ホームページお知らせお便りコーナー徒然日記俳句・海の風景ホームページ奮闘記作者のプロフィールリンク
 

和田義男

 旅紀行ジャパン

2008年11月26日改訂

今 日

昨 日

♪海のアラベスク・水の宮・桜川・氷湖・手をつないで 水の宮・和風BGM

パノラマ写真(2000x960)555KB

秋や安芸五重塔の島の町  北舟

2008年11月24日制作

Autumn in Aki,
The island town of the Five-storied Pagoda.

宮島・社寺の町

宮島・社寺の町(広島県廿日市市)

秋の広島散策

安芸宮島

 

大願寺だいがんじ

 
 大願寺は、宮島にある高野山真言宗の寺院で山号は亀居山。院号は放光院。本尊は薬師如来。寺伝によれば建仁年間(1201〜1204)の僧・了海が中興の祖と云われる。後奈良天皇の享禄年間(1528〜1532)から明治まで、厳島神社の普請奉行として寺院の修理・造営を一手に担い、千畳閣、五重塔、多宝塔などから成る厳島伽藍(いつくしま・がらん)の中心をなしていた名刹である。

厳島神社の出口にある大願寺

厳島神社の出口にある大願寺

パノラマ写真(2000x950)395KB

   大願寺の秘仏・厳島弁財天は、弘法大師・空海の作と伝えられ、江ノ島神社(神奈川県)と竹生島の宝厳寺(滋賀県)と共に、日本三大弁財天と称されている。弁財天は現世利益の女神で、神仏習合の時代は厳島神社の主神・市杵島姫(いちきしまひめ)の理財の女神として崇められるようになり、仏教の弁財天と同一視されていた。  

かつて大願寺が管理していた五重塔

かつて大願寺が管理していた五重塔

拡大写真(1320x1600)510KB

   明治元年(1868)の神仏分離令によって厳島神社から移された厳島弁財天をはじめ、宮島に現存する仏像の中で最も古いとされる薬師如来像(重要文化財)、千畳閣の本尊だった釈迦如来坐像(重要文化財)、その両脇を守っていた阿難尊者像と迦葉尊者像(ともに重要文化財)、五重塔の本尊だった三尊像、多宝塔の本尊だった薬師如来像などが収蔵されている。  
  秋や安芸五重塔の島の町  北舟 

あきやあき ごじゅうのとうの しまのまち

Autumn in Aki, The island town of the Five-storied Pagoda.

厳島伽藍いつくしまがらん

の町

厳島伽藍の町

パノラマ写真(2000x960)555KB

 

多宝塔たほうとう

 
 厳島神社の多宝塔は小高い丘の上に建ち、大永3年(1523)に僧・周歓(しゅうかん)によって建立されたといわれる。高さ15.6mの多宝塔は二層の塔で、下層は四角型、上層は円形となっていて大変珍しい。和様の中に天竺や唐の様式が取り入れられている。明治元年の神仏分離令以後、この塔の薬師如来像は大願寺に移された。

秋色の多宝塔

秋色の多宝塔

拡大写真(1600x1200)499KB

 

大聖院だいしょういん

 
  宮島にある大聖院は真言宗御室派の大本山の寺院で、山号は多喜山(たきやま)。多喜山大聖院水精寺(すいしょうじ)と号する。宮島で最古の歴史を持つ寺院で、厳島神社の別当寺として祭祀を司り、社僧を統括してきた。

大聖院の仁王門

大聖院の仁王門

拡大写真(1600x1200)400KB

 伝承では、大同元年(806)に空海が宮島に渡り、弥山(みせん)で修行し開基したといい、鳥羽天皇勅命の祈願道場となったという。明治20年(1887)の火災で大部分の堂宇を焼失し、現在の建物はその後整備されたもの。

仁王門の仁王像

仁王門の仁王像

 観音堂本尊の十一面観世音菩薩、勅願堂本尊の波切不動明王のほか、三鬼大権現、七福神、一願大師など数多くの仏像が安置されている。中国三十三観音の第十四番札所でもあり、紅葉の名所でもある。

