会がある。
 
09 Sound of Music の舞台

Sound of Music の舞台

(1873x1225)230KB
 ジュリー・アンドリュース演じる修道女見習い?のマリアが海軍小佐の住むこの館に家庭教師でやってくる。奥さんを亡くし、男手で大勢の幼い息子達を育てているのだが、家庭教師が愛想を尽かして逃げ出す毎日。そういった家庭にマリアがやってくるのだ。

 紆余曲折の後、彼女は子供達の信頼を勝ち取り、いつしかトラップ氏と愛が芽生える。そして二人は結婚する。ドイツ占領下のほんのひとときではあったが、幸せな家庭生活を送った館が写真09である。ザルツブルグにあるこの建物で実際にロケが行われ、現在も保存されている。

 残念ながら、この建物は個人所有のため、内部は公開されていない。こうして遠くから眺めるだけなのだ。この湖で子供達が遊び、ボートが転覆したシーンもあった。森と湖の素晴らしい環境に恵まれた美しいザルツブルグ。今も昔と何ら変わらないたたずまいで我々観光客を優しく迎えてくれる。 
10 スイス国花のエーデルワイス

エーデルワイス
edelweiss

 

Sound of Music の舞台

Sound of Music の舞台
(1400x964)207KB

 この墓地は見覚えがある。映画「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ一家がドイツのゲシュタポに追われ、逃げ込んだ墓地だ。修道女上がりのマリアたちを助けたのは、修道女達だ。ゲシュタポの自動車フォルクスワーケンのエンジンの部品を抜き取って、エンジンがかからないようにしたのだ。かくて、ドイツ占領下にあってもオーストリアの国旗 を掲げ続けた誇り高きオーストリア海軍士官トラップ家は、アルプス越えを果たし、自由の国スイスに逃れる...という感動の結末で物語は終わる。

 このミュージカルで生まれたのが「サウンド・オブ・ミュージック」であり、「ドレミの歌」であり、永遠の名作「エーデルワイス」なのだ。目を閉じると、今でもザルツブルグの音楽祭でトラップ一家が歌うエーデルワイスの歌声が聞こえてくる。映画はもちろんドイツ語ではなく、英語だったのだが...。正確な歌詞は忘れたが、すこし書き記す。

Edelweiss, edelweiss, every morning you greet me.
Small and white, clean and bright, you look happy to meet me.
Blossom of snow may you bloom and grow, bloom and grow forever.
Edelweiss, edelweiss, bless my homeland forever!
Small and white, clean and bright, you look happy to meet me.
Blossom of snow may you bloom and grow, bloom and grow forever.
Edelweiss, edelweiss, bless my homeland forever!

 「エーデルワイスよ、エーデルワイスよ、我が祖国を永遠に祝福しておくれ!」という最後のフレーズは、思わず涙が出るほどに美しく、深く感動したものだった。ちなみに、bless とは十字を切って神の祝福(ご加護)を祈ることなのだ。典型的な言葉は、いつも良く聞く God bless me! (神のご加護を!)だ。どうしようもない絶体絶命の時に、思わず発する言葉である。日本人であれば、船が遭難したときなどに、手を合わせて神仏のご加護を祈るのと同じ状況なのだ。英和辞典によると、edelweissは〈ドイツ語「気高い」と「白」から〉となっている。

エーデルワイス
 edelweiss 夏に美しい白い花を開くヨーロッパ・アルプス産のキク科ウスユキソウの1種(イラスト)。転じて、ウスユキソウの仲間をこの名で呼ぶことがある。高山植物として有名で、人の近づかない万年雪の岩の裂け目に野生するため、登山家たちのあこがれの花となった。名前はドイツ語の Edel(高貴な)Weiss(白)に由来する。

