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2003年3月16日改訂

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01 モスクワ
モスクワ
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1997年1月撮影
真冬のモスクワ。思ったより寒くない。町並みも予想外に綺麗だ。

モスクワ Moskva ロシア連邦の首都。またモスクワ州の州都でもある。ロシア連邦の政治、経済、学術、文化、交通の中心であり、かつては社会主義圏全体の中枢でもあって、東欧社会主義諸国の COMECON(コメコン)(経済相互援助会議)の本部がここに置かれていた。面積約1000km2、人口871万7000(1996)。

02 モスクワ市内

モスクワ市内
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 モスクワは、他の多くのロシアの古い都市と同様に、クレムリンからはじまったという歴史的条件を反映して、クレムリンならびに赤の広場 Krasnaya ploshchad’をはさんでクレムリンと向かい合う旧商工業区キタイ・ゴロド Kitai‐gorod を中心とする環状道路が樹木の年輪のように幾重にも都心部を取り巻いている。その最も外側のモスクワ環状自動車道路(総延長109km)が1960年以来、市の境界の役割を果たしている。モスクワの市街、とりわけその都心部には、中世以降さまざまな時期の建造物と現代的な建築が混在して独特の景観を呈している。

 20におよぶ塔と城門をそなえた厚い 瓦造のクレムリンの城壁は、15世紀の末につくられたものであり、クレムリン内のウスペンスキー聖堂(15世紀)や赤の広場のワシーリー大聖堂(16世紀)をはじめネギ坊主形の屋根をもつ教会がまだ市内各所に保存されている。

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赤の広場

赤の広場
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赤の広場 クレムリンの北東の赤い城壁と、赤レンガ造りの国立歴史博物館、グム百貨店ねぎ坊主のワシリー寺院に囲まれた赤の広場。その広さは73、000uに及ぶ。

 以前は5月1日には労働者の祭典メーデー、11月7日には社会主義政権の証生を祝う革命記念日の式典が開かれた。現在は、共産主義者のデモがあるだけになった。

 赤の広場に行ってまず思うのは、クレムリンの城壁と国立歴史博物館を除いて赤いところはなく、どうしてこれが「赤の」広場と呼ばれるのかということ。以前はメーデー、革命記念日には、赤を基調とした垂幕が国立歴史博物館やグム百貨店の壁面に下がり、人々も赤の小旗大旗を手に手に歩いた。だから、広場は赤一色となった。でもそのほかの日はそんなこともない。ではなぜ「赤の」広場なのか?

 それはクラースナヤというロシア語は、古語では「美しい」を表す形容詞だったからだ。今でこそ「赤の広場」と訳すけれども本来これは「美しい広場」と訳されるべきものなのだ。

 クラースナヤ・プローシャチ(赤の広場)と称されるようになったのは、17世紀になってからのこと。15世紀頃、土塁で囲まれたキタイ・ゴーラットと呼ばれる地区には多くの商人が集まり、露店を開いて活発な商業活動を展開していた。雑然としていた地区を17世紀に整理し、美しく模様変えしたところから、赤の広場の名称が歴史に登場する。今のような形(長さ695m、平均幅130m〉になったのは19世紀末のことである。
03 国立歴史博物館
国立歴史博物館(右)
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国立歴史博物館  赤の広場の北側にある。4つの塔をもつ赤レンガ造りの建物。もともとここにはロモノーソフによってモスクワ大学の小さな校舎が建てられていた。これを1875〜1881年に、シェルヴェドとセミョーノフが赤レンガの建物に建て替えた。歴史博物館となったのは革命後。

 展示しているのは、革命以後を除くロシアの全歴史で、石器時代のものからある。あまりにもたくさん展示品がありすぎるので因ってしまうけれども、イワン雷帝の衣装、退散するナポレオンが捨てたベッド、「コロコル」誌初版本などは見落とさないようにしよう。このほか、コイン、メダル、装身具、家庭用品、写本などさまざまなものがあるから好みに応じて見てみよう。
04 レーニン廟

