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  Wa☆Daフォトギャラリー 特集!旅紀行

2001年7月22日改訂

BGM
06  人通りの少ない城壁の通路に、一カ所ぽつんと土産物の販売コーナーがあった。見向く人は誰もいない。

 城壁の上には、一定間隔で兵士が身を寄せる小屋が建っている。中は昼間でも薄暗いが、食事や休憩に利用したのだろう。左下の建物は、兵士の宿泊所なのだろうか。2000年の時が静かに流れていく。

 万里長城の建設による哀話として有名な孟姜女の話がある。始皇帝に徴発されて万里の長城建設に従い、苦役に耐えず死亡した夫に冬服を届けに来た孟姜女が、夫の死を知って号泣したところ、涙で長城が崩れてその跡から夫の死骸が現れたという。

 徴用された一般民衆の血と汗の結晶が、この万里の長城であることを忘れてはならない。

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孟姜女 もうきょうじょ 中国の民間伝説の女主人公。秦の始皇帝の時代、范喜良(はんきりよう)が万里の長城建設に徴用されて工事中に死ぬ。その妻の孟姜女は冬衣(ふゆぎ)をとどけに長城にまで行き、夫の死を知る。彼女が哭しつづけると長城が崩れて、夫の死骸が出現する。この筋書の前に、范喜良が孟姜女の裸の姿を見てふたりが結婚することになるという開端、また最後に、彼女を見初めた始皇帝に正室となることを約束して夫を重に弔わせたあと孟姜女が自殺するという結末が付くことが多い。

 この物語の最も古いものは《春秋左氏伝》や《列女伝》に杞梁
(きりよう)の妻の哀哭の故事として見える。しかし民間伝説、歌謡として独自に発展してゆく様相は、敦煌曲子、明代の戯曲や宝巻、清の鼓詞・子弟書などを通してうかがわれ、現在も民間伝説や歌謡の素材となって、漢族のみならずチワン(壮)族など少数民族のあいだにも伝播している。

 この孟姜女伝説の研究は、顧頡剛(こけつごう)らが中心となって行った中国民間文学研究の主要なテーマの一つであった。歴代の孟姜女伝説に取材した民間文学作品については、《孟姜女万里尋夫集》を見るのが便利である。

08  簡素だが重みのある建物が延々と続く。悠久の歴史を感じるひとときだ。ここで哨戒していた兵士は、何を考えていたのだろうか。
 通路は傾いている。異民族の侵入を防ぐ砦なのだから、精巧な設計は不要なのだろう。

蒙恬 もうてん 中国、秦の将軍。斉を攻略した功によって内史となり、前215年(始皇帝32)には30万の大軍をひきいてオルドスを遠征し、臨(りんとう)から遼東にいたる万里の長城を修築して上郡(陝西省綏徳県)に駐屯し、その武威は匈奴に振るった。しかし、始皇帝の崩じた後、丞相の李斯(りし)と宦官(かんがん)の趙高に謀られて、死を賜り毒を仰いだ。毛筆の創始者といわれるが、毛筆は以前からあり、彼の作ったのは秦筆で、材料や製法に改良を加えたものとされている。

森林の荒廃 中国の黄河流域の山野にもりっぱな森林があったが、万里の長城の構築のための燃料に森林を切り尽くしたといわれている。長城の建設の影に、大規模な自然破壊があったことを忘れてはならない。

09 煉瓦を漆喰で塗り固めただけの単純な工法で、壁が造られている。

北虜南倭  ほくりょなんわ 中国、明代に国の南北から受けた外民族による侵寇。北虜とは明を北方から侵略したモンゴル族のこと。南倭とは東南沿海を侵略した倭寇を指す。1449年(正統14)、オイラート部のエセンが侵寇して土木の変を引き起こし、明は大きな打撃を受けた。それ以来北辺へのモンゴル族の侵入は絶えず、明は万里の長城を修築してこれに備えた。

 16世紀半ばにはタタール部のアルタン・ハーンがしきりに中国を侵略し、北京を数十日包囲したこともあった。ちょうどこのころ、明の東南沿海は倭寇の大侵寇を受けた。いわゆる後期倭寇である。その中心は中国の沿岸密貿易業者であるが、倭寇は一時ゆるんでいた密貿易の禁令がこのころ強化されてきたことに対する反抗であると同時に、自由な私貿易の公認を求める動きであり、これに日本の密貿易業者の加わったものであった。明朝はやがて私貿易公認に踏み切るが、この両者により明朝の国力は大きな打撃を受けた。

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土産物屋 駐車場のそばには、日本と同じように何軒かの土産物屋が軒を連ねる。

天津甘栗 天津甘栗あるいは甘栗の名称で市販されている焼き栗は華北の万里の長城周辺地域で生産されたものが天津市に集荷され、そこから輸出されたためにつけられた名前だという。渋皮がはがれやすく、焼き栗にしたとき食べやすいが、,日本での栽培はクリタマバチ被害のため難しいとか。

中国トイレ事情 中国のトイレは、ドアがついていない。男性の小用ならそれでもまだ良いが、女性となると、とても入れない。最近は、日本人観光客も増えてきており、観光地の主要なスポットでは、ドアの付いた有料トイレが建てられている。慕田峪長城のこの附近にももちゃんと用意されているから安心だ

 2000年の歴史の重みを感じながら、慕田峪長城を後にした。

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