[伝説]
  エーデルワイスの学名Leontopodium は〈獅子の足〉の意で、これは毛皮状の葉にくるまった花がライオンの足を思わせるためであろう。スイスには純潔の乙女と結びつける伝説が語られている。昔アルプスの村に絶世の美女がいたが、彼女を妻とするにふさわしい男が絶えていなかったため、乙女はついに嫁ぐことなく世を去った。エーデルワイスは乙女の生れ変りで、アルプスの山男や狩人がその白い花を帽子に飾るのは、最も美しい乙女を妻に迎えたいという思いを表しているのだという。花ことばは〈気高く毅然(きぜん)とした勇気〉〈純潔と不死〉。スイスの国花、ミュージカル《サウンド・オブ・ミュージック》中の曲名としても有名。

11 ザルツブルグの街

ザルツブルクの街

(1900x1159)155KB
 この古い通りの奥に、モーツァルトが育った家がある。

モーツァルト 1756‐91
 
Wolfgang Amadeus Mozart 18世紀古典派を代表するオーストリアの作曲家。

【生涯】
 当時は独立したカトリック大司教領だったザルツブルクに生まれた。父親は大司教ジークムント・フォン・シュラッテンバハに仕える音楽家レオポルト・モーツァルトであった。レオポルトは南ドイツの町アウクスブルクに生まれ、その家系からは建築師、彫像師、造本装丁師など親方が輩出していた。レオポルトと妻マリア・アンナとの間に生まれた7人の子どものうち、末子のウォルフガング・アマデウスと三女のマリア・アンナ(通称ナンネルル)だけが夭折を免れた。

[神童]
  姉ナンネルルも楽才を発揮したが、弟ウォルフガングは3歳からその天賦の才を父親に認められ、レオポルトは息子が4歳のときから音楽のレッスンを開始している。姉の楽譜帳を使ってのこのレッスンは父親の手で記録されているが、5歳の初めころから早くも作曲も試みられ、この楽譜帳の余白に、同じくレオポルトの手で記される(20世紀半ばに再発見されたクラビーアのための4曲の小曲 K.
61a〜1d)。

 こうした息子の神童ぶりをザルツブルク以外の土地でも披露しようと、1762年初めのミュンヘン旅行、つづいて同年秋から翌年初めまでのウィーン旅行が企てられる。ウィーンではシェーンブルン宮殿での女帝マリア・テレジアの前での御前演奏など数々のエピソードを生んだ。

 一家の旅行は、さらに続き、63年6月から始まる西方への大旅行は、ミュンヘンのバイエルン選帝侯宮廷再訪をはじめ、ドイツ各地の歴訪、ベルギーを経てパリ訪問、翌64年のロンドン訪問、さらに翌年のオランダ滞在、そして66年のパリ再訪からスイスを経て同年11月末のザルツブルク帰郷と足かけ4年にわたる長大なものであった。この間、ベルサイユ訪問とルイ15世の御前演奏、パリ在住ドイツ人作曲家(クラビーアとバイオリンのためのソナタの先駆者ショーベルト Johann Schobert、ピアノ・ソナタの最初期の作曲家エッカルト Johann GottfriedEckard ら)との出会いと最初のソナタの連作(クラビーアとバイオリンのため。K.6〜K.9)の出版、ロンドンでのクリスティアン・バッハの薫陶、最初の交響曲(K.16、K.19、K.
619a など)の作曲、オランダでの大病といった数多くの経験をもっている。

 帰郷後、作曲の勉強が続けられ、劇音楽のような大規模の作品が生み出されるが、翌67年秋から翌々69年初めにかけて行われた2度目のウィーン旅行で、モーツァルト姉弟はともに天然痘に倒れた。ウィーンでオペラ・ブッファ《にせのばか娘》(K.51―K.
646a)やドイツ語オペラ《バスティアンとバスティエンヌ》(K.50―K.646b)、あるいは《孤児院ミサ曲》(K.139―K.647a)などの大作や交響曲が生み出され、少年モーツァルトはすでに確実な作曲技術をおのれのものとした。

