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和田義男

 旅紀行ジャパン

2004年1月9日改訂

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2004年1月8日作成

拝島大師達磨市

拝島大師達磨市(東京都昭島市)

達磨

拝島大師山門

拝島大師山門

拡大写真(1024X820)220KB

 2004年正月2日(金)、穏やかな快晴に恵まれたので、達磨市で有名な拝島大師(はいじまだいし)に初詣に行った。
 拝島大師は、JR青梅線・拝島(はいじま)駅から2kmほど南に下ったところに拝島山大日堂と隣り合って建つ大きな寺で、最寄駅は昭島(あきしま)である。 拝島マップ
 拝島大師から南500mほどに多摩川が東に向かって流れている。近くに長さ600mほどの拝島橋(国道16号線)が架かる。

 拝島大師の達磨市は正月2・3日に開かれ、全国で一番早い達磨市として知られ、達磨や厄除け札を求める初詣客で賑わう。

達磨そっくりの達磨屋さん

達磨そっくりの達磨屋さん

拡大写真(1200x900)262KB 【E-1 28mm/28-108mm  F7.1 1/200秒 ISO200】

拝島大師はいじまだいし

 北条氏照(ほうじょう うじてる)の家臣石川土佐守が娘おねいの眼病全快を感謝して寄進した大日八坊の一つで、正式な寺名は「拝島山本覚院三大師堂」といい、厄除け大師として名高い。
 天正6年(1578)の創建。文政2年(1819)再建の大師堂(本堂)をはじめ、文殊楼(山門)・鐘楼・多宝塔が甍(いらか)を並べている。
  元亀2年(1571)、比叡山が織田信長の焼き討ちにあった際、敬たん大僧都(けいたんだいそうず)が慈恵(じえい)大師像を救出し、諸国を遍歴した後、天正6年(1578)現在地に安置して本尊にしたという。
 この慈恵大師像は大師の自刀自作による肉身の尊像で、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の寺宝であった。 昭島市拝島町1-6-15/TEL 042-541-1142
良 源

拡大写真(313X397)30KB

厄除け団扇

良 源りょうげん

延喜12年〜寛和1年(912〜985)
 比叡山第18代座主で、天台宗の中興の祖といわれる。慈恵(じえい)大師は勅諡号(ちょくしごう 勅命による諡(おくりな))。
 寛和元年(985)正月3日が忌日(いみび)であることから元三(がんさん)大師と呼ばれ、また、御廟(みみょう)大師・角(つの)大師・豆大師とも称す。
 民間では観音・不動の化身と崇拝され、魔除けの大師として信仰される。門下は源信・覚運・尋禅・覚超の四哲のほか、約3000人と伝えられる。
 元三大師は御神籤(おみくじ)を最初に考案したことでも知られる。
拝島大師の厄除け団扇(やくよけうちわ) 除厄・元三大師と書かれ、角のついた鬼(角大師をあわらす護符)があしらわれている。
角大師の護符の起源 疫病が流行していた永観2年(984)、元三大師は鏡の前で座禅をし、自らの姿を骨ばかりの鬼に変え、その姿を写した弟子の絵をお札に刷って家々の戸口に張らせて疫病を退散させたという。自ら鬼となって魔物と闘ったので、降魔大師の異名がある。

買い主を待つ達磨たち

買い主を待つ達磨たち

拡大写真(1200x900)246KB 【E-1 28mm/28-108mm  F7.1 1/200秒 ISO200】

お焚上げ処おたきあげどころ

 山門を入って左にお焚上げ処があり、一年間お勤めを果たしてくれた達磨や角大師の団扇(うちわ)などの護符が焼却されていた。ビニールと鈴などの金属部を外し、一年間の感謝の気持ちを込めて炉の中に納める。
 達磨焼く煙の下を初詣  北 舟 
 土に還る達磨には、念願が叶ったのだろうか、全て両眼が入れられている。このあと信者らは初詣をして新しい達磨や護符を受け、新年の厄除けを確かなものにする。

お焚上げ処

土に還る達磨

お焚上げ処 土に還る達磨

拡大写真(1024x768)146KB 【E-1 28mm  F5.6 1/125秒 ISO200】

拡大写真(1024x768)130KB 【E-1 28mm  F5.0 1/100秒 ISO200】

紅蓮の炎

紅蓮の炎

拡大写真(1200X800)166KB 【E-1 108mm/28-108mm  F6.3 1/400秒 ISO200】

恵可断臂図(えかだんぴず)