通行分離の石段

通行分離の石段

拡大写真(1600x1200)311KB

 

弥 山 みせん

 
 弥山は宮島の中心にそびえる古くからの信仰の山。北側斜面には国の天然記念物となっている瀰山(みせん)原始林が存在し、暖温帯性針葉樹のモミと南方系高山植物ミミズバイの同居やヤグルマの群落など、特異な植物・植生の分布が見られる。

弥山山麓から臨む大鳥居

弥山山麓から臨む大鳥居

拡大写真(1230x1600)411KB

 山頂付近に御山神社(みやまじんじゃ)が鎮座するほか、山頂から山麓にかけて大聖院(だいしょういん)の堂宇(どうう)が立ち並び、裾野には厳島神社がその偉容を誇り、信仰の山として古くから参拝者が絶えない。

弥山山麓から臨む五重塔

弥山山麓から臨む五重塔

拡大写真(1300x1600)524KB

 山名については、山の形が須弥山*(しゅみせん)に似ていることから名付けられたという説や、元は御山(おやま)と呼ばれていたのが御山(みやま)となり、弥山(みせん)になったという説などがある。なお、山頂にある三角点の名称は御山となっている。
*須弥山:古代インド(バラモン教、仏教、ジャイナ教等)の世界観の中で中心にそびえる山。仏教の世界観では、須弥山をとりまいて七つの金の山と鉄囲山(てっちさん)があり、その間に八つの海がある。これを九山八海という。

弥山山麓から臨む厳島神社

弥山山麓から臨む厳島神社

拡大写真(1600x1200)356KB

下から見上げる五重塔

下から見上げる五重塔

拡大写真(1300x1500)376KB

 

千畳閣せんじょうかく

 
 千畳閣(せんじょうかく)は、厳島神社の境内に建つ大規模な木造建造物である。現在は、厳島神社末社豊国神社(とよくにじんじゃ)の本殿となっており、豊臣秀吉と加藤清正が祀られている。

五重塔に隣接する高床式の千畳閣

五重塔に隣接する高床式の千畳閣

 天正15年(1587)、豊臣秀吉が戦歿将兵の慰霊のために大経堂として建立した。畳857枚分の広さがあることから千畳閣と呼ばれるようになったが、秀吉の死により途中で工事が中止され、板壁も天井の板もない未完成の状態のままとなっている。

人が歩ける千畳閣の床下

人が歩ける千畳閣の床下

 明治元年(1868)の神仏分離令により本尊の釈迦如来座像は大願寺に移され、厳島神社末社の豊国神社となった。隣に建つ五重塔とともに国の重要文化財に指定されている。

広大な千畳閣の内部

広大な千畳閣の内部

パノラマ写真(2000x900)407KB

 朝日に輝く金色の軒丸瓦(のきまるがわら)や、天正15年の銘のある大きな鬼瓦(おにがわら)が訪れた人々の目を引く。この地は、江戸時代から眺望を楽しんだり、夏には納涼の場として訪れる人々に親しまれてきたという。

奉納された扁額や絵馬などの書画の数々

奉納された扁額や絵馬などの書画の数々

拡大写真(2000x1500)347KB

 大きな柱のいくつかには歌舞伎役者一行の名前や川柳などの筆の跡を見つけることができる。また、神社に奉納された絵馬(えま)や扁額(へんがく)も多く、往時の内海海運の隆盛を偲ばせる千石船の模型なども展示されており、訪れる人々の目を楽しませてくれる。

奉納された千石船の模型

奉納された千石船の模型

拡大写真(1800x1300)289KB

 

商店街

 
   宮島棧橋から厳島神社までは、海沿いの散策路と表参道商店街を抜けて行く2つのルートがあるが、名所旧跡を巡った帰りに商店街を通ることをお勧めする。  

宮島の商店街

宮島の商店街

 広島土産といえば「もじみ饅頭」が定番だが、ここでは焼きたてのもみじ饅頭を試食させてくれる店がある。写真上の「藤い屋」が一押しの店。また、穴子入り竹輪や焼き牡蠣(やきがき)は、店頭で1つから買え、宮島の味を食べ歩きできる。宮島の牡蠣は1年中食べられるという。

