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 中国で外敵防御のために築かれた長大な城壁。現存の長城は明代、とくにその後半期に築造されたもので、東は渤海湾岸の山海関から、中国本土の北辺を西に向かい、北京と大同の北方を経て、南流する黄河を越え、陝西省の北端を南西に抜けて再び黄河を渡り、いわゆるシルクロードの北側を北西に走って嘉峪関(かよくかん)に至る。地図上の総延長約2700km、あるいはそれ以上といわれ、人類史上最大の建造物とされている。 この間、北京の北西、八達嶺付近から居庸関を経て、大同の南、雁門関に至る部分は二重に築かれているほか、2700kmのすべてが同じ構造をもつわけではない。もっとも堅固なのは山海関から黄河に至る区間で、長城の外面は焼いて造ったうすねずみ色の瓦でおおわれている。いわゆる(せん)であるが、内部は粘土をつき固めた造り方である。 万里長城の図面
万里長城の図面

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 八達嶺付近の長城は高さ約9m、幅は上部で約4.5m、底部で9mにおよび、上には鋸歯状の女牆(ひめがき)を設けて銃眼とし、約100mごとに(とんだい)が置かれている。これに対し、黄河以西の部分はかなり粗雑で、の代りに粘土を型に入れて乾燥させただけの日乾瓦が使われたところが多い。清代に入ってから補修がほとんど行われなかったため、日乾瓦造りの部分は破損がひどく、すでに原形を想像できぬほど崩れた個所もある。

[起源] 長城の起源は春秋時代にるが、この語が文献にあらわれるのは戦国時代である。当時の長城は北防に限定されず、いわゆる中原の地に建国した国々も、長城を築いて外敵の侵入に備えた。斉、中山、楚、燕、趙、魏、秦などの諸国である。このうち、燕・趙・秦の3国の北辺の城壁については文献に記載があるだけであったが、近年内モンゴル自治区の赤峰付近で遺址らしきものが見つかったと報告されている。

 前221年、中国を統一した秦の始皇帝は燕や趙のつくった北辺の長城を連結し、さらに西方へと延長して、北方遊牧民族に対する防衛線とした。西方は甘粛の岷県付近を起点とし、黄河の北をまわって趙の長城に合し、その東端を燕の長城につなぎ、赤峰から遼陽付近に至るのが始皇帝の長城であった。前漢時代の長城は、その東部についてはほぼ秦代のままであったが、西方では甘粛の回廊地帯を匈奴の侵攻から守るため、武帝の時代に武威・酒泉の2郡を置き、その北に長城を築いた。のちさらに張掖・敦煌の2郡を設け、これにともなって長城も酒泉から西へ、玉門関にまで延長された。後漢時代になると匈奴の勢力は衰え、中国と争う力を失ったので、長城の補修は行われなかった。

 三国から晋代にかけては、いわゆる五胡の動きが活発となり、大挙して中国に侵入するにいたった。彼らは自由に長城を越えて出入し、内地に定住する者もあらわれた。漢族の晋は長江(揚子江)流域に南遷し、南北朝時代が始まった。華北に入った鮮卑は北魏を建てたが急速に中国化し、外モンゴリアにおこった柔然の侵攻に対抗するため、長城の修築を大がかりに実施した。これは始皇帝時代のものを補強したと考えられている。北魏の領土を受け継いだ北斉と北周も巨費を投じて大規模な築造を行った。この長城は山西省離石県付近から渤海湾岸まで、ほぼ1500kmにわたる規模で、現在の長城線の位置に新たに築かれたものである。かくして、このころから北方の古代の長城、つまり春秋戦国時代にはじまり、漢や北魏の時代に補修されてきた旧長城は放棄され、遺址もわからなくなっていくのである。

[改修と変遷] 隋は中国統一後、長城の補修につとめるとともに、オルドス南縁に新しい長城を設けている。唐代になると、北方遊牧民族に対する姿勢が積極的かつ攻撃的となったため、長城の補修・新設などのことはなかった。五代以後は長城一帯の地が、遼、金、西夏など異民族の領土となったから、長城はほとんど手を加えられることなく放置された。金代には、以上とは別の長城が築かれている。金はモンゴル高原の東端に住むタタール部の侵入を防ぐため、新たに興安嶺の西側に大規模な長城を築造した。現在のチチハル(斉斉哈爾)の北西、興安嶺を越えたあたりから、南あるいは南西にのび、陰山山脈北側の草原を西に走り、包頭(パオトー)の北方に達していたらしく、その遺址は今も断続的に残っている。元はモンゴリアと中国を統一的に支配したため、長城を必要としなかった。元代の記録に長城のことはまったく見当たらない。何度も長城線を越えたマルコ・ポーロも《東方見聞録》に長城のことは一行も記していない。おそらく建設以来数百年を経、すでに破壊されて、長城の姿をとどめていなかったからであろう。

