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西院伽藍
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斑鳩の里(いかるがのさと) 斑鳩町は、奈良県北西部、生駒郡の町。1947年に竜田町、法隆寺村、富郷村が合体して改称。人口約3万人。奈良盆地の中西部から矢田丘陵の南半部を占める。町名は聖徳太子によって造営された斑鳩宮(いかるがのみや)に由来する。 |
町の中央部に位置する法隆寺は、現存する世界最古の木造建築として有名で、日本の古代美術の宝庫である。古くから斑鳩の里として親しまれ、観光客が多い。 |
斑鳩宮(いかるがのみや) 斑鳩の地がクローズアップされてくるのは、601年(推古9年)2月、聖徳太子が斑鳩宮の造営を開始したときからである。聖徳太子は、605年10月に斑鳩宮に移り、622年(推古30年)2月22日に斑鳩宮で病死し、河内の磯長墓(しながのはか)(いま大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺境内)に葬られた。 |
聖徳太子は、斑鳩宮にいたとき、法隆寺を建立した。747年(天平19年)に作成された法隆寺伽藍縁起稀流記資財帳によれば、607年(推古15年)に法隆寺が完成し、7世紀には斑鳩が飛鳥とならぶ文化の中心地となった。 |
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聖徳太子
?〜622年(推古30年) 6世紀末〜7世紀前半の政治家、仏教文化推進者。用明天皇の皇子で母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(欽明天皇皇女)。生年は確かでない。幼名は遠戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子。初め上宮(うえのみや)に住み、後に斑鳩宮(いかるがのみや
今の法隆寺東院の地)に |
移ったというが、14、15歳のころ蘇我馬子(そがのうまこ)の軍に加わって物部守屋(もののべのもりや)を討ち、そのとき四天王に祈念して勝利を得たので、のちに難波(なにわ)に四天王寺を建立した。 |
日本書紀によれば、592年(崇峻5年)11月に馬子が崇峻天皇(すしゅんてんのう)を殺すと、翌月に日本初の女帝・推天皇(すいこてんのう)が即位し、翌年(推古1年)4月に太子を皇太子にして万機を摂政させたという。 |
大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり、特にその中の冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、天皇記・国記以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化している。 |
日本書紀がすでにその事跡を神秘化している聖徳太子は、奈良時代には法隆寺や四天王寺に祀られていた。 |
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2001年(平成13年)11月11日(日)、快晴に恵まれ、絶好の行楽日和となったので、デジカメをリュックに詰め、古都・奈良の古寺を訪ねた。
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JR三宮駅から新快速で大阪駅に行き、環状線のホームから大和路快速に乗り込むと、トータル1時間ほどで、斑鳩(いかるが)の里にある法隆寺駅に着く。駅前から法隆寺行きの小さなシャトルバスに乗ると、10分ほどで法隆寺門前に到着する。思ったよりも近い。
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法隆寺門前
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法隆寺の玄関にあたる南大門の前には法隆寺そばの店などがある。(写真上)拝観料1,000円を支払って国宝の南大門を潜ると、西院(さいいん)の中門(ちゅうもん)や五重塔などが眼に飛び込んでくる。(写真左)
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法隆寺
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法隆寺は、聖徳太子が建立した寺院として1400年の伝統を誇り、1993年12月、「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として注目を集めている聖徳宗の大本山で、別名、法隆学問寺又は斑鳩寺ともいう。
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聖徳太子の父・用明(ようめい)天皇が自らの病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願したが、その実現をみないまま崩御されため、推古天皇と聖徳太子がその意志を継いで607年(推古15年)に寺とその本尊「薬師如来」を造った。
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187,000uもの広大な敷地に国宝38件、重文151件をはじめ2,300余点に及ぶ膨大な寺宝を有する巨刹は、推古天皇・聖徳太子創建の七ヵ寺の一つで、南都七大寺あるいは十五大寺の一つに数えられた。
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境内は世界最古の木造建築で知られる金堂、五重塔などのある西院(さいいん)と、夢殿を中心とした東院に分かれる。
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西院(さいいん)伽藍
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中門を入ると向かって右に金堂、左に五重塔、正面奥に講堂、そして中門と講堂が 回廊で結ばれるという伽藍配置法は、法隆寺式と呼ばれて名高い。
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どの建物もエンタシス(円柱の中ほどにつけたわずかなふくらみ。視覚上の安定感を与えるために施す。ギリシア・ローマ・ルネサンス建築の外壁面の柱に用いた。法隆寺金堂の柱などもこれに属する。)、割束(わりづか 「人」字形の束)、卍くずしの高欄(勾欄 てすり)が特徴。ことに中門と回廊のエンタシスの列柱は圧巻だ。
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日本最古の金剛力士(仁王)像 |
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エンタシスが美しい中門(国宝) |
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中門(国宝) |
西院伽藍の本来の入口となる中門の深く覆いかぶさった軒、その下の組物や勾欄、それを支えるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の粋を集めたもので、重厚な扉と左右に立つ金剛力士像(奈良時代)は、日本に残っている最古のものだ。 |
金堂(国宝) |
金堂は法隆寺の本尊を安置する聖なる殿堂で、四方に階段を付けた二重の基壇に立つ二層造り、本瓦葺き。初層のまわりに裳階(もこし)をめぐらせる。上層は卍くずしの高欄とそれを支える人字形の割束(わりづか)、軒を支える雲形肘木など、飛鳥建築の雄といわれる重厚な建物だ。 |
堂内の本尊・釈迦三尊像(金銅仏)は、623年(推古31年)聖徳太子の冥福を祈って、止利仏師に造らせたもの。杏仁形(ぎょうにんけい)の眼や仰月形の唇、アルカイックスマイル(古風で技巧はつたないが、趣のある微笑。ギリシア初期の人物彫刻の口辺に見られる微笑を指す。)と呼ばれる独特の表情は中国北魏様式の影響を受けるが、はるか古代ギリシャ彫刻をも思わせる。
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本尊の左右には太子の父・用明天皇のために造られた薬師如来坐像(金銅仏)(飛鳥時代)と母である穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のために造られた阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)が置かれ、それを守護するように樟(くすのき)で造られたわが国最古の四天王像(白鳳時代)が邪鬼の背に静かに立っている。 |