レーニン廟
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レーニン廟  ソ連解体までは、レーニンは神聖にして犯すべからざる存在だった。ボルシェビキ革命を指導し、革命後の大混乱のソ連を新経済政策NEPで乗り切ったレーニン。トロッキー、スターリン、フルシチョフらが歴史の再評価を前にしてその名を否定されたにもかかわらず、つい最近までただひとり何人からも批判を受けることなくソ連史にさん然と輝いていた。宗教を公式に否定したソ連でも、彼だけは神格化された存在だったのかもしれない。

 レーニンは1924年1月21日に死去した。その3日後には早くも最初のレーニン廟がアレクセイ・シューセフの手によって建造された。その後1929年には今の赤土色をした花崗岩造りのものに建て替えられた。まるでピラミッドのような形をしているが、妙にクレムリンの由緒ある建築物にマッチしている。

 レーニン廟は、モスクワ軍管区の中でも最も重要な場所とされ、一番哨所の指定を受けていたが、1995年5月現在衛兵はいなくなり、警備兵がいるのみである。23段の階段を下りると、展示室の中央部に安置されたレーニンの遺体がある。まずアレクセイ・アプリコゾフが、そして後、解剖学者バラビヨフ、同じくカルシン、生化学者ズパルスキーの3人が、彼の遺体を死んだときのまま永遠に保存されるように防腐作業を行った。こうして現在、ロシア正教会に残る古いキリスト教の伝統に従い、レーニンの遺体が観覧に供されている。
05 大クレムリン宮殿

大クレムリン宮殿

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クレムリン klem[ロシア] / Kremlin ロシア中世都市の中心部に位置する城塞。多くは川や湖に面する丘の上に存する。古来からの聖俗の権力・行政機関の所在地。多くの都市(ニジニ・ノブゴロド、カザン、アストラハン、コロムナ、ノブゴロド、プスコフ等)で、16〜17世紀にる城壁や教会などが今日に至るまで保存されているが、その代表はモスクワである。モスクワのクレムリンは1156年ユーリー・ドルゴルーキー公の命により、モスクワ川とネグリンナヤ川との合流点に木造の要塞が築かれたのをもって始めとする。

 今日その領域は28ha、城壁は全長2.25km、高さは5〜19m、厚さ3.5〜6.5m、20の城門と塔をもつ。クレムリンが今日見られるような形になったのは、15世紀末から16世紀にかけてのことである。ロシア教会の総本山にあたるウスペンスキー聖堂(寺院)、歴代大公および後のツァーリらの柩をおさめるアルハンゲリスキー聖堂、大公家の私有教会であるブラゴベシチェンスキー聖堂、外国の使者を接見し、祝宴を催すルネサンス風建築グラノビータヤ宮殿、〈大イワン(イワン・ベリーキー)〉と呼ばれる鐘楼もこの時期に建てられた。ツァーリ一家の居館(テレム宮殿)や総主教館は17世紀、武器庫(アルセナール)や元老院は18世紀、700の部屋をもつ大クレムリン宮殿は19世紀に建てられた。

 モスクワのクレムリンの、聖俗の支配の拠点としての機能は、18世紀初頭のペテルブルグ遷都とともに失われるが、十月革命後の1918年3月12日、ソビエト政権がペトログラードからモスクワに遷都し、クレムリンは再び国政の中心となった。その後ソビエト政府の多くの機関はクレムリンの外部に移ったが、ソ連邦最高会議幹部会とソ連邦閣僚会議はここで活動し、共産党大会その他の重要な会議がここで開催されてきた。

ロシア革命 20世紀世界史において最も巨大な意義をもった社会変革。マルクス主義者をユーラシア大陸に広がる大国の権力の座につけ、社会主義の名のもとに新しい社会体制をつくり出す一方、反資本主義、反帝国主義の革命運動を全世界に拡大する火元を生み、世界史に革新的な作用を及ぼした。

 革命は大きく分けて、1905年の革命(第1次革命)と17年の革命から成り、後者はさらに〈二月革命〉と〈十月革命〉に区分される。この〈十月革命〉は、ロシア革命の全過程の中で最も重要な局面を構成し、マルクス主義にもとづく社会主義社会の実現を目ざす政権を、人類史上初めて誕生させたことで知られる。そのため〈ロシア革命〉という名称が〈十月革命〉と同義に用いられる場合もある。

