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高田屋嘉兵衛旧邸跡
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高田屋嘉兵衛(1769〜1827) 1769年(明和6年)、ここ淡路島・都志(つし)本村(現在の五色町)で百姓の子として生まれた嘉兵衛は、18歳で大阪へ往復する瓦船に乗る。27歳で辰悦丸を建造して独立した嘉兵衛は、蝦夷地に新しい可能性を求めて翌年箱館を本拠地として本格的に海運業を始める。 |
商人として、また船乗りとしての才を認められ、幕府の命を受けた嘉兵衛は、千島方面の航路を開き、択捉島や根室などに多数の漁場を経営し、これが昭和50年代末期まで隆盛を誇った北洋漁業の先駆となった。 |
ロシアの南下政策が進められた1811年(文化8年)、ゴローニン事件をきっかけとして日露の対立が深まった際、国後島沖でディアナ号に捕らえられた嘉兵衛は、カムチャツカに連行され辛酸を舐めるが、獄中より両国を説得。折衝役として事件を解決し、日露関係の悪化を防いだ。商人として才があっただけではなく、大変な人格者であり、鎖国時代の日本では希にみる国際人であった。 |
この物語は、司馬遼太郎の名作「菜の花の沖」に詳しい。全6巻の文庫本は、函館の「高田屋嘉兵衛資料館」で購入し、私の愛読書となっている。 |
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淡路島で一番行きたかったところ、それが高田屋嘉兵衛生誕の地だ。彼は江戸時代の都志(つし)本村で百姓の子として生まれた。現在も都志(つし)港という漁港があり、昔の地名が生きている。 |
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高田屋嘉兵衛翁記念館
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野島断層の富島(としま)港から西浦海岸を約20kmほど南下すると都志(つし)港に至る。現在は五色町となっているこの地に、司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」の主人公・高田屋嘉兵衛の記念館がある。 |
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嘉兵衛を生んだ五色町
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兵庫県津名郡五色町。淡路島の西側、播磨灘に面した町は、面積58Ku、人口11,500人。1956年(昭和31年)都志、鮎原、広石、鳥飼、境の5町村が合併して誕生した。
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嘉兵衛は、50歳の時、高田屋を弟・金兵衛に任し、郷里に帰り、都志川池井堰や都志港などの築造、都志八幡神社の随身門の建立など、惜しげなく私財を郷里のために使った。
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嘉兵衛の都志の屋敷は、敷地が543坪あり、本屋、裏座敷、西座敷、土蔵、納屋、厩などが建つ豪壮なものであった。現在、屋敷跡は公園として整備され、記念館や記念碑が建てられている。
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晩年の嘉兵衛は、菜の花の咲き乱れる都志の沖を行き交う船を眺めるのが何よりの楽しみだったという。
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高田屋嘉兵衛
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高田屋嘉兵衛公園
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高田屋嘉兵衛翁記念館の山側に、北方領土の開拓、日露民間外交に偉業を残した嘉兵衛を顕彰し、永く後世に語り継ぐための記念公園がある。
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ログハウスや温泉、全天候型多目的広場、オートキャンプ場、洋ラン温室、芝生広場、野外ステージ、テニスコートなど、目いっぱい楽しめる施設が揃っていて、その充実ぶりには驚くばかりだ。時間がある人は、ゆっくりと施設を楽しみながら、嘉兵衛の偉業を振り返ることができる。 |
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嘉兵衛終焉の地 |
この公園の片隅に、こんもりとした木々に囲まれて、高田屋の跡を継いだ弟・金兵衛とともに嘉兵衛がひっそりと眠っている。(写真左)
向かって右側が嘉兵衛の墓だ。高さ50p余りの墓石は、偉大な人生を送った嘉兵衛にしては意外に質素だ。 |
嘉兵衛は、都志に帰って9年後の1827年(文政10年)4月に病死。遺体は茅生の隈(もよおのくま)に埋葬された。享年59歳。
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墓には長い石材を使った石室が造られていて、甕(かめ)に納められた遺体は、朱に漬けられているという。
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函館をつくった嘉兵衛
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函館の護国神社前の大通りのど真ん中に嘉兵衛の大きな像が建っている。函館は、嘉兵衛がつくった町だ。函館市民は、今でも町の創始者を心から尊敬している。大阪の繁栄をもたらした尾張中村出身の太閤秀吉を大阪市民がこよなく愛する気持ちと共通するものがあるからだろう。
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淡路の人々は、郷土から出た偉人としての誇りがある。しかし、彼がやってのけた偉業は全て北海道に凝縮しており、函館に残した足跡は余りにも大きい。私は数年前、函館で2年間住んでいたが、嘉兵衛を尊敬し自慢する函館市民の気持ちは、出身地・淡路の人々に負けていない。
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鳴門海峡に架かる橋
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鳴門海峡
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淡路島の門埼と鳴門市の孫埼との間わずか1.3kmしかない鳴門海峡は、瀬戸内海の播磨灘と紀伊水道とを結ぶ海峡だ。別名、大鳴門(おおなると)とも呼ばれる。 |
鳴門海峡は、強い潮流に伴い発生するうず潮で名高い。春と秋の大潮の際には、流速が時速20kmになることもあり、豪快な轟音をあげながら大小無数の渦をつくりだすさまは圧巻で、淡路島観光の目玉となっている。 |
鳴門海峡の潮流は、イタリアのメッシナ海峡、北アメリカのセーモア海峡と並ぶ世界三大潮流のひとつに数えられている。 |
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大鳴門橋(おおなるときょう) |
大鳴門橋は、鳴門海峡(大鳴門)に架かる橋長1,536m、中央支間長876mの吊り橋で、1985年6月に供用開始された。 |
当初、本州四国連絡橋神戸・鳴門ルートは、明石海峡と鳴門海峡を通って関西から四国まで鉄道をひく計画だったため、大鳴門橋は、上部に6車線の自動車専用道路、下部に新幹線規格の鉄道を備えた2階建て構造となる予定だった。 |
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