恵可断臂図(えかだんぴず)

雪舟筆 紙本墨画淡彩
 室町時代(1496)
愛知斎年寺 重要文化財

達 磨だるま

 禅宗の開祖。本名を菩提達磨(ぼだいだるま)といい、達磨大師ともいう。印度の香至王の子として生まれ、達磨60才頃に中国に入り禅を伝えた。崇山少林寺に住し、9年間壁に向かい座禅した話など伝説が豊富。
 あまり長い間座禅をしていたために足が腐ってしまったという故事から達磨人形が生まれたといわれるが、俗説である。

 禅の公案の中に、達磨大師が中国に到着した時、梁の国の武帝(在位502-549)と交わした会話が伝えられている。

 武帝が「私は今まで沢山寺を造り僧を育てて来た。これはどのくらいの功徳になっているだろうか」と聞くと、達磨大師は「功徳は何もない」と答え、「では仏教における聖なる真理は何か」と聞くと、大師は「空っぽで何もない」と答える。更に武帝が「何もないというのなら、お前は何者だ」と聞くと「知らぬ」と答えたという。

達磨人形だるまにんぎょう

達磨
 達磨人形の発祥の地は、群馬県高崎市近郊の少林山達磨寺だといわれる。水戸光圀が帰依していた中国僧・心越禅師が開いた寺で、彼が書いた一筆書きの達磨像を天明3年(1783)、9代目住職・東嶽和尚が木型に作り、当時続いていた天変地異の邪気を祓うものとして農民達に伝授し、それが人気を呼び、全国に広がっていったという。 少林山達磨寺
 現在、高崎市近郊で生産される高崎達磨は、全国シェアの7割を占め、年間100万個を超えているという。 
 拝島大師の達磨市で売られている達磨は、多摩達磨(たまだるま)と呼ばれ、あきる野市や立川市などの地場で造られた達磨である。店によって顔つきやデザインが微妙に異なり、鼻筋の通ったハンサムな達磨など、見て回るだけでも楽しい。

拝島大師

左から如意輪観音を祀る多宝塔、拝島大師本堂、鐘楼、弁財天尊を祀る弁天堂が並ぶ。

拝島大師

拡大写真(1200X900)246KB 【E-1 28mm/28-108mm  F8.0 1/320秒 ISO200】

本堂前の達磨

本堂前の達磨

拡大写真(1600X1200)292KB 【E-1 28mm/28-108mm  F9.0 1/320秒 ISO200】

縁起達磨の白い目

 達磨はもともと黒目が描かれていたという。しかし、主に関東の達磨市などの縁起物の張り子の達磨は、白目のまま売られている。縁起達磨は、買ったとき本人や僧侶が墨で片目を描き、1年後に願い事がかなっていたらもう片方の白目にも黒目を描いて両目を開け、達磨を買った市の寺に戻して焚き上げていただく。そしてまた前年より一回り大きい達磨を買い換えるという風習がある。
 縁起達磨に目が描かれない理由は、達磨大師が崇山少林寺の洞窟で修行中に眠くなって困ったので、「この目があるからまぶたがふさがるのだ」と目をむしり取ってしまったといわれるが、これも俗説である。
 参道を埋めて賑はふ達磨市  北 舟 
 達磨は売買されるときに顔の善し悪しが重視され、数多い中には目の描き方がまずいものもある。そのような達磨は売れ残ってしまうことがあるので、それならば白い目のまま売って、客の注文にあわせて目を描き込むか、持ち帰って目を描いてもらおうというアイデアが生まれた。
 あるとき、高崎近郊の養蚕(ようさん)農家が七転び八起きにあやかり、蚕(かいこ)の起き(脱皮)がよくなるようにと左目(向かって右)に目を入れて願をかけ、蚕(かいこ)が良い繭(まゆ)を作ると残った片目にも墨を入れて祝ったという。この方法が商人や一般にも広まっていったといわれる。
 ちなみに、達磨が選挙で用いられたのは、昭和5年(1930)の総選挙で長野一区の立候補者が使ったのが最初で、一般化したのは昭和30年(1955)代からという。

これいくら?

これいくら?