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天井には、天人(てんじん)と鳳凰(ほうおう)が飛び交う西域色豊かな天蓋(てんがい
仏像の頭上にかざす蓋きぬがさ)が吊され、周囲の壁面には、世界的に有名な壁画(昭和24年焼損、現在は再現壁画)が描かれ、創建当初の美しさが偲ばれる。
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本尊・釈迦三尊像
アルカイックスマイル
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薬師如来坐像
自然でふくよかな顔
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金堂壁画
慈悲に満ちたまなざし
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写真〈資料〉をクリックすると拡大します。 〈資料〉
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日本最古の五重塔(国宝)
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五重塔初重東面の維摩詰像土(国宝)
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写真〈資料〉をクリックすると拡大します。
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五重塔(国宝)
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塔はストゥーパともいわれ、釈尊の遺骨を奉安するためのものであり、仏教寺院において最も重要な建物とされている。塔の高さは基壇上約31.5mで、わが国最古の五重塔(ごじゅうのとう)として知られている。
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塔の初層内部には、塑造の山岳形と塑像群がある。北面は涅槃像土(ねはんぞうど 釈迦の入滅に際して弟子が悲嘆にくれ大きく口を開いて泣き叫んだり悲しみに耐えている姿を表している場面)。西面は分仏舎利土(ぶんぶっしゃりど 釈尊の遺骨を分配する場面)。
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東面は維摩詰像土(ゆいまきつぞうど 文殊菩薩が維摩居士〈 ゆいまこじ 大乗仏教の一経典・維摩詰所説経(ゆいまきつしょせつきょう 略称・維摩経 〉)の中で中心となって活躍する居士の名。)を訪ね、問答している場面)。南面は弥勒仏像土(みろくぶつぞうど 釈尊滅後57億6千万年後この世に現れる未来仏の浄土の場面)。これらは、堂塔内に残る遺品としては東アジア最古のものという。これらは全て国宝である。
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子規の句碑
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西院伽藍の南の鏡池のそばに、正岡子規の有名な句碑が建っている。
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法隆寺の茶店に憩ひて
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 子規
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子規の句碑がどこにあるのか分からず、お坊さんに聞いたら鏡池のそばだと教えてくれた。法隆寺では余り宣伝していないが、多くの年輩の観光客がこの句碑をバックに記念撮影をしていた。やっと空いたところを撮影できた。
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大宝蔵院
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西院回廊の東に聖徳太子像をまつる聖霊院、高床式の綱封蔵(こうふうぞう)、食堂(じきどう)などが続き、この奥にあざやかな朱塗りの大宝蔵院(だいほうぞういん)がある。(写真上)
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大宝蔵院は1998年(平成10年)に落成したもので、フランスでも絶賛された百済観音像(くだらかんのんぞう)(写真左)を安置する百済観音堂を中心に、西宝蔵、東宝蔵から成っている。特に百済観音は、仏像には珍しい八頭身のスマートな姿と優美で慈悲深い表情は、多くの人の心を魅了する。
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ここには玉虫厨子(たまむしのずし)、夢違観音像(ゆめちがいかんのんぞう)、橘夫人厨子、九面観音像など諸仏のほか、百万塔、伎楽面(ぎがくめん)など法隆寺の歴史を物語る貴重な宝物が数多く収められている。
ブルーの文字をクリックすると写真〈資料〉が現れます。
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百済観音(写真〈資料〉をクリックする拡大します。)
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東院伽藍
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聖徳太子が住んでいた斑鳩宮跡に、行信(ぎょうしん)僧都(そうず
僧の位)という高僧が、聖徳太子の遺徳を偲んで739年(天平11年)に建てた伽藍を上宮王院(じょうぐうおういん 東院伽藍)という。八角円堂の夢殿と伝法堂・絵殿・舎利殿よりなる。当時、西院と東院は別の寺であった。
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道詮律師塑像(国宝)
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〈資料〉
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夢殿(国宝)
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夢殿(国宝)
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東院の中心となる建物が夢殿(ゆめどの)である。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身と伝える木像の秘仏・救世観音(ぐぜかんのん)像(飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理を行った道詮律師の塑像(粘土を使った彫刻)(平安時代)などが安置されている。
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この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝えられる聖徳太子を供養するための殿堂として、神秘的な雰囲気を漂わせている。
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救世観音〈資料〉(写真をクリックすると拡大します。)
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西院と東院をつなぐ広い道
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東院と西院を結ぶ道。広い境内はゆったりとしており、当時の隆盛を偲ばせる。桜の木が赤く紅葉していた。
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午前中、快晴の法隆寺を堪能し、門前の法隆寺そばで腹ごしらえをした後、JR法隆寺駅から東に電車で10分ほどの奈良駅に向かった。
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