現存する蒸気機関車アルコ22号/宮若市石炭記念館
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▼ 宮若市石炭記念館は、福岡県宮若市が昭和52年(1977)に設立した入場無料の石炭記念館で、筑豊の炭鉱産業を約1世紀にわたって支えた貝島炭砿の歴史的文化遺産を展示しており、炭坑で使われた道具類や機器、模型、写真、文献、炭坑絵画などが展示されている。貝島私学発祥の旧大之浦小学校の校舎を活かした造りは、団塊の世代にとっては、とても懐かしく、学童時代に誘ってくれる。 |
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宮若市石炭記念館へのアクセス
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石炭記念館の設立趣意
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一世紀にわたる筑豊石炭産業を最後まで支えた貝島炭砿も、昭和51年(1976)8月、遂に波乱多き90年の歴史を終わる。宮田町の経済的支柱として果たした役割は大きいが、今やその功罪を問う声も低くはない。 |
新しいエネルギーの開発や、無限の可能性を保つ宮田町民の復興への意欲は、まもなく石炭を、そして貝島という存在を過去の中に風化してしまうであろう・・・。 |
今こそ、貝島炭砿とこれに関連あるいろいろな記録を残しておくことは、現代に生きる者の責務というべきではないだろうか・・・。 |
1 貝島炭砿の創業から閉山まで 2
特筆すべき私学の記録 3 貝島を支えた労働者の記録 |
これが設立にあたっての柱であり、さらに宮田町内石炭の歴史追跡への拠点としての役割を果たしたいと思う。
昭和52年(1977)5月 (宮若市石炭記念館パンフレットより) |
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校舎を利用した貝島炭砿の石炭記念館/宮若市宮田 2015.02.24
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明治時代以降、わが国の近代化を支える最重要エネルギー資源であった石炭を産出する石炭産業は、現代の日本には存在しない幻の産業となってしまったが、当時の出炭量の半数を占めていたのが「貝島」「麻生」「安川」の筑豊御三家であった。 |
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露天掘で採掘した貝島炭/石炭記念館の玄関
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▼ 中でも、当時、「炭鉱王*」と呼ばれた貝島太助によって創業された貝島炭礦は、筑豊御三家の中でも最大の出炭量を誇り、我が国を代表する巨大石炭企業であった。 |
貝島太助(1844-1916)は、江戸時代の弘化元年(1844)直方の貧農の子として生まれ、8歳のときから坑内に入り、父永四郎の採炭を助け、11歳のとき、石炭の焼夫(しょうふ)として1日80文を稼いで家計を助けるなど、窮苦の身から石炭事業を興した。 |
明治3年(1870)26歳のときに炭鉱業に従事し、明治10年(1877)の西南戦争による炭価の暴騰で巨利を博し、明治17年(1884)宮田町・大之浦炭砿を入手。のちに井上馨の援助を得、日清戦争を契機に事業を広げ、明治31年(1898)貝島鉱業を設立し、貝島炭砿の基礎を築いた。 |
石炭恐慌で休業したこともあったが、他県におよぶ鉱区の拡張を図る一方、私財を投じて私立大之浦尋常小学校などの貝島私学を次々に開校し、従業員の子弟教育に尽力した。大正5年(1916)11月2日没 行年73歳 |
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*炭鉱王:『花子とアン』は、平成26年(2014)上半期にNHKの総合テレビとBSプレミアムで放送され、高視聴率で評判となった連続テレビ小説で、『赤毛のアン』の日本語翻訳者である村岡花子の半生を原案に中園ミホが脚本して制作されたフィクションである。 |
この中で花子の友人・葉山蓮子が福岡の炭鉱王・嘉納伝助と結婚し、やがて社会主義の学生・宮本龍一と出逢い、駆け落ちする下りがあるが、嘉納伝助は筑豊炭田・中鶴炭砿(現中間市)を経営した伊藤伝右衛門(1860-1947)をモデルとしており、二番目の妻・Y子(あきこ)(柳原白蓮)との離婚劇・白蓮事件(びゃくれんじけん)を元に脚色したフィクションである。 |
白蓮事件は、大正10年(1921)10月20日、伊藤伝右衛門の妻で歌人として知られる柳原白蓮が滞在先の東京で出奔し、社会運動家で法学士の宮崎龍介と駆け落ちした事件。新聞紙上で妻白蓮から夫への絶縁状が公開され、それに対して夫・伝右衛門から反論文が掲載されてマスコミのスクープ合戦となり、センセーショナルに報じられた。 |
伊藤伝右衛門も炭鉱王といわれたよう
で、彼をテーマにした小説がある。 |
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炭鉱王と称された貝島太助翁の肖像画
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しかし、「麻生」や「安川」がセメント業・窯業・機械製造業などの多角化で、今日も存続している企業であるのに対して、
残念なことに、「貝島」は、石炭産業とともに消滅してしまい、社史すら発行していなかったため、どのような企業だったのか、実態のつかめない幻の企業となった。 |
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若宮市が建てた石炭記念館の設立趣意には、消滅して何も残っていない貝島炭砿の足跡を拾い集め、歴史の空白を埋めたいという地元市民の強い気持ちが表れている。 |
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大正末期の「筑豊炭田圖」/石炭記念館ロビー
