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熊野本宮大社の入口
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熊野本宮大社 古くは熊野坐(くまのにます)神社と呼ばれていた。熊野川の中州にある大斎原(おおゆのはら)が旧社地で、明治22年の洪水で流出を免れた4社を600mほど離れた現在の地に遷宮した。 |
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熊野本宮大社の創建は、第10代崇神(すじん)天皇(4世紀初頭)によるものと伝えられる。本殿には国生みの神とされる伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と人々に救いの手を差し伸べる家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)を主神とする12柱の神々が鎮座し、平成7年には社殿が国の重要文化財に指定された。 |
源平盛衰記によると、33回と最多の熊野御幸記録を持つ後白河上皇は、本宮へは33回行幸したが、新宮と那智は15回だったという。新宮と那智を略して本宮だけを詣でて熊野御幸を済ますこともしばしばあったわけで、本宮が熊野三山の中心であることがわかる。 |
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新宮の権現前から、奈良交通の近鉄八木駅行き特急バスに乗る。便数が少なく、1時間ほど待った。 |
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新宮を出発したバスは国道168号線に入り、熊野川の上流に向かう。時々減速し、道路脇に寄せて、後続の車を追い越させている。運転手の細やかな気配りである。 |
熊野川
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車窓から熊野川が見える。熊野杉の筏が下り、熊野詣の舟が行き交い、産業が発展して豊かな文化が育った。
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1時間半ほどバスに揺られて本宮大社前で下車。目の前に熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)の入口が見える。赤丸の中に黒い八咫烏(やたがらす)をあしらった巨大な幟(のぼり)が目に入る。
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熊野本宮大社の八咫烏 |
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熊野本宮大社も八咫烏を神紋としている。熊野那智大社の神紋とくらべると、図案化され、現代風である。
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この神紋は、あわせ巴烏(ともえがらす)といい、旧来のものを新しくしたものだという。
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熊野本宮大社神紋
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参道と熊野大権現の幟
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木製の鳥居をくぐると、「奉納 熊野大権現」と書かれた幟が参道脇に続く。石段の脇には、ミニチュアの幟が奉納されている。どうも本宮は幟が好きなようだ。
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祈願幟
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総 門
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2001年10月から翌3月まで放送されたNHKの朝ドラ「ほんまもん」のヒロインは、奥熊野・本宮町に生まれ育った山中木葉(やまなかこのは)という女性だった。テレビのお陰で熊野が脚光を浴びるようになった。 |
ほんまもんロケ地 |
129段の石段をのぼり詰めると総門に至る。立派な門構えである。ここにも八咫烏の幟がたっている。 |
総門をくぐると、檜皮葺(ひわだぶき)の立派な社殿が姿をあらわす。横一列に配置された神殿は気品と威厳があり、本宮という名にふさわしい。 |
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木造檜皮葺本殿
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玉砂利を踏みしめながら、それぞれの神の前で頭(こうべ)を垂れ、2礼2拍1礼の古式に則り、しばし神に向き合う。早春ということなのか人影はまばらで、殆どが私のような観光参拝客であった。 |
本殿に参拝
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頭を垂れる信者の装いは時代の変遷につれて変わってきたが、神々は鎮座した当時のままで信者を見守っている。新宮本殿の古風なたたずまいは、三社の中で最も歴史の重みを感じるものであった。
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咲きにほふ 花のけしきを見るからに 神のこゝろぞ そらにしらるゝ
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拝 殿
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総門に並んで拝殿がある。ここから一括して参拝ができる。
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端正な千木(ちぎ)と勝男木(かつをぎ) |
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山歩きスタイルの参拝客 |
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那智瀧のひびきを もちて本宮に ぬかづくわれや 生きむとぞする
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《 撮影 2003年3月15・16日
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オリンパス CAMEDIA E-20
500万画素 280枚 360MB
ワイド・エクステンションレンズ使用 |
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本殿で参拝をすませた後、竜神バスの紀伊田辺行きに乗り、帰途についた。バスは本宮と田辺とを結ぶ中辺地(なかへち)に沿って走った。 |
紀伊田辺駅前のハンサムな弁慶像 |
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2時間ほどで紀伊田辺駅に着いた。駅前には田辺出身の英雄・武蔵坊弁慶の銅像が建っていた。衣の下に鎧が見える。弁慶がこんなに男前だったとは知らなかった。
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弁慶は熊野三山の実質的な統括者であった熊野別当・湛増(たんぞう)の子だ。今でも熊野詣の入口・田辺で三山を護っている。
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遅い昼食をとりながら小一時間待ったあと、京都行き特急オーシャンアローで新大阪に向かった。
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早春の熊野路を2日がかりで那智→新宮→本宮の順に辿った。後白河法皇の御幸とは逆順になるが、最後に山奥の最も権威のある本宮でフィニッシュした方が感慨が強くて良いと思う。
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明治初年の神道(しんとう)国教政策により、神仏は分離され、廃仏毀釈が行われた結果、多くの寺や仏像が破壊されたが、熊野三山でも例外ではなかった。
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幸い、那智の青岸渡寺(せいがんとじ)だけは破壊を免れ、神仏習合の文化を今に伝えている。お陰で本地仏(ほんじぶつ)や権現(ごんげん)という概念を知ることができた。
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この世の最高権力を手に入れた上皇ですら神仏にすがらなければならない人間の弱さを思い知る。琵琶湖の竹生島といい、熊野といい、信仰が築き上げてきた日本文化の奥深さに、心を動かされる旅であった。
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次に熊野を訪れるときは、ゆっくりと熊野古道を歩いてみたいと思う。《完》
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