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和田義男

 旅紀行ジャパン

2008年11月24日改訂

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♪"Amazing Grace"メドレー(尺八:日當鶴山・Angel・MID・Elvis Presley)

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  菊日和大本営の大天守   北舟

2007年11月24日制作

An ideal day for chrysanthemum seeing,
The large castle tower of the Imperial General Headquarters.

広島城の内堀と天守閣

広島城の偉容(広島市)

秋の広島散策

広島城

 

広島城ひろしまじょう

   広島市中央公園に隣接する史跡・広島城は、広島県広島市中区基町(なかく・もとまち)にある城郭で、鯉城(りじょう)ともいう。広島城の境内全域が広島城址公園(ひろしまじょうしこうえん)となっており、復元された大天守は歴史博物館として利用されている。

広島城のお堀

広島城のお堀

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池田勇人いけだはやと

明治32年(1899)12月3日 - 昭和40年(1965)8月13日

 広島県竹原市出身の池田 勇人は大蔵官僚、政治家で第58代から第60代まで内閣総理大臣を務めた。正二位大勲位。19世紀生まれの最後の首相である。
 吉田茂の側近として、連合国との講和、冷戦下における日米関係の構築にかかわると同時に戦後日本経済の再編成において指導的な役割を担い首相就任後は所得倍増計画を打ち出して、日本の高度経済成長の進展に寄与した。
お堀のそばに立つ池田勇人像

お堀のそばに立つ池田勇人像

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広島大本営と広島城

広島大本営と広島城

広島大本営ひろしまだいほんえい

 広島大本営は、明治27年(1894)に勃発した日清戦争の戦争指揮にために広島城内に設置された最高統帥機関である大本営である。
 当時の国家元首である明治天皇がこの大本営に滞在したほか、臨時の帝国議会も広島で開催された。明治維新以降、首都の機能が一時的にせよ東京から離れた唯一の事例である。
 広島大本営は、第五師団司令部の建物のひとつで、木造2階建ての西洋風の洋館であったが、1894年9月15日に日清戦争の戦争指揮のために広島に明治天皇が移ったことに伴って大本営が移り、明治天皇の広島における皇居となった。
 
   明治天皇は、日清戦争が終結し、明治29年(1896)4月1日に大本営解散の詔勅によって解散させたあとも、4月27日まで滞在した。  

広島大本営跡

広島大本営跡

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 その後文化財として保護され、昭和元年(1926)、「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」として国の史跡に指定されたが、昭和20年(1945)8月6日、原爆投下により一瞬にして建物が崩壊し、現在は建物の基礎と礎石や一部文字が消された碑石が残っているだけである。

被爆数年前の広島城

被爆数年前の広島城

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写真:フリー百科事典 Wikipedia 

 広島城は、安土桃山時代の天正17年(1589)に毛利家の当主・毛利輝元が交通の要衝である太田川三角州(当時の名称は五箇村)に築城を開始し、慶長5年(1599)に完成したことに始まる。

本丸跡と大天守

本丸跡と大天守

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 関ヶ原の戦い後毛利家は防長二国(長州藩)に減封され広島城は福島正則の居城となった。元和5年1619)洪水による被害の修復を幕府から無届け改築と咎められて改易された福島家は信濃国川中島へ転封された。

大天守のアップ

大天守のアップ

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 代わって紀伊和歌山より浅野長晟(あさの・ながあきら)が入城しその後は、明治時代に至るまで12代約250年間にわたって浅野家の居城となった。
 当時の広島城は、南北に長い長方形の本丸を中心に石垣で囲い、広い内濠で囲っていた。南に出丸のような二の丸を置き、西側の広い三の丸と橋でつないで大手口としていた。東は竹之丸と呼ばれ、北には北の丸があり、外濠でさらに囲っていた。
 南には広大な大手郭を配し、さらに堀で囲んでいた。その外の東西には太田川の天然の濠があった。大坂城と同じ様な大規模な城だったといわれ、豊臣の築城技術のサポートを受けていたという。

五層の大天守

五層の大天守

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 連結式と呼ばれる天守の中でも広島城の場合は複合連結式で、大天守から渡櫓で2つの小天守を南と東に連結していた。望楼型で黒漆塗りの下見板が張られた壁面は、豊臣秀吉の大坂城天守を模したともいわれ、屋根には金箔瓦が施されていたともいうが、内部は天井も張られていない簡素なものであったという。

天守の鯱

天守の鯱

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 明治期に小天守を失い、大天守のみが保存されることとなり、戦前、他の現存する建造物とともに旧制の国宝に指定されていたが大天守は原子爆弾の投下直後の熱線に耐えたものの、その直後の爆風によって倒壊し、大量の建材が天守台に散乱したという。
天守入口
天守入口

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 現在の大天守は、昭和33年1958)に「広島復興大博覧会」が広島市で開催された際、元の天守台の上に鉄骨鉄筋コンクリート造りで復元されたもので、国宝には指定されていない。
最上層の展望デッキ
最上層の展望デッキ

廣島護國神社ひろしまごこくじんじゃ

 廣島護國神社は、明治元年(1868)11月、明治維新の戊辰の役において陣没した78柱を二葉の里に新しく造営された「水草霊社」に奉祀されたことに始まる。
 以来、大東亜戦争に至るまでの幾多の事変戦争において、戦没した英霊約92,000柱(勤労奉仕中に原爆の犠牲となった動員学徒、女子挺身隊等約1万柱を含む)が祀られているという。

廣島護國神社

廣島護國神社

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広島城の菊花展

広島城の菊花展

   広島城は、かつて己斐浦(こいのうら)と呼ばれていた場所にあったことから、鯉城(りじょう)とも呼ばれている。一説には濠にたくさんの鯉(こい)がいたからとも、天守が黒いからともいわれる。また、この別名から「広島東洋カープ」のチーム名が付けられた。カープ carp (単複同形)は英語で鯉の意味である。

広島城の広い壕

広島城の広い濠

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表御門おもてごもん

 二の丸の表御門は、16世紀末頃に創建された門で、昭和20年(1945)8月6日の被爆で焼失するまで現存していた。現在の建物は広島城築城400年を記念して平成3年(1991)に復元されたもの。
 入母屋造りの櫓門は陸軍第五師団経理部が昭和9年(1934)に作成した実測図をもとに発掘調査がなされ、写真などの資料を勘案して復元されたもの。かつての礎石上に昔どおりの工法で建てられており、往時を偲ぶことができる。

広島城の現在の正門「表御門」

広島城の現在の正門「表御門」

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花の精
 「花の精」昭和49年(1974)は、円鍔勝三*(えんつば・かつぞう)によりイタリア・カラーラ産大理石で制作されたもの。碑文には、次言葉が刻まれている。
「人は花とともに生き 花は人に平和と安らぎを与える 花を愛する心は 何時の世にも変りはない。この花に感謝の心をこめて ここに5人群像を花の精として花に関係ある団体が協力して建立する。」
*円鍔勝三:1906.11.30 - 2003.10.31 広島県出身の彫刻家。文化功労者、文化勲章受章、広島県名誉県民。
「花の精」の彫刻と広島城
「花の精」の彫刻と広島城

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広島城の広い内濠と大天守

広島城の広い内濠と大天守

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  菊日和大本営の大天守  北舟 

きくびより だいほんえいの だいてんしゅ

An ideal day for chrysanthemum seeing,
The large castle tower of the Imperial General Headquarters.

風格ある広島城の大天守

風格ある広島城の大天守

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