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 感動写真集

2011年6月10日改訂

今 日

昨 日

♪ロシア民謡 「黒い瞳」 ヴォーカル1〜ハーモニカ〜ヴォーカル2

 

クーポルを見上げて巡る夏運河   北舟

 

 

A travel along the summer canal, looking up at the cupolas.

2011年6月10日制作

グリボエードフ運河から眺める「血の上の救世主教会」

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グリボエードフ運河から眺める「血の上の救世主教会」 / サンクトペテルブルク( ロシア)

世界文化遺産

ロシア国旗

ロシア初夏の旅

ウラジミール

スパソ・エフフィミエフ修道院
▼ ユネスコの世界文化遺産に登録されているスパソ・エフフィミエフ修道院は、砦のような城壁を巡らした中にある町の北側を守る修道院。1352年に創建され、貴族や商人たちの信仰を集めて成長していった。

鐘の音が美しいスパソ・エフフィミエフ修道院(世界文化遺産)

鐘の音が美しいスパソ・エフフィミエフ修道院(世界文化遺産)

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17世紀にリトアニア・ポーランド軍に破壊された後高さ8m長さ約1.5km12の塔を持つ現在の城壁が築かれた。

木造の旧教会

木造の旧教会

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木製のクーポル

木製のクーポル

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聖地スーズダリの中心「ロジェストベンスキー大聖堂(聖母生誕大聖堂)」

聖地スーズダリの中心「ロジェストベンスキー大聖堂(聖母生誕大聖堂)」

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ウラジミール Владимир
 黄金の環を構成するロシアの都市ウラジミル(ヴラヂーミル)は、ウラジーミル州の州都で、ヴォルガ川の支流クリャージマ川の河畔に建つ。ウラジミル、ウラジミルとも表記される。モスクワの東200kmに位置し、モスクワとニジニ・ノヴゴロドとを結ぶ高速道路A7の沿線にある。ウラジーミル駅はモスクワからウラジオストクの間を結ぶ鉄道の途中の駅でモスクワからは電車で約3時間ほどかかる。またセミャージノ空港を擁し冷戦時代にはドブリンスコエ空軍基地があった。人口は32万人ほど。
ウスペンスキー大聖堂 / ウラジミール

ウスペンスキー大聖堂 / ウラジミール

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   ロシアの古都の一つで、ウラジミル・スーズダリ大公国の首都として栄えた。1108年頃にキエフ大公ウラジミル・モノマフにより要塞として建設されたといわれる。この要塞は、ロストフ・スーズダリ公国の南東を守るものであった。13世紀には北東ロシアの中心になったが、その後のモスクワの興隆と共に地方都市的存在になってゆき、現在に至っている。

スケッチする女性たちと

スケッチする女性たちと

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    名所名跡が多く、1992年、ウラジミル市の聖堂群は近郊のスーズダリ市に残る聖堂群とともに、「ウラジミルとスーズダリの白亜の建造物群」として、ユネスコの世界遺産に登録された。  

ウスペンスキー大聖堂(世界文化遺産) / ウラジミール

ウスペンスキー大聖堂(世界文化遺産) / ウラジミール

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ウスペンスキー大聖堂  Успенский Собор
ウラジミルにある世界文化遺産のウスペンスキー大聖堂は1158年に建設が始まり、14世紀初頭には、ロシアの最高位にあった歴史的な教会である。丘の上に建ち、5つの黄金のヘルメット(丸屋根)を輝かせる威風堂々たる教会である。

冬の教会

冬の教会

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ドミトリエフスキー聖堂
▼ 世界文化遺産のドミトリエフスキー聖堂は、12世紀末にフスィエーヴァラト公の宮殿内に建てられた教会。この教会を有名にしているのは、外壁一面に施された浮き彫りである。聖人や歴史上の英雄、動植物などが描かれている。
素晴らしい浮き彫りが施されたドミトリエフスキー聖堂 (世界文化遺産) / ウラジミール