06 クレムリン庁舎

クレムリン庁舎

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[ロシア・ソビエト美術]  ロシア美術が一つの頂点に達したのは、タタールから解放され国家的統一がすすんだ15世紀末である。コンスタンティノープルが陥落し、モスクワが〈第三のローマ〉としての意識をもったことも手伝って、イタリアから建築家が招かれて、モスクワ・クレムリン内に石造の教会堂や宮殿が次々と建てられた。

 ロシア美術史における大きな転換は18世紀に起こる。ピョートル大帝の大改革によって、美術は宗教に帰依するのではなく、宮廷の美術に変わる。絵画では、その中心がイコンから肖像画に移るなど、世俗美術が台頭していった。ロシア美術のヨーロッパ美術からの立ち遅れを取り戻すために、あらゆる技術が習得された。そのために、中世以来の伝統的な宗教美術は著しく弱められ、歴史画、風景画、風俗画など西欧の絵画ジャンルの興隆が見られた。

[石造建築の始まり]  スラブ特有の木造建築をもつだけのロシアに、石造建築の技術がビザンティンから伝えられたのは10世紀末のことであった。それ以後キエフ、ノブゴロドを中心に円蓋(ドーム)式ギリシア十字プランを基本とする正方形もしくは長方形の(東側に壁龕(へきがん)あるいは張出し部をもった)教会堂がおびただしく建てられた。教会堂は一般に、瓦と石を併用して構築され、壁面は漆喰(しつくい)で仕上げられた。

 最もロシア的な特徴の一つは、円蓋部が高い基壇(鼓胴部)によって持ち上げられ、それを覆う屋根、つまり主ドームと副ドームに相当する部分の金や緑、灰色などに彩られた頂冠の独特の形であり、またその形と数が、時代、地域によって変化することである。初期には、古代戦士のかぶる兜
(かぶと)型をなした頭冠が多数群立したが、12〜13世紀には、ルーシの統一を象徴して1基のものが、また16世紀には、モスクワ・クレムリン内の教会堂を範として5基のものが主流となり、15世紀末から17世紀にかけては、いわゆるタマネギ型(ルコビッツァlukovitsa)の頂冠へと変貌した。 

07 クレムリンの寺院

クレムリンの寺院

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[ビザンティン様式のロシア化]  こうしたロシア化は、建築を風土に適応させることによって、あるいは従来の木造建築からの影響、地域性、象徴的な意味づけなどによってもたらされた。ロシア化の初期の代表例として、白石材を用いロマネスク風の浮彫外壁装飾を施した、まことに端正な美しさをもつウラジーミル地方の教会堂群と、14世紀から約1世紀の間ノブゴロド地方に現れた変形の屋根をもった教会堂群などが挙げられる。

 ビザンティン帝国が滅亡した15世紀中葉以後は、ビザンティン的な様式からますます離れて民族性が強められた。モスクワを中心とする国家統一が進められた15世紀末から16世紀には、イタリアから建築家が招聘
(しようへい)され、ヨーロッパ最新の築城術によってモスクワ・クレムリンは木造建築から石造へと大改築が行われた。しかし、その際ヨーロッパ・ルネサンスの影響はきわめて部分的にとどまり、ウラジーミルのウスペンスキー大聖堂を手本とする建築アンサンブルが完成された。16世紀以降、その他の都市や修道院では、このモスクワ・クレムリンの様式を踏襲していった。

[木造建築と石造建築の相互影響]  16世紀には、まったく新しい屋根をもった教会堂の形式が興った。それは、国王の威力を象徴する形として、木造建築から取り入れられたもので、天幕型(シャチョール shatyor)と呼ばれる八角錐の塔状の屋根が、円蓋に代わって現れた。またこの期は〈タタールのくびき〉からの完全解放と、国家統一の喜びの気運が、規則にとらわれない夢幻的な建築を創造させた。最もロシア的で奇想天外な様式によるワシーリー大聖堂(モスクワ)は、その代表例である。

