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大原西陵(建礼門院のお墓)入口
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建礼門院(けんれいもんいん) (1155〜1213) |
生没年ともに異説がある。高倉天皇の中宮。名は徳子。平清盛の次女。母は平時子(二位尼)。1171年(承安1年)従三位に叙され、後白河法皇の猶子として入内、女御宣下のうえ翌年中宮に冊立。 |
78年(治承2年)言仁親王(安徳天皇)を生み、81年(養和1年)院号を与えられて建礼門院と称する。 |
しかしこの間、諸国源氏の蜂起により内乱が勃発。83年(寿永2年)平氏一門は安徳天皇と門院を奉じて西走。85年(文治1年)長門壇ノ浦で一族滅亡のおり、安徳天皇とともに入水したが、女院のみ源氏に救助されて帰京、吉田の律師実憲の坊に入り、同年5月落飾して法名を真如覚と称した。 |
ついで吉田野津御所から大原寂光院に移り、終世仏に仕えた。 |
後白河法皇(夫・高倉天皇の父、すなわち建礼門院の義父)が大原に女院を訪れたときの話は、平家物語・灌頂巻(かんぢようのまき)の名文で知られ、源頼朝も平宗盛の旧領摂津国真井・島屋両荘を彼女に贈って生活の資とした。没後は寂光院裏山の大原西陵に葬られた。 |
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寂光院と建礼門院 |
寂光院(じゃっこういん)は、京都市左京区大原にある天台宗の尼寺である。寺伝では聖徳太子の創建という。 |
平家滅亡後、建礼門院が当地に隠棲して一門の菩提を弔い、これを哀れんだ後白河法皇が臨幸した平家の哀話は、平家物語や能の大原御幸(おはらごこう)によって名高い。 |
寺境は閑静で、境内にはいまも平家物語にちなむ種々の旧跡が残り、寺の背後に大原西陵(建礼門院陵)がある。 |
所在地:京都市左京区大原草生町676
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高倉天皇皇后徳子大原西陵
一 みだりに域内に立ち入らぬこと
一 魚鳥等を取らぬこと
一 竹木等を切らぬこと 宮内庁 |
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寂光院入り口
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寂光院の門 |
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長年の風雪により、屋根は傾き、今にも倒れそうだ。歴史の重みを感じる。
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尼僧となった建礼門院
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平清盛の娘として生まれ、16歳の時に11歳の高倉天皇の中宮となった建礼門院こそ、平家一門にあって最大の悲劇の女性である。
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「波の下にも都のさぶらふぞ」と諭されながら、祖母に抱かれて壇ノ浦の急流に沈んでいった我が子安徳天皇に従い、御座船から身をおどらせたものの、我が子のあとを追うことも出来ず、憎敵源氏の兵に黒髪をつかんで引き上げられた徳子(建礼門院)は、京都へ護送された後、円山長楽寺の阿証房の上人印誓を御戒の師として、29歳の若さで髪を下ろし、寂光院で余生を全うした。
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平家物語・灌頂巻 《大原御幸》
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西の山のもとに一宇の御堂あり、すなわち寂光院これなり。古う作りなせる山水木立由あるさまの所なり。
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「甍(いらか)破れては霧不断の香をたき、枢(とぼそ)落ちては月常往の燈(ともしび)をかかぐ。」とも、かやうの所をや申すべき。
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庭の若草茂り合ひ、青柳(あをやぎ)糸を乱(みぎ)りつつ、池の蘋(うきくさ)浪(なみ)に漂ひ、にしきをさらすかとあやまたる。
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中島の松にかかれるふじ波の、うら紫に咲ける色、青葉交りのおそ桜、初花より もめづらしく、岸のやまぶき咲き乱れ、八重たつ雲の絶え間より山ほととぎすの一声も、君の御幸(みゆき)を待ち顔なり。
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法皇、これを叡覧(えいらん)あつてかうぞおぼしめし続けける。
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池水にみぎはの桜散り敷きてなみの花こそさかりなりけれ
(後白河法皇御歌)
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ふりにける岩の絶え間より、落ちくる水の音さへも、ゆゑび由ある所なり。緑蘿(りょくら)の薔(かき)、翠黛(すいたい)の山、画(ゑ)に書くとも筆も及びがたし。
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五七調の美しい文体は、当時の大原・寂光院の様子をリアルに再現してくれる。何度読み返しても心を打たれる。
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後白河法皇が詠まれた池
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仮本堂
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寂光院の鐘楼 |
