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大原の民家
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京都大原観光マップ
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2001年11月18日、京都洛北の大原に出かけた。JR三宮駅から新快速に乗ると、50分で京都駅に着く。京都駅から大原行きのバスで1時間ほどかかる。大原は思ったよりも秘境だった。 |
大原特有の晴れ間に時雨れるという洗礼を受けたものの、天候に恵まれ、最盛期の紅葉を撮影することができた。 |
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大 原 |
大原(おおはら)は、京都市左京区北東部にあり、比叡山西麓を流れる高野川(たかのがわ)上流に位置する小盆地全体を指す。本来は〈おはら〉といい、〈小原〉とも書いた。 |
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京都から北へ向かう若狭街道(現、国道367号線)が縦貫し、平安時代以来、延暦寺(えんりゃくじ)にかかわる三千院などの名刹(めいさつ)が多く、八瀬(やせ)、大原と併称された。保元・平治の乱の際の源為朝・義朝などのように、戦乱の時にここを通過することが多く、また出家・隠棲(いんせい)の地としても著名である。 |
建礼門院徳子が住んだ寂光院や三千院は、今も多くの観光客を集めている。 |
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大原の里 |
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大原は、また、平安京への薪炭の供給地でもあり、京の街を売り歩く大原女(おはらめ)は、白川女(しらかわめ 花売り)、桂女(かつらめ 飴売り等)などと同様に古来から有名であった。明治以後は木炭を中心とした林産に加えて、柴漬も特産の一つとなった。
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大原女
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山里の大原では、男は山仕事、女は柴や薪を京都に売りに出た。これが大原女(おはらめ)である。
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今は観光用以外にまったく見られなくなったが、紺地に白小紋の着物に御所染めの帯を締め、白の手甲脚絆、木綿の手拭いをかぶって、頭上に売荷を載せる。いわばよそ行きの労働着を身につけて、彼女たちは往復20数kmの道のりを京都へかよった。
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彼女たちが頭上に載せた荷物の重量は、30kgから時には50kgもあったという。
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赤い木の実
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高野川
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高野川(たかのがわ)は、淀川水系の一つで、京都市左京区を流れる。左京区大原小出石(こでいし)町の山中に源を発し、大原・八瀬地区を貫流して岩倉川を合し、山端(やまばな)で京都盆地に入り、南西に流れて出町柳(でまちやなぎ)で賀茂川に合流し、鴨川となる。延長約20km。
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上流を大原川、中流を八瀬(やせ)川とも呼ぶ。高野川の河谷には、京都から大原を経て峠を越え、近江朽木(おうみくちき)に抜けて若狭(わかさ)に至る若狭街道が通じ、古代から重要な交通路であった。山端には旅人相手の茶屋が並び、若狭から塩サバなど塩干物が多数運搬されたため、若狭街道は魚街道とも呼ばれたという。
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無人のあま柿販売
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江戸時代の高野川には井堰(いせき)が約40ヵ所設けられて流域の重要な農業用水源とされ、水争いもたびたび生じた。また河水は友禅染の水洗いにも用いられていた。現在、出町柳から川沿いに京福電鉄叡山線が通じ、若狭街道は国道367号線に継承されている。
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建礼門院の御歌
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