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屋外の展示スペースには、実際に炭坑で使われた蒸気機関車や機械類などが展示されているほか、当時の炭坑夫たちが暮らした標準的な炭鉱住宅が再現されている。 田川市石炭・歴史博物館公式サイト |
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田川市石炭・歴史博物館へのアクセス
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資料:田川市石炭・歴史博物館 |
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▼ 三井鉱山が明治33年(1900)、地元業者の「田川採炭組」を買収して発足。六つの炭坑があり、ピーク時の昭和15年(1940)には国内出炭量の約4%に当たる約206万トンを産出した。戦後、石炭から石油へのエネルギー革命により、昭和39年(1964)に閉山した。 |
田川市石炭・歴史博物館が建てられた場所は、旧三井田川鉱業所伊田竪坑(いだたてこう)のあったところ。伊田竪坑は、明治38年(1905)から5年の歳月を費やして完成した大型竪坑で、日鉄二瀬(ふたせ)(現・飯塚市)、三菱方城(ほうじょう)(現・田川郡福智町)と共に三大竪坑と称された。 |
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三井田川炭鉱伊加利竪坑風景(昭和35年)/田川市石炭・歴史博物館
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石炭記念公園
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石炭記念公園は、旧三井田川鉱業所伊田坑の跡地に整備された市営公園で、平成17年(2005)に現在の形に整備された。国指定有形文化財の伊田竪坑櫓(いだたてこうやぐら)と伊田竪坑第一・第二煙突は、築造当時から位置を変えずに歴史遺産として残されている。また、炭坑節之碑などの記念碑やモニュメント、炭坑夫之像が建てられている。 |
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上空から見ると、二本煙突の煙が月にかかっているモチーフが描かれていることが分かるが、地上では、気がつかなかった。 |
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石炭記念公園 鳥瞰図
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カーソルで画像のどこかをポイントすると説明が現れます
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画像:Google Map |
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「炭坑節」発祥の地
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炭坑節は、福岡県に伝わる民謡で、現在の田川市が発祥の地である。もともとは炭鉱労働者によって唄われた民謡で、「月が出た出た月が出た、ヨイヨイ」のフレーズで知られる。元来は盆踊り唄ではなかったものの、戦後、全国的に流行し、盆踊りの定番曲となった。
(元々は春歌だったともいわれる。) |
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炭坑節発祥の地/田川市石炭・歴史博物館
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▲▼ 「月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ) 三池炭坑の 上に出た あんまり煙突が 高いので さぞやお月さん けむたかろ(サノヨイヨイ)
」が全国的に知られる炭坑節の歌詞で、三池炭坑で唄われたものと誤解されている。 |
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筆者もこの公園に来るまでは、三池炭坑の民謡だと思っていたが、実際は、炭坑節之碑にあるように、「月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ) 三井炭坑の 上に出た」が正しく、本家論争は、三井ということで決着がついているという。煙突とは、もちろん、田川市のシンボルとなっている二本煙突のことである。 |
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BGMに流れるのは、4種の炭坑節だが、「三井炭坑の上に出た」と歌っているのは2番目だけで、あとの3曲は「三池炭坑の上に出た」と歌っている。本家論争は決着したようだが、人口に膾炙(かいしゃく)するのは、三池炭坑の方である。
なお、歌詞の中に出てくる「さまちゃん」とは、彼氏、旦那様の意。 |
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発祥の地にふさわしい炭坑節之碑
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「炭坑節」は、もともと炭坑労働の進行に合わせて口ずさみ歌われるようになった炭坑唄で、その種類は、採炭夫がつるはしで炭層を掘るときに歌った「採炭唄」、発破採炭で火薬をつめる穴をタガネで掘る時に歌われた「石刀(せっとう)唄*」、•石炭を坑底から引き上げるロクロを回すときに歌われた{南蛮唄」、坑内から運び出された炭塊を石炭とボタとに選り分ける作業をするときに歌われた「選炭唄」などがある。「炭坑節」は、
選炭場で歌われた選炭唄で、昭和7年(1932)にはじめてレコードに吹き込まれたという。 |
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*石刀唄:石刀とは岩石を砕く鉄の槌のことで、
坑夫たちは、暗い穴の中で薄ぐらい灯火をたよりに石刀の音で調子をとりながら歌った。 |
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田川市営の自動販売機