 現在の長城はほとんどが明代に築かれたものである。明は永楽帝の時代まで、北方民族に対し攻撃的であったが、以後しだいに防御的となり、彼らの侵入を防ぐため、歴代しばしば修築を行った。主として北斉時代の遺址を基礎としたが、地域によってはかなりの部分を新設したところもある。長城の築造はすでに永楽帝時代(1403‐24)に始まっている。まず、山海関から大同にかけての区間が強化され、ついで正統年間(1436‐49)には北京の正面部分が二重となった。さらにオルドス南縁の長城が改修されたが、この部分は隋の長城をもとにしている。しかしモンゴル族の侵寇は防ぎきれず、嘉靖時代(1522‐66)以後、あらためて大がかりな修築を行った。工事は東部から着手され、今日見られるような造の堅固な長城ができあがった。西方部分は漢代に築かれて以来、ほとんど放棄されたままであったが、オルドス南縁の長城に続けて甘粛に至る部分が築かれ、ついで蘭州から嘉峪関に延長された。こうして今日に残る長城がほぼ完成したのが、16世紀末のことであった。

 明は長城を北防の第一線として膨大な駐屯軍を配備し、区域を分けて防衛を担当させたが、これを九辺鎮と称する。明代には長城を辺牆とよんだが、北辺の辺牆のほかに、遼東辺牆とよばれるものがあり、山海関から東へ進み、遼寧省瀋陽・開原付近に及び、南下して鴨緑江岸に達していた。これは満州民族の侵掠に備えて設けられたものである。清代になると、満州(東北地方)、モンゴリアから新疆に至る地域が中国と統一して支配されたから、長城は軍事的意味を失い、中国本土と満州、モンゴリアを分ける政治的境界にすぎなくなった。このため修理されることもなく、荒れるにまかされて20世紀の前半にいたったが、中華人民共和国成立以後、整備の手が加えられ、山海関や八達嶺は観光地として内外に有名である。

 古い時代の長城はもっぱら版築とよばれる工法で、土でもって築造された。両側に板を塀のように立て、上から土を入れ、杵などでつき固めていく工法である。長城地域の大部分は黄土地帯であり、黄土は乾燥すると非常に固くなる粘土であったから、簡単な工法ではあるが、雨量が少ないこともあって、相当の耐久性をもっていた。黄土を型にはめて乾燥させると日乾瓦ができ、これを焼くとじょうぶな瓦となる。これがである。で長城の外部を築くようになったのは明代、とくに嘉靖・万暦以後、つまり16世紀後半以後のことであり、地域的には山西以東の区間に限られている。山西以西ではのほか、日乾瓦の部分と版築らしい部分も存在する。一説によると、八達嶺の長城に用いられているの重さは1個あたり20〜30kgであるという。

[軍事・経済的役割] 長城には一定の間隔をおいて台が設けられ、道路と交叉するところには門が開かれて守備兵が駐屯していた。このような場所を関(かん)、あるいは口(こう)とよぶが、山海関、古北口、居庸関、独石口、嘉峪関などはとくに有名である。歴史的にみると、万里の長城にはいろいろな意味があった。一般的には、農耕地帯と遊牧地帯をわける境界線であるとか、遊牧民族の侵入を防ぐための設備であるとかいわれているが、最も重要なのは、やはり防衛線としての軍事的意味であった。しかし実際的には、期待されたほどの効果を発揮することなく、北方民族の勢力が強くなると、彼らはどの王朝の時代でも簡単に長城を越えて中国の農耕地帯に侵入し、華北の農村は大きな被害を受けるのが常態であった。大同・殺虎口間、張家口付近、独石口、古北口などが、彼らの主要な突破地点であったが、ただ明代の山海関だけは清軍の攻撃に耐え、ついに突破されなかった。つまり長城はほとんど役に立たず、漢人には堅固な防備があるという安心感を与える程度のもの、北方民族に対しては、その巨大な建築構造によって心理的な威圧感を与える程度のものであった。さらに平和な時代には、長城はまったく無用の長物であった。漢人は長城線を越え、商業的利益を求め、あるいは農地を探して北に向かった。遊牧民族も生活必需品の入手を目的に関口をくぐった。長城をはさんでモンゴリアや満州方面との貿易は古くから行われていた。小規模なものは長城付近の村落で行われる物々交換であるが、大規模なものは長城内の都市を基地とし、隊商を組んで奥地に入った。明末以降の帰化城のように、長城外にありながら商業都市として繁栄したところもある。清代には政府の意に反して、中国商人とくに山西商人は帰化城からモンゴル高原の奥深くまで足をのばした。長城越えの貿易路としては、熱河(承徳)・満州方面に通ずるものがある。このルートが長城を抜ける地点は、唐以前は古北口であったが、遼代に山海関が開かれてからは2点となった。モンゴリア方面へは大同から北上し、得勝口あたりの関口を通るのが主要ルートであるが、明末からその中継基地となったのが帰化城である。