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▼ 宮若市石炭記念館の一階展示室には、貝島太助翁の立像と共に当時東洋一を誇った貝島炭砿の巨大な新菅牟田坑(しんすがむたこう)の断面図が誇らしげに掲げられており、当時の栄華を偲ばせてくれる。 |
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東洋一の貝島炭礦・新菅牟田坑/一階展示室
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平成27年(2015)2月24日(火)、吉田好幸さんの運転するマイカーで宮若市石炭記念館を訪問し、宮若市職員の石井孝次さんに案内してもらい、館内をくまなく見学して廻った。この日午前中に訪れたのは、我々を含めて三人だという。internetで調べて位置をカーナビに登録してやってきたのだが、道が分かりづらく、パンフレットを見てもよく分からない場所にあるのが一因かも知れない。 |
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案内していただいた石井孝次さん(宮若市職員)/石炭記念館
ロビー
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玄関ロビーに飾られていた油絵は、貝島炭砿を象徴する明治期の坑内労働者を活写した「坑内の群像」で自由美術協会の村島定児(むらしまていじ)(1929-2002)による傑作である。男性が身に付けているのは鉢巻、六尺褌、草鞋の三点、女性の方は姐さん被り、腰巻、脚絆、草鞋の四点で、いずれも裸形で働いている。構内では、半纏などの着物は、暑くて着ていられなかったのだろう。 |
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ふゆとても ふどしいっちょう たんこうふ |
Coal miners wearing
fundoshi only even in winter. |
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「坑内の群像」 村島定児(自由美術協会)画 /石炭記念館ロビー
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▼ 一階展示室に置かれた男女の石膏像は、千石公園に建てられた「復権の塔」の銅像の原型である。宮田教会の服部団次郎牧師を代表とする多くの人々の12年間の努力を旧宮田町が引継ぎ、完成したもの。筑紫女学院短期大学小田部泰久・水戸竜一両教授に像の製作が委嘱され、四箇月余をかけて完成。男像の高さ2.5m、女像の高さ2.2m。 |
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この炭鉱で働く夫婦像は、明治の終わりから大正の初めにかけての姿で、夫は六尺褌に法被(暑い構内では褌一丁)、妻は半袖に間歩ベコ(まぶべこ)(短い腰巻)(坑内では腰巻のみ)。
間歩とは、坑道のこと。夫は先山(さきやま)(石炭を掘る熟練した採炭夫)、妻は後山(あとやま)(採炭夫の助手)として夫婦が一組になって坑内労働に従事していた。 |
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女性の右手には二人分の弁当箱、左手にはカンテラを持つ。男が肩にかけて持つのは3本のツルハシ。炭壁を掘るツルハシは先が折れやすかったことから、替え用を含めて通常は2本のツルハシを持って坑内に入ったが、優秀な先山は3本持ち、掘る箇所によって使い分けていたという。 |
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「石坑夫の石膏像」(明治・大正時代)/一階展示室
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「炭鉱犠牲者復権の塔」は、昭和52年(1977)に福岡県若宮市宮田にある千石公園に建てられた。 |
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「炭鉱犠牲者復権の塔」の碑文
過去100余年、日本の産業経済は石炭によって支えられ今日の繁栄の土台を築きあげてきた。最盛期には300坑もあった筑豊の炭鉱もいまはすべて終閉山し、産炭地としての筑豊は永久に忘れ去られようとしている。かつて炭鉱労働者として石炭産業に従事された多くの人々がその犠牲者となり、また戦時にあっては外国の人々の犠牲者も多数にのぼっており、過去の『人間疎外』に対して『人間性の回復』への願いと、諸外国犠牲者に対するお詫びの意味をこめて、『炭鉱犠牲者復権の塔』が千石公園に建設された。 宮田町観光協会
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苦労を重ねて「復権の塔」完成のために奔走した宮田教会・服部団次郎牧師の言葉
死者だけが犠牲者ではない。筑豊の人すべてが犠牲者なのだ。高度経済成長の恩恵を最大限に受けている中で見捨ててこられた炭坑離職者とその家族、そして筑豊そのものの復権をはかるべきではないのか。
(「広報みやた」より) |
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炭鉱犠牲者復権の塔/千石公園(福岡県宮若市宮田)
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130.3x194.0の油彩画「貝島初期の採炭風景」は、昭和54年(1979)に書かれた力作で、山近剛太郎と村島定児の合作である。 |
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作品の説明文
山近 村島両画伯合作による貝島初期の採炭風景
明治18年に上大隅代の浦で創業した大之浦炭砿での採炭風景で、近代化していない坑内では、暑くてたまらなかった。一丁切羽
單切羽 雑切羽とも云った。 |
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貝島初期・明治時代の採炭風景/石炭記念館一階展示室 山近剛太郎・村島定児合作
