|
|
|
|
|
天正元年(1573)、宇喜多直家(うきた・なおいえ)は、当時この地の城主であった金光宗高(かねみつ・むねたか)を滅ぼし、現在の位置より西に300mほどの石山にあった城を修築して入城した。現在の岡山城を築いたのは、直家の実子・秀家(ひでいえ)で、時の天下人・豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物である。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
↓不等辺五角形の天守閣 |
|
|
|
|
|
|
|
秀吉が天下を取ると、秀家は57万石余の大大名となったため、石山の小さな城では満足できなくなり、秀吉のアドバイスに従って、現在の天守閣が立つ岡山という名の小高い丘に新しく旭川の流れをつけかえ、掘削した土砂を盛り上げて上中下三段の地形を造成し、約8年の歳月をかけて、慶長2年(1597)に岡山城を完成した。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600X950)487KB
|
|
|
|
しらとりの うじょうにあそぶ あきのひる |
Autumn noon, the white birds enjoying at the Crow Castle. |
|
|
|
|
|
|
|
|
▼ 国指定重要文化財の月見櫓(つきみやぐら)は、第5代藩主・池田忠雄(いけだ・ただかつ)が元和・寛永年間(1615〜1632)に建てたもので、文字通り「月見」という風流を楽しむためにも用いられたが、本来の目的は、中段(表書院)の北西を防衛するためのもので、櫓自体は武器の貯蔵庫になっている。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600X1200)412KB
|
|
|
|
|
|
|
▲ 城外からみれば二階建だが、城内からみると三階建となっており、一階は土蔵となっている。また、城外側は狭い隙間から敵を監視したり、石垣を登る敵を迎撃するための石落など軍備を高めているが、城内側の最上階は開放的で、手すりを備えた縁側がある。また、天井板を張るなど居住性を高めた造りで、戦国時代の終結を象徴する和戦両用の特徴をもつ。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600X1200)464KB
|
|
|
|
|
|
|
▼ 不明門(あかずのもん)は、正門にふさわしい風格を備えた間口9間の大型櫓門である。この奥の本段には藩主が日常生活を営む御殿があり、入ることができるのは、特に限られた身分の人であった。そのため、通常は閉じられたままで使用されることはなく、不明(あかず)の名はこれに由来する。明治期に解体されたが、現在のものは、昭和41年(1966)に天守閣とともに再建された鉄筋コンクリート製である。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600X1020)335KB
|
|
|
|
|
|
|
▼ 宇喜多秀家によって新しくつくられた本丸(城の中心で内堀に囲まれた部分)は、現在も殆ど昔のまま残っており、約4万m2の広さがある。天守閣は、石垣からの高さが20.45mあり、二階建の建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造となっている。屋根には金箔を貼った鯱(しゃちほこ)、鬼瓦、軒瓦が葺かれ、黒地に金が映えて、燦然(さんぜん)と輝く天守閣の偉容を演出している。 岡山城公式ホームページ |
|
|
|
|
|
|
|
|
↓塩蔵 |
|
|
拡大写真(2000X1500)572KB
|
|
|
|
|
|
|
▼ 十二村哲(とにむら・てつ)作詞、飯田景応(いいだ・けいおう)作曲の「岡山城」という歌があり、天守閣のそばに歌碑が立っている。この二人のコンビで生まれた「月の法善寺横丁」は、藤島桓夫(ふじしま・たけお)が歌って大ヒットした。 |
|
岡山城 |
一 栄華の夢を 現(いま)にして 雲井に映ゆる 天守閣 月見櫓よ 石垣よ
鶴が羽ばたく 後楽園も 姿変わらぬ 岡山城
二 歴史の絵巻 浮かべつつ 流れも清き 旭川 松の梢を 吹く風に
昔しのべば 武士(もののふ)どもの 声が呼ぶような 岡山城
三 烏城(うじょう)の名さえ なつかしく 壮麗誇る たたずまい 三十一万 五千石
空を仰げば いらかの波に 金鯱(きんしゃち)も躍るよ 岡山城 |
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600X950)487KB
|
|
|
|
|
|
|
▼ 岡山城は、天守閣外壁の下見板(したみいた)には黒漆が塗られていたので、太陽光に照らされると、烏(からす)の濡れ羽色によく似ていたため、烏城「うじょう」と呼ばれた。長野県松本市に立つ国宝・松本城も烏城と呼ばれているが、そちらは「からすじょう」という。壁が黒いのは、秀吉が好んだからで、戦国時代の名残である。家康が天下を取ってからは、黒を嫌って白壁となってゆく。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(2000X1500)521KB
|
|