 天幕型の屋根はそう長くは続かず、17世紀に姿を消した。17世紀後期には、大胆な形式と凝った装飾を求めてヨーロッパのバロックに類似した〈ナルイシキン・バロック naryshkinskoebarokko〉が登場した。赤い壁面に白で装飾したもの、彩色陶板を用いたものなど、華やいだものが流行した。この時期は、石造建築から影響を受けた木造建築が著しい発展期を迎え、コロメンスコエ Kolomenskoe の宮殿やキージ Kizhi 島の教会堂にみるように、幻想的な秀作を残した。
08 クレムリンの葱坊主

ワシーリー大聖堂

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ワシーリー大聖堂 Khram Vasiliya Blazhennogo モスクワ、赤の広場にある大聖堂。イワン4世がモンゴルに対する戦勝を記念して1555‐60年に建て、勝利の仲介者である聖母マリアに捧げた。中世ロシア建築の代表作とされる。正式の名称はポクロフスキー大聖堂 Pokrovskii sobor chto narvu。

 通称のワシーリー・ブラジェンヌイはその北東隅に1588年に増築された聖ワシーリー(バシリウス)の祭室に由来する。ロシア特有の高さ約46mの塔状の主屋の周囲に、同じく塔状の8祭室を配置し、平屋建ての廊下で連絡した特異な形の教会堂で、創建当初は色彩も形態も簡素であったが、17世紀にドームをねぎ坊主形に変え外周の廊下に尖頂屋根を加え、華やかな塗装がほどこされた。現在は赤の広場をはさんで向かいあう国立歴史博物館の分館となっている。

ツァーリ tsar’ 15〜16世紀以降のロシアの君主をさす言葉。日本では英語の czar により、ツァーともいう。ロシア語ではほかにバビロニア、ローマなどの古代国家や東方諸国の君主をさすのにも使われ、この場合にはヨーロッパ諸国の国王をさすコローリとほぼ同義である。

 ツァーリは語源的には古代ローマのカエサル Caesar のくずれた形で、これは直接西方からロシア語に入ったという説と、ビザンティウム(ギリシア語)・バルカン(ブルガリア語)経由説とがある。バルカンでは中世ブルガリアの君主が10〜14世紀に、またセルビア王ステファン・ドゥシャンが1346‐55年にこの称号を使用し、のちのブルガリア王国(1908‐46)の君主もこれを正式の称号とした。

09 クレムリンの寺院

ブラガヴェシェンスキー寺院

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ブラガヴェシェンスキー寺院 Pragabenshenskii temple 1484〜89年、モスクワとプスコフの名匠たちが建て、16世紀中頃火災に見舞われたが、イワン雷帝によって修復された寺院。このとき拡張された部分がもとの寺院をとりまくポーチで、イワン雷帝のポーチと呼ばれている。

 フレスコ画、イコンで有名。1508年にフオドオシが描いた作品は、何度も上から重ね塗りされたが、1947年復元され、オリジナルを見ることができる。正面の隔聖(垂幕)の向こうには、アンドレイ・ルブリョフ、フェオフアン・グレク、プロホル・ゴロデツの作になるイコンがかかげられている。フレスコ画はヨハネの黙示録を題材としたものが多い。

イワン雷帝 Ivan groznyi ソビエト映画。S. M. エイゼンシテイン監督の最後の作品。16世紀に初めてロシアを統一した皇帝イワン4世の生涯と時代を描く三部作として構想されたが、1944年に第1部、46年に第2部の2作のみ完成。7歳で帝位に就いたイワンが、やがて〈雷帝〉と呼ばれる専制君主となるまでを描き、〈偉大なるロシア国家達成のために!〉という雷帝の叫びとともに終わる第1部は絶賛を浴び、スターリン賞を受賞。

 しかし、権力者の孤独、専制政治の悲劇を描いた第2部は、全ソ共産党中央委員会から、〈歴史的事実の描写における無知をさらけ出した〉ものであり、〈進歩的な軍隊であるイワン雷帝の親衛隊を、アメリカのクー・クラックス・クランのような変質者の徒党として取り扱い、強い意志と性格をもったイワン雷帝を、まるでハムレットに似通った弱い性格と意志のない人間として描き出した〉と批判され、改作を余儀なくされた。