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鐘楼のそばの真っ赤な紅葉が美しく、心が洗われるようだ。
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放火された本堂
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2000年(平成12年)5月9日(火)午前2時32分ころ、何者かの放火が原因で、本堂西側付近から出火し、木造こけら葺き平屋の本堂が全焼した。
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この火災で、本堂内に安置されていた本尊六萬躰地蔵菩薩(2.6mの立像:国の重要文化財)、建礼門院座像一体、平家一門の手紙で造られたという阿波ノ内侍(あわのないし)の張子座像一体が焼失した。犯人はまだ捕まっていない。
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現在、浄財を募り、復元を計画中。消失した本堂は、緑のフェンスで囲われている。フェンスの前にあるのが仮本堂。(写真左) |
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在りし日の本堂 |
資料
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寂光院のホームページには、門主から次のようなメッセージが掲示されている。
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寂光院からのごあいさつ
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この度の本堂全焼につきまして全国からよせられた御見舞とお励ましのお言葉に対し心から厚くお礼申し上げます。
心なき者に本堂を放火され歴史的貴重な国民的財産を一瞬に焼失、言葉にあらわせない程の残念さ淋しさが心に深く刻みこまれている現在であります。この上は本堂を復元して千有余年にわたって静かに清らかに法燈を伝えてまいりました由緒あるお寺を永くいつまでも普く世界の人々の心の安らぎの故郷として守っていく所存でございます。
なお本堂復元につきましては、皆様方の絶大なるご支援を得るためご寄進を感謝と共に願っております。
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寂光院門主 小松智光
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情報提供のお願い
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寂光院における放火事件については、警察で捜査していただいておりますが、皆様からの情報提供をお願いします。
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京都府警のホームページ
http://www.pref.kyoto.jp/fukei/jyakukoin.htm
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建礼門院の茶室
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境内は、紅葉の真っ盛りだ。時折、晴れ間から大原特有の時雨が襲う。
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庫裡の庇の下で雨宿りをしながら、名物おばさんのガイドを聞き、しばし平家物語の最終章・灌頂巻(かんぢようのまき)の世界に浸った。
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それにしても本堂の焼失は残念である。犯人はどういう気持で火を放ったのだろうか。
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大原御幸
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大原御幸(おはらごこう)は、平曲(琵琶を弾きながら平家物語の文章を語る語り物音楽)の曲名である。灌頂巻(かんぢようのまき)5曲の中にある。
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後白河法皇は建礼門院の閑居訪問を思い立つ。4月下旬のことで、道には夏草が茂り、人跡絶えた山里である。
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山すその御堂は寂光院で、浮草が池に漂い、青葉隠れの遅桜が珍しく、山ホトトギスのひと声も、法皇を待ち顔に聞こえる。
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質素な女院の庵に声を掛けると、老尼が出迎え、女院は山へ花摘みに行かれたと告げる。尼は昔の阿波内侍(あわのないし)だった。
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やがて、女院は花かごを手にして大納言佐(だいなごんのすけ)を供に帰って来る。
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シオリクドキ・折リ声・初重(しよじゆう)・中音などの曲節を随所に配した叙景中心の美しい曲である。
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話の筋は次の六道(ろくどう)に続く。そこでは、法皇に対面した女院が、栄華の頂点から流浪の境界に転落した悲しい思い出を物語る。
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それは餓鬼・修羅・地獄などの六道さながらの苦しみで、わが子安徳天皇が海に入るのを目の前に見ながら、源氏の武士に捕らえられ、こうして生き長らえているのだと嘆くのである。
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