拡大写真(1200x900)152KB 【E-1 28mm/28-108mm  F7.1 1/250秒 ISO200】

赤い達磨

 達磨人形は殆どが赤い色をしているが、これは達磨大師が着ていた僧衣の色が最高位の赤(朱)だったからだという。また、還暦祝のように魔よけの赤という意味合いもあるといわれる。
 江戸時代の終わり頃には、達磨は疱瘡(ほうそう)除けのまじないとして庶民に重宝された。疱瘡は、現在は予防されているが、当時は子供の頃には誰でも一度はかかる病気で、高熱を出し、苦しまねばならない。
 「赤い色は病を治す」という庶民の経験から、赤い色をした達磨は、怖くて赤い顔をした鍾馗(しょうき)などといっしょに疱瘡を除けるシンボルとしてもてはやされたという。

福笑い

福笑い

拡大写真(1200X900)284KB 【E-1 28mm/28-108mm  F6.3 1/200秒 ISO200】

達磨の眉と髭

 達磨の顔には太く勢いのある立派な眉(まゆ)と髭(ひげ)が描かれている。群馬県の高崎達磨の場合、眉は鶴を、髭は亀をデフォルメして描いたものだという。また、髭は松を意味し、目の回りの円い枠は竹を、鼻の穴は梅を意味しているともいわれる。
 達磨の腹や脇には縁起の良い言葉が書き込まれる。福の神、宝船、鶴亀、松竹梅をはじめ、大願成就、開運招福、千客万来、商売繁盛、子孫繁栄などなど・・・。これが江戸時代から伝わる達磨売りの庶民の幸せを願う口上である。

商談成立

商談成立

拡大写真(1200x900)256KB 【E-1 28mm/28-108mm  F5.6 1/160秒 ISO200】

大勢の初詣客と達磨

大勢の初詣客と達磨

拡大写真(1200x900)235KB 【E-1 28mm/28-108mm  F8.0 1/320秒 ISO200】

初 詣

初詣

大日堂だいにちどう

 天暦6年(952)多摩川の氾濫時に流れ着いた大日如来木像を祀るお堂がこの地に建てられたのがはじまりとされる。天台宗のお寺で、正式には拝島山密厳浄土寺大日堂という。

 戦国時代には滝山城の鬼門よけとして、北条氏の庇護を受けた。本尊の大日如来とその脇侍はいずれも都指定有形文化財。また、樹齢800年といわれる拝島の藤(はいじまのふじ)は、千歳の藤(ちとせのふじ)とも呼ばれ、都指定天然記念物。

日吉神社ひよしじんじゃ

 お堂の西隣には、大日堂の守護社として平安中期に創建された日吉神社がある。旧拝島村の鎮守・拝島山王様(さんのうさま)として親しまれており、毎年9月に行われる「榊祭」は、都無形民俗文化財に指定されている。

拝島山大日堂

日吉神社

拝島山大日堂 日吉神社

拡大写真(1200x900)206KB 【E-1 28mm  F7.1 1/200秒 ISO200】

拡大写真(1024x768)248KB 【E-1 28mm  F4.5 1/100秒 ISO200】

大日堂の達磨

 大日堂に大きな達磨が飾られていた。左目に梵字が1字書き込まれ、黒目としている。福入、商売繁盛家内安全、千客万来大願成就叶の金文字に、眉は鶴を思わせるデザインである。これは高崎達磨のようである。

大日堂の達磨

拡大写真(1200x900)123KB 【E-1 94mm/28-108mm  F9.0 1/640秒 ISO200】

注:文中の表記は全て35mm換算によるもので、 「274mm/100-400mm」は50-200mmズームの137mmで撮影したという意味です。

和田義男

 
  撮影 2004年正月2日
 
《 OLYMPUS E-1 》

 
14-54mm 50-200mm EC-14

500万画素


 400枚  460MB
 

 晴天に恵まれ、拝島大師に初詣に行った。今年一年、無病息災でつつがなきよう元三大師のご加護をお願いした。
 隣の大日堂が多摩川の氾濫時に流れ着いた大日如来木像を祀るために建てられたことを知り、多摩地区の文化が古来から多摩川と深く関わっていることを再認識した。
 インド人で禅宗の開祖・達磨大師と日本の庶民の厄除け祈願が結びついた仏教文化が現代に根付いていることを嬉しく思った。〈 完 〉
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