 エイゼンシテインは48年2月に病死したが、〈スターリン批判〉以後の58年にようやくそのままの形で公開された。第3部は半分まで撮影されたといわれている。〈政治にとらわれた形式主義の映画〉という批判的な見方に対して、チャップリンのように〈詩人の精神で歴史を扱った〉〈もっとも偉大な歴史映画〉という賛辞もある。

 この映画の構想は、エイゼンシテインの映画理論の一つの実践、とくに〈色彩〉へのアプローチから生まれ、第2部のラスト近くの〈宴会〉のシーンにカラーが試みられている。これは、最初は当時の色彩技術の水準の低さのために黒白で撮らざるをえなかったのが、第2部の製作中に、ソ連軍がドイツを占領してアグファカラー・フィルム現像所を接収したことから実現されたものといわれる。音楽(29曲)はプロコフィエフが担当。

10

クレムリンの寺院

ウスペンスキー寺院
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ウスペンスキー寺院 Uspenskii temple 建築を任されたのは、イタリア・ボローニヤの名匠フィオラバンティ。彼は当時モスクワの競争相手だった古都ウラジミールの大寺院を模範として、ウスペンスキー寺院を設計・建築した。完成したのは1479年のことだった。彼の名は、この寺院で不朽のものとなった。

 
ロシア教会の総本山にあたるウスペンスキー寺院は、ロシア帝国の国教寺院とされ、ツアーがここで戴冠式に臨み、モスクワ総主教が葬儀に付された。寺院の壁と屋根はイコンの画で飾られている。イコンをここに書き残した画家の数はおよそ1,000人に及ぶと言われる。なかでもみものは12世紀の聖ゲオルギー像と13〜14世紀の三位一体像である。

 西を向いた祭壇上には大主教の座席、中央右手に総主教の空席、そして左手には1551年作の木工彫刻の傑作イワン雷帝の玉座が配置されている。西半分をとりまく壁際には、府主教・総主教の霊廟がある。
 このほか、ナポレオン軍が敗退の時盗み出した300kgの金と5tの銀を奪いかえして作ったとされる銀のシャンデリアがある。また南口の扉には、黒ラッカー塗りの銅板の上に、聖書の20の場面を金で描いた画もある。

 このような豪華けんらんたる寺院の中で、イワン雷帝はいったい何を考え、玉座に腰かけていたのだろうか。
 
11 国立百貨店・グム

ロブノエ・メスト

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ロブノエ・メスト 聖ワシリー寺院の前、イリニカ通りが赤の広場に突き当たるあたりに、石柵で囲った小さな円形の台がある。これはロブノエ・メストと呼ばれる。かってここから皇帝が全国に対して布令を読み上げ、また、重い犯罪人に対して判決を言い渡し、処刑を執行した。農民反乱の首謀者ステパン・ラージンもここで処刑されたといわれる。ステパン・ラージンは、「ステンカ・ラージンの船」という歌で日本でもよく知られている。
 ロブノエ・メストの左隣にロシア最大の国立百貨店・グムがある。


国立百貨店・グム GUM
 モスクワの赤の広場に面した国立百貨店。Gosudarstvennyi universanyi magazin の略称。15世紀以来この場所が商業区であったという伝統をひいている。1921年にソ連邦最初の百貨店として開店したが、30年代に一時閉鎖、53年に再び営業を始めた。建物自体は1893年に完成したもので、長さ約200mの3列からなる3階建てのアーケードである。

 革命前は名店街風の連合組織であったという事情もあって、単一企業に統合された現在でも、取扱商品は多岐にわたってはいるものの、同一品種がいくつかの売場に分かれ、それぞれの売場の独立性が強いという特徴がある。あらゆる点からみて旧ソ連邦最大の百貨店であり、1979年の時点で売場面積は7万5000m
2、従業員は約8000人、1日当りの平均入店者数は約30万で、年間売上金額は7.5億ルーブル(日本円で約2400億円)であった。モスクワ市内の6ヵ所にそれぞれ異なった名称の支店がある。
 