素晴らしい浮き彫りが施されたドミトリエフスキー聖堂(世界文化遺産) / ウラジミール

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黄金の門  Золотые Ворота
▼ 12世紀中葉にキエフの「黄金の門」を模して造られた「黄金の門」は、ウラジミルの正門である。今もメイン・ストリートを見下ろす位置にあり、ウラジミールの象徴となっている。
 門の上部は、教会となっているが、現在は戦争の歴史に関する展示室として使われている。モンゴル軍の攻撃を受けた1238年2月7日のウラジミルを再現したジオラマがあり見学者が訪れると、音響付きのライトショーが演じられる。ロシアの人々が200年以上も蹂躙された「タタールのくびき」を忘れないということなのだろう。

唯一残る中世の城門「黄金の門」(世界文化遺産) / ウラジミール

唯一残る中世の城門「黄金の門」(世界文化遺産) / ウラジミール

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 ■ 六日目/6月28日(水):モスクワ〜SU841便(1h10m)〜 サンクトペテルブルク空港(泊) ■

 

★☆★彡

 
▼ ツアー後半に入った六日目は、午前8時過ぎにホテルを出発し、モスクワ・シェレメーチエヴォ空港で2回のセキュリティ検査を受け午前11時過ぎに出発、1時間ちょっとのフライトで無事にサンクトペテルブルク(旧レニングラード)空港に到着 した。昼食後、市内見学を楽しみ、夕刻、ホテルにチェックインして三連泊した。

ツアーのルートマップ

ツアーのルートマップ

JTB資料
 

サンクトペテルブルク Санкт-Петербург

  ▲▼ 1431km2に450万余の人口を擁するサンクトペテルブルク(サンクトピチルブールク)は、レニングラード州の州都である。約300年前にピョートル大帝によって築かれた新しい街でモスクワから遷都して以来、200年余の間ロシア帝国の首都 として君臨した。第一次世界大戦開戦以降(1914-1924)はペトログラード( Петроград )、ソ連時代(1924-1991)はレニングラード(Ленинград, リニングラット)と称した。英語圏では、セントピーターズバーグ( Saint Petersburg )と呼ばれる。

ロシア10日間の歴訪地

ロシア10日間の歴訪地

Google Earth
  ▲▼ ロシア西部、バルト海のフィンランド湾最東端、ネヴァ川河口デルタに位置する。ロシア有数の世界都市、港湾都市であるとともに、鉄道・国際航路の要衝でもあり、モスクワに次ぐロシア第ニの都市である。行政上はモスクワとともに単独で連邦市を形成しており、ロシア連邦を構成する83連邦構成主体のひとつである。  
   市街はネヴァ川河口デルタの島々と両岸に広がり、運河網が発達しバルト海において重要港市の位置をしめる。ネヴァ川は運河や河川などにより、ドニエプル川ヴォルガ川などと結ばれているため、サンクトペテルブルクは、カスピ海やウラル川、ヴォルガ川からの船舶のバルト海への出口となっている。  
   港は冬季となる11月から4月に凍結してしまうが厳寒期を除いて常に砕氷船が航路を維持している。また市中心部に運河が縦横に巡る美しい街並みを有することから、「水の都」、「北のヴェネツィア」とも称される。  

サンクトペテルブルクの衛星画像

サンクトペテルブルクの衛星画像

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  都市の名は、「聖ペテロの街」を意味する。これは、建都を命じたピョートル大帝が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたもの。隣国のフィンランドでは、サンクトペテルブルクをペテロのフィンランド語名そのままにピエタリ ( Pietari ) と呼んでいる。  

サンクトペテルブルク空港

サンクトペテルブルク空港

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血の上の救世主教会 Храм Спаса на Крови

  ▼ 血の上の救世主教会(スパース・ナ・クラヴィー教会)は、ロシアサンクトペテルブルクにあるロシア正教会の聖堂である。公式名はハリストス復活大聖堂( Собор Воскресения Христова )。この名称は、1881年3月13日(ユリウス暦3月1日)のロシア皇帝アレクサンドルII世の暗殺によるもので教会が建つ場所は皇帝遭難の地である。