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一階の見学のあと、様々な資料や写真、炭坑画が展示されている二階にあがった。一階は大幅な改築がなされていたが、二階は廊下や教室などが残されており、大之浦小学校の校舎であったことが分かる。 |
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様々な資料が置かれている二階展示室
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人力採炭時代の道具/二階展示室
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大之浦小学校の教室/二階展示室
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大之浦小学校の教壇に立つ/二階展示室
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当時の風景写真/二階展示室
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今は見えないボタ山/二階展示室
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明治の人力採炭時代の採炭切羽/二階展示室
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山近剛太郎 |
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(1902-1990) |
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▼ 二階展示室には、山近剛太郎が描いたオリジナルの油彩画が多数展示されている。山近は、明治35年(1902)地元若宮町(現宮若市)で生まれ、大正15年(1926)貝島炭砿に入社。現場の指導監督にあたり、後に貝島の重役として、特に防災体制の確立に貢献。昭和51年(1976)の閉山時には、取締役を務めていた。 |
中学の頃から絵が得意で、九州創元会の手島貢が主宰する福岡の画塾に通った。炭鉱の油絵を本格的に描き始めたのは、昭和45年(1970)頃からで、日本石炭協会九州支部から同館に飾る炭鉱画の制作を依頼されたのがきっかけだった。 |
昭和47年(1972)まで坑内に下っていたという山近は、記録画を描く上でヤマの実情が伝わるよう安全灯の光の当たり方や、道具、服装などの細部にもこだわり、写実的に描くことを心がけていたという。(元・創元准会員) |
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「昔の採炭風景」 山近剛太郎画 1984 /二階展示室
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山近剛太郎が目にした炭坑夫たちは、褌一丁の手堀時代から近代化されたヘルメット・作業服による機械堀時代まで、幅広い。伝聞ではなく、彼が目にした光景をありのままに描いている。 |
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家族ぐるみの採炭作業 山近剛太郎画 /二階展示室
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▼ 山近剛太郎の炭坑画の中で一番素晴らしいと思ったのが、この負夫(おいふ)を描いた油絵である。彼の絵は、世界記憶遺産に認定された山本作兵衛の絵のように記録的価値があるだけでなく、極めて芸術性が高く、もっと知られても良い画家だと思う。 |
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負籠 |
を背負った老 |
負夫 |
山近剛太郎画 /二階展示室 |
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▲▼ 山近剛太郎の炭坑画には、山本作兵衛の絵にあるような刺青をした炭坑夫がまったく描かれていない。これは貝島炭砿の特徴で、刺青をした人は一切採用しないという方針が貫かれていたからだという。 |
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炭鉱労働者たちの厚生施設であった炭坑浴場は、山本作兵衛も描いているが、山近の絵では、混浴でなくなっている。肥満は一人もおらず、日々の労働で、引き締まった身体をしている。 |
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炭坑浴場の入浴風景 山近剛太郎画 /二階展示室
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この油絵は、昭和の坑内を描いたもので、鉢巻と草鞋が帽子と地下足袋に変わってはいるが、相変わらず褌一丁の裸のままである。炭坑夫たちは、落盤事故などにより命を落とす危険を顧みず、12時間労働の交代制で、昼夜分かたず過酷な労働に従事し、戦後日本の経済復興を支えた。 |
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「悲愴なる救出」 山近剛太郎画
1980 /二階展示室
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日本の炭砿は、昭和23年(1948)頃から機械化採炭が取り入れられ、労働着は、原始的な裸褌から近代的な作業服に変わっていった。貝島炭砿は、まだ4割の埋蔵量が残されていたが、石油や安価な海外炭にとって変わられ、昭和51年(1976)に閉山を余儀なくされ、やがて日本の炭砿は、この世から殆ど姿を消した。 |
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機械掘削時代の作品 「語らい」 山近剛太郎画 /二階展示室
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