         国立百貨店・グム       資料

 建物の中はふきぬけになった3階建てで、1階と2階が商店になっている。1階の中央に噴水もあり、とてもきれいなショッピング・センターだ。最近はかなり外資系のお店が増え、ずいぶん雰囲気が変わった。テレビやビデオから色とりどりの右けん、イタリア製の靴、セーター、アルマーニやクリスチャンデイオールまである。
 一方、ロシアのおみやげマトリョーシカ、サモワール、クリスタル、グジユリの陶器や毛皮のコート、帽子も売っている。日本とは違って同じ商品でも売場によって値段が違う場合もあるので注意して買うこと。2階にはカフェとファーストフードのお店、1階にはカフェがあるので、ちょっと疲れたら一休みできる。
12 旧KGB庁舎

旧KGB庁舎
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KGB カーゲーベー ソ連邦の政治警察。Komitet gosudarstvennoibezopasnosti の略称で、国家保安委員会と訳す。スターリンの死後、広範な権限を有した国家保安省が、ベリヤの失脚により、共産党の主導下で1954年に改組されたもの。形式上は国家委員会として閣僚会議の構成官庁であるが、実質上は党中央委員会の強い統制下にあった。

 国内・国外での情報活動、国家機関・軍への監視、国境守備、反体制活動の取締りといった任務を有していたが、かつてのような裁判権限は持たず、また収容所施設の管轄は内務省にゆだねられていた。ゴルバチョフによる民主化のなかで改組され、ソ連崩壊後はロシア連邦の内務省と対外情報局とになり、異論派対策などの業務は削減された。
13 モスクワ川

モスクワ川

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オカ[川] Oka ロシア連邦、ヨーロッパ・ロシアのほぼ中央を流れる、ボルガ川右岸の支流。長さ1500km、流域面積24万5000km2、中央ロシア台地に源を発し、カルーガから北東にむかい、モスクワの南約80kmの地域を東に流れ、リャザンの東方を経てニジニ・ノブゴロドでボルガに合流する。

 多くの支流があり、モスクワ市内を流れるモスクワ川もその一つ。冬季の結氷期(10月末〜4月)をのぞき、カルーガの上流まで航行可能で、主要な港はカルーガ、ジェルジンスク、リャザン、ニジニ・ノブゴロドなどである。

ボルガ[川]
 Volga ロシア連邦西部を流れる川。長さ3530kmで、ヨーロッパで最長、ロシア国内ではシベリアのオビ、レナ、アムール、エニセイの各川に次ぎ5番目の長さである。流域面積は136万kuで、ヨーロッパ・ロシアの1/3、日本の3.7倍にあたる。その存在は、古典古代以前のギリシア人にも知られており、プトレマイオスはラー Rha 川とよんでいた。

 中世以来、北ヨーロッパと中央アジアを結ぶ交易路となって栄え、その沿岸では、ボルガ・ブルガール族、ハザル族の国家、キプチャク・ハーン国、カザン・ハーン国、アストラハン・ハーン国などが興亡をくりひろげた。全流域が16世紀末までにモスクワ大公国に併合され、1670‐71年にはラージン、1707‐09年にはブラビン、73‐75年にはプガチョフの指揮する農民反乱の舞台となった。
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モスクワ大学

モスクワ大学
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モスクワ大学 Moskovskii universitet ロシア連邦のモスクワにある同国最大の総合大学。正式名称は M. V. ロモノーソフ記念国立モスクワ大学 Moskovskii gosudarstvennyiuniversitet imeni M. V. Lomonosova(略称MGU)。18世紀のロシアの学者ロモノーソフがロシア人子弟のための高等教育機関の創設の必要を元老院に建言し、これをうけたエリザベータ・ペトロブナ女帝の勅令によって1755年に開設された。

 その後ロモノーソフの志を継いだ N. N. ポポフスキーや D. S. アニチコフらの活躍によって、大学はロシアの学問と教育の一大中心となった。その進歩的学風のもとで、優秀な人材を輩出した。この大学で学んだ知名人としては、18〜19世紀には革命的思想家ラジーシチェフ、ゲルツェン、オガリョフ、詩人レールモントフ、作家チェーホフ、歴史家グラノフスキー、評論家ベリンスキー、教育思想家 K. D. ウシンスキーなどがいる。