アレクサンドルII世が暗殺された場所に建設された「血の上の救世主教会」

アレクサンドルII世が暗殺された場所に建設された「血の上の救世主教会」

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アレクサンドルII世
 
  ロシア皇帝アレクサンドルII世は、「解放皇帝」と呼ばれ、農奴解放を初めとする「大改革」を行ったが、次第に反動化していった。同時にナロードニキ運動の急進化に伴い、ナロードニキの一部はニヒリズム、テロリズムに走り、1881年3月1日ついに皇帝もテロの標的となって斃れた。
 行幸先から帰る皇帝の乗った御料車が運河に沿って通る中、女性革命家ソフィア・ペロフスカヤによって指揮された「人民の意志」のテロリストは皇帝を狙って手榴弾を投げた。手榴弾は2人のコサック衛兵を負傷させたが、皇帝は無事であった。しかし現場を見るために御料車を降りた皇帝の足下に別のテロリストが爆弾を転がして爆発させ、瀕死の重傷を負った皇帝は担ぎ込まれた冬宮で一時間後に崩御した。
 教会の建立は、アレクサンドルII世の跡を継いだアレクサンドルIII世によって先帝を弔うために行われた。教会は、グリボエードフ運河の河畔、アレクサンドルII世終焉の地に建設された。

ファサードのキリスト画

ファサードのキリスト画

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  ▲▼ この地は、モイカ川とフォンタンカ川の二つの川の交差する地点である。建設資金は、帝室であるロマノフ家のほか、広く一般の献金によってまかなわれた。工事は1883年に着工されたが、アレクサンドルIII世在位中には完成せず、教会の完成を見たのは次のニコライII世の治世に入って13年目の1907年であった。
 
 
八端十字架はったんじゅうじか
八端十字架
 
▼ 血の上の救世主教会の美しい丸屋根の先端には、八端十字架が飾られている。この十字架は、ロシア正教会やウクライナ正教会で頻繁に用いられる十字架である。
 「八端十字架」の名称は、8箇所の先端部分が存在することに由来する。この十字のみが正教会の十字という訳ではなく、他にもラテン十字(縦が横よりも長い十字)やギリシャ十字(縦横が同じ長さの十字)などが正教会で多用される。
 八端十字は、ラテン十字に上部と下部の2本の線が加えられた十字である。上部の線はハリストス(キリストのギリシャ語とロシア語読み)の罪状書き(聖書に記述された「ユダヤ人の王・ナザレ人イエス」と書かれた札)を表している。下部の斜めになった線は、足台を表している。正教会の伝承では、十字架には足台があったとされており、磔刑を描いたイコンにもそのような描写がなされている。

美しい丸屋根と八端十字架

美しい丸屋根と八端十字架

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十字行じゅうじこう   Крестный ход
  ▼ 写真下はロシア正教会によるノヴォシビルスクでの十字行(じゅうじこう)である。イコンと八端十字架が行列を先導している。先頭の少年が持つのは至聖三者のイコンである。
   十字行(ロシア語: Крестный ход, 英語: Crucession )とは、正教会における奉神礼として聖堂外で行われる行列・行進のこと。神の民の集まりである教会が天国に向かって行進していることを表す。特定の教会における祭に行われる。同様の意義を持つものに聖入(せいにゅう)があるが、聖入は聖堂内で行われるものである。

ロシア正教会によるノヴォシビルスクでの十字行

ロシア正教会によるノヴォシビルスクでの十字行

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エルミタージュ美術館 Государственный Эрмитаж

  ▼ エルミタージュ美術館( Эрмитаж、Hermitage )は、サンクトペテルブルクにあるロシアの国立美術館。1990年にサンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群として世界文化遺産に包括登録されている。ロシア語の正式名称は「国立エルミタージュ」で、エルミタージュの語義は、Hermitage(隠れ家)である。