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炭坑夫之像
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炭坑夫之像は、石炭記念公園の整備に伴い、昭和57年(1982)に建立されたブロンズ像で、作者は彫刻家の山名常人(やまなつねと)。昭和
の機械掘削時代の炭鉱夫と選炭婦の夫婦の姿をリアルに表現したものという。 |
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炭坑夫之像 1/2 田川市石炭・歴史博物館
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当初、ここには伊田坑の沈殿池を利用した円形の池があり、像はその中心に立っていた。沈殿池は、選炭過程で生じた排水から微粉炭を沈殿させて取り出すための施設。池は後年に廃止されたものの、像を中心とした円形広場に池の痕跡を読み取ることができる。 |
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炭坑夫之像 2/2 田川市石炭・歴史博物館
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旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓 |
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国指定有形文化財の伊田竪坑櫓は、福岡県教育委員会による福岡県の近代化遺産である。田川市のほぼ中心部に位置する旧鉱山施設で、T形鋼を用いた4本の鋼柱等からなる鋼構造体の頂部に、2基の大型ヘッドシーブを据え付けて総高28mとし、西側にバックステイを添える。筑豊に残る唯一の鋼製櫓で、現存する明治期の竪坑櫓として最大級の規模を誇る。 |
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旧三井田川鉱業所 |
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伊田竪坑 |
櫓 |
(第一竪坑櫓) |
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地下深く延びる炭鉱の竪坑では、ケージと呼ばれる鋼製の籠で石炭や人員・資材を運搬した。竪坑櫓はこのケージを上げ下げする装置。このケージは、人や炭車をのせて坑内外を往復した二段式ケージで、エレベーターの箱のような役割をしていた。炭坑節にも「ケージにもたれて思案顔」と唄われている。 |
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炭坑節に唄われたケージ
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炭鉱住宅
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往時の筑豊炭田などの炭坑周辺には、数多くの炭鉱住宅が存在した。これらは炭鉱会社により建設され、光熱費を含め住宅費は無料であり、現物給与の福利厚生的な側面があった。炭住(たんじゅう)という略称がよく用いられた。 |
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多くは長屋の住宅団地街として存在していた炭鉱住宅は、1960年代以降のエネルギー革命による石炭産業の衰退と、それに伴う炭鉱労働者の減少などにより、縮小され、やがて消滅する運命を辿った。 |
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炭鉱労働者たちの長屋
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炭坑労働者の労務環境は厳しかったが、その分、手にする給与は、当時の一般の勤労者と比べるとかなり高く、無料の宿舎や浴場を利用でき
た。また、貝島私学のような子弟教育に熱心な炭坑もあった。 |
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炭住内部の様子
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蒸気機関車9600形
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炭鉱住宅のそばに、筑豊地区で使われた蒸気機関車9600形(59684)と貨車(石炭車)1両が展示されている。 |
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9600形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が大正2年(1913)から製造した日本初の本格的な国産貨物列車牽引用テンダー式蒸気機関車である。「キューロク」、「クンロク」あるいは「山親爺」と愛称され、四国を除く日本全国で長く使用された。国鉄で最後まで稼動した優秀な蒸気機関車である。 |
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石炭を運んだ蒸気機関車
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第二竪坑櫓跡
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碑 文 |
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明治40年ころは、大竪坑時代と呼ばれているが、伊田竪坑はその代表的なものであった。北側に現存しているのが第一竪坑櫓で、この場所は、第二竪坑櫓の跡地である。昭和44(1969)年に三井田川炭鉱の後を受けた第二会社新田川炭鉱が閉山するまで使用された。その後第二竪坑櫓は撤去され、第一竪坑櫓のみが二本煙突とともに炭坑節発祥の地・田川のシンボルとしてその勇姿をとどめている。
第一竪坑(八尺坑) 入気 炭車専用 田川八尺層採掘目的 明治42(1909)年完成 櫓の高さ 23m 深さ 314m