もみじ饅頭の製造販売

もみじ饅頭の製造販売

拡大写真(1400x1050)287KB

 

宮島の「しゃもじ」

 
 広辞苑では、飯をよそうものが杓文字(しゃもじ)で、飯をよそうだけでなく汁などをすくうのが杓子(しゃくし)と解説されている。宮島の「しゃもじ」は、杓文字と書くべきところを杓子と書いており、誤用が定着した例である。
 約200年前の寛政の頃神泉寺の僧・誓真が弁財天の夢を見て、その琵琶の形の美しい線から杓子を考案し、御山の神木を使って作ることを島の人々に教えた。この神木の杓子で御飯をいただけば、ご神徳を受け、福運を招くということが宣伝され、参拝客が土産に持ち帰り、全国に広まっていったという。
 日清戦争以後、全国から召集された兵隊が広島の宇品港(うじなこう)から出征する際に「敵を召し取る」とばかりに杓子に自分の名を書いて厳島神社へ奉納し、勝利の記念に土産として故郷へ持ち帰ったという。高校野球では、広島の球児たちが応援のアイテムに活用している。
宮島

大杓子おおしゃもじ

宮島の大杓子

拡大写真(1600x1200)332KB

和田義男

  
撮 影


2006年10月27日


OLYMPUS  E-330
 
11-22mm 14-54mm


 
750万画素 1124枚 1690MB
 

 丸一日、快晴の安芸路(あきじ)を足の向くままに散策したが、終わってみれば、名所旧跡を殆ど網羅する旅となった。
 宮島は、家内と出会って初デートの場所でもあり、その後も何度も足を運んだところばかりなので、効率よく廻ることができた。
 広島は、人類がかつて経験したことのない悲惨な原爆の洗礼を受けた街として知られる。ノー・モア・ヒロシマ No More Hiroshima! のスローガンは、最近耳にする機会が無くなったが絶対に風化させてはならない警句である。
 広島の平和公園に足を運べば、全国から学生たちが集まり、総合教育や社会教育の場として活用されている光景を目にすることができる。しかし、一歩公園から外に出れば、忌まわしい戦災の跡は微塵もなく、繁栄を謳歌している日本の姿がある。
 一般大衆の平均月収が100円という北朝鮮をはじめ極貧にあえぐ国々があることを思うと、戦後、廃墟の中から立ち上がり、一世代 One generation の間に奇跡の復興を成し遂げ、一流の先進国の仲間入りを果たした日本人の凄さに感動する旅であった。そしてまた、平和の尊さやその重さを感じながら、原爆や戦災に犠牲となった一般市民の人々の冥福を祈る旅でもあった。

もっと時間を!

 この取材は、2年前のものであるが、その光景は今も全く変わらない。山積する未編集の画像を抱え、発表の機会を逃し、気が付けば2年が経過していた。感慨にふける暇もなく、既に私の気持ちは次の作品の構想に向けられている。まだ大阪での写真展も残されており、慌ただしい11月もやがて師走に入り、1年の終わりを迎える。光陰矢の如しである。もっと時間を! 2008.11.24 〈 完 〉

★☆★彡

旅紀行ジャパン第107集 「広島秋の旅」

撮影・制作 : 和田義男

   平成20年(2008)11月24日 作品:第31作  画像:(大76+小16)  頁数:5  ファイル数:186  ファイル容量:46MB
   平成12年(2000)〜平成19年(2007) 
作品数:302 頁数:1,091 ファイル数:37,101 ファイル容量:5,852MB
  フォトギャラリーへ 特集!旅紀行目次へ 世界の名城 感動写真集目次へ  
旅紀行ジャパン目次へ   多摩川紀行
旅紀行日本の祭り 旅紀行日本の裸祭り 旅紀行日本の花目次へ
Wa☆Daフォトギャラリー

今 日

 和田フォトギャラリー

昨 日

 Copyright (C) 2000-2008 Yoshio Wada. All Rights Reserved. 

ホームページお知らせお便りコーナー徒然日記俳句・海の風景ホームページ奮闘記作者のプロフィールリンク