始皇帝 前259‐前210

 中国、秦31代の王(在位、前247‐前222)、中国最初の皇帝(在位、前222‐前210)。姓は (えい)、名は政。荘襄王の子。一説では実父は陽の大賈である呂不韋とする。荘襄王が人質となって趙に寄寓していたおりに呂不韋は自分の姫妾を荘襄王に献上したが、彼女はすでに妊娠していたという。政は趙の国都邯鄲に生まれ、荘襄王の死去により13歳で秦王となった。はじめ呂不韋を相国として国事をゆだねたが、即位10年に(ろうあい)の事件に連座したためにしりぞけ、ついで法家の李斯を重用した。王翦(おうせん)等を派遣して韓を手始めに、魏、楚、燕、斉、趙の戦国六雄を次々と滅亡させ、古代帝国の成立を実現させた(前221)。太古の三皇五帝から採って皇帝の称号を定め、みずからは始皇帝と称して帝位を2世、3世と無窮に伝えることを意図した。さらに、朕、制、詔など皇帝専用用語を制定し、また旧来の文や武といった諡法(しほう)を廃止した。

 帝国は五行のうちの水徳となし、これにもとづき歳首は十月、黒色を尊び、数は6をもって文物制度を規格し、黄河を徳水と名をあらため、また庶民を黔首 (けんしゆ)(黒頭)と呼んだ。天下を36郡に区画し、領土の拡張に伴い42郡、さらに48郡に編成し、郡県制を全国に施行した。郡ごとに守(民政)とその丞(補佐)、尉(軍政)とその丞および監(監察)を、県には令(または長、民政)、丞および尉を置き、いずれも中央政府から派遣する中央集権体制を確立し、また什伍の法を全土に適用させた。郡県制はすでに戦国各国が実施していた統治方式であり、秦の旧領も12郡に編成されていた。天下統一によりこれを全域に及ぼしたのである。民間から武器を没収して国都の咸陽に集め、鐘などの楽器や金人を鋳造して宮廷に並べ、また地方都市の城郭を取り除かせた。度量衡を統一して基準の量器を全国に配布し、車軌を一定し、標準となるべき文字(篆書(てんしよ))や貨幣(半両銭)を制定した。

 制度文物の統一とともに焚書 (ふんしよ)と坑儒(こうじゆ)を強行して思想および言論の統制を図った。史官は秦史以外の列国の歴史を焼却処分し、民間が所蔵する詩書諸子百家の類はことごとく守・尉に提出して焼却させた。ただし、医薬・卜筮(ぼくぜい)・農業については除外され、また朝廷の博士はいかなる書籍の所有をも許可された。坑儒とは、諸生が始皇を誹謗し、あるいは妖言をもって民衆を惑わしたという理由により、容疑の方士と諸生とを咸陽において穴埋めにして見せしめにした事実をいう。

 国都の咸陽は渭水が貫流し、渭北には咸陽宮、渭南には興楽宮が設けられ、二宮は渭橋によってつながれていた。咸陽宮が手狭になったので、渭南の上林苑中に朝宮(阿房宮)の造営に着手した。しかし、在世中は前殿のみが完成しただけで、工事は二世皇帝に引き継がれた。宮殿の整備とともに、天下の豪商12万戸を強制移住させて人口を充実させている。また、馳道 (ちどう)を建設して中央と地方とを結ぶ交通を緊密にした。

 即位28年から斉、楚、燕などの故地への巡幸を開始した。まず、山東地方に至り、泰山に登りここで封の儀式を、ふもとの梁父 (りようほ)で禅の儀式を執行した(封禅)。ついで、山東半島をめぐったが、このおりに斉人の方士徐市(じよふつ)(徐福ともいう)から海中にある三神山(楕族、方丈、瀛州(えいしゆう))のことを聞き、徐市に人(仙人)と不死の薬を求めさせた。不老長生を願い、みずからも真人(仙人)を思慕するあまり、しばらくは真人と自称して朕の称号を捨てるほどであった。(えきざん)、泰山、瑯(ろうやだい)、之罘(しふ)、碣石(けつせき)では始皇の功績を石に刻ませている。

 前215‐前214年、〈秦を滅ぼすのは胡である〉という讖緯 (しんい)を誤解して北辺に蒙恬(もうてん)を派遣し、オルドスに占住していた匈奴を漠北に追い払うとともに、燕、趙、秦の旧城をつないで遼海から臨(りんとう)に至る約1500kmに及ぶいわゆる万里の長城を築き、北方民族の侵入に備えた。前214年には陸梁の地を滅ぼして南越三郡(南海、桂林、象)を設置し、コーチシナにまで領土を拡張した。

 前210年、巡幸の途中で病死したが、丞相の李斯と宦官の趙高は内乱の発生を危惧してこれを秘し、詔命と偽って太子の扶蘇と蒙恬を自殺させ、棺を咸陽に運んではじめて喪を発し、驪山 (りざん)に埋葬した。末子の胡亥が二世皇帝として即位したが、始皇以来の法罰至上主義、たび重なる外征および朝宮や陵墓などの土木工事に民衆の反感を招き、山東や楚地を中心に反乱が起こり、始皇の没後わずか4年で秦は滅亡した。
 

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