 レオポルトはさらに息子にオペラ作曲の経験を積ませるべく、69年末に、今度は二人だけで、イタリア旅行を企て、翌々71年3月まで、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、さらにベネチアなど主要都市をめぐった。とりわけローマ教皇からの黄金拍車勲章の授与、ボローニャでの大音楽理論家 G. B. マルティーニの薫陶と好楽協会会員への推挙、ミラノでのオペラ・セーリア《ポントの王ミトリダーテ》(K.87―K.
674a)上演などがこの旅行の大きな収穫であった。

 オペラの本場イタリアでの成功は、なお、ミラノ再訪と再々訪を可能にし、71年10月上演の祝典劇《アルバのアスカーニョ》(K.111)と72年12月のオペラ・セーリア《ルーチョ・シッラ》(K.135)を生み出した。前者はマリア・テレジアの皇子フェルディナント大公の婚儀のためのものであった。

[宮廷音楽家]
  2度目と3度目のイタリア旅行の合間に、新大司教ヒエロニムス・コロレードの就任がさしはさまれる。前任者によって無給のコンツェルトマイスターに任じられていたモーツァルトは新大司教のもとで有給の処遇を受けることになる。イタリア旅行のあと、1773年には第3回ウィーン旅行、74年から翌年にかけてミュンヘン旅行がさしはさまれるが、モーツァルトはしばらくの間、新大司教のもとで、宮廷音楽家の職務を果たしていく。セレナードや協奏曲、さらに教会作品などが数多く生み出される。管弦楽の《ハフナー・セレナード》(K.250―K.6248b)、《変ホ長調ピアノ協奏曲》(K.271)などがめぼしい作品である。

 大司教コロレードとしっくりいかないモーツァルトは77年9月から翌々79年1月にわたって、就職口を探す旅に出た。いわゆる〈マンハイム・パリ旅行〉である。ミュンヘン、マンハイム、パリと続くこの旅行で、宮廷音楽家のポストは得られなかったモーツァルトではあったが、母親と二人で行った旅で得た音楽的経験は広く深く、また人生体験も豊かであった。いわゆる〈マンハイム楽派〉との触れ合い、マンハイムとパリでの交響曲、協奏交響曲、協奏曲、ソナタなどの作曲、アウクスブルクでのシュタイン Johann Andreas Stein 製作の優れたピアノとの出会い、この父親の故郷での従妹マリア・アンナ・テークラ(モーツァルトは〈ベーズレ(いとこちゃん)〉と呼んでいる)との交際、マンハイムでの歌手アロイジア・ウェーバーとの出会い、パリでの母親の死、帰路ミュンヘンでアロイジアに失恋したことなどである。

 けっきょく帰郷して、復職し、またしばらくの間宮廷音楽家の職務に従事し、《戴冠式ミサ曲》(K.317)、協奏交響曲(K.364―K.6320d)、交響曲(K.318、K.319、K.338)などを作曲する。80年11月、ミュンヘンに赴き、翌81年1月オペラ《クレタの王イドメネオ》(K.366)を上演するが、大司教にウィーンに呼び出され、同年春、父親の反対を押し切って辞職、そのままウィーンに定住した。フリーな音楽家として、ピアノ教授、作曲、予約演奏会、作品出版などで生計をたてることになる。
12 モーツアルトの家

モーツアルトの家
(1200x832)135KB

[ウィーンの作曲家]  1781年末のヨーゼフ2世の御前での M. クレメンティとの競演、82年夏のジングシュピール《後宮からの誘拐》(K.384)の上演などがモーツァルトのウィーン・デビューを飾っている。また82年にはアロイジア・ウェーバーの妹コンスタンツェと結婚した。ファン・スウィーテン男爵との出会いから北ドイツのバロック音楽に触れるなど、音楽活動はきわめて順調であった。

 1783年ザルツブルク帰郷を挟み、84年暮れにはフリーメーソン結社に加わる。このころハイドンにささげられた6曲の《ハイドン四重奏曲》やピアノ協奏曲などの力作、傑作が多数生み出されている。ニ短調の《ピアノ協奏曲》(第20番。K.466)が名高い。85年には父親の来訪があり、このあと取り組んだ大作オペラ・ブッファ《フィガロの結婚》(K.492)は、翌86年5月に初演されたが、イタリア人オペラ作家たちの妨害運動さえ引き起こした。ライバルとしてとりわけ宮廷作曲家サリエリの名が挙げられている。

