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旅紀行ジャパン
2002年2月22日改訂
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2002年2月16日制作

灯をともす僧侶(東大寺大仏殿)

灯をともす僧侶(奈良・東大寺大仏殿)

《 法隆寺・興福寺・東大寺 》

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猿沢池

猿沢池

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奈良市 奈良県最北部にある県庁所在都市。1898年市制。人口約36万人。市域は奈良盆地北部と周辺の丘陵地帯からなり、旧市街地と奈良公園地区は春日断層崖下の台地とその下部の緩斜面上に位置する。
 都市としては8世紀初めに建設された平城京に起源をもつが、その後東大寺、興福寺、春日大社などの社寺が皇室、貴族の保護をうけて繁栄し、門前町が発展して室町時代末ごろまでに旧市街地の原形が整えられた。
 近世には大和もうでの風習が一般化して参拝を兼ねた観光客が増加し、筆、墨、奈良漬、奈良人形などをつくる産業も発展した。明治以降は県庁所在都市として県の政治、経済、文化の中心地となったが、奈良公園が開設され、関西本線や近鉄各線が昭和初期までに開通して、自然美と古い文化が融合した観光都市として著しく発展した。
 JR奈良駅から市内バスで約10分、奈良県庁の南側に興福寺がある。

興福寺

 710年(和銅3年)、平城遷都の際に、藤原不比等(ふひと)が飛鳥にあった厩坂寺(うまやさかでら)を移築し、興福寺と改名した。法相宗(ほっそうしゅう)の大本山である。藤原鎌足(かまたり)の病気平癒のため、夫人の鏡大王が京都山科(やましな)の私邸に建立した山階寺(さんかいじ)が厩坂寺(うまやさかでら)の前身となるため、興福寺は2度名前を変えている。

 藤原氏の氏寺として藤原氏の隆盛とともに寺勢を拡大し、奈良時代には南都四大寺、平安時代には南都七大寺の一つとして栄え、最盛期には数多くの堂塔僧坊が立ち並んでいた。

 神仏習合の影響をうけ、春日社と一体化し、時には僧兵を従えて朝廷へ強訴に及ぶまでになり、鎌倉時代には大和守護職を勤め、実質的に大和国一帯を支配していた。
 戦国時代に入ってからは徐々にその勢いは衰え、1717年には北円堂、東金堂、食堂(じきどう)以外の伽藍を消失した。 
 現在の堂塔は、鎌倉以降の建物を一部残し、広い境内に中金堂、東金堂、北円堂、南円堂、五重塔、三重塔、大湯屋、大御堂、国宝館などが建ち並び、仏教彫刻類は天平時代や鎌倉時代の名品を数多く保存している。

猿沢池

 興福寺の中金堂の南側に放生池として造られた猿沢池(さるさわのいけ)は、周囲約360mの小さ池であるが、奈良市民の憩いのオアシスとなっている。
 また、興福寺の五重塔を水面に映した風景は、東大寺の大仏とともに奈良を象徴するものである。
 私はこの猿沢池の近くで生まれ、幼児時代を過ごした。記憶にはないが、この池でザリガニを捕り、和尚さんによく叱られたものだと亡き母から聞いている。
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 観光地としては1950年(昭和25年)国際文化観光都市に指定され、1956年(昭和31年)には古都保存法が適用されて発展し、1950〜60年代にかけて若草山、高円(たかまど)山の両ドライブウェーが開設され、三笠温泉(炭酸泉、15℃)、ドリームランドなど新しい観光施設が建設された。
 観光の中心は東大寺、興福寺、春日大社をはじめ、奈良国立博物館、万葉植物園、県立美術館などが設けられた奈良公園、若草山一帯である。それらを取り囲むように原始林に覆われた春日山、高円山などが「青垣」をなし、大和青垣国定公園の核心部となっている。
 その他の観光地としては、薬師寺、唐招提寺、垂仁天皇陵のある西ノ京一帯、平城宮址、西大寺、法華寺、秋篠寺や、あやめ池遊園地のある西大寺一帯などがあげられる。1月15日の若草山の山焼き、3月の東大寺二月堂の御水取、8月15日の春日大社の万灯籠などの年中行事には全国から観光客が集まる。

猿沢池と五重塔

猿沢池と五重塔

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行けに影を落とす五重塔

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五重塔(国宝)