第二竪坑(四尺坑) 排気・排水 炭車と人員の昇降併用 田川四尺層採掘目的 明治43(1910)年完成
櫓の高さ 23m 深さ 349m |
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第二竪坑櫓跡と二本煙突
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伊田竪坑第一・第二煙突
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▼ 三井田川鉱業所伊田竪坑跡には、石炭産業の隆盛と衰退の歴史を見守ってきた二本の煙突が今も現存する。蒸気動力の排煙用として明治41年(1908)に建設されたこの煙突からは、全国に広がっていった鉄道で走る蒸気機関車と同じ黒煙がたなびいていた。 |
写真下は、三井田川鉱業所が坑内電車を走らせるまでに近代化された様子を示す貴重な資料である。二本の巨大な煙突から絶え間なく吐き出される黒煙は、当時は全く問題にならなかったのだろうが、現代の日本では大気汚染の最たるものであり、あり得ない光景である。 |
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黒煙を吐き出す伊田竪坑の二本煙突
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煙突の高さはどちらも45m45cmで、下部の直径が5.6mもあり、炭鉱の煙突としては国内最大級で、煙突には21万3千枚の耐火レンガが使われた。 |
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当時、石炭が「黒ダイヤ」と呼ばれていた時代で、人々は職を求めて国内各地の炭鉱を目指した。特に隆盛を誇った筑豊炭田では、「赤い煙突を目当てに行けば、米のまんまが暴れ食い」だといわれた。 |
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当時の繁栄を伝える象徴として、二本煙突は、平成19年(2007)10月に国の登録有形文化財になった。百歳を迎えた平成20年(2008)、約1年に及ぶ補修工事が完了し、老朽化が進む煙突が見事に蘇った。 |
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現存する明治時代の大煙突
(旧三井田川鉱業所第一・第二煙突)
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炭坑節に唄われた大煙突
〜あんまり煙突が高いので さぞやお月さん煙たかろ サノヨイヨイ〜
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大煙突と田川市
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二本煙突の南側は、小高い丘になっており、田川市が見渡せる展望台になっている。石炭記念公園の地上に描かれているのが二本煙突の煙が月にかかっている絵であることは、編集中にグーグル・マップを見るまで気がつかなかった。(
笑 ) |
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石炭記念公園(グーグル・マップ) |
↓二本煙突の地上絵 |
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▼ この展望の丘には、田川地区炭坑殉職者慰霊之碑、強制連行中国人殉難者鎮魂の碑、韓国人徴用犠牲者慰霊碑が建立されている。炭坑殉職者慰霊之碑によると、田川地区だけでも65年の歴史の中で推定2万人がガス爆発、落盤、出水、坑内火災などの犠牲になったという。また、中国や韓国から徴用された人々のことを思うと、胸が痛む。日本の近代産業化を牽引した石炭産業の光と影を忘れてはならない。 |
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推定2万人の殉職者の霊を慰める田川地区炭坑殉職者慰霊之碑
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展望台の北方に田川市の街並みが広がり、その後ろに緑の木々で被われたボタ山と香春岳(かわらだけ)が見える。この山は、福岡県田川郡香春町(かわらまち)の中西部にある結晶質石灰岩でできた山で、三峰で構成され、地元では一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳と呼ぶことが多い。標高508.7m(三ノ岳)。 |
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昭和10年(1935)に一ノ岳で白ダイヤと呼ばれて珍重された高品質の石灰岩の採掘が始まったころ500mほどもあった標高は、現在では半分近い270mほどになり、まるで切り株のような姿になっている。 |
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作家・五木寛之の「青春の門」〜第一部筑豊篇〜の冒頭は、主人公の伊吹信介が生まれ育った田川と香春岳の記述から始まる。
香春岳は異様な山である。けっして高い山ではないが、そのあたえる印象が異様なのだ。
福岡市から国道二百一号線を車で走り、八木山峠をこえて飯塚市をぬけ、さらに鳥尾峠とよばれる峠道をくだりにかかると、不意に奇怪な山の姿が左手にぬっとあらわれる。
標高にくらべて、実際よりはるかに巨大な感じをうけるのは、平野部からいきなり急角度でそびえたっているからだろう。
南寄りのもっとも高い峰から一の岳、二の岳、三の岳とつづく。
一の岳は、その中腹から上が、みにくく切りとられて、牡蠣色の地肌が残酷な感じで露出している。山麓のセメント工場が、原石をとるために数十年にわたって頂上から休まずに削りつづけた結果である。
(五木寛之「青春の門」より) |
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「青春の門」に登場する |
香春岳 |
とボタ山 |
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青春の門