宮殿橋から見たエルミタージュ美術館(世界文化遺産) / 大ネヴァ川

宮殿橋から見たエルミタージュ美術館(世界文化遺産) / 大ネヴァ川

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  ▲▼ エルミタージュ美術館は、冬宮( Зимний дворец 小エルミタージュ( Малый Эрмитаж 旧エルミタージュ( Старый Эрмитаж 新エルミタージュ( Новый Эрмитаж エルミタージュ劇場( Эрмитажный театр )の5つの建物が一体となって構成されており、現在本館となっている冬宮は、ロマノフ朝時代の王宮である。これらの建物は18世紀中葉から19世紀中葉にかけて約100年間かかって完成された。

紳士淑女とともに / 宮殿橋

紳士淑女とともに / エルミタージュ宮殿

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デカプリスト広場元老院広場

デカプリスト広場(元老院広場)

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青銅の騎士 Медный всадник

  ▲▼ 「青銅の騎士」は、サンクトペテルブルクのネヴァ川左岸の元老院広場に立つピョートル大帝の騎馬像で、サンクトペテルブルクの観光名所のひとつになっている。この都市を創建したピョートル I 世(大帝)の偉業を称えたプーシキン作の叙事詩「青銅の騎士」が有名になったため、この名で呼ばれるようになった。
 

 この広場はソビエト時代に「デカブリスト広場」と称されたが2008年に元来の正当な「元老院広場」に戻された。しかし、今も「デカブリスト広場」と呼ばれて、親しまれている。

ピョートル大帝の「青銅の騎士像」 / デカブリスト広場

ピョートル大帝の「青銅の騎士像」 / デカブリスト広場

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  ▲▼ エカテリーナU世が大帝の後継者であることを誇示してこの像を作らせたが、奇しくも40数年後、専制政治に反対する青年貴族たちが革命を起こそうとした場所となった。
   この広場で、花嫁と花婿が手をつないで歩くと幸せになれるというジンクスがあるという。丁度新郎新婦に出会ったので、一枚撮影させて貰った。  

花嫁と花婿が手をつないで広場を歩くと幸せになれるという

花嫁と花婿が手をつないで広場を歩くと幸せになれるという

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フォンタンカ運河 Фоитаика

  ▲▼ サンクトペテルブルクのフォンタンカ運河は、ドストエフスキーの「白夜」の舞台となった運河である。「・・・私が毎日かかさずきまった時間に、フォンタンカで顔を合わせる一人の老人とは、ほとんど友達になりかけないほどであった。ひどくもったいぶった、沈思黙考型の顔つきで、いつも口のなかでぶつぶついい、左手を振りまわしている男だった。・・・(「白夜」第一夜)」
 

 ドストエフスキーの陰鬱な描写とは違って、現在のフォンタンカ運河沿いには、美しい建物が建ち並び、観光船が大勢の観光客を乗せて運河を行き交っていた。

フォンタンカ運河沿いの美しい建造物群 / アニチコフ橋より

フォンタンカ運河沿いの美しい建造物群 / アニチコフ橋より

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   クーポルを見上げて巡る夏運河  北舟 

くーぽるを みあげてめぐる なつうんが

A travel along the summer canal, looking up at the cupolas.

グリボエードフ運河から眺める「血の上の救世主教会」

グリボエードフ運河から眺める「血の上の救世主教会」

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明るくて美人の多いロシアのお嬢さん(カチューシャ)

明るくて美人の多いロシアのお嬢さん(カチューシャ)

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▼ 写真下は、ネフスキー大通りに面するオストロフスキー広場に建つエカテリーナ II 世像。後方の建物は、サンクトペテルブルクで最も古い劇場で、皇帝ニコライU世の妃の名にちなんでアレクサンドリンスキー劇場と呼ばれている。