 20世紀初頭の社会的変革期には大学内でも学生運動が高まったが、政府はこれを弾圧し、1911年には再三大学を閉鎖した。そして、これに抗議して130人の学者が大学を辞任する事件があった。

 十月革命後の18年、国立となり、広く勤労者階級に門戸を開放した。創設当初、大学には哲学、法学、医学の3学部と付属予備校が設けられていたが、革命後は新学部が大幅に増設された。96年には、機械・数学、コンピューター数学・サイバネティックス、物理、化学、生物、土壌、基礎医学、地理、地質、哲学、歴史、言語、ジャーナリズム、心理、経済、法律、社会学、外国語などの学部とアジア・アフリカ諸国研究所はじめ各種の付属研究所や図書館をもつにいたった。

 教師の総数は8000人以上で、そのうち1000人以上が博士号所有者か教授である。学生数は昼夜合計2万8000人で、多数の海外留学生を受け入れ、国際的交流にも努めている。大学の建物は旧校舎がマルクス通りとゲルツェン街に面した旧都心にあり、新校舎はレーニン丘の上に1949年から70年にかけて建設された。その壮大な建築群はモスクワの新名所である。

15 雪のロシア正教会

雪のロシア正教会

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ロシア正教会 Russian Orthodox Church / Russkaya Pravoslavnaya tserkov

東方正教会のなかで最大の教勢を有するロシアの正教会。

 ロシアに対するキリスト教の布教は、さまざまな教会によって早くから行われていたが、公式のキリスト教受容は988年または989年、キエフ・ロシアのウラジーミル大公によって実現された。ウラジーミルに洗礼を授けたのはビザンティン帝国の教会であり、以降ロシアはキリスト教文化の導入に際してビザンティン帝国にそれを仰ぎ、東方正教文化がロシア文化の基盤となった。コンスタンティノープル総主教はキエフに府主教座を置き、代々ギリシア人府主教(例外もある)を任命したが、ロシアの教会は少しずつ民族化していった。

 典礼はビザンティン式であったが、典礼用語は、初期のギリシア語から、11世紀前半にはブルガリアで使用されていたスラブ語(古代教会スラブ語)が導入され、南スラブ系のこの言語がロシア文章語成立の基盤となった。修道生活の理念と典礼芸術もビザンティン帝国からもたらされ、独自の発展をとげた。

 キエフ・ロシアの黄金時代は長続きせず、13世紀前半のモンゴル軍の侵入によって南ロシアは荒廃し、ロシアの重心は北方に移った。キエフ府主教座は14世紀前半にモスクワに移された。ただし〈タタールのくびき〉として知られるモンゴル人の支配はキリスト教に対しては寛大で、その間に各地で修道院が開かれた。特に著名なものは、14世紀中葉にセルギー・ラドネシスキーが創設したトロイツェ・セルギエフ修道院である。そのころアトス山から神秘主義思想ヘシュカスモスも伝えられた。

16 雪のロシア正教会教会

雪のロシア正教会
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東方正教会 Eastern Orthodox Church  ビザンティン帝国のキリスト教会を起源とする一連の教会の総称。〈カルケドン信条〉(451)を教義の基盤とするので、東方のカルケドン派教会と呼ぶこともできる。日本ではギリシア正教の名称がよく用いられるが、これは現在のギリシアの正教会(ギリシア正教会)と混同されるおそれがある。

 なお、〈カルケドン信条〉を受けいれなかったネストリウス派教会、単性論派教会は東方教会ではあるが、正教会には含めない。東方正教会は、おもにロシア(ロシア正教会)、東欧、バルカン半島、西アジアに分布し、それぞれが総主教または大主教(ギリシアの場合)のもとに完全な自治を有する独立教会を成す。カトリック教会のローマ教皇のような全体の首長はなく、伝統により、コンスタンティノープル総主教(トルコのイスタンブールに総主教座を置く)に〈世界総主教〉なる名誉上の首位を示す称号を与えている。
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