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『青春の門』は、五木寛之が昭和44年(1969)から『週刊現代』に断続的に連載した大河小説で、テレビドラマ化や映画化、漫画化もされた。昭和51年(1976)、五木は「筑豊編」で吉川英治文学賞を受賞した。 |
五木寛之の代表作となった「青春の門」は、「第1部 筑豊編」「第2部 自立篇」「第3部 放浪篇」「第4部 堕落篇」「第5部 望郷篇」「第6部 再起篇」「第7部 挑戦篇」「第8部 風雲篇」の8部からなる大河ドラマで、早稲田大学の先輩である尾崎士郎の『人生劇場』に倣ったものと云われている。 |
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太平洋戦争真っ只中の昭和時代。九州・筑豊は田川に一人の少年が生を受けた。彼の名は「伊吹信介」。父・重蔵は、かつて働いていた炭鉱で「昇り竜」と称されたが、炭鉱内の事故で早逝。義母・タエに育てられた。やがて終戦を迎え、タエは病に倒れた。自分達を取り巻く人々とのふれあいや様々な出来事を経て、信介は波乱に満ちた人生を歩み始める。 |
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「青春の門・筑豊編」 2度目の映画化 昭和56年(1981) 東映
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採炭現場のジオラマ
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外の展示物を全て見てまわった後、田川市石炭・歴史博物館の中に入った。一階は、石炭のなりたちや、石炭がどのようにして採掘されたか、また、炭坑で働く人々の生活や様子を分かりやすく解説した「石炭をつくった新生代の植物のイラスト」、「三井田川伊田坑の模型」、「手堀り道具」、「機械採炭道具」、「坑道のジオラマ」、「川ひらた(川舟)の模型」、「ミニSL」などが展示され、石炭産業の歴史が一目で分かるようになっている。 |
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明治・大正時代の手堀りによる坑道のジオラマ/田川市石炭・歴史博物館一階
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先山(さきやま)/夫 |
後山(あとやま)/妻 |
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手堀採炭
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明治・大正期の手堀時代の特徴は、2人一組、3人一組で採掘しており、仕事に慣れている人が先山(さきやま)として採炭にあたり、そうでない者が後山(あとやま)として石炭や材料を運んでいた。ジオラマでは、つるはしで採掘している先山は夫で、負籠を背負って掘り出した炭塊を運ぶ後山は妻である。 |
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せきたんや てぼりこうふの どろふどし |
Muddy fundoshi of hand
drilling miner under coal. |
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写真下は、昭和期に入ってからの採炭風景で、草鞋が地下足袋に変わったほかは、明治・大正期と変わっていない。男性は、六尺褌ではなく、越中褌をしている。普段の下着が六尺から越中に変わってきたためであろう。女性は腰巻ではなく、褌をしている。 |
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昭和の手掘り作業
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資料画像 |
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写真下は、前頁「貝島炭砿」冒頭の褌大臣の坑内視察で、戦後しばらくは、手堀時代が続いていた。炭坑夫は、鉢巻と草鞋が帽子と地下足袋に変わった外は、依然として明治・大正期と同じ褌一丁の労働である。 |
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褌一丁で常盤炭鉱を視察する商工省・水谷長三郎大臣 1947.06.30
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水谷大臣
水谷大臣 |
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資料:昭和史全記録・昭和二万日の全記録 |
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炭層の掘り崩しを炭切り(たんぎり)という。長い間つるはしに頼っていたが、やがて、圧縮空気によって石炭を割り砕く
削岩機(コール・ピック
)や発破などの機械掘削が導入された。
しかし、炭坑夫たちの出で立ちは、写真上と変わっていない。 |
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つるはしから削岩機に持ち替えた炭坑夫
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資料:三池炭鉱写真誌 |
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昭和23年(1948)ころから、労働者1人1ヵ月当りの産炭量(採炭能率)を上げるため、機械化採炭が取り入れられ、削岩用の刃を配したチェーンを作動して石炭層を切削するコール・カッターや、鉋(かんな)で削るように炭壁を切削するコール・プラオ(コーレン・ホーベル)、ドラム式コール・カッターなどが大幅に用いられるようになり、採掘様式は一変した。これに伴って、炭坑夫の裸褌という原始的な労働着が近代的な作業服に変わっていった。 |
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ドリルを使った器械採炭のジオラマ/田川市石炭・歴史博物館一階
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