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 旅紀行日本の裸祭り

2018年10月20日改訂

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♪翁千歳三番叟

団子坂越えて御旅所秩父祭  北舟

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Chichibu Ritual,
reaching the resting place over the Dango-zaka Slope.

2010年7月31日制作

観客の輪の中で餅を搗く

大野八幡神社やんさ祭

観客の輪の中で餅を搗く/大野八幡神社(大分県中津市耶馬溪町

- 日本の伝統文化が息づく祭 -

 

日本裸祭百景【上巻】

師走

大野八幡神社やんさ祭
大野八幡神社
大分県中津市耶馬溪町
平成21年(2009)12月2日(水)
撮影・原作:清原 浩 監修:和田義男

 平成21年(2009)12月2日(水)夜、大分県中津市耶馬溪町(なかつし・やばけいまち)に鎮座する大野八幡神社(おおの・はちまんじんじゃ)で600年の歴史を有する「やんさ祭」が行われた。

 「やんさ祭」は、毎年12月2日の寒中の夜に大野八幡神社で行われる勇壮な裸の餅つき祭りである。大野八幡神社は、鶴ヶ岡八幡宮とも称し、応神天皇(おうじんてんのう)、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、此淘蜷_(ひめおおかみ)(宗像三女神)を祀る神社で、応永元年(1394)後小松天皇の御世に、下毛郡(しもげぐん)野仲郷(のなかごう)の長岩(ながいわ)城主・野中能登守弘道が相模国(さがみのくに)鎌倉より鶴ヶ岡八幡宮の神霊を勧請して当郷の守護神と崇めたのが始まりという。
 この神社に鶴ヶ岡八幡宮の神霊を勧請した際、野中の若侍33人が鏡餅を搗(つ)いて神前に供えたのが「やんさ祭」の始まりという。新暦11月30日から12月2日までの3日間にわたり行われる大野八幡神社の霜月*(しもずきまつり)の別称が「やんさ祭」で、最終日の12月2日の夜、33人の氏子が褌(ふんどし)一丁の裸形になり、「やんさ、やんさ」とはやしながら餅をつく神事が行われる。  *霜月(しもづき):11月
 この行事を伝えた野中氏は、かつては豊前の豪族として下毛(しもげ)、上毛(かみげ)、宇佐(うさ)の三郡を支配していたが23代野中兵庫頭鎮兼に至り天正16年(1588)中津城主・黒田孝高・長政父子により攻め滅ぼされたが、この行事は、その後も村人たちにより受け継がれ、今日に至っているという。
蒸した餅米を臼に入れる

蒸した餅米を臼に入れる

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  白褌のやんさやんさと杵の餅  北舟 

びゃっこんの やんさやんさと きねのもち

Wearing white loincloths, pounding a rice cake with  mallets, shouting yansa yansa! 

観客の輪の中で餅を搗く

観客の輪の中で餅を搗く

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  ▲▼ 「やんさ祭」は、33人に因んで決められた3升3合3勺(約5kg )の餅米(もちごめ)を蒸し、褌衆が「やんさ、やんさ」と掛け声をかけながら6尺(1.8m)の樫(かし)の杵棒(きねぼう)と木臼(きうす)で7臼半の餅を搗(つ)く。つき終わると臼を守る座元側(モト方)とこれを倒そうとする氏子側(ウラ方)の二手に分かれ、水を撒(ま)いた境内で泥んこになって揉み合う臼倒しが行われる。  
 裸の男たちによって搗き上げられた厄除餅(やくよけもち)厄を払い無病息災の御利益(ごりやく)があるとされ参拝客が競って手にした。
  神前の餅搗棒や白ふどし  北舟 

しんぜんの もちつきぼうや しろふどし

Wearing white loincloths, pounding a rice cake with  mallets, shouting yansa yansa! 

杵棒で餅を搗く裸たち

杵棒で餅を搗く裸たち

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  ▼ 厄除餅が配られて、裸の男たちによる餅つきが終わると、臼倒しに移り、臼を守る座元側(モト方)とこれを倒そうとする氏子側(ウラ方)の二手に分かれて、揉み合いが始まった。  
   臼倒しの最中に座元側が水を撒くので、氏子たちは、泥まみれの熱戦を繰り広げることになる。これは、水を撒くと足が滑って力が入りにくくなるので、攻撃を和らげるための作戦だという。  
 この木臼をめぐる壮烈な攻防戦がやんさ祭のクライマックスで臼を倒すとウラ方の地区が豊作になるが引き分けるとどちらも豊作になるため、毎年引き分けて豊作を祈願する。「やんさ祭」は昭和51年(1976)耶馬溪町(現中津市)により無形民俗文化財に指定されている。
  餅搗や臼を倒さむ褌衆  北舟 

もちつきや うすをたおさん ふどししゅう

Pounding rice cakes, Men of white loincloths trying to put the mortar down. 