エカテリーナ II 世像とアレクサンドリンスキー劇場 / オストロフスキー 広場場場

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似顔絵画家がいっぱい

似顔絵画家がいっぱい

 
黒い瞳  Очи чёрные
 
   BGMに流れる曲は、ロシア民謡の定番として知られる黒い瞳(オーチ・チョールヌィエ)のメドレーである。黒い瞳は、1843年に「Литературная газета 」(文学新聞)に詩として発表された。作者はウクライナの作家・詩人のイェウヘーン・フレビーンカである。 黒い瞳が最初に歌曲として発表されたのは、1884年で、フレビーンカの詩をС. ゲルデリがフローリアン・ゲルマン作曲のワルツ「Hommage 」(オマージュ)にあてはめたものである。ゲルマンはロシアに帰化したドイツ人であり、この有名なロシアのジプシー歌謡は、実際には、ウクライナ人とドイツ生まれのロシア人によって作られた。
   この歌を世界的に有名にしたのは、ロシア人バス歌手のフョードル・シャリアピン (1873-1938)である。シャリアピンはこの歌に自ら詩を書き足してレパートリーに加え、革命後の1922年に出国して事実上の亡命者となってからは、世界各地の公演で披露した。これにより「黒い瞳」は、世界で最も有名なロシア歌曲の一つとなった。
 
 
 

Очи чёрные    黒い瞳 (シャリアピンによる補作)
Очи черные, очи жгучие,
Очи страстные и прекрасные!
Как люблю я вас! Как боюсь я вас!
Знать, увидел вас я не в добрый час!
 
Очи черные, жгуче пламенны!
И манят они в страны дальние,
Где царит любовь, где царит покой,
Где страданья нет, где вражде запрет!
 
Не встречал бы вас, не страдал бы так,
Я прожил бы жизнь улыбаючись.
Вы сгубили меня, очи черные,
Унесли навек мое счастие.
 
Очи черные, очи жгучие,
Очи страстные и прекрасные.
Вы сгубили меня, очи страстные,
Унесли навек мое счастие…
 
Очи черные, очи жгучие,
Очи страстные и прекрасные!
Как люблю я вас! Как боюсь я вас!
Знать, увидел вас я не в добрый час!
 
 
黒い瞳、燃えるような瞳
情熱的な、そして美しい瞳
何と私は君を愛していることか、何と君を恐れていることか
きっと私は悪い時に君と出逢ってしまったのだ
 
黒い瞳、焼けつくように燃え盛っている
それは遠い異国へといざなっている
愛の統べるところ、安らぎの統べるところ
苦しみはなく、憎しみの禁じられるところへと
 
君と出逢っていなければこんなに苦しむこともなかったろうに
微笑みながら人生を過ごせただろうに
黒い瞳よ、君は私を破滅させた
私の幸せを永遠に奪い去ったのだ
 
黒い瞳、燃えるような瞳
情熱的な、そして美しい瞳
情熱の瞳よ、君は私を破滅させた
私の幸せを永遠に奪い去ったのだ…
 
黒い瞳、燃えるような瞳
情熱的な、そして美しい瞳
何と私は君を愛していることか、何と君を恐れていることか
きっと私は悪い時に君と出逢ってしまったのだ 

 
 
ロシア民謡 Народная песня
 
 
   ロシア民謡は日本に生まれたジャンルで、ロシアにはない言葉である。帝政ロシア時代からソ連時代に生まれた大衆歌謡のうち、戦後日本で広く歌われるようになった歌曲で、帝政ロシア時代のものとしては「赤いサラファン」、ソ連時代のものとしては「カチューシャ」、戦後時代としては「モスクワ郊外の夕べ」などが代表作。  
   日本では「民謡」と呼ばれているが、実際はロシア語で「人民の歌、大衆歌曲、大衆歌謡」( Народная песня )と呼ばれるもので、労働歌、革命歌、愛国歌、恋歌、子守歌、軍歌、英雄を称える歌などである。  

フョードル・イワノヴィッチ・シャリアピン(1873-1938) Фёдор Ива́нович Шаля́пин

フョードル・イワノヴィッチ・シャリアピン(1873-1938) Фёдор Ива́нович Шаля́пин

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