 このあたりから、モーツァルトの実生活面にかげりがみられるようになる。演奏活動はあまり頻繁でなくなり、借金生活が重なるが、その理由は現在でもつまびらかにされていない。しかし、創作活動はさらに充実し深まっていく。87年4月、ベートーベンの訪問を受け、翌5月末父親を失う。この年には《ト短調弦楽五重奏曲》(K.516)のような短調作品が生み出される一方、《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》(K.525)のような晴れやかな名曲も書かれている。

 名作《ドン・ジョバンニ》(K.527)はこの年の作品であるが、ドン・フアン伝説によるこのイタリア語オペラは、主人公の死を扱う点や劇的表現の点でいわゆるオペラ・ブッファ(喜歌劇)の域を越え出ている。このオペラは10月末ボヘミアの首都プラハで初演されたが、ウィーンに帰ったモーツァルトはヨーゼフ2世から〈皇王室宮廷作曲家〉に任じられている。おりしも大作曲家グルックが死んだ直後であった。

 翌88年夏にはいわゆる〈三大交響曲〉(第39番K.543、《ト短調交響曲》第40番 K.550、《ジュピター交響曲》第41番 K.551)が書かれたが、当時、モーツァルトはピアノの弟子もなく、演奏会も開かれず、フリーメーソンの盟友プフベルクに借金を重ねたまま塞状態にあった。翌89年春、リヒノフスキー侯に誘われて、北ドイツ旅行を試み、プラハを経て、ドレスデン、ライプチヒ、ベルリンを訪れ、ポツダム宮殿でプロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム2世に謁見し、また作品の依頼を受けている。

 この89年に書き始められたオペラ・ブッファ《コシ・ファン・トゥッテ(女はみんなこうしたもの)》(K.588)は翌90年1月にウィーンで初演されている。この年ヨーゼフ2世が没し、弟のレオポルト2世が即位し、その戴冠式がフランクフルト・アム・マインで行われた。モーツァルトは自費でその祝典に参加したが、経済的困窮はいっそう重いものとなった。コンスタンツェのバーデンでの療養生活はこのような家計をさらに圧迫することになる。

 91年には最後の《ピアノ協奏曲》(第27番 K.595)やクラリネット協奏曲(K.622)が書かれたほか、興行師シカネーダーの依頼で、ジングシュピール《魔笛》(K.620)が作曲された。9月末に初演されたこのドイツ語オペラはしだいに成功を収めていくが、それに先立って見知らぬ男から注文を受けたという《レクイエム》(K.626)の作曲やボヘミア王としてのレオポルト2世の戴冠式祝典オペラ《ティート帝の慈悲》(K.621)のプラハ初演などがさしはさまれる。

 《レクイエム》の作曲は《魔笛》の初演後も続けられるが、健康を害したモーツァルトは11月20日に病床につき、《レクイエム》未完のまま、12月5日世を去った。死因についてはさまざまな論議があり、腎不全などの病死説(直接の死因としては過度な瀉血による致死説も含む)、水銀による毒殺説などがある。葬儀の日も、従来の12月6日説のほか、最近では12月7日説も登場している。ザンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された遺体のありかは確認されていない。ウィーン中央墓地にはベートーベン、シューベルトと並んで記念碑が建てられている。

 未完に終わった《レクイエム》は、のちに弟子のジュースマイヤー Franz Xaver Sssmayr(1766‐1803)の手で完成された。モーツァルトの死後、追悼、追慕の気運はおおいに高まり、モーツァルトの未亡人コンスタンツェと二人の遺児カール・トーマスとフランツ・クサーワーには、友人、知人、愛好家たちの暖かい援助の手が差し伸べられた。伝記が書かれ、遺品類は整理されたが、こうした点でのちにコンスタンツェが再婚したデンマークの外交官ニッセン Georg Nikolaus Nissen(1761‐1826)の功績ははなはだ大きい。