 730年(天平2年)、興福寺の創建者藤原不比等の娘にあたる光明(こうみょう)皇后が建立した。創建当初は、東金堂とともに「東院仏殿院」と呼ばれ、その北と西には回廊が、東と南には築地があり、西回廊に二門を開いた。

 現在の塔は、5回の焼失・再建の後、1426年(応永33年)、創建当初の位置に再建されたもので、花崗岩の基壇の上に建ち、中央間3.03m、両脇間2.83m、相輪高15.08m、全高50.10mに及ぶ。京都・東寺の五重塔に次ぐ我が国二番目の高さである。

中金堂

 興福寺伽藍の中心になる最も重要な建物で、藤原不比等が714年(和銅7年)に創建した。
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猿沢池の主

猿沢池の主

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 六回の焼失・再建の後1717年(亨保2年)に焼失し、約百年後の1819年(文政2年)に仮堂として再建された。
 近年老朽化が進んだため、北の講堂跡に仮金堂(旧薬師寺金堂 室町時代後期、寄棟造、本瓦葺)が移建された。中金堂が復興されるまで、興福寺の金堂としての役目を持つ。

奈良の世界文化遺産

 1993年(平成6年)、「法隆寺地域の仏教建造物」が姫路城とともに日本初の世界文化遺産に登録された。
 1998年(平成10年)、「古都奈良の文化財」として8ヵ所−東大寺・興福寺・春日大社・元興寺・薬師寺・唐招提寺・平城宮跡・春日山原始林−が世界文化遺産に登録された。
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八部衆立像・阿修羅(国宝)

八部衆立像・阿修羅(国宝)

 八部衆・十大弟子立像は、733年(天平5年)から翌年にかけて造営された西金堂の旧仏である。
 阿修羅(あしゅら)は、インド神話における鬼神の一種で、闘争をこととする。サンスクリットのアスラ asura の写音。
 法隆寺五重塔初層の阿修羅座像が最も古いが、興福寺の阿修羅は、非常に名高い。
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仏頭(国宝)

 1411年(応永18年)の火災で、かなりの損傷を被り、顔の左半面、特に耳のあたりが凹む痛ましい状況になったが、右半面はほぼ原容を保っている。
 その溌剌と張った顔の輪郭はもとより、秀麗な弧を描く眉から直線的にとおった鼻筋、縁に稜の立った口唇、慈悲をたたえる切れ長の目など、各部の造作はあくまでスッキリしている。
 若々しい時代の息吹を感じさせるこの仏頭は、中国の初唐、7世紀前半に始まる新様式の我が国での定着を物語るものだという。
〈資料〉

興福寺の五重塔

興福寺の五重塔

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三重塔(国宝)と地蔵

三重塔と地蔵

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 興福寺境内南西に建つ国宝・三重塔(さんじゅうのとう)。鎌倉時代初期のものといわれる。高さは約18mで、五重塔と比べると繊細な美しさが感じられる。

 興福寺では五重塔がトップスターだが、この小さな三重塔は、南円堂のそばにひっそりと建っていて、近くのお地蔵さんにふさわしい趣がある。

清酒発祥の地・奈良

 興福寺によると、清酒発祥の地は奈良で、神武天皇以来酒が造られてきたという。
 750年(天平勝宝2年)孝謙天皇が唐人李元環に外従五位下を授けるため春日酒殿に行幸したが、これが奈良で「酒」が史料として見られる最初らしい。
 鎌倉時代になっても大和守護職となった興福寺が年貢米を使って酒造りを続けた。

南円堂(重文)

国宝・不空羂索観音(ふくうけんゃくかんのん 変化観音の一つ)坐像  813年(弘仁4年)、藤原冬嗣が父内麻呂追善のために建立した八角円堂。堂は4度にわたって火災に遇い、焼失を繰り返してきた。現在の建物は、1741年(寛保元年)に柱が立てられ、1789年(寛政元年)にようやく完成をみた。
 堂内には本尊の不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん 変化観音の一つ)坐像写真左・国宝)と四天王像が安置されている。
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 康慶作の不空羂索観音は、重量感あふれる体躯である。
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南円堂

南円堂

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 基壇築造の際に、地神を鎮めるために和同開珎(わどうかいちん)などを撒きながら版築(はんちく 土を層状につき固めて建物の基壇や壁などをつくる方法)したことが近年の発掘調査によって明らかにされている。
 また、この鎮壇には弘法大師が係わったことが諸書に記されている。現在、南円堂は西国三十三ヵ所第九番札所として多くの参詣者で賑わっている。
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