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旅紀行ジャパン
2002年2月22日改訂
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2002年2月16日制作

灯をともす僧侶(東大寺大仏殿)

灯をともす僧侶(奈良・東大寺大仏殿)

《 法隆寺・興福寺・東大寺 》

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我が国最大の山門・南大門(国宝)

我が国最大の山門・南大門(国宝)

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御蓋山(みかさやま) 奈良県奈良市東部、春日大社背後の山。標高293m。三笠山、御笠山とも書き、春日山の前山で、この山自体を春日山ともいう。笠を伏せたような山容をしていることからこの名がある。
 三笠火山群に属し、安山岩が噴出、のちに浸食をうけた二次的な山である。春日社の神域として狩猟や伐採が禁じられたため原始林(特天)におおわれ、ナギの林は有名。
 阿倍仲麻呂の歌〈天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも〉(古今集巻九)によって知られるが、万葉集にも〈高座(たかくら)の御笠の山〉〈大君の御笠の山〉とうたわれている。歌枕としても著名で、多くの詠歌がある。
 なお、すぐ北にある若草山も三笠山と俗称されたことから混同が生じた。
 興福寺から東方に徒歩15分くらいで奈良公園に出る。そこから北に15分ほど歩くと東大寺南大門に至る。奈良公園の東側には若草山が見える。
 興福寺にも鹿がいたが、奈良公園にはもっと沢山の鹿がいる。雄鹿の角は既に切り取られているので安心だ。鹿煎餅を求めて寄ってくる鹿や、満腹なのか煎餅に見向きもしない鹿など、色々いて、眺めているだけでも面白い。

 巨大な南大門から南に延びる道路は、いわゆる門前町をなしており、多くの店が並んでいる。晴天の日曜日という絶好の行楽日和で、道路は多くの観光客でごったがえしていた。

奈良公園の鹿

 奈良公園の鹿

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 南大門の南に小川があり、鹿が戯れていた。水飲み場になっているのだろう。親子連れが餌を与えようとしているが、満腹なのか鹿の反応は鈍い。

華厳宗大本山東大寺

 奈良市内の東方、三笠山麓の深い緑の中に、燦然と鴟尾(しび)を輝かせて立つ巨大な大仏殿を金堂とする伽藍が、華厳宗(けごんしゅう)大本山の東大寺である。
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若草山(わかくさやま) 奈良県奈良市東部、東大寺の東にある山。標高342m。嫩草山とも書く。全山が芝草でおおわれ、山容が三重になっているため俗に三笠山と呼ばれ、南にある春日山の一峰御蓋山(みかさやま 三笠山)と混同されることが多かった。
 毎年1月15日に行われる山焼きは、奈良の代表的な年中行事として著名。15日夕刻、東大寺、興福寺の僧が山麓の野山神社で祭儀を行ったのち、春日の神火を松明(たいまつ)に移して山の四周から火を放つ。両寺の境界争いに端を発する行事との伝えもあるが、若草の萌(も)えるのを促す春先の枯草焼きの風習ともいう。

鏡池と中門

鏡池と中門

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 聖武天皇(しょうむてんのう)は、政変や反乱などが相次ぐ当時の社会不安を仏法の力によって解消しようと、全国に国分寺の創建を推進する一方、大仏造立を発願。 東大寺の本尊として世界最大の金銅仏、 盧舎那大仏(るしやなだいぶつ 大仏さま)の造営が始まった。
 752年(天平勝宝4年)大仏殿が完成し、大仏開眼供養会(大仏の目に筆で瞳を描いて魂を迎え入れる儀式)が盛大に行われた。2002年(平成14年)は、開眼1250年に当たる。長い歴史のある寺である。
 東大寺は、大仏で知られる奈良時代の代表的な寺院であり、大仏殿は世界最大の木造建築物である。大仏殿完成後も次々と堂塔が建築され、40年近くかかって寺観が整った。
 東大寺は、都が長岡へ移ったあとも歴代天皇の手厚い保護を受け、興福寺とともに栄華を誇った。しかし、1180年(治承4年)清盛の子・平重衡(たいらのしげひら)の軍勢によって大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼き払われた(治承の乱)。
 その後、平安時代後期の僧・重源上人(ちょうげんしょうにん)によって再興されたが、1567年(永禄10年)、三好・松永の乱で、わずかな建物を残して再度焼失。現在の伽藍の多くは江戸時代に再興されたものである。 

南大門(国宝)

 南大門は東大寺の正門である。天平創建時の門は台風で倒れ、現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人が新たに宋様式を取り入れた大仏様とともに再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構である。