壮烈な臼倒しの攻防戦!

壮烈な臼倒しの攻防戦!

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下香楽円座餅つき
清地神社
福岡県築上郡築城町
平成16年(2004)12月5日(日)
撮影・原作:ちばあきお 制作:和田義男

 平成16年(2004)12月5日(日)、福岡県築上郡(ちくじょうぐん)築城町(ついきまち)の下香楽(しもこうらく)公民館で円座(えんざ)餅つきが行われた。JR小倉駅から40分ほどで日豊本線(にっぽうほんせん) 築城(ついき)駅に着く。駅前からタクシーで15分ほどかかる。
 円座餅つきは築城町大字下香楽に鎮座する清地神社(すがちじんじゃ)の例大祭の神事である。清地神社は天疫神社(てんえきじんじゃ)とも呼ばれ祭神・須佐之男命(すさのおのみこと)らが災害や疫病から下香楽の氏子を護る氏神である。

★☆★彡

 円座餅つきは、清地(すがち)神社の祭礼の準備で里人が集い、神餞(しんせん 神に供える飲食物)の鏡餅(かがみもち)をつく段になったとき、我も我もと希望者が多く、杵(きね)の奪い合いとなったたため、餅搗(もちつき)ができなくなり、一同やむなく、ありあわせの棒切れを持ち寄り、臼(うす)に差入れて搗(つ)いたのが始まりといわれる。
 始まりは不明だが、記録に表れたのは江戸時代の享保元年(1716年)という。300年近く続くこの古式懐しい神事は、昭和30年(1955)、福岡県から無形民俗文化財に指定された。

▲▼ 十数名の褌一丁の男たちが搗手(つきて)になり、円座餅つき音頭(えんざもちつきおんど)に合わせて「ヨイサ、ヨイサ」と掛け声をかけながら臼の周りを時計回りに移動しながら樫の棒で餅をつく。円座餅つき音頭は三番まであり、一番唄い終わる毎に臼練り(うすねり)と呼ばれる臼の奪い合いを行う。
 一番臼は12重ね(閏年は13重ね)の鏡餅、二番臼は空臼(からうす)、三番臼は白餅に12束(閏年は13束)の新藁(しんわら)を入れた藁餅(わらもち)をつく。餅は神に奉納するために搗くが、実際は見物客にすべて配られる。
 三番臼を搗き終わり、最後の激しい臼練りを経て、座と呼ばれる注連縄(しめなわ)を張った臼収め場に臼が収められると、円座餅つきは終了する。
 行事は全て下香楽(しもこうらく)公民館で行われるが、昭和59年(1984)に祭りの改正が行われる前までは、座元(ざもと)(行事担当役)の家で行い、臼を座元の座敷に納めて臼練りを終了していたという。

新藁を投げかける

新藁を投げかける

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▲▼ 最後の三番臼では、白餅の中に今年収穫したばかりの12束(閏年は13束)の新藁(しんわら)を入れて搗き込む。寒風に晒されながらも元気よく藁餅をつく男たちの頭上に新藁が投げかけられる。

 男たちは藁まみれになりながらも円座餅つき音頭の三番にあわせ、五穀豊穰の祈願と感謝の気持ちを込めて餅をつきあげる。この藁入りの餅も有り難くいただくという。

激しい臼争奪戦!

激しい臼争奪戦!

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▲▼ 5分ほどで藁餅をつきあげると、最後の臼練りに入る。最大の見せ場であり、臼が座に据えられるまで、迫力ある争奪戦が繰り広げられる。三番臼からは力水もかけられ、裸の男たちは濡れ鼠になりながら臼を争う。
 臼練りの最中にも、力水とともに藁束が裸の集団に投げかけられる。力水ならぬ力藁といったところだろうか。臼練りの場を浄める意味もありそうで、農村の祭りならではの面白い風習である。

稲藁にまみれながら臼を奪い合う

稲藁にまみれながら臼を奪い合う

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