[モーツァルトとハイドン]
  モーツァルトは先輩であり、師であり、友人であったヨーゼフ・ハイドンとともに、古典派を代表し象徴する作曲家であるが、両者はまことに対照的な存在である。ハイドンは晩成であり長寿であったが、モーツァルトは神童として注目され、若くして巨匠となり、わずか35歳で夭逝している。ハイドンは長く宮廷音楽家の職に安んじていたが、モーツァルトは束縛を嫌い、後半生はフリーな音楽家として活動し、そして力尽きた。

 モーツァルトもハイドンも、古典派時代の音楽のほとんどすべてのジャンルを手がけているが、後者を先駆者とすれば、前者はその先業を受け継ぎ、さらにそうしたジャンルのそれぞれを多様化し、また深化したものといえよう。ピアノ・ソナタ、弦楽四重奏曲、交響曲などの分野で、ハイドンが築いたものに、モーツァルトは味わい深い個性的なものを付け加えたというべきだろう。モーツァルトはピアノ協奏曲でこのジャンルの芸術的完成を果たし、さらに教会作品、とりわけオペラで、ハイドンを凌駕している。モーツァルトのウィーン時代のオペラは以後2世紀にわたるオペラ劇場の恒常的なレパートリーとなった。

[後世の人気]
  モーツァルトの死後、彼の音楽は、しだいに広く強く世人の関心を引きつけ、作品の出版はしだいに数多くなっていった。また19世紀半ばには生地ザルツブルクにモーツァルトの芸術の保護振興を目的とする機関(現在の国際モーツァルテウム財団)が設けられ、モーツァルト音楽祭(現在のザルツブルク音楽祭やモーツァルト週間)が企てられた。さらにモーツァルトの作品の目録(L. von ケッヘルによる《モーツァルト全作品目録》1862。K.(ケッヘル番号)はその番号、K.
6は第6版の番号)が作成され、そして全作品を網羅する《モーツァルト全集》が刊行された。

 モーツァルトの父レオポルトは、息子の音楽活動をきめこまかに記録し、またモーツァルト自身もウィーン時代には自分の創作活動を丹念に記録している。またモーツァルト一家が残した手紙類も多く、伝記的な資料にも事欠かない。モーツァルトはただ単に音楽家としてばかりか人間としても魅力ある存在であった。そのような人間モーツァルトも後代のモーツァルト愛好家の関心をそそっている。〈ベーズレ〉にあてたモーツァルトの手紙はそのかろやかで流れるようなスタイルで、カノンのような彼の声楽のジャンルを思わせるし、他方、父親にあてた最後の手紙(1787年4月4日付)にみられる死の想念は、彼の円熟した時期の短調作品をしのばせる。

 このようなモーツァルトの人間と音楽の魅力は、死後およそ2世紀間、音楽家ばかりか、メーリケ、プーシキン、キルケゴールをはじめ文人、画家、哲人、その他あらゆる分野の人たちの発言を誘ってきた。20世紀に入って、モーツァルトの作品の再発見も相次ぎ、また作品と手紙の網羅的な新全集(1955‐)も刊行され、また18世紀の演奏様式の研究によって、あるがままのモーツァルトの形姿が、響きの点でも後世の人たちに十全なかたちでとらえられるようになっている。さらにモーツァルトの人と作品は、芸術家たちにかっこうの創作上の素材をこれまた多様なかたちで提供している。
  フォトギャラリーへ 特集!旅紀行目次へ 世界の名城 感動写真集目次へ  
旅紀行ジャパン目次へ   多摩川紀行
旅紀行日本の祭り 旅紀行日本の裸祭り 旅紀行日本の花目次へ
Wa☆Daフォトギャラリー

今 日

 和田フォトギャラリー

昨 日

 Copyright (C) 2000-2006 Yoshio Wada. All Rights Reserved. 
ホームページオーストリア写真集お知らせお便りコーナー徒然日記俳句・海の風景ホームページ奮闘記作者のプロフィール