 1203年(建仁3年)、門内に安置する仁王像とともに竣工した南大門は、入母屋造、二重門で、下層は天井がなく腰屋根(こしやね 採光・換気などのため、普通の屋根の上に、更に一段高く設けた小さい屋根)構造となっている。
 屋根裏まで達する大円柱18本は21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mあり、大仏殿にふさわしい我が国最大の山門である。
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東大寺の開山・良弁 東大寺のはじまりは、728年(神亀5年)聖武(しょうむ)天皇の皇太子、基(もとい)王の菩提を追修するために建てられた金鐘山寺(きんしょうせんじ)にまで遡る。
この金鐘山寺において、740年(天平12年)、後に東大寺初代別当(住職)となる良弁(ろうべん)が主宰して、我が国で初め
て華厳経(けごんきょう)の講読が行われた。この講読は、南都の碩学16人を聴衆として、1年に20巻ずつ講義が進められ、3年後にようやく初回の講読が終講した。
 聖武天皇による盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ 大仏さま)造営は、河内国知識寺において天皇が盧舎那仏を拝したことがきっかけであったといわれており、華厳経の教理が明らかにされて初めて盧舎那大仏の造営という大事業の発願が可能となった訳で、良弁の功績は多大である。

大仏殿境内

大仏殿境内

 境内は、終日大勢の観光客で賑わっており、人並みが絶えない。

重源上人

俊乗上人坐像(国宝)

治承の乱に焼失した東大寺伽藍の復興に、大勧進として起用された俊乗房重源(ちょうげん)は、時に齢60。以後25年間、1206年(建元元年)に生涯を閉じるまで、畢生(ひっせい)の大事業に邁進した。
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 運慶・快慶の作である巨大な仁王像は、東大寺の代表的な彫像のひとつである。

八角燈籠(国宝)

八角燈籠(国宝/奈良時代)

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音声菩薩像(横笛)

 八角燈籠は、東大寺創建当時のもので、再度に渡る兵火にも難を免れた。宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇からなり、火袋の大きいのが特色である。
四面には音声菩薩(おんじょうぼさつ)が、他の四面には雲中を走る四頭の獅子が、それぞれ菱格子の透かし地に浮き彫りされている。とりわけ音声菩薩の意匠はすばらしく、しなやかな体つき、楽器をとる指先と胸の間の遠近感、風を受けてなびく天衣など、立体表現が見事で、高い評価を受けている。
音声菩薩像《横笛》(写真〈資料〉をクリックすると拡大します。)

大仏殿(金堂)(国宝)

 東大寺の金堂である大仏殿は、奈良時代に創建されてから治承と永禄の二度の兵火に遭い、現在の建物は江戸時代に公慶上人によって再建された。
 天平と鎌倉の大仏殿は桁行十一間であったが、財政困難の理由で七間に規模が縮小された。それでも高さや奥行きは創建時のままで、世界最大の木造建造物である。
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大仏殿 《 金堂 》 (国宝)

大仏殿 《 金堂 》 (国宝)

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足を治す木像

 大仏殿の入り口扉の右側に、雨ざらしの木像がある。人だかりが絶えない。我先に木像の足を触っている。お陰でこの木像の足はピカピカだ。聞いてみると有り難い御利益があり、足を治してくれるのだという。ここにも素朴な信仰があった。

本尊・盧舎那仏(るしゃなぶつ)(国宝)

 東大寺の大仏は、中国洛陽の龍門石窟(りゅうもんせっくつ)にある大毘盧遮那仏(だいびるしゃなぶつ)(奉先寺(ほうせんじ)の大仏)をモデルにしたといわれ、鎮護国家仏教の拠点である東大寺にふさわしい本尊として造立されたものである。
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回 廊

大仏さまの寸法

 座高 1,498cm 
 顔の幅 320cm 
 鼻の幅 98cm 
 口の長さ 133cm 
 手の平の長さ 148cm 
 足の大きさ 374cm
顔の長さ 533cm
目の長さ 102cm
鼻の高さ 50cm
耳の長さ 254cm
中指の長さ 108cm 
ひざの厚さ 223cm

重さは、252tonといわれている。

盧舎那仏大仏さま(国宝)

盧舎那仏 《 大仏さま 》 (国宝)

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鐘楼(国宝)

 天空に羽ばたくように聳える鐘楼は、鎌倉時代の東大寺復興に大きな足跡を残した重源上人(ちょうげんしょうにん)を継ぎ、大勧進となった栄西禅師(ようさいぜんし)が1210年に再建したもので、禅宗的要素を加味した豪放な建物である。
 重さ26.3tonもある梵鐘(国宝)は東大寺創建当時のもので、鐘声の振幅は非常に長く、「奈良太郎」と愛称される。

 午前中に法隆寺、午後から興福寺に東大寺と、奈良最大の観光スポットを廻った。全て世界文化遺産に登録されている古寺ばかりで、国宝の山だった。古都・奈良も京都同様、素晴らしい歴史的遺産が数多く残されていた。
 第二次世界大戦中に空爆を免れたのは、これらの遺産が人類共通の宝物として普遍性を持つからなのだろう。アフガニスタンのアルカイダがバーミヤンの磨崖仏(まがいぶつ)を破壊したことは、人類に対する許し難い蛮行として記憶に新しい。
 雲ひとつない青空の下、多くの世界遺産に接し、日本の歴史の重みと日本人としての誇りを感じた一日だった。(完)
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